「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 出エジプト記20章6節
20章は、「十戒」が記されている、有名な箇所です。十戒は、神がモーセを通してイスラエルの民にお与えになったものです。十戒授与が出エジプト記の頂点であり、そして、この十戒が、神とイスラエルとの間で結ばれた契約の基盤になっていると言われます。
旧約聖書の「約」は、契約、約束の「約」です。十戒が契約の基盤であるということは、言い換えれば、十戒は旧約聖書の基礎、基盤であるということにもなります。ここに定められている戒めを通して、神の御心を知ることが出来ます。十戒は、それほど大切なものなのです。
まず1~2節で、「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』」、と記されます。十戒は、神が直接に語りかけられたもの、神がお与えになったものであると言われています。人が考えたものではありません。
そして、神の語りかけの最初の言葉は自己紹介です。「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われます。シナイ山においてイスラエルの民に十戒をお与えになる神は、彼らをエジプトの奴隷の苦しみから救い出されたお方です。決して、人間が考え出した架空の存在などではありません。
イスラエルを苦しみから解放されたお方が、わたしは主(=ヤハウェ)というものである、わたしがあなたの神である、あなたに恵みを与えよう、というご自分の意志を表明されているのです。即ち、私たちの神は、私たちの歴史に介入し、ご自分を啓示されます。私たちのために救いの御業をなさる神が、私たちにこの戒め、祝福の言葉を下さったのです。
随分前のことですが、東京神学大学名誉教授の松永希久夫氏が、NHK教育番組で十戒にふれて、「あなたは~してはならない」という言葉を厳密に訳せば、「あなたは当然~しないであろう」、「~するはずがない」という表現となると言われました。神の恵みに与って感謝しているイスラエルの民は、当然神の教えに従うはずだ、背くはずがない。つまり、従って当然だというのです。
けれどもそれは、いわゆる無理強いではありません。したくはないけど、仕方ないというのではないのです。これは、神の恵みに応える表現で、喜んでさせていただきたいという世界なのです。
5節後半に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と言われます。「三代、四代」ということは、子だけでなく、孫、ひ孫にまで影響があるということになります。神に従うべきだということをはっきりと示さなければ、子も孫も、それが大切だとは思わないということでしょう。そうすると、受けるべき恵みが受けられず、むしろ神の裁きを刈り取ることになります。
そして冒頭の言葉(6節)が語られます。ここに、「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われていますが、一世代を20~30年と考えると、幾千代というのは、少なく見積もっても2~3万年以上、10万年といってもよいような年数になるでしょう。80年生きられるかどうかという私にとって、それは想像することも困難な、殆ど無限に通じる長さです。私の死んだ後もずっと存在し続ける、まさに永遠の祝福です。
その恵み、慈しみに与る条件は、「わたしは主、あなたの神」と言われる方を愛し、その戒めを守ることです。それは私たちにとって、主イエスを信じ、主イエスと共に歩むことと言っても良いでしょう。
イスラエルをエジプトの奴隷の家から解放されたように、主イエスは私たちを罪の奴隷の家から解放して下さいました。私たちが主イエスを信じる前から、私たちを愛しておられました。私たちの呻き、私たちの嘆きを聞いて、そこから引き上げて下さいました。その方が、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」と言われます。
妬むほどの熱い愛をもって私たちを愛しておられる方が、「わたしがあなたの神となろう」と言われます。主は、その教えを聴き、その御言葉に従って、子々孫々に及ぶ永遠の祝福に与れと、私たちを招いて下さっているのです。主の祈りを折りある毎に捧げるように、十戒を口ずさんでみましょう。そこにたたえられている神の愛と慈しみを感じてみましょう。
主よ、幾千代にも及ぶ慈しみをもって、私たちに祝福をお与え下さる主の御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地上にも行われますように。その器として、教会を、私たちを用いて下さい。心から主を愛する者とならせて下さい。 アーメン