風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年06月

6月30日(土)の御言葉 「幾千代にも及ぶ慈しみ」

「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 出エジプト記20章6節


 20章は、「十戒」が記されている、有名な箇所です。十戒は、神がモーセを通してイスラエルの民にお与えになったものです。十戒授与が出エジプト記の頂点であり、そして、この十戒が、神とイスラエルとの間で結ばれた契約の基盤になっていると言われます。

 旧約聖書の「約」は、契約、約束の「約」です。十戒が契約の基盤であるということは、言い換えれば、十戒は旧約聖書の基礎、基盤であるということにもなります。ここに定められている戒めを通して、神の御心を知ることが出来ます。十戒は、それほど大切なものなのです。

 まず1~2節で、「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』」、と記されます。十戒は、神が直接に語りかけられたもの、神がお与えになったものであると言われています。人が考えたものではありません。

 そして、神の語りかけの最初の言葉は自己紹介です。「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われます。シナイ山においてイスラエルの民に十戒をお与えになる神は、彼らをエジプトの奴隷の苦しみから救い出されたお方です。決して、人間が考え出した架空の存在などではありません。

 イスラエルを苦しみから解放されたお方が、わたしは主(=ヤハウェ)というものである、わたしがあなたの神である、あなたに恵みを与えよう、というご自分の意志を表明されているのです。即ち、私たちの神は、私たちの歴史に介入し、ご自分を啓示されます。私たちのために救いの御業をなさる神が、私たちにこの戒め、祝福の言葉を下さったのです。

 随分前のことですが、東京神学大学名誉教授の松永希久夫氏が、NHK教育番組で十戒にふれて、「あなたは~してはならない」という言葉を厳密に訳せば、「あなたは当然~しないであろう」、「~するはずがない」という表現となると言われました。神の恵みに与って感謝しているイスラエルの民は、当然神の教えに従うはずだ、背くはずがない。つまり、従って当然だというのです。

 けれどもそれは、いわゆる無理強いではありません。したくはないけど、仕方ないというのではないのです。これは、神の恵みに応える表現で、喜んでさせていただきたいという世界なのです。

 5節後半に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と言われます。「三代、四代」ということは、子だけでなく、孫、ひ孫にまで影響があるということになります。神に従うべきだということをはっきりと示さなければ、子も孫も、それが大切だとは思わないということでしょう。そうすると、受けるべき恵みが受けられず、むしろ神の裁きを刈り取ることになります。

 そして冒頭の言葉(6節)が語られます。ここに、「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われていますが、一世代を20~30年と考えると、幾千代というのは、少なく見積もっても2~3万年以上、10万年といってもよいような年数になるでしょう。80年生きられるかどうかという私にとって、それは想像することも困難な、殆ど無限に通じる長さです。私の死んだ後もずっと存在し続ける、まさに永遠の祝福です。

 その恵み、慈しみに与る条件は、「わたしは主、あなたの神」と言われる方を愛し、その戒めを守ることです。それは私たちにとって、主イエスを信じ、主イエスと共に歩むことと言っても良いでしょう。

 イスラエルをエジプトの奴隷の家から解放されたように、主イエスは私たちを罪の奴隷の家から解放して下さいました。私たちが主イエスを信じる前から、私たちを愛しておられました。私たちの呻き、私たちの嘆きを聞いて、そこから引き上げて下さいました。その方が、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」と言われます。

 妬むほどの熱い愛をもって私たちを愛しておられる方が、「わたしがあなたの神となろう」と言われます。主は、その教えを聴き、その御言葉に従って、子々孫々に及ぶ永遠の祝福に与れと、私たちを招いて下さっているのです。主の祈りを折りある毎に捧げるように、十戒を口ずさんでみましょう。そこにたたえられている神の愛と慈しみを感じてみましょう。

 主よ、幾千代にも及ぶ慈しみをもって、私たちに祝福をお与え下さる主の御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がこの地上にも行われますように。その器として、教会を、私たちを用いて下さい。心から主を愛する者とならせて下さい。 アーメン






6月29日(金)の御言葉 「わたしの宝となる」

「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」 出エジプト記19章5節


 1節に、イスラエルの民が「エジプトを出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」とあります。ここで、「三月目のその日」は、原文を直訳すると、「第三の新月」という言葉です。1月14日の夕方、即ち15日の始まりに過ぎ越しの食事を摂り、すぐに出立していますので(12章、レビ記23章5,6節など参照)、三度目の新月は、4月1日ということになります。

 彼等はレフィディム(17章1節:「平原」の意、シナイ山の北西にある平原のこと)を出発して、シナイの荒れ野に着き、山に向かって宿営しました。その山が、18節のシナイ山のことです。ただ、シナイ山の場所は諸説あります。伝統的には、シナイ半島南方にそびえる「ジェベル・ムーサ」(標高2,273m、アラビヤ語で「モーセの山」の意)であろう、と考えられて来ました。

 モーセが山を登って行くと、主なる神が彼に語りかけ(3節)、「あなたは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを」と言われました(4節)。神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放し、シナイ山の御自分のもとへ連れて来られたというのです。

 かつてモーセは「神の山ホレブ」で神と会い(3章1節以下)、兄アロンと共にイスラエルの民を救い出す務めに出発します(4章27節以下)。24章13節に「モーセは、神の山に登って行くとき」とあって、16節には「主の栄光がシナイ山の上に留まり」と言われるので、「神の山ホレブ」は「シナイ山」と同一と考えられます。

 「鷲の翼に乗せて」とよく似た表現が申命記32章11節にあり、「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」と記されています。ここでは、神を、雛を養い育てる鷲に見立てています。巣を揺り動かし、雛の上を飛び翔って、自らの翼で飛び立つように促し、上手に飛べずに墜落しそうになるときは、雛の下でその羽を広げて受け止め、翼に乗せて運ぶというのです。

 イスラエルの民は、気がついたらシナイ山の前に宿営していて、これまで何の苦労もなかったというわけではありません。むしろ、苦労の連続でしたが、どんな時にも神が彼らの避け所となり、恵みを与え、かくて無事シナイ山まで連れて来られたのです。

 その恵みを受けたのは、冒頭の言葉(5節)のとおり、イスラエルの民が主の御声に従い、その契約を守ることを通して、神の宝となるためです。ここで神は、私たちのことを「わたしの宝」と呼んで下さいます。申命記7章6節に、神がイスラエルを「宝の民」とされた経緯が記されていますが、それは、イスラエルがどの民よりも貧弱だったからと説明されています(同7節)。

 イザヤ書43章4節の、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し云々」という言葉も、似たような消息を示していると思います。即ち、自分で自分のことを「神の宝」と主張したり、価高い存在と自惚れているのではありません。神がそのように言い表して下さるのです。それは、一方的な神の恵みです。

 この宝は、いつも宝箱に納められていたわけではありません。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の家で苦しみ、呻き声を上げていました。神は民の苦しみに目を留め、その呻きを聞いて、救い出して下さったのです。

 それは、主イエスがルカ福音書15章のたとえ話を通して語られた、神の姿そのものです。神は、迷子になった一匹の羊を捜し回る羊飼いのように、なくした1枚の銀貨を捜す女のように、そして、親不孝の弟息子を待ち続け、ぼろぼろになって帰ってきたら最上のもので喜び祝う父親のように、そうするのが「当たり前ではないか」といって、無限の愛をイスラエルの民に、そして私たちに注いで下さるのです。

 神が私たちを宝と言われるのは、宝箱に陳列しておくためではありません。自分たちが他の人々とは違う、特別な存在であると誇らせるためなどではないのです。神は、祭司の王国の聖なる国民として、神と世界中の人々のために執り成し、そして、御言葉に聞き従うように語り広める使命を委ねるために選ばれました。

 冒頭の言葉で、「世界はすべてわたしのものである」と言われているのは、イスラエルの民が神の宝であるのと同様、世界のすべての民が神の宝なのであり、その御心が全世界に伝えられるために、イスラエルを選びの民とされたということなのです。

 今日、新のイスラエルとは、主イエスを信じる私たちのことです。主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と言われました。選びに相応しい実を結ぶことが出来るよう、祈り、励みましょう。

 主よ、私たちは何者なので、御心に留めて下さったのですか。私が何者なので、これを顧みられるのですか。その限りないご愛の故に、ただただ驚くばかりです。心を尽くして感謝をささげ、喜びをもってその驚くべき御業を語り伝えましょう。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





6月28日(木)の御言葉 「あなたのやり方はよくない」

「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」 出エジプト記18章17,18節


 モーセの舅、ミディアンの祭司エトロが、ツィポラと二人の息子を連れてレフィディムにやって来ました。4章20節で、ツィポラたちはモーセと一緒にエジプトに下っており、いつ実家に帰っていたのかは不明です。恐らく、モーセが後顧の憂いなく働けるように、ファラオとの対決の直前に実家に戻していたのでしょう。

 モーセは舅に、主がイスラエルのためにファラオとエジプトに対してなされたすべてのことを語り聞かせると(8節)、舅は喜び(9節)、主を褒め讃えています(10,11節)。その賛美の中に、「今、わたしは知った。彼らがイスラエルに向かって高慢にふるまったときにも、主はすべての神々にまさって偉大であったことを」(11節)という言葉があります。

 舅はミディアン人の祭司であり、自分の民族の神に仕えていたのですが、「今、わたしは知った」と語っているとおり、確かにモーセの仕える神について、認識を新たにしたのでしょう。かつて、エジプトのファラオが主の名を聞いたとき、彼はその心を頑なにして、モーセの言葉に従おうとはしませんでした。その意味で、エトロは、モーセの語る主なる神の証しを受け入れた、最初の外国人ということになるのかも知れません。

 ところで、7節に、「天幕に入った」と記されていますが、これは、モーセ個人のテントではなかったようです。というのは、エトロが賛美をした後、焼き尽くす献げ物と生贄をささげ、アロンとイスラエルの長老たちと一緒に神の御前で食事をしていますが、前後の文脈から、彼らが天幕を出た形跡がないからです。つまり、この天幕は、いまだ神の幕屋が建てられる前のことですが(25章参照)、神の幕屋としての役割を果たすものだったのです。

 翌日、エトロは、座について民を裁くモーセの仕事振りを見て、問題があるのに気づきました。それは、モーセの裁決を求めて、民がモーセの前に朝から晩まっで列をなしているということです(13節)。あまりにも多くの人が並んでいて、対応が追いつかないのです。

 エトロは、冒頭の言葉(17,18節)の通り、「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう」と忠告します。いかにモーセが神の選んだカリスマ指導者であっても、兵役に就く男子だけで60万人以上、女子どもに老人を加えると200万人にも及ぶイスラエルの民の身の上相談を、一人で裁けるはずがないからです。

 これは、さらにいくつかの問題を生み出します。一つは、モーセが一日中問題の処理に追われ、その結果、疲れ果ててしまうということです。二つ目は、順番を待っている民が無為な時間を過ごさなければならず、それが新たな不満の種になることです。

 さらに、少なくとも「イスラエルの長老」(12節)と呼ばれる部族ごとの指導者がいたにも拘らず、彼らが力を発揮する場所が与えられていないことです。これは、カリスマ的指導者が陥りやすい落とし穴です。私が一番上手だ、自分でやったほうが早いなどと言って自分一人で仕事を抱え込み、仕事を譲らない結果、全く効率の悪い組織になってしまうのです。

 「あなたのやり方は良くない」という言葉は、創世記2章18節の、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という言葉を思い出させます。つまり、モーセが独りでいて助けるものがないのは、神の御心に背くものだということです。神は、「助ける者を造ろう」と仰っているからです。

 エトロは、「民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい」(21節)と助言します。確かに、モーセでなければ出来ない課題もあったことでしょう。しかし、多くの問題は、こうして選ばれた有能な指導者たちによって迅速に処理されるようになり、民は大いに喜ぶはずです。

 モーセの負担も劇的に軽減出来るでしょう。有能な人々には、その力を存分に発揮する場が与えられます。モーセは舅エトロの言う通りにしました(24節以下)。

 主よ、私たちは、頭であられる主イエスの命をもって贖われ、神の民に招き入れられた者です。主の御声に聴き従い、その使命を果たすことが出来ますように。そのときに、一人一人ばらばらというのではなくて、互いに「助ける者」として、持てる力を出し合い、キリストの体なる教会をしっかりと築き上げることが出来ますように。 アーメン




6月27日(水)の御言葉 「モーセが手を上げている間」

「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」 出エジプト記17章11節


 荒れ野を旅してレフィディムに宿営していたとき、飲み水が得られず(2節)、民はモーセに不平を言います(2,3節)。そこでモーセが主に叫ぶと、主は、「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」と言われました(6節)。

 ホレブとは、モーセが十戒を授けられるシナイ山のこと、そして、レフィディムは「平原」という意味で、シナイ山の北西の平原を指します。モーセは、主が言われたとおり、そこから長老数名を連れてホレブまで行き、岩を打って水を出しました。長老はその目撃者となりました。

 それは、「なぜ、主を試すのか」とモーセが言っていることから(2節)、彼らはモーセに水がないと文句を言っただけでなく、主はおられるのかと疑っていたと考えられます。そこで、主自ら、しるしをもって存在を示されたわけです。

 そのとき、アマレク人が襲い掛かりました(8節)。モーセはヨシュアに、「民の中から戦いに出られる男子を選び出し、出陣せよ」と命じます(9節)。ヨシュアはその通りにします(10節)。それは、愛する家族・同胞を守るための真剣な戦いです。

 一方、モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登りました(10節)。それは、高みの見物をするためではありません。冒頭の言葉(11節)に、「モーセが手を上げている間」と記されており、これは、イスラエルの賛美、あるいは祈りの姿勢を表わしています。3人は、神に賛美と祈りを捧げるために丘の頂に登ったのです。

 そこで、不思議なことが起こります。それは、モーセの手が上がっている間、イスラエル軍が優勢に戦いを進めるのですが、モーセの手が下がるとアマレク軍が優勢になるというのです(11節)。これをどう考えたらよいのでしょうか。これは、イスラエル軍は、その実力がアマレク軍に劣っているということです。祈りなしには、言葉を換えると、神の助けなしには、勝利を取ることが出来ないということです。

 そもそも、エジプトを脱出したイスラエルの民が十分に武装していたとは考えられません。だからこそ、モーセは祈りの手を上げ続けるのです。それには、ヨシュア率いるイスラエル軍兵士らの命がかかっているわけですから、祈りも真剣勝負です。

 しかし、モーセも齢80、一人で手を上げ続けることが出来ません。アロンとフルがその両側で彼の手を支えます。アロンはモーセの兄、フルのプロフィールは詳らかではありませんが、モーセの姉ミリアムの夫という伝説があります。つまり、アロンもフルも、モーセより年長です。一人ずつでは、すぐに疲れてしまうかも知れませんが、三人が力を合わせ、励まし合い、支え合うことで、モーセの手はしっかりと挙げ続けられていました(12節)。

 ところで、この記事に直接登場して来なかった人々がいます。それは、戦いに参加していない高齢者や婦人、子どもたちです。彼らはそのとき、何をしていたのでしょうか。遊んでいたでしょうか。家事で忙しくしていたでしょうか。そうではないでしょう。ヨシュアに率いられた男たちが、アマレク軍と命懸けで戦っているのです。そしてそれは、自分たちを守るための戦いです。

 アマレク軍の優勢が伝えられるならば、「モーセ、ヨシュア、何やってる」と野次を飛ばすというのではなく、神よ、イスラエルをお守り下さい、私たちのために戦って下さいと、これまた真剣な祈りを捧げたのではないでしょうか。何より彼らは、ホレブの水を飲み、主が自分たちと共にいて下さることを知っていたのです。

 そのような民の祈りがモーセに力を与え、アロンとフルが彼の両手を支えているように、モーセの心をしっかりと支え続けたのだと思います。ここに、前線に出て戦っているヨシュアたち、それを背後で執り成すモーセたち、さらにモーセの背後で祈りを捧げる民らが一つとなって、主の戦いに臨んでいる様子を見ることが出来ます。

 二人が心を合わせて祈るなら、それを叶えると約束された主は(マタイ福音書18章19節)、イスラエルの一致の祈りに応えて勝利をお与え下さったのです。そして、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(同18章20節)と言われます。

 私たちと共におられ、願いをかなえて下さる主に向かい、御名で心を合わせ、一つになって祈りと願いを献げましょう。大牟田の、九州の、日本のリバイバルを願って!

 主よ、私たちはこの世にあって無力な存在です。しかし、主が共におられるなら、主が立ち上がって下さるなら、勝利することが出来ます。御名の故に、主が栄光をおとり下さい。御業を行って下さい。 アーメン




6月26日(火)の御言葉 「わたしの指示どおりにするかどうかを試す」

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」 出エジプト記16章4節


 「エジプトを出た年の第二の月の15日」(1節)、それは、エジプトを脱出して30日後のことです(12章参照)。イスラエルの民は、シンの荒れ野に入ると、モーセとアロンに対して、「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と不平を述べ立てます(2,3節)。

 「シンの荒れ野」とは、月の神シンに由来する名前ですが、英語で「the wilderness of Sin」と書き、SINとは英語で「罪」という意味ですから、英語的には、「罪の荒野」ということになってしまいます。そして、イスラエルの民は、そこで、彼らの罪の姿を露呈してしまいました。

 民がモーセらに不平を述べたのは、シナイの荒れ野を一ヶ月間旅を続けて来て、エジプトから持って出た食糧が底をつき、明日から何を食べればよいのか分からないという事態になったからでしょう。マラの水の問題に続いて、これも大問題です。不平を言うのは、至極当然とも考えられます。

 民はモーセたちに対して、エジプトを脱出させてくれたことは感謝に価するけれども、この荒れ野でどのようにして飲み水や食べ物を確保するつもりなのか、その計画を示せ。まさか、計画なしに、ことに及んだわけではあるまいな。もしそんなことだったら、たとい、苦役が待っているとしても、エジプトでパンを食べて生きる方が、荒れ野で自由の身で飢え死にするより、まだましだ。そんな思いで訴えているわけです。

 けれども、彼らはマラの苦い水を甘い水に変えて頂いたという事実(15章25節)、力を与えられて御言葉に聞き従って歩んだとき、マラから12の泉があり、70本のナツメヤシが茂るエリムに到着したという事実(同26,27節)を忘れています。確かに、思い出で腹を満たすことは出来ません。しかし、ここで思い出すべきなのは、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(同2節)と自ら歌った主への信仰です。

 主は、恩を忘れ、不信仰になっている民に対して、冒頭の言葉(4節)の通り、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」と告げられました。その言葉のとおり、朝、宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると、霜のようなものが薄く残ります(13,14節)。それが、主が荒れ野を旅する民のために食物として与えられたパンでした(15節)。

 これは不思議なパンです。毎朝、必要な分のマナを集めることが出来ました(18節)。たくさん集めて翌日の分としてとっておくと、虫がついて臭くなります(20節)。また、日が高くなると、溶けてしまいます(21節)。ところが、六日目だけはいつもの2倍の量を集めることが出来(22節)、翌日まで残しておいても臭くならず、虫もつきません(24節)。それは、七日目が休息の日、主の聖なる安息日だからという説明がなされています(23節)。

 主なる神が安息日を定められるのは、シナイ山に到着し(19章)、そこで十戒が授けられたときのことです(20章1節以下、8~11節)。ということは、安息日の規定が与えられる前に、実地でその守り方が示されているというところでしょうか。

 ところで、冒頭の言葉で主は、「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」と言われていました。そのことで、「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ」と命じられ(16節)、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」(19節)と言われますが、聞かずに翌朝まで残しておく者が出ます(20節)。

 また、七日目に、「今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう」と言われますが(25節)、七日目に集めに出る者がいます(27節)。見事に、主を信頼し、その御言葉に忠実に従うという試験に失敗しています。

 主イエスが悪魔の試みに遭われたとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を引いて、悪魔の誘惑を退けられました。これは、肉体のためにはパン、霊的な必要は神の言葉ということではありません。もしそうであるなら、肉体のためのパンを石ころから造ることが、正当化されてしまいます。

 主イエスが仰っているのは、神の口から出る一つ一つの言葉が、私たちにパンを与え、水を与え、必要ならば、肉さえも与えてくれるということでしょう。即ち、主なる神はその御言葉をもって、私たちのすべての必要を満たして下さるのです。主を信じ、しっかりとその御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、弱い私たちを顧み、絶えず憐れみと慈しみをもって導いて下さり、感謝致します。主の憐れみなくして、信仰の歩みを全うすることは不可能です。日々御言葉に耳を傾け、その恵みの導きに従うことがで来ますように。御霊に満たされ、力を受けて、神の愛と恵みの証し人とならせて下さい。 アーメン



6月25日(月)の御言葉 「主は一本の木を示された」

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」 出エジプト記15章25節


 葦の海を通ってエジプトの軍勢から救われたイスラエルの民は、心から主を賛美します(1節以下)。2節に、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」と謳われていますが、これは、詩編118編14節、イザヤ書12章2節でも、同じ言葉で賛美されています。

 まず、「主はわたしの力」とは、主が私と共におられて力となって下さるということであり、主が味方して下さったということを言い表しています(ローマ書8章31節)。それは、聖霊に満たされ、力を受けることと言ってもよいでしょう(使徒言行録1章8節)。

 次に、「主はわたしの歌」とは、主が歌を授けて下さったということです。主は、「イスラエルの賛美を受ける方」(詩編22編4節)であり、口も利けないほどに縛られていた者に、主を賛美する歌を歌えるようにして下さったということでしょう。使徒言行録3章には、生まれつき歩くことの出来なかった者が踊りながら神を賛美するようになったという記事があります。

 そして、「主はわたしの救い」とは、彼らが主によってエジプトの苦しみから救われたことを言います。そして、上記のとおり、詩編やイザヤ書にも同じ歌が歌われるということは、主なる神がイスラエルの民を様々な苦しみから解放し、救いを与えられたということ、それにより、主はどんな時にも救いをお与え下さるお方であるという信仰表明の言葉になっています。それゆえに、主は民に力を授け、歌を与えるお方であるとも言われるわけです。

 過越という災いによってエジプトの労役から解放され(12章)、葦の海の奇跡によってエジプト軍から救われ(14章)、歓喜の歌を歌ったイスラエルの民は(1節以下)、意気揚々とシナイ山への旅を進めます。けれども、そこに一つの問題が生じました。それは、3日間、飲み水が得られなかったということです(22節)。

 そして、マラで泉を見つけましたが、その水は苦くて飲めませんでした(23節)。そもそも、「マラ」とは、苦い、苦しいという意味なのです。ルツ記1章20節の「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っているのも、この「マラ」です。飲み水がなくて不満がたまっているところに、見つけた水が苦くて飲めないということですから、当然のように民は「何を飲んだらよいのか」と不平を言います(24節)。

 このとき、民は「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救い」(2節)と歌うことを忘れています。文句を言うのが当たり前ということになっているのです。「いつも喜び、どんなことにも感謝する」(第一テサロニケ1章16,18節)ということは、なかなか出来るものではありません。

 つまり、力も歌もそして救いも、イスラエルの民が所有しているわけではありません。まさに、主こそが、「力であり、歌であり、救い」なのです。主とつながっていなければ、何も出来ないでしょう(ヨハネ福音書15章5節)。荒れ野で水がないとなれば、確かに、どうすることも出来なかった分けです。

 そのとき、冒頭の言葉(25節)のとおり通り、モーセが主に助けを求めて叫ぶと、主は一本の木を示されました。モーセがそれを取って水に投げ込むと、なんと苦い水が甘くなりました。飲み水が与えられました。飲めなかった水が飲めるようになったのです。民はようやく一息つくことが出来たのです。

 中世以来、主が示されたこの木は、キリストの十字架を象徴するものだと解釈されて来ました。それを仄めかす言葉があるわけでもありませんが、歩けなかった者を躍り上がらせる主、物の言えなかった者に歌を賜る主は(イザヤ書35章6節、マタイ福音書11章5節)、私たちのために十字架で死んで下さった主であり(ヘブライ書9章15節)、その死を打ち破って三日目に甦られた主です(第一コリント書15章4節)。

 苦しみを喜びに変えて下さる主(イザヤ書29章19節)、万事を益として下さるお方(ローマ書8章28節)を自分の人生にお迎えするという意味で、主の示された木を「十字架」と解釈することは、確かに意義のあることでしょう。

 そして、民は「掟と法を与えられ」(25節)、主の御声に聞き従って歩むと(26節)、12の泉があり、70本のなつめやしの茂るはエリムに到着しました。これは、主イエスがヨハネ福音書7章38節で語られた、聖霊の恵みを示しているようです。イスラエルの民は、荒れ野の苦しみを経て御言葉に聞き従うことを学び、そうして霊の豊かな恵みに導き入れられたのです。


 主よ、私たちの人生のいたるところにマラの泉があります。否、私の心の内にマラがあります。しかし主の十字架が示されるとき、マラがナオミとされること、主が私の力、私の歌、私の救いとなられた、と歌うことが出来るようにされることを、心から感謝致します。 アーメン






6月24日(日)の御言葉 「恐れてはならない。主の救いを見なさい。」

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と永久に彼らを見ることはない。」 出エジプト記14章13節


 イスラエルの民は、追い立てられるようにしてエジプトを脱出し、葦の海に通じる荒れ野に出ました(13章18節)。総勢2百万人とも推定されるイスラエルの民が、モーセに導かれてピ・ハヒロトの傍ら、バアル・ツェフォンの前で宿営します(2節)。とてつもなく大きなキャンプだったことでしょう。

 一方、ファラオはもう一度頑迷になって、イスラエルの民を労役から解放して去らせたことを後悔し、自ら軍勢を指揮してイスラエルの民のあとを追います(5節以下)。そして、バアル・ツェフォンの手前に宿営しているイスラエルの民を見つけました(9節)。

 イスラエルの民は葦の海を前に、あとを追って来たエジプト軍に恐れをなし、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」(11節)、「我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(12節)と、モーセに向かって文句を言います。

 これはちょうど、ガリラヤの海で嵐に遭遇したとき、その舟の中で眠っておられた主イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えたのに似ています(マルコ福音書4章35節以下38節)。絶体絶命の危機の中で、そう叫び訴えるほかなかったのです。

 そのときモーセは、冒頭の言葉(13節)のとおり、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と永久に彼らを見ることはない」と言い、続けて、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14節)と語りました。

 モーセは、この危機的な状況を造られたのが神ご自身であることを、承知していました。イスラエルの民は、約束の地カナンへ、近道のペリシテ街道ではなく(13章17節)、シナイ半島を南下するという迂回ルートを進むのですが、しかし、ラメセスからスコトへと南に進んだ後(12章37節)、そこからまっすぐ南下してシナイ山を目指したのではなく、一旦北上して、葦の海を前にバアル・ツェフォンに宿営したのです(2節)。

 そうした上で主は、ファラオの心を頑なにし、イスラエルの後を追わせられました。そうされたのは、ファラオの全軍を打ち破って神の栄光を現し、エジプト人に主こそ神であるということを知らしめるため、ということだったのです(4節)。

 とはいえ、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と語ったモーセも(13,14節)、実は、心中穏やかではなかったようです。主がモーセに、「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」(15節)と言われているからです。

 モーセはそのとき、神様、この状況をどうしてくれるのですか。本当に栄光を現して下さるのでしょうね、と心の中で恐れ、叫んでいたのでしょう。ただ、少なくとも私は、モーセを責めることが出来ません。海に行く手を阻まれ、後ろに敵の軍勢が迫って来ているという状況を見て、神を信じているとはいえ、いったい誰が叫ばずにいられるでしょうか。むしろ、神を信じているからこそ、「神様、助けて!」と叫ぶのだろうと思います。

 主は、「イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と言われました(15節)。それは、前に横たわる葦の海に向かっての出発です。神は、イスラエルに戦いを命じてはおられません。エジプト軍に打ち勝つことが目的ではなく、イスラエルが神に徹底的に従うことを求めておられるのです。そのとき、神が勝利をお取りになるのです。

 神はモーセに杖を高く上げ、手を海に差し伸べるように言われます(16節)。その通りにすると、激しい風が海を二つに分け、民は乾いた地を進むことが出来ました(21,22節)。そして、エジプト軍が海に進んで来たとき、モーセが再び手を差し伸べると、海は元通りになりました(26,27節)。これはまさに、主を信じて行動したイスラエルのために、主ご自身が戦われたということです。

 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」(イザヤ書30章15節)。

 主よ、あなたを信じます。不信仰な私を憐れんで下さい。力のない私を支えて下さい。知恵のない私に知恵を授けて下さい。聞き分ける耳を、見分ける目を、そして深く悟る心をお与え下さい。何よりも、主よ、あなたを畏れる心をお授け下さい。アーメン





6月23日(土)の御言葉 「初めに胎を開くものはすべてわたしのもの」

「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」 出エジプト記13章2節


 13章には、初子の奉献と除酵祭についての詳しい記述があります。先ず初子の奉献で、冒頭の言葉(2節)のとおり、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」という神の命令があります。主はここで、初めに胎を開くものはすべて、人でも家畜でも、主御自身のものだと言われています。

 11~16節は、初子の奉献の方法が記されています。人間とロバ以外のものは殺してささげ、ロバの初子は小羊をもって贖わねばならないと言われています。ロバは神によって汚れた動物とされており、ささげものに適さなかったからです。「あなたの男子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」と言われていますが(13節)、人間の初子の贖い代はここには記されておりません。

 神は、エジプトの最後の災いとして、国中のすべての初子を、人の初子から家畜の初子まで、すべて撃たれました(15節)。12章30節には、死人が出なかった家は一軒もなかったと記されていました。しかし、イスラエルの家は災いが過ぎ越しました(同13節)。

 イスラエルの家をエジプト人のものと区別するために、神は予め、小羊の血を入り口の柱と鴨居に塗らせました(同7節)。そのために、傷のない一歳の雄の小羊が犠牲となりました(同3節以下)。このことから、初子の贖い代として、小羊がささげられたと考えることが出来ます。

 次いで、除酵祭です(3~10節)。7日の間酵母を除いたパンを食べて過ごします(3,6節)。酵母を入れなければ、軟らかなパンは出来ず、美味しいものではなかったでしょう。スープか何かに浸さなければ食べられなかったかも知れません(マルコ14章20節、ヨハネ13章26節参照)。

 そのようなパンを食べるように言われているのは、イスラエルの民がエジプトを出るとき、ぐずぐずしていることは出来なかったし、道中の食糧を用意する暇もなかったからです(12章32節)。そこで彼らは酵母を入れないパン菓子を焼いて食べたのです。除酵祭を7日間にわたって守るのは、イスラエルが神によって救い出された日のことを記念するためでした。

 神による救いの出来事を祭として記念するというのは、どのような出来事を通して救われたのかを思い出すことです。それは、かつて救いの御業が起こったとおり、これからも神の恵みの御業がおこり続けるという信仰の表明なのです。確かにイスラエルは、歴史の中で何度も国難を経験しましたが、その都度、神はイスラエルを救い出されました。

 もう一つのことも示されます。イスラエルの家の初子が救われるのは、初子自身というより親の信仰です。親が御言葉を信じて、小羊を屠り、その血を門の柱と鴨居に塗ったからこそです。そうしなければ、イスラエルの家といえども、過ぎ越されなかったのです。これは、親の信仰によって子どもが救われることがある、と教えていないでしょうか。

 ソロモンが、「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました」(列王記上3章6節)と言っています。つまり、父ダビデが忠実に正しい心をもって御前を歩んだから、神がソロモンにも慈しみを絶やすことなく示されたと言っているわけです。

 口語訳には「この大いなる慈しみをたくわえて」とあります。「絶やすことなく示されて」を「たくわえて」と訳してあるのです。父に与えられる慈しみが天にとっておかれて、それが子に授けられるということになります。愛する子らのために、ダビデのごとく、「忠実に、憐れみ深く正しい心をもって」、神の御前を歩みましょう。

 この「忠実、憐れみ深く正しい心」とは、主イエスの心ですね。主が私の心にお住まい下さっているので、主イエスにあって私の心にもそれがあると言わせて頂くことが出来ます。主を信じ、主と共に歩ませて頂きましょう。


 愛する天のお父様、どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手がわたしと共にありますように。災いからわたしを守り、私が苦しむことのないようにして下さい。イェス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。アーメン






6月22日(金)の御言葉 「記念すべき日」

「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」 出エジプト記12章14節


 主なる神は、エジプトに最後の災いを下すと宣告されましたが(11章参照)、モーセとアロンに、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)と言われました。エジプトからの脱出を記念して、その月を正月とするわけです。

 そして、正月14日の夜に最後の災いを下すことを決め、4日前の正月10日には小羊を調達しておくこと(3節)、14日当日は、夕暮れに小羊を屠り(6節)、その血を入り口の二本の柱と鴨居に塗り(7節)、そしてその夜、小羊の肉を焼き、酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べること(8節)、そのときには、腰に帯を締め、靴を履き、杖を手にして急いで食べよと指示されます(11節)。

 それは、エジプト人にせきたてられるまま、ファラオの気が変わらないうちに、エジプトを出立しなければならないからです。イスラエルの民は、主が命じられたとおりに行いました(28節)。

 真夜中になって、主がすべての初子を撃たれたので、大いなる叫びが国中に起こりました(29,30節)。しかしながら、ゴシェンのイスラエルの民の家には災いが起こりませんでした。小羊の血がしるしとなって、主はその家をパス=過越したのです(13節)。

 ファラオはモーセたちを呼び出し、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」と言います(31,32節)。

 この言葉は、ただ礼拝しに行くことだけを許可したということではなく、帰国をも許す表現でしょう。エジプト人はイスラエルの民の望むままに金銀の装飾品や衣類を与えて、急いで国を去らせようとしました(33節以下)。そうしなければ、初子だけでなく、みんな神に打たれ、死に絶えてしまうと思ったからです。

 イスラエルの民は、ヤコブの家族70人がエジプトに下って来てから(創世記46章)、430年ぶりにエジプトを去り、故郷を目指します(40節)。彼らは、430年の間に、壮年男子だけでおよそ60万人になっていました(37節)。ということは、女性に子ども、老人を加えると、200万人にもなっているということでしょう。確かにこれは、神がイスラエルを祝福しておられたという証拠です(1章7,12,20節参照)。

 イスラエルの民は、エジプトの奴隷の苦しみから解放され、「神の民」としての歩みを始めました。冒頭の言葉(14節)のとおり、そのことを毎年記念するように命じられているのは(17,24,25節も参照)、この出来事が、神の民イスラエルの原点となったからです。神はこの出来事を「主の過越」(11節)と呼ばれました。そこから、この出来事を記念して祝うこの祭りを「過越祭」(43節)と呼びます。

 私たちキリスト教徒はこの日を、キリストの受難と復活を祝うイースターとして大切に守っています。主イエスが、過越祭のときに十字架につけられ、そして、三日目に甦られたからです。

 洗礼者ヨハネが主イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いましたが(ヨハネ福音書1章29節)、それは、主イエスを主の過越に屠られる小羊に見立て、キリストの十字架の血によって私たちに下されるべき罪が贖われ、その呪いがパス・アウェイ=過越されたと語っているのです。

 それは、神の深い愛と憐れみに依ることです。私たちの働きや信仰のゆえではありません(エフェソ書2章8,9節)。命ぜられるまでもなく、救いの恵みに与ったことを感謝し、代々にわたって心から、祝い続けましょう。

 主よ、あなたはエジプトの奴隷であったイスラエルの民を贖い出して御自分の民とされたように、罪に縛られていた私たちを贖い、神の民として下さいました。そのために、御子キリストが十字架で死に、贖いの御業を成し遂げて下さったことを心から感謝致します。主の救いに与った者として、その恵みを喜んで証しするものとならせて下さい。 アーメン
 





6月21日(木)の御言葉 「なおもう一つの災い」

「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。」 出エジプト記11章1節


 これまで、杖のしるしに始まって(7章8節以下)、「9つの災い」がエジプトの上に降されて来ました。けれども、ファラオはイスラエルの民を去らせることを受け入れることが出来ません(10章27節)。ファラオはモーセに、「二度とわたしの前に姿を見せないように気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」(同28節)と言いました。

 しかし、エジプトに下る災いは、それで終わりではありませんでした。冒頭の言葉(1節)のとおり、もう一つの災いがエジプトに下るのです。そしてそれは、エジプトにとって大変厳しいものでした。

 ここで、「災い」(ネガー)という言葉は、レビ記13,14章に多く用いられていますが、そこでは、「疾病、傷」という意味で用いられています。これは、エジプトに下される災いが、疾病や打ち傷という類のものであるということを示す用語です。この最後の災いでもたらされる疾病、打ち傷が大変厳しいものなので、ファラオは彼らを去らせる決断をせざるを得ない、否、一人残らず、一刻も早く追い出さなければならない事態になるということです。

 一方、神はイスラエルの民のために、「あなたは民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」と言われました(2節)。これは既に、3章21,22節に語られていたことです。

 繰り返し下される災いによって、エジプトの民はイスラエルの神に恐れを抱くようになっていたでしょう。それで、イスラエルの民の要求に応えざるを得ない空気が生まれていたということもありましょう。その上、主なる神は「エジプト人の行為を得させるようにされ」ました(3節)。喜んで差し上げますという具合です。

 指導者モーセについては、「ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)とさえ記されています。何故、そのような思いを抱くようになったのでしょうか。それは、エジプト中に災いが起こされて、民が苦しんでいるのに、そこに目を留めないで、一人心頑なになっているファラオに対する憤りや失望を背景に、おのが民を奴隷の苦しみから解放しようとして行動するモーセを支持する思いになったのではないでしょうか。

 かくて、ファラオを除くエジプトの民は、主なる神を畏れ、モーセとイスラエルの民に好意を持つようになっているのに、ファラオが一人だけ、いよいよ頑迷になっているわけです。そして悪いことに、そのファラオの頑迷さが、エジプトの運命の鍵を握っているのです。その結果、最後の災いがエジプトに臨みます。

 主がモーセに告げられたのは、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼を引く女奴隷の初子まで。また家畜の初子のすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない」という言葉です(4~6節)。

 この災いは、直接神によってエジプトにもたらされることになります。それは、神を礼拝するために民を去らせよという要求を、ファラオが心頑なにして最後まで聞き入れようとしないからです。

 そもそも、モーセがエジプトに遣わされたのは、神がイスラエルの民の苦しみを見られ、その叫び声を聞かれたからです(3章7節)。イスラエルの家に生まれてくる男児は、初子のみならず皆ナイル川にほうり込め、という命令もありました。結局、イスラエルの民の苦しみをなぞるようにエジプトの民に災いが下され、主が神であることを、ファラオが知るようになることが目指されているのです。

 イスラエルの民を去らせるために行動するのは、まず家臣たちです。8節に、「あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう」と言われています。

 12章31節で、「わたしの民の中から出て行くがよい。あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい」とファラオがモーセたちに言うのは、家臣たちの声に促されてのことなのでしょう。

 主よ、わが国の指導者の周りに主を畏れる者を配置して、正しい政を行うことが出来るようにして下さい。武力によらず、経済に依らず、愛の奉仕を通して世界の平和に貢献する国となれますように。放射能の汚染から、我が国民を、全世界をお守りください。我が国民に希望を与えて下さい。祝福に満たして下さい。あなたを待ち望みます。 アーメン





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