風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年05月

5月30日(水)の御言葉 「ヨセフは逃げて外へ出た」

「彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。」 創世記39章12節


 ヨセフ物語の続きです(37章より)。イシュマエル人のキャラバンは、ヨセフをエジプトに連れて来て、宮廷の役人、侍従長ポティファルに奴隷として売りました(1,2節)。遠い外国の地に奴隷として売られてしまい、ヨセフが見た夢は、雲散霧消してしまったかのごとくです。

 けれども、その夢はヨセフ自身が見たいと欲したものではなく、神が彼に見せられたものでした。それゆえに、ヨセフがどこへ連れて行かれようとも、そこに主が共におられ、彼のなすことをすべて祝福されました(2節)。ヨセフのゆえに、ポティファルの家も祝福されたのです(5節)。

 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編1編2,3節)という御言葉がありますが、ヨセフに夢を与えられた主こそ、命の水の流れであり、主の導きに従うときに、その人のすることは、繁栄をもたらすものとなるのです。

 ポティファルは、家財産の管理一切をヨセフに委ね、安心して余暇を楽しめるようになりました(6節)。ヨセフは、奴隷という身分ではありますが、主人の絶大な信頼を得て、いきいきと仕事に打ち込んだことでしょう。

 ところが、「好事魔多し」です。なんと、ポティファルの妻が、顔が美しく、体つきも優れていたヨセフを(6節)、「わたしの床に入りなさい」と誘惑します(7節)。

 ヨセフは、勿論それに耳を貸しません。「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(9節)と語っています。女主人が「わたしの床に入れ」と命じているのですから、それを拒絶すれば、罰が伴うことになるでしょう。しかし、ヨセフにとっては、女主人の命令よりも、神の御心、神の御教えが優先するというのです。

 バプテスト連盟の信仰宣言の中に、「教会は国家に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神の御旨に反しない限りこれに従う」という言葉があります。教会をヨセフ、国家を主人と置き換えれば、この状況に合うでしょう。主人が神の御旨に反したことを命じるときには、それに従わないということです。そのために不利益を蒙っても、神の恵みがそれに勝ると信じるのです。

 女主人は、自分の命令が拒絶されるとは考えていなかったでしょう。あるいは、自分には相当の魅力があるとさえ考えていたかも知れません。そこに、女主人の振る舞いに代表される権力の横暴、身勝手さがあります。

 思わぬ拒絶に遭ってその威信を傷つけられ、馬鹿にされたと考えた女主人は、可愛さ余って憎さ百倍と言わんばかり、ヨセフを主人に告発します。その証拠は、ヨセフの上着です。女主人はヨセフと無理やり関係を持とうとしましたが、冒頭の言葉(12節)のとおり、ヨセフはなんとか逃がれて、外に出ました。そのとき、女主人の手にヨセフの上着が残ったのです。

 その証拠によって、ヨセフは窮地に立たされました。ヨセフは、奴隷として主人ポティファルに仕えていましたが、家を管理する執事としての仕事が取り上げられ、監獄につながれるという再度の転落を味わうことになります(19、20節)。しかし、もしも本当にヨセフが罪を犯していたなら、それでは済まなかったでしょう。

 敢えて言うならば、ヨセフを捕らえようとして女主人が手に出来たのは、彼の上着だけです。ヨセフの腕を掴むことは出来なかったのです。勿論、ヨセフは監獄につながれ、ますます苦しみが重くなります。けれども、ヨセフを実際に捕らえているのは、権力の力ではありません。神の御腕がヨセフを守っています。監獄でも主が共におられ、恵みが与えられたのです(21節以下)。

 あるいは、権力の横暴でヨセフの命を奪うことも出来るかもしれません。それでも、ヨセフの魂を自由に取り扱うことは出来ません。ヨセフは神の守りの中で、権力の前に自由に立ち、その前を逃れることが出来るのです。


 私たちも日々主を畏れ、その恵みに信頼して立ち、御言葉に従って歩みましょう。主が共にいて、守って下さいます。

 主よ、ヨセフは外国人奴隷という、最も低い位置に置かれています。けれども、女主人の権力に屈せず、自分の自由を守ることが出来ました。それは、あなたがヨセフと共におられるからです。そして今、インマヌエルと唱えられる主イエスが私たちと共にいて下さいます。それはどんなに心強いことでしょう。どんなに平安をもたらすことでしょう。御名を褒め称えて感謝致します。 アーメン





5月29日(火)の御言葉 「この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた」

「ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。『なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして』。そこで、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。」 創世記38章29節


 38章は、ヨセフ物語の筋書きとは、殆ど何の関係もない、ヤコブの4男ユダとその嫁タマルの話です。ユダは、カナン人シュアの娘を妻とし、3人の子をなしました(2,3節)。長男エルに迎えた嫁がタマルです(6節)。

 ところが、長男が主に背いために打たれ(7節)、次男オナンも、レビラート婚という制度に従って長男に跡取りを残すことを拒み、兄弟としての義務を果たさなかったため、打たれて死にました(8~10節)。そこでユダは、末息子シェラが成人するまでと言って、タマルを実家に帰します(11節)。

 しかし、ユダはタマルをシェラの妻とするつもりはありませんでした(12,14節)。あるいは、タマルが諸悪の根源のように考えていたのかも知れません。ユダの腹の内を知ったタマルは、娼婦の姿で義父ユダを誘惑して関係を持ち(14,15節)、身籠りました(24節)。

 嫁の姦淫による妊娠を知ったユダは、「焼き殺せ」と命じます。そのときタマルは、胎児の父親がユダであることを告げます(25節)。ユダは、嫁を裁く資格のないことを悟ります(26節)。やがて、タマルは双子の男児を産みます(27節以下)。この話が、なぜ記されているのでしょうか。ここから何を学ぶべきでしょうか。

 ひとつは、ヨハネ福音書8章1~11節で教えられることです。それは、姦通の現場で捕らえられた女性の裁判を要求する律法学者たちに対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(同7節)と言われたところ、結局、誰も女性に石を投げつけることが出来なかったということでした。

 つまり、律法学者たちは、自分のことは棚に上げて、他者に対して、特に弱い立場の女性に対して、正義の刃を振り上げていたわけです。けれども、そのことを主イエスに指摘されて恥じ入らされ、その場を立ち去るほかなかったのです。

 主イエスは、罪を犯されたことのないお方、即ち、その場で女性を正当に裁く資格、権利を持っておられるただ一人のお方です。けれども、主イエスは女性に、「わたしもあなたを罪に定めない」(同11節)と言われました。罪の裁きをおのが身に引き受け、その女性をお赦しになったのです。

 ヨハネは主イエスを、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(同1章9節)と言っています。私たちは暗闇で、人の知らないところで、あるいは無意識の内に罪を犯す、心に情欲、妬み、争う気持ちを持っている、それらがまことの光によって照らされるのです。それは、死をもたらす裁きの光ではなく、その罪の暗闇を私たちから追い出し、取り除き、完全に清める光、赦しを与え、命を与える光なのです。

 私の中学時代の友人が、高校生になって教会に来ました。そこでヤコブ書1章を学びました。「絶対者なる神の前に出たときに、そこに自分の真の姿が示される。主こそ完全に正しい鏡だ」と聞いて、彼は真剣に聖書を読み始め、自分の罪の醜さに気づくと共に、キリストの愛を受け入れ、信仰を持ったのです。

 今ひとつは、ユダもタマルも夢想だにし得なかった歴史が、ここから展開していくということです。マタイによる福音書1章1~16節には、アブラハムから主イエスまでの系図が記されています。その系図の中に、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(同3節)という言葉が出て来ます。ユダとタマルは、神の前に姦淫の罪を犯したのですが、神は二人を憐れみ、二人の弟息子を選んで、アブラハムから主イエスに至る系図の中に置かれたのです。

 この系図に登場する人物の中で、罪を全く犯さなかったという人は、勿論、一人もいません。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすること」です(第一ヨハネ1章10節)。主イエスの系図は、罪のない清い人の連なりではありません。しかし、主イエスがすべての罪を赦して下さった結果、系図に名を連ねた人々の人生が主イエスのための生涯、主イエスの役に立つ生涯に変えられたということを表わしているのです。

 敢えて言えば、ペレツがいなければ、そしてユダとタマルがいなければ、主イエスの誕生がなかったというほどに重要な存在として下さったのです。これはもう、ただ神の憐れみによる選び、神の恵みによる導きという外ない出来事です。そしてそれが、私たちの人生にも起こっているのです。

 主よ、御子イエスによって私たちのすべての罪を赦し、神の子として生きる道を開いて下さいました。主の恵みに応え、御旨に従い、主の御業のために用いられる者とならせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン






5月28日(月)の御言葉 「あれの夢がどうなるか見てやろう」

「さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」 創世記37章20節


 37章からは、ヤコブの11番目の息子ヨセフを主人公にした、新しい物語が始まります。ヨセフは、夢を見る男、また夢を解釈する人物として、よく知られています。この37章にも、ヨセフが見た夢が二つ、彼自身によって紹介されています。一つは麦束に関するもので(6,7節)、今一つは、天体に関するものでした(9節)。

 それを聞いた兄弟や父ヤコブが、その夢解きをします。いずれも、ヨセフが王のようになって、兄弟や両親を支配するようになるということです。常識的には、あるはずがない、また、あってはならないことでしょう。弟が兄を出し抜き、あるいは父母まで従えるなどということがあり得るでしょうか。

 ヨセフが幼子ならともかく、そんな夢を見たと得々として語る17歳になる若者のヨセフに対して、兄弟や父親が腹を立てるのは至極当然のことです。こんな身の程をわきまえない、言ってよいことと悪いことの判別も出来ないような者であるならば、いかに年寄り子で、甘やかされて育ったのかということでしょう。

 ここで、「夢」というのは勿論、現実に即したものではないと言えます。兄弟たちにとっては、それは馬鹿げているというべきものでしょう。しかしながら、兄弟たちも父ヤコブも、ヨセフを笑い飛ばしてはいません。むしろ憎悪と妬みを感じています(4,11節)。あるいは、脅威を感じているのかも知れません。

 というのは、ヨセフの夢が今の境遇を一変させるものだからです。兄たちは、何をしなくても特権的に色々な物を手に入れることが出来ますが、11番目の無力な少年には、夢見ることしか出来ません。夢は、現状維持や現状の発展などではなく、現状を全く変えてしまう希望なのです。

 つまり、ここで兄たちは現状維持、発展を願う保守派、ヨセフは革命的な夢を持つ革新派になっています。そして父ヤコブは、ヨセフを咎めるというところで(10節)、兄弟たちと同じ立場を表明しつつも、その夢を「心に留めた」(11節)ということでは、ヨセフが見た夢の希望の可能性をも認めようとしていることが分かります。

 問題をややこしくしているのは、ヨセフが兄たちのことを告げ口するものであり(2節)、そして、父ヤコブがヨセフを偏愛、それも溺愛と言ってよいほどの依怙贔屓をしていることです(3節)。ゆえに、兄弟たちはヨセフに嫉妬し、常に憎悪の念を持ってヨセフを見ていたのです(4節)。

 そこで、冒頭の言葉(20節)のように、兄弟たちは、自分たちの様子を見にやって来たヨセフを殺して、自分たちの身分の保全を図ろうとします。ヨセフがあんな夢さえ見なければ、そして夢を見たヨセフがいなければと考え、それを実行しようとしているのです。カインとアベルの物語のように(4章1節以下、7節)、今ここに、神に抵抗する人間の姿があり、そして、彼らを飲み込もうとする罪の力、悪魔が玄関口に立っているのです。

 ヨセフは、長男ルベンの計らいで殺されることは免れましたが(21,22節)、しかし、空井戸に放り込まれていたのを通りかかったミディアン人に見つけられ、イシュマエル人の商人たちに売られてしまいます(28節)。イシュマエル人は、ヨセフをエジプトに連れて行き(28節)、宮廷の役人、侍従長のポティファルに奴隷として売りつけます(36節)。

 兄弟の憎悪がヨセフの夢を粉砕してしまったように見えます。それは、ヤコブを嘆き悲しませました。しかしながら、夢を見たヨセフはエジプトで生きています。人が夢を抹殺しようとしても、神はそれを許されません。ヨセフに与えられた夢は、神が語りかけられた言葉なのです。

 ヨエル書3章1節に、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」とあります。神の霊が私たちに臨んだとき、霊は私たちに夢と幻で語りかけられます。人がその夢を語るとき、それは、「預言」となるのです。

 私たちも、夢、幻を見せて頂きたいと思います。見せて頂いた夢、幻を通して神の御言葉を聞き、希望と生命の力に与りたいと思います。ヨセフのように現実に翻弄され、ヤコブのように希望を失ったかのようなときにも、夢を通して示された主の言葉はとこしえに残るのです(イザヤ書40章8節)。

 主よ、宣教百周年に新会堂を建築することが出来ました。この会堂を用いて、新たな宣教に取り組み、豊かな実を結ぶことが出来るよう、一人一人を聖霊に満たし、御旨を示して下さい。それぞれの賜物を全体の益となるよう、用いることが出来ますように、そうして、キリストの体なる教会を建て上げさせて下さい。 アーメン





5月27日(日)の御言葉 「エドム地方を治めていた王たち」

「イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、エドム地方を治めていた王たちは次のとおりである。」 創世記36章31節


 36章には、エサウの系図が記されています。35章22節以下に、エサウの弟ヤコブの息子たちの名が短く記され、父イサクの死が報告された後(同27節以下)、長々とエサウの系図が記されているのは、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節、9章7節も参照)と命じられた主の祝福が、エサウにも及んでいることを、如実にあらわしています。

 弟ヤコブがハランに出発して後、エサウがどのように歩んだのか、全く分かりません。けれども、戻って来た弟ヤコブを出迎えるのに400人の供を連れていますし(32章7節、33章1節)、ヤコブの贈り物に対して、「弟よ、わたしのところにはなんでも十分にある。お前のものはお前が持っていなさい」と語っていますので(33章9節)、主なる神は、ヤコブだけでなく、兄エサウをも豊かに祝福されていたのです。

 6節に、「エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れて他の土地へ出て行った」とあり、その理由が続く7節で、「彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである」と語られています。これは、アブラハムがロトと別れた出来事を思い起こさせます(13章参照)。

 8節に、「エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった」とありますが、32章4節に、「セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに」と記されていますので、エサウは既に以前から、セイル山地に住んでいたわけです。

 ここであらためてセイルの山地に住むようになったということは、エサウは全家族、全財産を携えてヤコブのもとに行ったけれども、互いの持ち物が多過ぎて一緒に住むことが出来なかったため、約束の地を弟に委ね、元いたところに戻ったと考えたらよいのでしょう。

 マラキ書1章2,3節に、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と記されていますが、今日の箇所を見る限り、エサウが神に憎まれているようには思われません。また、神に憎まれる理由も見出せません。エサウは、確かに長子の権利を軽んじました。祝福を横取りしたヤコブを憎み、殺そうと企みました。けれども、それを実行したわけではありませんし、後日、ヤコブと再会を果たしたときには、既にそれを忘れてしまっているようでした。

 33章の兄弟のやり取りを見ると、むしろ愛されるべきはエサウで、不誠実なヤコブが兄に憎まれても当然という思いさえします。その意味で、ヤコブが愛されるのは、彼自身にその理由があるのではなく、一方的な神の憐れみの故です。そしてその憐れみは今日、私たちに注ぎ与えられています。私たちが主イエスを信じる信仰に導かれ、救いの恵みに与ったのは、実にこの憐れみによるのです。

 神はかつて、イスラエルの父祖アブラハムに対して、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われ(12章2節)、さらに、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」と語られました(同3節)。その祝福がイサクからヤコブに受け継がれました(27章29節)。ですから、エサウが神に祝福されて大家族で豊かな財産を所有するに至ったのは、弟ヤコブの罪を赦し、彼に親切に語ったからではないでしょうか。

 冒頭の言葉(31節)で、イスラエルにまだ王がいなかった時代に、既に、エドム地方を治める王がいたというのも、イスラエルの子孫がカナンの地を自分たちの所有とする以前に、エサウの子孫は既に、エドム地方を支配する者になっていたということです。

 私たちも、力強い神の御手の下に自らを低くし、思い煩いを主にお任せしましょう。神は謙遜な者に恵みをお与え下さいます(第一ペトロ書5章5節以下)。すべての人との平和を追い求めましょう。神の恵みから除かれることがないためです(ヘブライ書12章14,15節)。

 主よ、私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて下さいますように。そして、私たちの主イエスが、ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、私たちの心を強め、あなたの御前で、聖なる、非のうちどころのない者として下さるように。 アーメン





5月26日(土)の御言葉 「祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた」

「そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げていったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。」 創世記35章7節

 神がヤコブに声をかけられました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のために祭壇を造りなさい」(1節)という声です。

 ヤコブは20年前、兄エサウの顔を逃れてハランに向かう途中、ベテルで神に会い、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(28章15節)という祝福を受け、励まされて出発しました。

 苦労はしましたが、大きな財産を携えて故郷に帰ってきました。兄エサウにも、思いがけない歓迎を受けました。けれども、大切なことをヤコブは忘れていました。それは、彼が戻るべき場所のことです。

  そのためということではないと思いますが、娘ディナがシケムで辱めを受け、息子たちが復讐のために町を襲いました。しかるにヤコブは、それらのことが起こっても何も言わず、何もせずで、家族が分裂してしまいそうです。そのようなときに、神の声がヤコブにかけられたのです。

 神の声を聞いたヤコブは、20年前を思い出したでしょう。独りぼっちだったとき、あの苦しかったときに現れて下さった神の愛を。そして、その時に与えられた約束をです(28章20~22節)。

  ヤコブは立ち上がり、家族に、「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難のときわたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」と語ります(2,3節)。ヤコブは、スコトに建てた家や土地、そして今寄留しているシケムの町を離れることを宣言したのです。

  この言葉を聞いたヤコブの家族は、持っていた外国のすべての神々をヤコブに渡し(4節)、それらを木の下に埋めて出発します。ヤコブに従ったというよりも、神の恵みと憐れみが、ヤコブの家族を動かしたというところではないでしょうか。でなければ、父親としての威厳を失ってしまったヤコブの言葉に、息子たちが素直に耳を傾けることはなかっただろうと思われるからです。

  冒頭の言葉(7節)のとおり、ベテルに着いてヤコブはそこに祭壇を築き、そこを「エル・ベテル」と名付けました。それは、「ベテルの神」という意味です。神は、ヤコブをハランから呼び出すときも、「わたしはベテルの神(エル・ベテル)である」(31章13節)と仰っていました。

 神はここでもう一度ヤコブを祝福し、「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる」(10節)と言われました。これはペヌエルでの祝福の再現です(32章29節)。改めて、過去と訣別し、神の民として、新しい恵みを受けて歩むように祝福されたといってよいのではないでしょうか。

  「身を清めて衣服を着替えなさい」という言葉と合わせて、これはパウロが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ書3章26,27節)と記している御言葉に通じています。

  「神はわたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13,14節)。神は私たちのことを、御子イエスの血によって清められた者と認め、さらには、私たちが皆、さながらイエス・キリストであるかのように看做されるわけです。「キリストを着ている」とは、そのことです。

 勿論、私たちが自分でイエス・キリストのようになれるわけがありません。これは神の一方的な恵みなのです。ヤコブが神の声に従ってベテルに上り、そこに祭壇を築いたように、私たちも、御言葉に従って主と共に、主の内に住まい、心から感謝をもって主を礼拝しましょう。

  主よ、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対する愛を示されました。私たちは、主イエス・キリストによってあなたを誇りとしています。罪の支払う報酬は死ですが、あなたは私たちに主イエスによって永遠の命を賜ったからです。栄光が神に永遠にありますように。 アーメン




5月25日(金)の御言葉 「困ったことをしてくれたものだ」

「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか。」 創世記34章30節


 エサウと再会を果たしたヤコブは、スコトへ行き、そこに土地を購入して家を建てました(33章17,19節)。ここに住み着くつもりなのです。ところが、ここで事件が起こりました。

 ヤコブには、レアとの間に生まれたディナという名の娘がいました。彼女が「土地の娘たちに会いに出かけた」(1節)のですが、ヒビ人ハモルの息子シケムがディナを見初め、無理やり関係を持ちます(2節)。そして、父ハモルにディナを妻に迎えることを認めてくれるように求めます(4節)。

 ハモルは息子の願いを入れてヤコブのもとを訪れ(6節)、ディナを息子シケムの嫁にくれるように願い出ます(8節以下)。シケムも同様に語ります(11節以下)。彼らの申し出は、シケムがどれほどディナのことを思っているかということを示しており、その意味では、ヤコブが叔父ラバンの娘ラケルを妻にするために、7年間ただ働きすると申し出た心情に通ずるものがあります。

 しかしながら、ヤコブはこの申し出に対して、何ら反応していません。返答したのは、ヤコブの息子たちです。息子らは、シケムたちが割礼という儀式を行うなら、相互に姻戚関係を結ぼう、と応じます(14節以下)。

 ハモルと息子シケムは、ディナのために、ためらわず実行することにし、町の人々にも割礼を受けるようにと提案します(20節以下)。町の人がその「提案をを受け入れた」(24節)というのは、ヤコブたちと関係を持つことが町のプラスにつながるという計算以上に、ハモルが町の首長で、彼らへの信望が厚かったということでしょう。

 しかしながら、割礼を受ければ、姻戚関係を結ぶというのは、真実ではありませんでした。ヤコブの息子たちは、ディナが「汚されたことを聞いた」(5節)とあり、ディナが辱められたことを宗教的「汚れ」と受け止めています。それゆえ、「みな、互いに嘆き、また激しく憤った」(7節)のです。だから、割礼を持ち出したのは、宗教を同じくするならということになるわけですが、それでシケムのしたことを赦すというつもりは全くありません。

 町の人々が割礼を受け、まだ傷の痛みに苦しんでいるときに(24,25節)、ディナの兄シメオンとレビは剣を取って町に入り、男たちをことごとく殺して、妹ディナを取り戻しました(25,26節)。そして、残りの息子たちは、町中を略奪しました(27節以下)。

 ここまで、全く口を開かなかったヤコブが、ようやく口を開きました。それが冒頭の言葉(30節)です。ヤコブは、息子たちがしたことで、この町におれなくなったことを非難しているのですが、ここにはディナに思い遣る言葉も、ディナを取り戻した息子たちへの労いもありません。父親として、娘のことをどう考えていたのでしょうか。

 父ヤコブがはっきりしないので、息子たちが代って行動しただけで、本当ならヤコブがその意思を示すべきだったのです。だから、行動を非難された息子たちが、「妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と反論すると、それに対する言葉がないのです。

 ヤコブは利に聡く、そのためには手段を選ばず行動するというところがありますが、そうでないときには受身です。ディナのことを聞いても、何の行動も起こしません。それこそ、神に祈ることすらしないのです。

 その意味で、このような事件が起こり、彼がスコトを出て行かなければならなくなったのは、約束の地から離れてヨルダン川の東に留まることを、神がよしとされなかったということではないかとさえ思えます。

 だから、神はヤコブをベテルに呼び出されるのです(35章1節)。彼が戻るべき場所は「ベテル」、即ち「神の家」なのです。神のもとに宿り、その御言葉を聞き、その恵みの内を歩むことなのです。

 主よ、私たちは弱い人間です。他人を非難することは出来ますが、ヤコブと同じ立場になったときに、自己保身に走らないとは言えません。だからこそ、あなたに依り頼みます。どうか、試みにあわせないで、絶えず悪しき者からお救い下さい。御言葉に耳を傾けます。真実を教えて下さい。 アーメン





5月24日(木)の御言葉 「兄上のお顔は、神の御顔のように見えます」

「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」 創世記33章10節


 帰国したヤコブは、いよいよ兄エサウと20年ぶりの対面に臨みます。兄は、400人の供を連れています。その仰々しい出迎えを見たヤコブは、心中穏やかではなかったでしょう。兄の顔を避けてハランに旅立った日のことを、昨日のことのように思い出したのではないでしょうか(27章41節以下、28章5節)。

 彼は、父イサクを騙し、父が兄に与えると約束していた祝福の祈りを横取りしたのです。兄エサウはそれを知ったとき、ヤコブを殺す企てをしました。だから、逃げ出したのです。

 ベテルで神の祝福を受けたヤコブでも(28章10節以下)、ハランで大家族となり(29章15節以下)、ひと財産をなしたヤコブでも(30章43節)、そして、ヤボクの渡しで神の使いと互角に相撲をとり、「イスラエル」という名前をもらったヤコブであっても(32章23節以下、29節)、それと共に腿の関節が外れ、杖なしには歩けなくなったヤコブには、エサウがどれほど恐怖だったことでしょう。しかし、もはや逃げ出すことも出来ません。

 ヤコブは観念し、兄の前に「七度地にひれ伏し」ました(3節)。地にひれ伏すのは、家臣が国王に対して、あるいは人が神に対して行う儀礼的な行為で、「私はあなたの下僕です」という態度です。七度それをしたということは、何度も何度も繰り返したということですが、七は完全数ですから、私は絶対あなたに反抗しません。完全にあなたに従いますということを表わしているといってよいでしょう。

 すると、「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣」(4節)きました。つまり、エサウはヤコブの帰郷を喜び、歓迎してくれたのです。ヤコブは兄を「ご主人様(アドニー:「わが主人」の意)」と呼び(8節)、エサウは、「弟よ」と呼んで答えています(9節)。さながら、放蕩息子とその父親が再会したときのような、麗しい光景ですね。

 ヤコブには、そんなエサウがにわかに信じられません。本当にこれが兄エサウだろうか、別人ではないだろうか、と思ったことでしょう。冒頭の言葉(10節)には、そんなヤコブの気持ちが書かれています。それは特に、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」というところです。

 ヤコブは当初、兄エサウがどのように行動しても身の安全を確保出来るように、組を二つに分けました(32章8,9節)。また、兄に嫌を直してもらえるように、贈り物を準備するという、二重三重の備えをしました(32章14節以下)。しかし、エサウがヤコブを無条件で受け入れ、歓迎してくれるので、今度は、感謝の思い一杯で、贈り物をどうしても受け取ってくれるようにと頼み込みます。

 ヤコブは、どうして兄エサウがそんなに優しくなっているのか、未だに分からずにいます。しかし、エサウの顔が、神の顔のように見えるというのは、興味深い表現です。

 イスラエルには、人間は罪深いので神の御顔を見ることは出来ない、清い神の眼差しに触れると、一瞬にして心刺され息絶えてしまう、といった考え方があります。ところが今ヤコブは、エサウの歓迎振りに、自分の罪過ちを兄が赦してくれたと実感し、そこから、神の御顔を見るということは、裁きや罰を受けるというのではなく、罪赦され、受け入れられることだと語っているわけです。

 ヤコブは、ベテルやヤボクの渡しでの体験に基づいて、そう語ったのでしょう。兄エサウと相見えて、そのことがはっきりしたということではないでしょうか。ここに、聖書の語る福音があります。

 三度主イエスを否んだペトロも、主イエスの愛の眼差しに見つめられ(ルカ22章61節)、やがて立ち直りました。私たちも、神の愛と赦しの眼差しに絶えず守られていることを感謝し、その恵みに応えて歩みたいと思います。

 主よ、あなたは迷い出た一匹の羊を探し回る羊飼いのように、 放蕩息子の帰還を走り迎えた父親のように、何時も愛と憐れみに満ちた眼差しで私たちを捕らえ、守り導いて下さいます。そのご愛に応えて、あなたの御言葉の光の内を歩ませてください。いよいよ深く真実な交わりの内に、共におらせて下さい。 アーメン





5月23日(水)の御言葉 「これからはイスラエルと呼ばれる」

「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」 創世記32章29節


 イスラエルというヘブライ語は、「神が支配される、神が保持される、神が守られる」という意味だろうと言われます。これまで、神が共にいて、守り、祝福に至らせるという信仰について、学んで来ました。

 23節以下の段落で、ヤコブが何者かと夜明けまで格闘したことが記されています(25節)。格闘、レスリングです。日本流に言えば、相撲をとったというところでしょう。「夜明けまで」というのですから、一晩中相撲をしていたわけです。

 格闘の相手は、勝てそうにないとみて、ヤコブの腿の関節を打ってはずしました(26節)。それから、もう夜が明けてしまうので、去らせてくれ、と言います(27節)。降参するのはメンツに関わるので、何とか引き分けに持ち込んだ、ということでしょうか。

 ヤコブが、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と答えると、その人はヤコブに名を尋ねた後(28節)、冒頭の言葉(29節)のとおりヤコブを祝福しました。

 ヤコブには、どうしても神の祝福に与りたいという強い思いがあったと思います。彼は、二人の妻、二人の側女、11人の息子に最低一人以上の娘、そして、たくさんの家畜の群れ、僕たちを連れて故郷に帰って来ます。無一物で家を出たのに、大成功を収めて戻って来ました。故郷に錦を飾るというところです。胸を張って家に戻れるわけです。

 ところが、当のヤコブは、家が近づくほど小さくなり、心配が増して来ました。それは、あの自分の命を狙っていた兄エサウはどうしているだろうか、という心配です。それで、使者を走らせて帰宅を知らせると(4~6節)、兄はヤコブを歓迎するために四百人の供を連れて迎えに出るという答えです(7節)。それを聞いたヤコブは、こころおだやかではありません。それが、自分を歓迎するためのものとは思えなかったのです。

 400人もの相手にどうすればよいか、あれこれ考えて、まず群れを二組に分け、前が襲われている間に逃げよう、という算段をします(8,9節)。そして、神が守ってくださるように祈ります(10節以下)。その後、ヤコブは兄に贈り物をして機嫌を取ろうと考えます。14,15節に贈り物のリストがありますが、なかなかたいしたものではないでしょうか。

 こうして、二重三重の備えをして、夜、寝もうとしましたが、いよいよ明日は兄との対面だと思うと、どうしても寝付けません。そこで、贈り物の群れをまず送り出し(22節)、次いで、家族を連れてヤボクの渡しを渡ります(23節)。

 ところが、持ち物も渡らせた後、ヤコブだけその場に残ります(25節)。まだ、心が定まっていなかったのでしょう。そのとき、何者かがヤコブと格闘した、相撲をとったというのですから、それは、レスリングや相撲の試合というより、ヤコブが神の恵みを得るためにしつこく訴えた、自分が守られる確証がほしいというところだったのではないでしょうか。

 格闘の結果、ヤコブはまず、神の祝福として、「イスラエル」という名を受け取りました。ヤコブとは、押しのける者、かかとで蹴飛ばす者という意味ですが、神が支配される、神が守られる、という名を与えられたのです。自分のために自分の力でという、エゴの突っ張った人間ではなく、神に頼り、神の守りに与る人間になれ、と言われたわけです。けれども、自分ではなし得ません。まさに、神の御業です。

 第二は、「腿を傷めて足を引きずっていた」ことです。彼はこれまで何度も、他者を足で蹴飛ばし、押しのけて欲しい物を手に入れ、苦境に陥れば、その足で逃げ出して来ました。けれども、これからは、そのような強い足ではなく、彼を守られる神に頼るほかはありません。

 それは神の御心に適ったことでした。痛んだ足を引きずりながら嘆くヤコブに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント書12章9節)と、祝福を語られるでしょう。

 神はいつも私たちと共にいて下さり、私たちが神を認め、神に信頼するならば、いつでも私たちのために必要な御業を行って下さるのです。主を真剣に尋ね求め、祝福に与る経験、主にあって強められる経験を持たせて頂きましょう。

 主よ、あなたがいつも共にいて下さるというのは、頭で分かることではなく、恐れと不安の中で体で味わい知るものです。困難にぶつかる度毎に、祝福して下さるまで離しません、と祈り求めます。あなたが祈りに答えて下さることを信じて,感謝致します。 アーメン





5月22日(火)の御言葉 「わたしはベテルの神である」

「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」 創世記31章13節


 ヤコブは、ラバンの息子たちが、「我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にします(1節)。これは、ラバンがヤコブのものを搾取するつもりが、自分がその落とし穴に落ち込んでしまったということであり、以前、ヤコブのゆえに豊かに祝福されていただけに、それを取り戻された形になって腹立たしい思いになっているということを表わしています。

 ですから、少々軽蔑の思いを抱きながら、ヤコブには満面の笑顔を見せていたであろうラバンの態度は、以前とは全く違ったものに変わってしまいます(2節)。バカにしていた甥にしてやられたわけですから、腹立ちも一様でなかったことでしょう。

 しかし、ヤコブにとって重要なのは、ラバンの息子たちの言葉や、ラバン自身の態度ではありません。自分の行動を主なる神がどのように御覧になっているか、ということです。主はヤコブに、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(3節)と語りかけられました。

 ヤコブは早速妻たちを呼び、話をします(4節以下)。それは、父ラバンがいかにヤコブを欺いたか(6節以下)、それにも拘らずいかに神がヤコブを祝福されたかということであり(7,9節)、その神が、冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と言われたということでした。

 神がご自身を、「ベテルの神」と町の名前で紹介するのは、異例のことだと思いますが、明確に28章18~22節の出来事を思い出させます。神が20年前の出来事を思い起こさせたのは、彼が立つべき場所は、持ち物の多さ、財産の豊かさなどではなく、彼を守り、祝しておられる神への信仰だということを、ヤコブ自身と、この物語を聞く私たちに対して明らかにするためだったのです。

 妻たちもその話に応じ、「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか」と語り、「今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください」と答えます(16節)。

 通常、結納金は使わないままとって置かれて、最後には娘たちに渡るようになっていたようなのですが、ラバンはそれを自分で使い果たしていました。そのケチさ加減、貪欲ぶりに、娘として愛想を尽かしていたということでしょう。

 ヤコブは家族を連れ、密かにラバンのもとを抜け出しました(17節以下)。三日目にヤコブが逃げ出したことに気づいたラバンは、一族を引き連れて追いかけ、七日目にギレアドの山地で追いつきます(22節)。ラバンがヤコブを追いかけたのは、娘たちに別れの口づけをするためであり(28節)、また、守り神を取り戻すためでした(30節)。それは、ラケルが父の家の守り神の像を持ち出していたからです(19節)。

 ヤコブは、ラケルが守り神を持ち出したことを知りませんでした(22節)。だから、「守り神を盗んだ者がいれば、生かしてはおかない。調べて取り戻して下さい」と答えます(22節)。それは、自分は盗んではいないという表現です。ただ、ラバンは守り神を見つけることは出来ませんでした(33,34節)。

 やり取りの中で、ラバンが、「夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった」(29節)と語っていました。ここに、ラバンの守り神は自分のありかを知らせることも出来なかったけれども、イスラエルの神はヤコブを守るために、ラバンを見出し、警告を与えたという、分かり易い対比をもって、主こそ神であることを示しています。

 この神の仲介により、ヤコブとラバンは、契約を結びます(43節以下)。それは、神が二人の間を見張り(49節)、ヤコブが妻たちを蔑ろにせず(50節)、また、アブラハムの子孫とナホルの子孫が相互に土地を侵さないように(52節)という契約です。

 ヤコブの祖父アブラハムとラバンの父ナホルはもともと兄弟同士ですが(11章26節)、後に、ナホルの地、パダン・アラムを支配したアッシリア、彼らの故郷カルデアを支配したバビロニアにより、アブラハムの子孫イスラエルは土地を侵され、捕囚となりました。それは、神が見張りを辞められたということではなく、イスラエルが神の教えを蔑ろにし、異教の偶像に走ったからでした。

 ヤコブとラバンとの間に結ばれた契約に、「多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福するものは祝福されるように」(27章29節)というイサクの祈り、それに応えたもう神の祝福が響いています。誰の計画が上手くいっているように見えても、本当に堅く立つのは神の御言葉(イザヤ書40章6節)、そのご真実だけなのです。

 主よ、あなたは私たちのために、天の窓を開き、溢れる恵みを注いで、良いもので満たして下さるお方です。大いなることを期待して、絶えず主を仰ぎます。御言葉を信じ、大胆に歩み出します。主が私たちと共にいてくださる、ということにまさる祝福はないからです。 アーメン





5月21日(月)の御言葉 「お前のお蔭で主から祝福を」

「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」 創世記30章27節

 ヤコブがラバンの下で14年を過ごす間に、二人の妻とその側女に次々と11人の男の子と、1人の女の子が与えられました(28章31節~30章24節)。レアには、女の子(ディナ:31節)を含む7人の子が与えられました(ルベン、シメオン、レビ、ユダ:29章31節以下、イサカル、ゼブルン:30章14節以下)。レアの召使いジルパに2人(ガド、アシェル:9節以下)、そして、ラケルの召使いビルハに2人(ダン、ナフタリ:3節以下)です。

 そして、ヤコブが愛するラケルには、ようやく最後になって子があたえられました(ヨセフ:22節以下)。たった一人でハランまで来たヤコブは、今や17人の大家族になりました。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていく」(28章14節)と約束された神の言葉が、ここに実現し始めているのです。

 ところで、妻を得るために14年働いたヤコブは、故郷へ帰らせてくれるようにと、義父であり叔父でもあるラバンに願い出ます(25節以下)。しかし、ラバンはヤコブを手放す気になれません。それは、冒頭の言葉(27節)で、ラバンがヤコブに、「わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていると分かった」と語っているとおり、ヤコブの働きを通して、ヤコブの働き以上の祝福がラバンに与えられているということです。

 そこで、ラバンは報酬を支払うという申し出をして、ヤコブが働き続けるように頼みます(28節)。ところが、ヤコブはラバンに不思議な答え方をしています。というのは、「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう」(31節)と言い、そして、ぶちとまだらの山羊、黒みがかった羊を自分の報酬としてほしいと願ったのです(32,33節)。

 ぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊というのはごく少数ですから、それを聞いたラバンは、「よろしい。お前の言うとおりにしよう」と、すぐに請合います(34節)。そこには、ヤコブがこんなバカだとは思わなかった、これでまた、ヤコブをただ働きさせられるという、少々軽蔑するような思いがこもっているかも知れません。

 ラバンはその日のうちに、縞やまだら、ぶちの山羊、黒みがかった羊を全部取り出して息子の手に渡し、遠くに連れて行かせます。そして、残りの羊と山羊、即ち、まだらやぶちなどのない白い羊や山羊をヤコブの手に託します。これで、ヤコブには何の報酬もやらずに働かせることが出来るようにしたわけです。

 ところが、ヤコブが水飲み場に皮をはいで縞模様にした木の枝を置くと、その枝の前で交尾した群れは、縞やぶちやまだらの子を産みました(37節)。現実に、そのようなことをすれば縞やぶち、まだらの子が産まれるという科学的な根拠があるとも思われませんが、ここには、親が妊娠しているときに見たこと、経験したことは、生まれてくる子に決定的な影響を与えるという考えが、その背後にあるようです。

 ヤコブは、丈夫な羊が交尾する時には木の枝を起き、弱い羊の時には枝を起きませんでした。それで、群れの丈夫な羊はみなヤコブのものとなり、弱いものがラバンのものとなりました(41,42節)。かくて、ラバンの公算は大きくずれることになったのです。

 ラバンは、ヤコブに神の祝福が伴っていることを知りながら、祝福をお与えになる神に目を向けるのでなく、祝福として与えられた群れをヤコブから奪うことに躍起となっていました。もしもラバンが、自分も神の祝福に与ることが出来るように祈ってほしいと求めていれば、そして、自分でも、恵みの主を信じ、導きを祈り求めるならば、全く違った結果を生んだことでしょう。正しい方向を向かないこと、それが罪だと、聖書は教えています。

 コロサイ書3章5節に、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」という言葉があります。人は、自分の欲を満たす神を求めて偶像を造るということでしょう。そしてそれは、神に喜ばれることはありません。

 一方、ヤコブがしていることも、褒められるようなこととは思われません。しかし、確かに彼は神に祝福されており、そしてヤコブは、そのように自分を祝福して下さる神に信頼していたのです。

 主よ、「体の灯火は目である。目が澄んでいれば、全身が明るい」という御言葉があります。いつも御言葉に耳を傾け、心の目を主に向けさせてください。そして、私たちの全身を御言葉の光で照らしてください。そうして、天に宝を積むことが出来ますように。 アーメン











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