風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年04月

4月30日(月)の御言葉 「永遠の契約に心を留める」

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約に心を留める。」 創世記9章16節


 神は、箱舟を出たノアとその家族を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(1節)と語られます。これは、神が最初に人類を創造されたときに祝福して言われた言葉(創世記1章28節)とほぼ同じです。ここに神は、洪水後、世界を改めて祝福され、神の御旨にかなう、「極めて良かった」(1章31節)と評価される世界を、再創造されたということになります。

 ここで、もともと人と動物に与えられていた食物は、木の実や青草だけでしたが(1章29,30節)、9章では、初めて肉食が許され、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(3節)と言われています。

 これは、かつてアダムと女を守り、生かすために動物が屠られ、その皮で衣を作って着せられたように(3章21節)、人は、他の生き物の命によって支えられ、生かされているということです。

 ただし、肉食は許されますが、「命である血を含んだまま食べてはならない」(4節)と、注意書きがついています。「命である血」で、命と血は同格です。つまり、血は、命そのものと考えられているのです。

 レビ記17章11節には、「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。動物の肉を食べることは許されましたが、血は命そのものとして、それを創られた神に属していて、人がそれを侵すことは許されません。屠った動物の血を神に献げることで、贖いをしているというわけです。

 ですから、人が屠った動物の血を飲むことは許されませんし、人の血を流し、その命を奪うことも、勿論許されません(5節以下)。これは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を食するのが禁じられたことと同じく、神の主権に関わる事柄なのです。

 ノアの家族の祝福の言葉に続き、神は、契約の言葉を語られます(8節以下)。神は、6章18節で、「わたしはあなたと契約を立てる」と言われていました。ここに来て、その調印が行われるのです。契約の内容は、「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(11節)というものです。

 これは、神がノアたちに保護を約束するもので、神に対するノアたちの忠誠などは、ここに求められてはいません。その意味では、神が一方的に宣言された契約ということになります。

 そのためなのかどうか分かりませんが、5章29節に「ノア」の名が記されてから、この契約締結の段落(9章8~17節)まで、ノア自身は全く口を開かいていません。この間、ノアが何を考え、どのように感じていたのか不明ですが、神がノアとその家族を御心に留められ(8章1節)、箱舟を出たノアが祭壇を築いて献げ物をしたことなどから、嫌々の忍従ではなく、感謝と喜びをもって神に聴き従っていたということでしょう。

 神は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われました(13節)。虹は、神と私たちの間に契約が結ばれたという証拠、契約書に押された証印のようなものです。「虹」は、原語では、「弓」(ケシェット)という言葉です。神は、「わたしの虹」(13節)と言われ、御自分の武器である弓を雲の中に虹として置いて、この地を二度と滅ぼさない、と約束されたわけです。

 さらに冒頭の句(16節)では、「永遠の契約」という言葉が用いられます。二度と滅ぼさないという約束が、永遠のものであるということです。そして、「虹が現れると・・・永遠の契約に心を留める」と言われています。虹が現れるたびに神が契約に心を留められるというのは、神が忘れっぽいというようなことではなく、繰り返し契約を思い起こす必要があるほどに、私たちが神の命に従わない、むしろ神を悲しませ、また憤らせるということでしょう。

 然るに神は、虹を見て、憤りではなく、憐れみと慈しみの心で私たちを愛し、恵みをお与え下さるのです。私たちも契約のしるしである虹を見て、主の恵みに喜びと感謝の賛美と祈りを捧げましょう。


 主よ、あなたが御心に留めて下さるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。私たちは主の御顔を拝し、御業を仰ぎます。心から御名を崇めます。御名の栄光を表わしてください。 アーメン




4月29日(日)の御言葉 「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣・・に心を留め」

「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」 創世記8章1節


 はじめに主なる神は、地上に人の悪が増したのをご覧になって(6章5節)、地上のものをすべてぬぐい去ろうとお考えになり(同7節)、洪水を起こされました(7章6節)。

 40日40夜降り続いた雨で(7章12節)洪水が起こり(同17節)、水かさを増してあらゆる高い山の上15アンマの高さにまでみなぎった水は(同19,20節)、冒頭の言葉(1節)にあるとおり、主がノアたちに心を留められて、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始め、第7の月の17日に、箱舟がアララト山の上に止まりました(4節)。動力も舵もない箱舟がアララト山に漂着したのは、すべて神の導きです。

 それから40日後、ノアは、水が引いたかどうかを確かめようと、まず烏を放します(7節)。続いて、鳩を放しましたが、止まるところを見つけることが出来ずに戻って来ました(9節)。その7日後、再び鳩を放すと(10節)、夕方になって鳩がオリーブの葉をくわえて戻り、水が地上から引いたことが分かりました(11節)。

 雨の降り始めから1年と10日後の第2の月の27日、地はすっかり乾き(14節)、神はノアに、箱舟から出よと仰せになりました(15節以下)。そこで、ノアとその家族、獣、這うもの、鳥、地に群がるものなどすべて、箱舟から出ました。(18,19節)。

 箱舟を出たノアは、主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物を献げました(20節)。「祭壇」(ミズベーハ)は、いけにえの動物を「屠殺する」(ザーバー)という言葉から来ており、聖書中に403回出て来ますが、ここで最初に用いられています。

 ノアは、そのようにすることをいつ、どこで学んだのか、あるいはそうせよと命じられたのか、詳細は全く分かりませんが、箱舟を出て飲み食いしたり、住み着く場所を探すよりも先に、神にいけにえをささげて礼拝したのです。主に従う人は、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章33節)という御言葉を実践する者であることが、ここに明確に示されているわけです。

 焼き尽くす献げ物の芳しい香りをかいだ主が語られたのが、21節です。神は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と言われました。それは、洪水を経験した人々が、徹底的に悔い改めて二度と悪を行わないという決意をしたから、などということではありません。というのは、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と記されているからです。

 「常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(6章5節)というのが、洪水によって人を滅ぼそうとお考えになった理由でした。しかし、洪水後も、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と言われるということは、人間は、洪水の前と後で何ら変わっていない、ということになります。それならばなぜ、「呪うことは二度とすまい」ということになるのでしょうか。

 その問いの答えはやはり、冒頭の「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」という言葉にあります。もしも、神がノアとその家族に目を留め、心を留めて下さらなければ、カルヴァンが言うように、人間の心に思い計る悪のゆえに、毎日洪水によって神の裁きを受けなければならないでしょう。

 義なる神の御前に、自分一人で立つことの出来る人間など、存在しません。皆、神の憐れみを必要としています。即ち、神が、その憐れみによって私たちに御心を留めて下さるのでなければ、誰も生きられないということです。

 それは、ノアにとってもしかりです。神がノアを御心に留められ、風を吹かせられたからこそ、水が減り始めたのです(1節)。そうでなければ、永遠に大水の上を漂っていなければならなかったのかも知れません。

 時折、私たちの周りで、思いがけない出来事が起こります。災害に見舞われる人がいます。悲惨な事件に巻き込まれる人がいます。それはしかし、神の呪いや罰などではありません。神は、「呪うことは二度とすまい」と仰ったからです。むしろ、神はその被害を蒙った人やその家族を心に留め、愛のまなざしを向けて下さるのです。
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 忍耐と慰めの源であり、また希望の源である神に信頼し(ローマ書15章5,13節)、導きに従って共に歩みましょう。

 主よ、私たちにキリスト・イエスに倣って同じ思いを抱かせ、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせて下さい。どんな時にも、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせて下さるように。 アーメン




4月28日(土)の御言葉 「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し」

「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った。」 創世記7章20節


 主なる神はノアに、「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」(1節)と言われました。ここに、ノアとその家族が箱舟に乗り込める理由が語られ、それは、ノアが主に従う人だと主から認められているからであると示されています。ということは、ノアの妻子や嫁たちは、ノアの信仰によって救われるということになります(使徒言行録16章31節も参照)。

 命じられたとおり、ノアとその家族、動物たちが箱舟に乗り込んだ後、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされ」ました(16節)。主が門番となり、主に認められた者以外は箱舟に入れず、そして、計画通りに乗り込みが終了した後、主がその戸を閉ざしてしまわれました。主がご自分の権威をもって、堕落の道を歩んでいる者たち、彼らによって不法に満ちているこの地を滅ぼしてしまおうとされているのです(6章11節以下)。

 箱舟に乗り込めなかったものは、襲ってきた洪水によってことごとく死んでしまいました(21節以下)。ここに、定められた「とき」の厳粛さを思います。

 第二コリント書6章2節に、「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」と記されています。ここに、「恵み、救い」という言葉が語られるということは、恵みがなければ生きられないというか、救いを必要とする状況があるとも考えられます。

 神の恵みがあるようには見えない、神の救いの御手が伸ばされているとは思えない状況だけれども、今こそ神を信頼して、手を伸ばそう、心を開き、神を信じよう、今、神は恵みを与え、救いをもたらして下さるというメッセージであるように思います。そして、神の救いの招きは、いつまでも無限にあるわけではない、戸が閉ざされる「とき」が来るということです。

 戸が閉ざされて一週間、ノアたちは雨が降るのを待ちました(4節)。ノアたちが箱舟に入り、戸が閉ざされたのを見届けた他の人々は、一向に雨が降り出さない、洪水が起こらないというので、ますますノアたちを馬鹿にしたことでしょう。舟に乗り込んだノアの家族にも動揺があったかもしれません。

 けれども、一週間後、「大いなる深遠の源がことごとく避け、天の窓が開かれ」ました(11節)。40日40夜雨が降り続き(12節)、洪水が地上を襲いました(17節)。舟の中の者は守られましたが、船に乗らなかった者は息絶えてしまいました。神の恵みを無駄にしないようにしましょう。

 雨が降り続き、押し寄せた洪水は箱舟を押し上げ、箱舟は水の面に浮かびました。水は地の上にみなぎり、すべての山は覆われました。どこにも地を見ることが出来なくなりました。冒頭の言葉(20節)に、「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った」と記されています。一番高い山の上、「15アンマ」、即ち6.75メートルの高さに水面があるということです。

 この記事、考えてみると実に不思議な言葉です。そもそも、あらゆる高い山の上15アンマに水面があるという言葉に、どんな意味があるというのでしょうか。そして、それをいったい誰が測ったのでしょうか。

 勿論、意味のないことが聖書に記されているはずはありません。この状況で水の深さを測ることが出来るのは、神とその御使いたちだけです。神が無意味なことをされるはずがありません。

 箱舟は、高さが30アンマでした(6章15節)。喫水線は舟の中央よりも上にあるはずですから、水面から一番高い山の頂上までの水深が15アンマであるということは、箱舟がそこにさしかかれば、舟の底が山頂に引っ掛かるということです。主なる神は、初めから水の量を測って、ちょうど舟が山の上に止まるようにされたわけです。

 8章4節に、「箱舟はアララト山の上に止まった」と記されています。水が引いたら、たまたまイスラエルの人々が知っているこの地方の最高峰(標高5,144メートル)のアララト山だったというのではなく、初めからきちんとそこに漂着するように、主は計算しておられたということなのです。

 私たちの目に事柄がどのように見えているとしても、神は絶えずそこで私たちに配慮して最善のことをなし、私たちを恵みへ、救いへ導こうとしていて下さるのです。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝致します。あなたはいつも最善のことをなしておられ、最善以下のことはなさらないと信じます。慈しみの御手の下に絶えず私たちを守り導いて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン






4月27日(金)の御言葉 「神に従う無垢な人」

「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」 創世記6章9節


 主なる神は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって(5節)、人を造ったことで心を痛められました(6節)。11,12節にも、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なるものはこの地で堕落の道を歩んでいた」と記されています。

 そこで神は、人を地上から拭い去ろう、という決意をされました(6,13節)。それは、「地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるもの。天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」(17節)と記されているとおり、地球大規模の大洪水をもって人を根絶やしにするというものでした。

 しかしながら、神は実際に滅ぼし尽くされはしませんでした。8節に、「ノアは主の好意を得た」とあり、14節以下で、ゴフェルの木の箱舟を作るように、主から命じられています。この箱舟で、ノアとその家族は洪水を逃れるのです。

 箱舟は、長さ300アンマ(約135メートル)、幅50アンマ(約23メートル)、高さ30アンマ(約14メートル)というのですから、単純計算で総排水量が4万トンを越えるという、とてつもなく大きなものです(15節)。

 その箱舟の内部は、3階建てになっており(16節)、そして、各階ごと、小部屋に仕切られ、内外にタールが塗られます(14節)。これは、どこか一箇所に穴が開き、浸水しても、すぐには舟が沈まないようにするための工夫で、現代の船の建造にも通用するものです。

 この船の大きさから考えると、神は、ノアとその家族だけを洪水から守りたいと考えておられたのではなく、もっと多くのものを救いたいと考えておられたのではないでしょうか。ノアが主なる神の好意を得られたのは、冒頭の言葉(9節)のとおり、「神に従う無垢な人」であり、「神と共に歩んだ」からです。

 ここで、「神に従う」は、原文では「正しい」(ツァッデx-ク)という言葉が用いられています。神との正しい関係ということで、それを、「神に従う」と意訳しています。「無垢」は、原文で「公平な、完全な」(ターミーム)という言葉が用いられています。これは、ノアには罪がないとか、完全無欠な人物というのではなく、神によって御心に適う者として受け入れられたということでしょう。

 つまり、主なる神は初めから、誰かに好意を得させようと決めておられたということです。そして、もっと多くのものを救いたいと考えられていたわけです。ここに、神の愛と憐れみが示されています。

 ここには全くその記述はありませんが、あるいは、ノアとその家族は、神に命じられて巨大な箱舟を建造する傍ら、周囲にいる人々に向かって、「主が洪水でこの地上を滅ぼし尽くすことに決められましたた。私たちと一緒に、この箱舟を造って乗り込み、生き延びられるようにしましょう」と訴えていたのではないでしょうか。

 けれども、ノアの言葉に耳を貸し、箱舟造りに協力したり、一緒に舟に乗り込もうという人は、残念ながら一人もいませんでした。だからこそ、滅びを刈り取ることになるわけですね。

 ノアたちの行動は、周囲の人々には全く理解出来ないことだったわけです。恐らく、人々はノアの言葉に耳を傾けなかったというだけじゃなく、悪口雑言を浴びせ、嘲笑したのではないでしょうか。そのとき、私がノアの立場であれば、逃げ出したかもしれません。人の嘲りや侮辱に、到底耐えられないからです。

 22節に、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」と語られているとおり、ノアは神に徹底的に従いました。ヘブライ書11章7節にも、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と記されています。

 この世に倣わず、むしろ心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにならせていただきましょう(ローマ書12章2節)。


 主よ、あなたのご愛に感謝致します。あなたは救いを御子において成就され、御子を信じる信仰によって、救いの恵みに与ることが出来るようにして下さいました。私たちを聖霊で満たし、いつでもどこでも大胆に福音を宣べ伝えることが出来るようにして下さい。 アーメン






4月26日(木)の御言葉 「ノア(慰め)と名付けた」

「彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」 創世記5章29節


 5章には、アダムの系図が記されています。1,2節に、「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された」とあり、これは、1章27節の言葉を思わせます。2節後半に、「創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」とありますが、口語訳、新改訳は、「神は彼らを祝福して、その名をアダムと名付けられた」と訳しています。

 これは、「アダム」という言葉が、普通名詞として「人」と訳されたり、固有名詞として「アダム」と訳されたりしているためです。そのことで、1995年9月に、小林洋一先生が、「人はいつアダムになるのか―創世記1~5章における「アダム」の訳をめぐって―」という論文を書いておられ、とても興味深いものです。

 次いで3節に、「アダムは130歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と言われます。アダムが神にかたどって造られたように、セトがアダムにかたどって造られたというわけですから、セトも神にかたどって造られたということでしょう。4章のカインの系図のところにこの表現が出ないのは、神をかたどるということが、神の御心に従うことを示しているからではないでしょうか。

 1,2節に見る神の御心とは、神に似せて男と女に創造されたということから、男と女が一つになること、そして命を生み出すことにあると思われます。ところが、兄カインが弟アベルの命を奪って、神のかたちを失ってしまったということだろうと思われます。

 4章のカインの系図と、5章のアダムの系図を並べてみて目につくのは、双方に登場するレメクという人物です。

 4章では、レメクが妻に、「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(4章23,24節)と言います。ここで、レメクが人を殺すのは正当防衛であり、そして、受けた傷害の77倍も徹底的に復讐すると宣言されます。この言葉から、カインの兄弟殺しも、謂わば正当防衛、あるいは蒙った被害の報復だったと言おうとしているようにも思われます。

 それに対して5章では、冒頭の言葉(29節)のとおり、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、レメクは生まれた子に「ノア(慰め)」という名をつけます。

 「主の呪いを受けた大地で働く」とは、アダムが神の命に背いたために、土が呪われ、収穫を得るために労苦しなければならなくなったということです(3章17節以下)。生まれた子が彼らを慰めるとは、癒しをもたらす者になるということでしょう。

 「ノア」とは、「休息」という意味です。呪われた大地で苦労している人々に休息を与えて労うといった役割を果たすように、期待されているわけです。それはしかし、当然のことながら、ノアに大地の呪いを解く力があるということではありません。

 ローマ書15章5節に「忍耐と慰めの源である神」とあり、また、第二コリント書1章3節には「慰めを豊かにくださる神」という言葉があります。つまり、神ご自身が慰めに満ち満ちているお方であり、人々に慰めを与えるため、ノアを授けられたということなのです。

 ノアは、「神に従う無垢な人」であり、そして、「神と共に歩み」ました(6章9節)。アダムが神に背いて大地が呪われましたが、10代目の子孫ノアが、神と共に歩んで、大地に休息と慰めをもたらすのです。

 「神と共に歩む」のは、ノアの専売特許ではありません。アダムから数えて7代目のエノクも、神と共に歩んだと言われます(22,23節)。エノクについては、「神が取られたのでいなくなった」と言われます。後に、ヘブライ人への手紙11章5節で、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。髪が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです」と言われます。

 神に背いてエデンの園から追い出されたアダムの子孫が、神と共に、神に従って歩んだとき、神の御国にそのまま引き上げて頂いたというわけです。神と共に歩むということが、救いをもたらすというのは、新約で主イエスがインマヌエル(=神共にいます)と唱えられる(マタイ福音書1章23節)ということからも示されます。


 忍耐と慰めの源である神様、私たちに慰めを与えようと、御子イエスを遣わし、また、聖霊を遣わして下さいました。キリストを心の王座にお迎えし、力と愛に満たされ、委ねられている主の御業に励む者とならせて下さい。全世界に主の慰めと平和が豊かにありますように。 アーメン





4月25日(水)の御言葉 「弟の血が土の中から叫んでいる」

「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる』。」 創世記4章10節


 1節に、「アダムは妻エバを知った。エバは身ごもってカインを産み」と記されています。「知る」(ヤーダ)という言葉は、客観的な知識を得ることではなく、出会いの中で認識する、知り合うということを指します。そこから、この箇所のように、夫婦の性を伴う深い交わりを表すようにもなりました。

 禁断の木の実を食べた後、罪をなすり合っておかしくなっていただろう二人の関係が(12節以下)、その罪を皮の衣で覆ってもらい、回復していたのです。そして、エバは身ごもり、長男のカインを産みました。「カイン」という名詞の意味は不明ですが、聖書は、「得る」(カーナー)という言葉に由来するものと紹介しています。

 善悪の知識の木の実を食べることは、それを禁止された主との関係、そして、「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2章23節)と喜んでいた夫婦の関係を壊し、大切なものを失わせました。しかし、主はその罪を贖い、夫婦が深く交わり、知り合うことをとおして、二人に大切なものを得させたのです。

 続いて、弟アベルも生まれました。そして、アベルは羊を飼う者になり、兄のカインは土を耕す者となりました(2節)。弟アベルを先に紹介することが、次の節の導入となっています。時が経ち、兄カインは土の実りを主への献げ物とし(3節)、弟アベルは肥えた羊の初子を献げ物としました(4節)。

 何故か、主は弟の献げ物に目を留め、兄のものには目を留められませんでした(5節)。その根拠は明言されていませんが、献げ物の優劣や、あるいはまたアベルが宗教的・倫理的に優れているということではありません。

 ここに示されているのは、「アベル」という名前です。「アベル(原典ではヘベル)」とは、「息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値、虚無」といった意味です。つまり、神は貧しい者、無価値な者、弱い者、小さい者を敢えて選ばれたということです(申命記7章6節以下、第一コリント書1章26節以下)。

 しかしながら、自分の献げ物が目を留められなかったと知った兄は、激しく憤り(5節)、ついに弟を襲って殺してしまいます(8節)。そのとき、兄の心を支配していたのは、自分の献げ物を顧みなかった神への憤りと、弟への嫉妬の念です。

 彼の憤り様を見ると、その献げ物は最上のものだったはずです。兄は、神のなさり方に合点がいきませんでした。神は間違っている、自分の方が正しいと考えていたのです。しかし、そこに罪が待ち伏せしています(7節)。

 神は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われましたが(1章28節)、兄は命を奪う者となってしまいました。主なる神がカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」と尋ねると、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます(9節)。これは、私が羊の番人をしている弟の番人をしてやらなければならないのか、そんな責任はないだろうという表現です。

 しかし、「わたしが弟の番人だとは知らなかった」と訳すことも出来ます。そうすると、弱い、はかない存在の弟を守ってやるべき責任が自分にあったことを知らなかったと、後悔している言葉にもなります。二者択一ではなく、前者から後者へと心が動いたと考えてもよいでしょう。

 そのとき冒頭の言葉(10節)で主は、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われました。ここで、「血」は複数形で記されており、まるで、地に流された血の一滴一滴が叫んでいるかのようです。そして、「今、お前は呪われる者となった」(11節)と語られます。血が、兄の呪いを語っていたのでしょう。

 9章5節に、「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」とあり、兄の命を要求したとも考えられます。

 しかし、神はカインの命を要求されず、むしろ彼を守るしるしをつけられます(15節)。「主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住」む(16節)というのは神の裁きでしょうけれども、そこにも神の恵みがあるのです。

 ヘブライ書12章24節に、「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とあります。キリストが十字架で流された血がアベルの血よりも立派に語ると言われるのは、それが罪の赦しを語るからです。神の御心は、私たちが救われることにあるのです。


 主よ、あなたが私たちの内に住まわせておられる聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれています。常に御霊に満たされて、互いに愛し合い、赦し合い、祝福し合う心で日々歩むことが出来ますように。 アーメン





4月24日(火)の御言葉 「皮の衣」

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」 創世記3章21節


 エデンの園に蛇が登場し、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、女に尋ねました(1節)。女は蛇に、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えます(2,3節)。

 このやり取りは、単なる情報交換、事実の確認などではありません。蛇は女に、神様は悪いけちん坊なお方、大切なものを人には決して下さろうとしないという考えを吹き込み、自分に従うほうが得だと唆すのです。「園のどの木からも食べてはいけないと言うとは、神は何とけちんぼじゃないか」と、蛇が神を非難したのに対して、女は神を弁護しようとして、上記(2,3節)のように答えたのです。

 ここで、「園の木の果実を食べてもよいのです」とは、神様は決してけちんぼではないということであり、「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」とは、神は親切で、私たちのことを心配して下さるよいお方なのだ、という言葉なのです。

 ところが、それを聞いた蛇は、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」(4,5節)と言い、やはり神はケチで、賢くなる木の実を食べさせたくはないのだと告げると、その言葉ですっかりその気にさせられた女は、蛇の言葉に従って、食べるなと言われた木の実を食べてしまい、さらに、アダムにも食べさせます(6節)。

 その結果、二人の目が開け、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆いました(7節)。これが、神のように善悪を知る者となり、賢くなったということでしょうか。そうではありません。彼らは、神の御言葉に背いたためにその庇護を失ったということであり、また、蛇も彼らを守ってはくれないので、自分で自分を守らなければならない羽目に陥ったということです。

 その上、神の足音を聞くと、神を恐れて木の間に姿を隠さなければならない有様です(10節)。神は、「どこにいるのか」と、隠れているアダムを呼ばれました(9節)。これは、アダムの隠れ場所を探しておられたということではないでしょう。

 むしろ、「なぜ、隠れているのか」という意味です。エデンの園を耕し、守るように神の使命を与えられているアダムです(2章15節)。神の足音が聞こえたのですから、当然、神の前に立っているはずでしょう。それなのに、その務めを放棄して、なぜ神の前から身を隠してしまわなければならなくなっているのか、ということです。

 「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)という神の問いに、アダムは素直に「はい、そのとおりです。ごめんなさい」とは言わず、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えます(12節)。神様が女を下さらなかったら、食べなかったのに、という物言いです。

 それは、女も同様でした(13節)。責任転嫁して反省しないアダムらに下されたのは、彼をエデンの園から追い出すことでした(23節)。そして、ケルビムときらめく剣の炎を置いてエデンの園を守られます(24節)。つまり、神との関係が断絶してしまったのです。そのように関係が断絶することを、死と言ってもよいでしょう。パウロが、「罪の支払う報酬は死です」と言っているのは、そのことです(ローマ書6章23節)。

 しかしながら、それは永遠の裁きではありませんでした。神は彼らをそのまま、追放されませんでした。冒頭の言葉(21節)のとおり、神は彼らに皮の衣を作って着せられたのです。これはつまり、彼らが自分で自分の身を守らなければならないということではなく、神が彼らを守るというしるしです。

 また、衣が皮製だということは、皮を剥がれた動物がいるわけです。神が人を守るための衣を作るのに、動物が犠牲となったということ、その贖いの死によって、彼らの罪が赦されたということです。ここに、キリストの贖いの予表があります。つまり、アダムとエバの罪を赦したのは、キリストの十字架の贖いのゆえである、ということです。

 主の恵みに感謝し、日々主の御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちの耳を開いて下さい。常に御言葉の恵みが開かれますように。聖霊に満たして下さい、。導きに従って歩むことが出来ますように。信仰に堅く立たせて下さい。そうして、主の御名が崇められますように。 アーメン








4月23日(月)の御言葉 「人が独りでいるのは良くない」

「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』。」 創世記2章18節


 創世記の初めからここまで、神がお造りになったものはすべて、「良し」(トーブ)という評価がなされておりましたが(1章4節、10節など、特に31節「極めて良い」)、ここには、「良くない」(ロー・トーブ)という言葉が出て来ます。これは、人が独りでいるという状態が、神の創造の目的、神の御心に適わない、満足な状態ではないということです。

 そもそも、神が人を造られたとき、ご自分にかたどり、「男と女」に創造されました(1章27節)。神のかたちとは、男と女という別々のかたちを持ちながら、それが一つになるというものでしょう。

 二人が一体となるとき、そこに主なる神が共にいて下さいます。主イエスが、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と仰ったのも(マタイ福音書18章20節)も、その消息を表わしているようです。

 そして、そこに命が産み出されます。神が夫婦の営みを通して、命を産み出す創造の業をなさるのです。別の言い方でいえば、夫婦が一つになることにより、全能の神の創造の業に参与するわけです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われたとおり(1章28節)、神は人を夫婦とし、そして家庭を作り、また社会を造り、全被造物に調和を与えるものとして創造されたのです。

 「人が独りでいる」というのは、神の御心に適わないと、最初に申しましたが、私は、地獄というのは、孤独な世界だと思います。そこは、まさに神の御心が行われない、神の御心に背いている世界です。語り合う相手がいない、助ける者がいない世界です。

 「地獄に仏」という言葉がありますが、環境がどんなに辛く厳しいものであったとしても、心通わせることの出来る家族や友がいれば、そこは地獄ではありません。むしろ、天国を垣間見ることさえ出来るでしょう。神は、この孤独な世界から私たちを救うために、「助ける者」を用意されます。

 言うまでもなく、確かに私たちは多くの助けを必要としています。私たちの周りに、美しい花、緑の野原がなかったら、川のせせらぎや木々を渡る風の音、鳥の鳴く声がなくなったら、高い山、広い海がなくなったならば、私たちはどこで心の洗濯をするのでしょうか。猫や犬をはじめ動物たちは、私たちを喜ばせ、また慰めます。神様は私たちのために素晴らしいものを用意して下さったのです。

 さらに、「彼に合う」(ネグドウ)という言葉に注目して下さい。これは、「面と向かい合って、対等な」という意味です。即ち、ここに記されている「助ける者」とは、「あなた、助ける人。私、助けてもらう人」という一方通行、ワンパターンの関係ではなく、お互いが対等に、助けたり助けられたりする関係であるというのです。

 かくて、神は人間を、互いに助け合う存在として造られました。ですから、人間は他者の助けが必要であり、そして自分も他者を助ける存在です私が誰かの助けを必要としているように、誰が私の助けを持っているのです。

 24節を見ますと、神はこの助け合う関係を、結婚の関係と結びつけて教えておられます。男女がそれぞれ、親の愛情を一杯に受けて成長し、やがて二人が出会い、結婚します。

 私たちはこれまで、多くの愛を受けて来ました。親の愛、家族の愛、友の愛などです。これらの愛に恩返しが出来るでしょうか。もしその方法があるとすれば、それは二人が真実に愛し合い、幸せな家庭を築くことでしょう。愛されて愛を学び、人を愛する人間になることです。出来上がった完全な人間はいません。初めから完璧な夫婦など、いません。

 「家庭は裁判所ではなく、愛を学ぶ学校だ」と語られた方がありますが、確かに互いの欠点をあげつらい、裁き合うというのではなく、一生をかけて相手を愛することを学ぶのが、夫婦だと思います。

 助け合う、愛するとは、甘え合う、もたれ合うというものではありません。自立して、互いの責任をしっかりと担い、呼吸を合わせ、心を一つにすることです。私たちが真の夫婦になるためには、一生、努力を続ける必要があるでしょう。

 原語の「助ける者」は「エゼル(=助け)」という名詞で、特に、助け主としての神様を指して用いることが圧倒的に多い言葉です。私たちを助けるために、美しい自然、動物を造り、また相応しいパートナーを私たちに与えて下さった神様こそ、まさにこの聖書が教えるまことの「助ける者」です。

 御言葉に耳を傾け、目には見えなくても、私たちの家庭を守り続けて下さる神様を信頼し、どんなことにも、皆でお互いに心を合わせ、どんなことにも皆がお互いに力を合わせ、立ち向かって参りましょう。


 主よ、私たちはあなたから多くの愛を受けて来ました。ご愛に応える生き方をしたいと思います。上よりの知恵と力に満たして下さい。宣教の働きが前身、拡大しますように。 アーメン





4月22日(日)の御言葉 「『光あれ。』こうして、光があった」

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇をわけ、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」 創世記1章3~5節


 今日から、創世記を読み始めます。これを機に、聖書を通読する習慣を身に着ける方々が一人でも多く起こされるよう、主の恵みと導きを祈ります。

 「創世記(Genesis)」という書名は、ギリシア語の「ゲネシス」(初め、起源の意)からつけられたものです。ヘブライ語原典では、1章1節冒頭の「べ・レシート(in beginning=初めに)」がそのまま書名になっています。

 創世記は、続く出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と共に、「トーラー(律法の書)」に分類されます。トーラーは、伝統的にモーセによって書かれたと考えられていて、モーセ5書という呼び方もあります。ただし、学者によれば、E典(エロヒーム文書)、J典(ジェホバ文書)、P(祭司文書)という主要な文書、資料によって造り上げられたと考えられています。

 さて、神が初めに造られたのは、冒頭の言葉(4節)のとおり、「光」でした。神が「光あれ」と言われると、光が出来たということですが、勿論、日本語で言われたわけではありません。もしかすると、それは、人間が理解出来る言葉ではなかったのかも知れません。

 6節で、神は、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われましたが、7節には、「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」と記されています。まるで、ご自分の言葉に従って、大空を「手で」造られたかのような表現です。

 その意味では、1章を、神が言葉だけで世界を造られたと解釈するのは、正確ではないのではないでしょうか。むしろ、天地万物を創造されることが神の御意志だった、世界のすべては神の作品であるということを言い表そうとしている文章と読むべきでしょう。

 光が造られたことで、一日の始めと終わりが出来ました。けれども、この光は、太陽光ではありません。太陽は、14節で「天の大空に光る物」、「(二つの大きな光る物の)大きな方」と呼ばれています。そして、それは第四の日に造られました。

 エジプトをはじめ、太陽や月を神として礼拝する国が周辺に多くある中で、聖書は、太陽も神の被造物にすぎず、神の創造の目的に従って用いられたものである、と語っているわけです。強いて言えば、「昼と夜を分け、季節の記し、日や年のしるしとなれ」という言葉を、神が造った日や月や季節、年といった秩序が乱れないように監視する使命が与えられたものと読むことも出来るでしょう。

 神は、「闇」を造られたわけではありませんが、光の創造される前の光のない世界は、真っ暗闇でしょう。しかし、神は光を造って闇を全く排除されたわけでもありません。「闇を夜と呼ばれた」ということは、光だけでなく、闇も神の支配下にあるということです。

 また、聖書の世界の一日は、夕べから始まります。夕方6時から一日が始まるのは、日中は暑くて仕事にならないので、涼しくなった夕方から起きて仕事を始めるためだ、と聞いたことがあります。真偽は不明ですが、いずれにせよ、夜の闇を通って明るい朝を迎えます。

 イスラエルの歴史は、430年に及ぶエジプトでの奴隷の苦しみからの解放に始まりました(出エジプト記12章40,41節)。そして、40年の荒れ野の生活を通って(民数記14章33,34節)、約束の地に定住しました。神による救いの出来事を記念して、過越祭、七週祭、仮庵祭を祝います。

 イスラエルの建国は神の恵みでしたが、愚かにも民は神に背き、アッシリア、バビロンによる国の滅亡と捕囚という苦しみを招きます(列王記下17章、25章)。しかるに神は捕囚の民を憐れみ、50年後、解放されてエルサレムに戻ることが許されます(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章)。そうして、イスラエルを建て直しました。

 夜の闇が神の支配の下にあるからこそ、朝の光を見ることが出来るわけですし、夕べと朝が交互に訪れて日を重ねていくのです。ここに、「闇を良しとされた」という言葉はありません。しかし、光を良しとされる神により、夜の闇の中で朝を期待することが出来ます。そこで希望を持つことが許されているのです。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」(イザヤ書9章1,2節)。命の光なる主イエスを仰ぎ(ヨハネ福音書1章4節8章12節など)、どのようなときにも深い喜びと大きな楽しみに与らせていただきましょう。


 主よ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることが出来ます。御言葉を通して、主イエスの御顔に輝く神の栄光を悟る光を私たちにお与え下さり、感謝致します。御名が崇められますように。 アーメン





4月21日(土)の御言葉 「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節


 今日は、旧約聖書の締めくくりの箇所です。この箇所から、神の恵みを味わいましょう。

 8節に、十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発があります。つまり、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。

 十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、すべての物の十分の一を贈ったことでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。

 また、献納物(奉納物)というのは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる犠牲の部分です(出エジプト記29章26節以下、レビ記7章31節以下など)。そして、祭司たちも、受けたものの十分の一、最上のものを神に献げなければなりませんでした(民数記18章26節以下)。1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちもその教えを守っていなかったのでしょう。

 彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、10節に、「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されています。ということは、その当時、天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。

 また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃に虫の害、まさに泣き面に蜂の状態です。

 ですから、そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。

 しかるに神は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は神のものだから、まず神の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧、と言われるのです。

 主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。

 これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるか、ということです。神の愛に対する信頼があれば、多くを献げることが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。

 ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。

 すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることは報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも報酬ではありません。

 十分の一と献納物を捧げるのは、すべてが神の所有物であると信じることです。そして、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びの表明です。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。

 主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン





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