「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約に心を留める。」 創世記9章16節
神は、箱舟を出たノアとその家族を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(1節)と語られます。これは、神が最初に人類を創造されたときに祝福して言われた言葉(創世記1章28節)とほぼ同じです。ここに神は、洪水後、世界を改めて祝福され、神の御旨にかなう、「極めて良かった」(1章31節)と評価される世界を、再創造されたということになります。
ここで、もともと人と動物に与えられていた食物は、木の実や青草だけでしたが(1章29,30節)、9章では、初めて肉食が許され、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(3節)と言われています。
これは、かつてアダムと女を守り、生かすために動物が屠られ、その皮で衣を作って着せられたように(3章21節)、人は、他の生き物の命によって支えられ、生かされているということです。
ただし、肉食は許されますが、「命である血を含んだまま食べてはならない」(4節)と、注意書きがついています。「命である血」で、命と血は同格です。つまり、血は、命そのものと考えられているのです。
レビ記17章11節には、「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。動物の肉を食べることは許されましたが、血は命そのものとして、それを創られた神に属していて、人がそれを侵すことは許されません。屠った動物の血を神に献げることで、贖いをしているというわけです。
ですから、人が屠った動物の血を飲むことは許されませんし、人の血を流し、その命を奪うことも、勿論許されません(5節以下)。これは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を食するのが禁じられたことと同じく、神の主権に関わる事柄なのです。
ノアの家族の祝福の言葉に続き、神は、契約の言葉を語られます(8節以下)。神は、6章18節で、「わたしはあなたと契約を立てる」と言われていました。ここに来て、その調印が行われるのです。契約の内容は、「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(11節)というものです。
これは、神がノアたちに保護を約束するもので、神に対するノアたちの忠誠などは、ここに求められてはいません。その意味では、神が一方的に宣言された契約ということになります。
そのためなのかどうか分かりませんが、5章29節に「ノア」の名が記されてから、この契約締結の段落(9章8~17節)まで、ノア自身は全く口を開かいていません。この間、ノアが何を考え、どのように感じていたのか不明ですが、神がノアとその家族を御心に留められ(8章1節)、箱舟を出たノアが祭壇を築いて献げ物をしたことなどから、嫌々の忍従ではなく、感謝と喜びをもって神に聴き従っていたということでしょう。
神は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われました(13節)。虹は、神と私たちの間に契約が結ばれたという証拠、契約書に押された証印のようなものです。「虹」は、原語では、「弓」(ケシェット)という言葉です。神は、「わたしの虹」(13節)と言われ、御自分の武器である弓を雲の中に虹として置いて、この地を二度と滅ぼさない、と約束されたわけです。
さらに冒頭の句(16節)では、「永遠の契約」という言葉が用いられます。二度と滅ぼさないという約束が、永遠のものであるということです。そして、「虹が現れると・・・永遠の契約に心を留める」と言われています。虹が現れるたびに神が契約に心を留められるというのは、神が忘れっぽいというようなことではなく、繰り返し契約を思い起こす必要があるほどに、私たちが神の命に従わない、むしろ神を悲しませ、また憤らせるということでしょう。
然るに神は、虹を見て、憤りではなく、憐れみと慈しみの心で私たちを愛し、恵みをお与え下さるのです。私たちも契約のしるしである虹を見て、主の恵みに喜びと感謝の賛美と祈りを捧げましょう。
主よ、あなたが御心に留めて下さるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。私たちは主の御顔を拝し、御業を仰ぎます。心から御名を崇めます。御名の栄光を表わしてください。 アーメン