風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年03月

3月31日(土)の御言葉 「すべてのものを一掃する」

「わたしは地の面から、すべてのものを一掃する、と主は言われる。」 ゼファニヤ書1章2節


 本書の著者、預言者ゼファニヤは、「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」に活動しました(1節)。ヨシヤの治世は、紀元前640年から609年です。ゼファニヤ書が著わされたのは、預言の内容から、ヨシヤ王が徹底的な宗教改革を行う紀元前622年よりも前、630年ごろのことではないかと思われます。

 これは、イザヤやホセア、アモス、ミカという預言者が活動した紀元前700年代から半世紀以上たっていて、その間には預言者の活動は記録されていません。ですから、ゼファニヤは待ち望まれた預言者ということが出来るでしょう。

 ゼファニヤについて、本書に記されている以外のことは不明です。「クシの子ゼファニヤに臨んだ言葉」と記した後、他の預言書とは異例の、「クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子」と、預言者の4代前に遡る系図が記されています。

 「ヒズキヤ」は、ユダの王ヒゼキヤと綴りは同じです。新共同訳がこれを「ヒズキヤ」と読ませているのは、ヒゼキヤ王とは別人と考えていることを示しているものと思われますが、ゼファニヤがヒゼキヤ王の血筋か否か、はっきりとした証拠は何もありません。

 王の血筋であれば、ヒゼキヤによって進められた宗教改革が、その子マナセの代に頓挫し、北イスラエルと同じく神に背き、滅びの道を進んでいることに、王家の血を引く者として、痛みをもって預言しているということになります。

 ヨシヤが王となったのは8歳です(列王記下22章1節)。当然のことながら、およそ、国を統治する力があったとは思われません。ヨシヤの父アモンは2年間、国を治めましたが、謀反によって殺害されてしまいます。

 アモンの父マナセは、12歳から55年ユダを治めました。イスラエル史上最も長く国を治めた王でした。しかしその治世は、アッシリアの強大な力によって政治的に隷属させられているような状態であり、そのためもあってか、マナセは父ヒゼキヤとは違って信仰的に堕落してしまっていました。

 そこに預言者ゼファニヤが登場して、このままでは、天地万物を創造された神が憤られて、冒頭の言葉(2節)にあるとおり、すべてのものが破滅してしまう、と警告したのです。

 特にここで問題とされているのは、バアル神や天の万象を拝む偶像礼拝(4,5節)、主に誓いを立てながらマルカム神にも誓いを立てるという二心(5節)、そして、主に背き、主を求めようとしない不信仰(6節)です。ここで、「マルカム」とは、王という意味のアンモン人の神ミルコムのことと考えられ(列王記上11章5節)、また、モレクと同義でしょう(同11章7節参照)。

 レビ記20章に「死刑に関する規定」がありますが、最初に、「自分の子をモレク神にささげる者」が登場して来ます(同2節以下)。そう規定されるということは、イスラエル国内において、その問題が深刻だったということを示しているわけです。つまり、北イスラエルが偶像礼拝の罪のゆえにアッシリアに滅ぼされたわけですが、南ユダは,その歴史から何も学ばなかったということです。

 冒頭の言葉(2節)の、「すべてのものを一掃する」という主の言葉を、どのように聞くことが出来るでしょうか。ユダの人々がこの言葉を聞き流し、なおも不信仰の罪を続けるなら、語られたとおりに裁きを受けることになります。いわばこれは、イエローカードです。

 ニネベの町が預言者ヨナの宣教によって徹底的に悔い改めたとき、神はニネベを憐れみ、災いを下すことをやめられました(ヨナ書3章)。そして、ユダの王ヨシヤも、この預言者の活動の中で信仰に目覚め、紀元前622年に宗教改革を断行しました(列王記下22章3節以下、23章)。

 ここに、偶像礼拝と二心、不信仰の芽は取り除かれたように見えます。しかし、その根っこはかなり深いところにあって、そう簡単に一掃することは出来ません。ヨシヤの死後、その子ヨヤキムは、「先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」と言われるとおり(同23章36,37節)、再び芽を出し、国中にはびこって行きました。

 結局、先に北イスラエルが滅びたように、南ユダもバビロンによって滅びを刈り取らねばならなくなってしまったのです。

 主よ、私たちを憐れんで下さい。私たちの中に、苦い根が蔓延しています。主に従いたいと願いながら、二心があります。モノに心が惹かれます。いつも主を求め続けることが出来ません。私たちの心を深く耕して下さい。悪の根を一掃して下さい。私たちに清い心、新しく確かな霊を授けて下さい。 アーメン



3月30日(金)の御言葉 「わたしは主によって喜び」

「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」 ハバクク書3章18節
 

 1節に、「預言者ハバククの祈り」という表題がありますが、これは祈りというよりも、むしろ賛美です。「シグヨノトの調べに合わせて」という言葉や、「セラ」という記号が3回出てくること、最後の「指揮者によって、伴奏付き」と記されている言葉などから、これはまさに、詩編の詩のようなものといってもよさそうです。

 「シグヨノト」は、アッカド語との関連で「悲しみの歌、挽歌」という意味ではないかと、聖書辞典に記されていましたが、何故そのような解釈になるのか、よく分かりません。詩の内容が、悲しみというものではないからです。

 ハバククは、神の助けを求めて叫びました(1章2節)。その叫びに、神はお答えになりました(1章5節以下、2章)。さらに、神がハバククに語りかけ、あるいは幻を見せられたのでしょう。それは、「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる」というものでした(3節)。

 「テマン」とは、エドム人の一部族ですが(創世記36章11節)、エサウの長子の長子ということで、その名でエドム全体を指すこともあります(アモス書1章12節)。「パラン」とは、シナイ半島の中央部に広がる荒れ野のことですが、申命記33章2節との関連で、「パランの山」とはシナイ山のことではないかと考えられます。

 かつてイスラエルの民は、シナイ山で神の臨在に触れ、契約の板を授かりました。そのことについてここで言及されるということは、神がイスラエルを憐れみ、再びイスラエルの民に顕現され、救いを示して下さるということです。

 13,14節に、「あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。あなたは神に逆らう者の屋根を砕き、基から頂に至るまでむき出しにされた。あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き、彼らを嵐のように攻められた」と記されていますが、これが、神がハバククに見せられた幻でしょう。

 2章2節で、「幻を書き記せ」と言われたとおり、その言葉に従って、ハバククはここに記しています。この幻が、何時どのようにして実現するのか、まだ分かりません。そのような兆しがあるわけでもありません。むしろ、ハバククの目には厳しい現実が見えます。「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」のです(17節)。

 これは、天変地異による不作と考えることも出来ますが、あるいは1章6節で語られているカルデア人に蹂躙された結果、田畑を耕すことも家畜を養うことも出来なくなる、と考えることも出来るでしょう。その意味では、不法がはびこり、暴虐が地に満ちている上に、バビロンによる破壊、捕囚が襲うということは、まさに「泣き面に蜂」というところです。

 けれども、冒頭の言葉(18節)にあるとおり、「しかし」です。現実がどうであれ、予見される状況がどうであれ、「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」ことが出来るのです。

 先には、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と訴えていたハバククです。しかし、ハバククは今、神の幻を見ました。神に逆らう者、暴虐をなす者に災いが下され(2章5節以下)、イスラエルの民に神がご自身を現わされるという幻です。今や、ハバククは勝利の主を信じて喜ぶことが出来ます。

 これこそ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(第二コリント書4章18節)、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(同5章7節)とパウロが語っているところであり、ヘブライ書の記者が、「信仰とは、望んでいること事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ書11章1節)と記していることでしょう。そして、主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源なのです(ネヘミヤ記8章10節)。


 主よ、御言葉を感謝します。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」。常に信仰に立ち、御言葉に従うことができますように。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰で歩ませてください。 アーメン




3月29日(木)の御言葉 「神に従う人は信仰によって生きる」

「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 ハバクク書2章4節


 預言者ハバククの、「それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに」(1章13節)という問いに対して、2章にその答えが記されています。

 神はまず、「定められた時のために、もう一つの幻があるからだ。それは終わりのときに向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と言われました。つまり、悪をなす者は必ず神に裁かれるというのです。

 けれども、それはハバククが考えているようなタイミングでやって来るということではないようです。神は、「幻を書き記せ」と言われました(2節)。これは、神の言葉がすぐには実現しないということを意味します。だから、幻が実現したとき、それが予め語られていた神の預言の成就であるということがすぐに分かるように、書き記されるのです。

 しかしながら、「走りながらでも読めるように」とも言われます。つまり、その成就は遠くはないこと、実現に向かって走り出していることを示しています。

 神は、一つ一つの事柄を実行するのに、「時」を定めておられます(3節)。それは、もっとも相応しいと神がお考えになる「時」、タイミングということです。「たとえ、遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と言われる神のタイミングです。

 コヘレトの言葉に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(同3章1節)という言葉があるのを思い出しました。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」(同2節)など、それぞれを神の定めた恵みの時として受け止めるようにということです。

 ですから、不法が放置されて、神は何もしておられないようにハバククが考えたのは、神のタイミングについて、理解が出来ていなかったということを示しているわけです。ハバククは今、神によって、神の「時」を待つという忍耐を学ばされているのです。

 ヘブライ書10章35,36節に、「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と記されているとおりです。神の時,神の約束の成就を待つ忍耐です。

 そして、大切な言葉が語られます。それが冒頭の言葉(4節)で、「神に従う人は信仰によって生きる」と言われています。ここで、「神に従う人」と訳されているのは「ツァッディーク」という言葉で、「義人、正しい人」という意味です。

 聖書で「正しい」、「義」というのは、神との関係を意味しています。前にも記しましたように、「義」という字は、「羊」の下に「我」を置きます。世の罪を取り除く神の小「羊」なる主イエスの下に「我」を置いて謙り、その御言葉に聴き従うとき、「義」となるのです。こうしたことから、「正しい人、義人」を「神に従う人」と意訳されたのでしょう。

 ですから、神に従う人、正しいとされた人は、高慢になりません。高慢になるのは、その心が正しくあり得ないからです。「高慢」というのは、「膨らむ」という言葉で、「自分の力を神とした」(1章11節)と言われるカルデア人の姿と重なります。それゆえ、「彼らは罪に定められる」(同節)のです。神の御前における正しさとは、神の前に謙ることなのです。

 次に、「信仰」(イェムーナー=faithfulness)です。これは、アーメンという言葉と同族の、「真実さ、忠実さ」という言葉です。神に真実に応答すること、神に忠実に従うことこそ、信仰深く歩むことであるということです。この言葉が語られたのは、彼の目に神が働いておられないように見えても、その御言葉が彼の理性で理解出来なくても、神に忠実に従うことを要求しており、そして、そのときにのみ、彼は生きることが出来ると教えているのです。

 そして、この言葉は、新約聖書において重要な意味を持つものとして、何度も引用されました。パウロは、ローマ書1章17節で、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言っています。

 また、ガラテヤ書3章11節にも、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」と記しています。人が救われ、生かされているのは神の恵みであって、人間の知恵や力などではないということです。

 どんなときにも恵みの神を信じ、神と共に歩ませていただきましょう。


 主よ、私たちの目に、問題が大きく写ることがあります。あなたが見えなくなることがあります。あなたの言葉が心に届かないことがあります。絶えず御言葉を開き、私たちを教えて下さい。約束の賜物を受け取るために、忍耐を学ばせて下さい。忍耐と慰めの源である神をほめたたえさせて下さい。希望の源である神が、喜びと平和、希望に満ち溢れさせて下さいますように。 アーメン




3月28日(水)の御言葉 「わたしはカルデア人を起こす」

「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。」 ハバクク書1章6節


 今日から、ハバクク書を読みます。ハバクク書の著者ハバククについては、彼が「預言者」(1節)であるということ以外のことは、殆ど何も分りません。実際、名前がハバククというのかどうかすら、定かではないのです。というのは、セプチュアジンタ(70人訳)と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書では、「ハンバクーム」と呼ばれているからです。

 「「抱き締める」という意味の「ハーバク」に由来する名であるとか、アラビア語の「小人」を意味する名前と主張する学者がいます。また、アッカド語の「ハンバクーク」(ハッカの一種の名前)に由来するあだ名とする註解もありますが、いずれも確証はありません。

 また、本書3章1,3,9,13,19節には音楽的な指示があるので、ハバククは実は祭司職の人であり、これは礼拝共同体のための執り成しの祈りか、預言者的な訴えを表わしているという主張もあります。3章3節以下は、賛歌の形式をもっていて、祭儀の中で歌われたと考えられます(詩篇97編参照)。

ただ、ハバククの嘆きの歌とそれに対する主の応答という形式は(2節以下,5節以下など)、単に祭儀で歌われたものというより、それらの歌を自分自身の体験に重ねて用いていますし、それは、ハバククと同時代の預言者エレミヤにも同じような表現があるため(エレミヤ書15章15節以下)、ハバククが祭司であったという確証にはなりません。

 ハバククが「預言者」と呼ばれていることは、彼がエルサレムの神殿に仕える職業的な預言者であることを示しているかも知れません。また、彼が語っている内容から、その活動の時期は紀元前620年以降だろうと思われます。であれば、ハバククは預言者エレミヤやナホムとほぼ同時代に、幻の中で神の託宣を受けて、南ユダ王国の民に伝える務めを果たしたということになります。

 預言者ハバククはまず、「わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と神に訴えるところから始めます(2節)。それは不法が行われているのに、神がその悪を放置しておられるように見えるからです。

 ここで、「不法」と呼んでいるものは何か、具体的なことは分りません。恐らく、ハバクク自身が味わった不法があり、神がそれを解決して下さると期待していたのだけれども、声を上げて神に助けを求めても、一向に音沙汰がない。神は私の祈りを聞いて下さるのだろうかといぶかり、むしろ、神は祈りを聞いて下さらない、だから、「神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(4節)と嘆いているのです。

 それに対して神は、冒頭の言葉(6節)のとおり、カルデア人を起こすと答えられました。カルデア人とは、バビロニア帝国のことです。カルデア人は紀元前612年にアッシリアの首都ニネベを陥落させ、前605年にはカルケミシュの戦いでエジプト軍を撃ち破り、アッシリアを滅亡させました。そして、パレスティナの覇権を握るようになるのです。つまり、「カルデア人を起こす」というのは、カルデア人によってイスラエルの悪を打つということです。

 この答えはハバククを驚かせました。期待していた答えとは全く違っていたのです。ハバククは、イスラエルの不法が取り除かれることを期待していました。ところが、神が起こしたバビロニア帝国は、神ご自身が、「冷酷で剽悍」(5節)、「暴虐を行う」(9節)と言われています。

 ですからハバククは、「欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分よりも正しい者を飲み込んでいるのに」といって(13節)、イスラエルの不法を裁くのに、さらに悪いバビロニア帝国を立てるのは何故かと問うのです。

 これは私たちの理屈では計れません。ただ、「わたしはカルデア人を起こす」という言葉に福音を聞くとするならば、それは、カルデア人が起こるのは、彼らの凶暴さ、強大さなどのゆえではないというところです。確かに彼らは強く、しかも暴虐を行うけれども、しかし、それを神が許されているということです。その凶暴さ,強大さがイスラエルの不法を打つために用いられるのです。

 そして、それによりイスラエルが神の御前に謙り、礼拝の民として整えられることが期待されます。だからこそ、エレミヤが「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と語ることが出来るのです(エレミヤ書29章11節)。

 この苦難を通らなければ開かれない神の恵みの世界がある。この災いの向こうに、将来と希望が待っているというのです。そしてまた、バビロニア帝国の悪はそのまま放置されませんでした。彼らが滅びを刈り取らなければならなかったことは、歴史が証明しているところです。かくて、「万事が益となるように共に働く」(ローマ書8章28節)ということを、私たちも知るようにされるのです。

 主よ、この地に主の正義が堅く立てられますように。全世界にキリストによる平和が実現しますように。万事を益とされる主の御名がいよいよ崇められますように。 アーメン




3月27日(火)の御言葉 「お前はテーベに勝っているか」

「お前はテーベに勝っているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ、海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。」 ナホム書3章8節


 ニネベの滅亡を語るナホムの預言の中に、冒頭の言葉(8節)のとおり、エジプトの「テーベ」の名が出て来ました。原文には「ノ・アモン」と記されています。それは、「アモン(神)の町」という意味です。テーベには、エジプトで最高の太陽神アモンを祀る神殿があります。

 テーベは、カイロの南約500キロに位置し、紀元前2000年から紀元前662年まで、エジプト王国の首都として栄えました。世界史上最初の大都市と言ってもよいほどで、カルナックやルクソールの遺跡が、往時の繁栄ぶりを今に伝えています。

 テーベは、両側に険しい崖がそびえるナイル川の渓谷にあり、ナイルから水を引いて周囲に堀や水路をめぐらし、街を防衛するようにしていました(8節)。その上、クシュ、プト、リビアといった周辺の国々と同盟を結び、テーベを幾重にも守っていたのです(9節)。

 このように、長く繁栄を誇り、難攻不落と思われていた町も、滅ぼされるときが来ました(10節)。預言者ナホムは、テーベ滅亡について、同時代人として、はっきり知っていたと思われます。そして、アッシリアの都ニネベは、「テーベに勝っているか」と尋ねるのです。

 実は、このテーベを滅ぼしたのが、アッシリアの王アシュルバニパルでした。ですから、その意味で、軍事力などは確かに、ニネベがテーベに勝っているということになるでしょう。しかし、ここで預言者が問題にしているのは力ではありません。

 1節に、「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない」と記されていました。これは、アッシリア軍が、テーベやその他の町に対して行ったことと思われます。また、4節で、「呪文を唱えるあでやかな遊女の果てしない淫行のゆえに」と言われますが、これは、ニネベの女神イシュタル礼拝と関わりがあると言われます。

 メソポタミア・アッシリアの優れた文化、文明、軍事力、その中核をなす異教の偶像礼拝のゆえに、多くの国々がそのとりことなったわけです。そして、19節にも、「お前の悪にだれもが常に悩まされてきたからだ」と記されています。

 それゆえ5節に、「見よ、わたしはお前に立ち向かうと、万軍の主は言われる」と記されています。つまり、主がニネベを打たれるのです。そして事実、紀元前612年に、ニネベはバビロニア軍によって陥落させられてしまいました。

 こうして、かつては繁栄を誇り、難攻不落と思われたエジプトの都テーベがアッシリアによって滅ぼされたように、どんなに権力、武力を誇っていても、罪によって神の怒りを買ったニネベの都は、滅ぼされることになってしまったのです。

 この預言はしかし、ニネベに向かって語られたのではありません。むしろ、ユダの人々に向けて語られたのです。ユダの人々はこの言葉をどのように聞くべきだったのでしょうか。自分たちを苦しめていたアッシリアが裁かれたと喜ぶだけでよかったわけではないでしょう。

 何故、自分たちがアッシリアに苦しめられていたのか、その原因を省みる必要があります。「お前はテーベに勝っているか」という言葉を、自分自身に適応することです。すべての人々に、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ6章8節)ことが求められているのです。

 山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中に、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(同5章20節)という言葉があります。どうでしょう。あなたの義は、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っているでしょうか。神の前に、私の義は、彼らの義に勝っていると、胸を張ることが出来ますか。

 誰も、神の御前に自分で自分を義とすることが出来る者、自分の義を誇ることの出来る者はいないでしょう。しかし、主イエスを信じる者は、その信仰によって神の義を頂くのです。そして、その神の義によって、すべてのものに勝るのです。ハレルヤ!
 
 主よ、あなたはニネベを裁かれました。どうか、わが国を憐れんで下さい。平和と正義の名で剣を抜き、銃を取るような国にならないように、守り導いて下さい。正義を行い、慈しみを愛し、謙って神と共に歩み、世界の平和に仕える国とならせて下さい。 アーメン


3月26日(月)の御言葉 「よい知らせを伝え」

「見よ、良い知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。」 ナホム書2章1節(口語訳・新改訳では1章15節)
 
 長い間、アッシリアによって圧迫されていたユダに、良い知らせがもたらされます。冒頭の言葉(1節)で、「良い知らせを伝え」は、ヘブライ語原典では「バーサル」という一つの単語です。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)も「エウアンゲリゾマイ」の一語でした。これは、「福音を告げる」という言葉です。福音というものは、告げ知らせるためにあると言わんばかりの言葉ですね。

 良い知らせをもたらす者は、「平和(シャローム)」を叫びながら、山の上を行きます。高い山々から全地に福音を届けるのです。

 これは、イザヤ書40章9節の、「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせを伝える者よ」という言葉や、同52章7節の、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」という御言葉を思い出させます。

 主イエスが、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ福音書5章14節)と言われたのも、同じ消息でしょう。主イエスは、山の上で説教を語られました(5~7章)。また、復活された主イエスが山の上で弟子たちと会い、福音をすべての民を弟子とせよとの宣教命令を与えました(28章16節以下)。

 もたらされたグッドニュースは、「お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた」というものでした。まず、「お前の祭りを祝い」は、アッシリアに隷属させられ、そのアッシリア化政策によって禁じられていた祭りを、再び祝うことが出来るようになる、ということです。

 「誓願を果たせ」とは、神に誓ったことを実行せよということです。ユダの民は、もしもアッシリアから解放して下さるなら、感謝のいけにえをささげ、神の恵みの御業を記念する祭りを行う、というようなことを神に誓っていたのではないでしょうか。だから、「お前の祭りを祝い、誓願を果たせ」と言われるのでしょう。祭りの中心に、いけにえを献げますが、この場合、「満願の献げ物」(レビ記7章16節など)を感謝と喜びをもって神にささげるのです。

 そして、「二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない」ということで,その支配が終わったことを告げます。ここで、「よこしまな者」の原語は「ベリアル」です。「ベリ」は「ない」という意味、「アル」は「価値」という意味です。つまり、「ベリアル」は「価値がない、無価値」という意味になります。申命記13章14節では「ならず者」と訳されていました。ここでは、ニネベのこと、そしてまた、アッシリアの王たちのことを指していると考えられます。

 そして、この言葉はやがて「破滅」を意味するようになり、新約時代には、サタン、悪魔を意味するようになります。第二コリント6章15節に、「キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか」と記されており、ベリアルは、キリストに敵対する存在とされているわけです。

 その意味では、預言者ナホムはここで、ニネベの町、あるいはアッシリアの王たちを通してユダを苦しめている悪魔を「ベリアル」と名づけ、そのよこしまで無価値、破壊する死の力が、まことの神によってまもなく滅ぼされると語っていることになります。

 神はどのようにして、このベリアルを滅ぼされるのでしょうか。教会は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、罪と死の力が破られたことを見ました。主イエスは、罪と死の力に打ち勝たれ、高く挙げられて神の右に座しておられます。このお方がもう一度この地上においで下さるとき、神の支配が完成するのを、私たちは期待し、待ち望んでいるのです。

 「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)と、イザヤが告げます。私たちが望みを置いているのは、まさに倦むことなく、疲れることなく、その英知は極め難いと言われるお方です((同28節)。

 今の時代、見えるものに惑わされず、真の主を仰ぎ、その導きに従って「よい知らせ」を携え、命の道、真理の道を、一歩一歩着実に歩んで参りましょう。


 主よ、御名をほめたたえます。あなたの時を待ち望んでいます。その時が近づいていることを悟らせて下さい。眠りから目覚め、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身にまとわせて下さい。高い山に登り、キリストのシャロームを告げさせて下さい。 アーメン





3月25日(日)の御言葉 「主は恵み深く」

「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」 ナホム書1章7節


 ナホム書の著者、預言者ナホムについて、詳しいことはほとんど何も分かりません。1節に「エルコシュの人」とありますが、エルコシュがどこにあったのか、まだ確定されていません。アッシリアの都「ニネベについての託宣」(1節)という預言の内容から、アッシリアがバビロンに滅ぼされる前、紀元前615年前後に執筆されたのではないかと想定されています。

 ナホムとは「慰め」という意味ですが、本書中に慰めと直結している文言は見出せません。むしろ、ここに記されているのは、アッシリアの都ニネベに対する厳しい裁きの言葉だけといってもよいほどです。

 アッシリアは、神に背いて罪を犯し、悪を行った北イスラエルを裁き、滅ぼすための神の器として用いられました(列王記下17章)。また、南ユダも、北イスラエルの風習に倣って歩んでいたため、エルサレムの都が陥落直前まで追い込まれました(同18章)。

 しかしながら、今やニネベが、「主に対して悪事をたくらみ、よこしまな事を謀る者があなたの中から出た」(11節)と、神に断罪される存在となりました。神がご自分の民を選ばれるのは、ご自身に仕える民とするためです。イスラエルは徹底的に神に背いて、神の怒りを買いました。

 神の裁きの器として選ばれたアッシリアが「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」(ミカ書6章8節)なら、神の慈しみは彼らに注がれ続けていたことでしょう(ヨナ書3,4章も参照)。けれども、彼らはイスラエルよりも悪を行う者だったわけです。ここにアッシリアに対する裁きが語られることで、神が望んでおられるのは、やはり、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」であると言えます。

 「主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる」(2節)という言葉で、ニネベに対する神の怒りが語られ始めていますが、その中で、冒頭の言葉(7節)は、異なった光を放っています。ここで、主は恵み深いお方であると言われます。「恵み深い」(トーブ)とは、「よい」(good)という意味の言葉です。

 「神」を意味する英語の「God」(ゴッド)は、goodの短縮形だと聞いたことがあります。「よい」(good)が「恵み深い」と訳されているのは、「苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」という、助けを必要としている者に対する人格的関係の「よさ」が、ここに語られているからです。

 「砦」(マーオーズ)は、「避難所、安全な場所」という意味の言葉です。この砦は、あらゆる敵の攻撃から安全に守ってくれることでしょう。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と、詩編の記者も詠っています(詩編46編2~4節)。

 また、「御心に留める」(ヤーダー)とは、「知る」という意味で、聖書がこの言葉を用いるとき、それは、知識の獲得という意味というよりも、相手に対する関心を表わしており、それは、「愛する」ということと同義語といってもよいものです(たとえば、創世記4章1節)。

 神は、私たちの頭髪の数までも数えておられるほどに注意深く(マタイ福音書10章30節)、そして眠ることなく、まどろむことなく見守っていて下さいます(詩編121編3節以下)。先の詩編46編の11節には、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。

 つまり、冒頭の言葉(7節)は、かつてイスラエルを裁くための神の道具として用いられたアッシリアが、今度は神の裁きの対象とされることで、あらためてイスラエルに対し、主の前に謙ること、主に信頼し、主に身を寄せることを求めているわけです。

 自分の力を誇り、その強さに依り頼むのではなく、私たちを恵み深く守り支えて下さる主を信頼し、主の下に謙りましょう。

 私たちに目を留め、絶えず見守っていて下さる神様、あなたの深い恵み憐れみに感謝します。日々私たちの砦となり、私たちに御心を留めていて下さる主に信頼し、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みます。絶えず、心から御名を崇めさせて下さい。 アーメン





3月24日(土)の御言葉 「咎を除き、罪を赦される神」

「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。」 ミカ書7章18節


 これまで見て来たように、神は私たちの犯す罪を、黙って見過ごしにはされません。むしろ、厳しく断罪されます。けれども、神は罰を与えたくて、私たちを裁かれるわけではありません。誰が、愛する者を裁きたいでしょうか。可愛い子どもに鞭を当てるのは辛いこと、悲しいことです。

 ミカも、「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった」(1節)と語り、自分の同胞が神に期待されるような実をつけるようにならないことを悲しみます。

 そして、「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲をもって語る」(2,3節)と、神を悲しませるような有様になっているのを、断罪せざるを得ないのです。

 しかし、預言者はそのような悲しみの中で、ただ絶望しているわけではありません。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(7節)と、信仰の言葉を語ります。同胞には期待が持てなくても、むしろ失望せざるを得ない状況にあって、なお憐れみの神に頼り、救いを待ち望むのです。

 そうして、冒頭の言葉(18節)を語ります。ここで、神は私たちの「咎を除き、罪を赦される」お方であると言います。そして、神は私たちの咎を除き、罪を赦すために、御子イエス・キリストを贖いの供え物として十字架にかからせなさいました。それによって私たちは、主イエスを信じる信仰を通して義とされるのです(ローマ書3章21節以下、24節)。

 義とは、神との正しい関係ということを表します。「義」という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の小羊である主イエスのもとにひれ伏すとき、私たちは義とされるという文字になっているわけです。さらに、「我」という漢字を調べると、これは「手に持った刀を振り下ろす」という字で、義とは、羊を殺すことによって成立する、ということでした。

 つまり、羊を殺して神にささげ、それによって私たちの罪を赦していただき、神との関係が回復され、元通りの交わりが持てるようになるのです。かくて、5章1節が救い主の誕生を預言したものと受け止められたように、冒頭の言葉(18節)は、救い主による贖いの業を預言したものと受け取ることが出来ます。

 不義な私たちを義とするため、キリストを十字架の犠牲とされたのは、神の深い愛のゆえ、憐れみのゆえでした。神は私たちを愛し、義とするために罪を裁かれるのです。そして、神との関係が正された私たちは、光に導かれます。9節に「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」とあるとおりです。

 ヨハネ福音書8章12節で主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。また第一ヨハネ1章7節に、「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とあります。

 この交わりは、何よりも素晴らしい神との交わりです。罪が清められ、神の子どもとされます。永遠の命を受け、永遠の関係に入れられます。これは、神が一方的に私たちに与えて下さったものです。決して私たちの行いによるのではありません。まさしく、「主の恵みの御業」です。主イエスを信じたとき、主はこの恵みを味わわせて下さいました。

 そして、キリストの光を頂いた私たちは、主イエスが語られたごとく、この地において、人々の前にその光を輝かす「世の光」とならなければなりません(マタイ福音書5章14~16節)。私たちの天の父なる神が崇められるようになるためです。そのために、神は私たちを約束の聖霊で満たし、主イエスの証人となる力をお与え下さいます(使徒言行録1章8節)。

 聖霊を求め、主の愛の証し人、救いの証し人とならせて頂くことが出来るように祈りましょう。

 主よ、あなたの義と愛による恵みの御業に心から感謝致します。私たちもあなたの光に導かれました。どうか、私たちを用いて、あなたの光をこの地に輝かせて下さい。そのために、聖霊に満たして下さい。この地においていよいよ御名が崇められますように。 アーメン




3月23日(金)の御言葉 「主が何を求めておられるか」

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」 ミカ書6章8節
 
 6章には、裁判所での裁判の様子が描かれているようです。原告は神、その代理人・弁護士は預言者ミカ、山々、峰々が裁判官・証人、そして被告はイスラエルです。

 3節に、「わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか」という神の訴えがあります。この言葉から、イスラエルの民が、神にはついて行けない、もう疲れたと不平を言っているということが想像されます。この背景には、度重なるアッシリアの攻撃があり、神がアッシリアの脅威を取り除いて下さらないことに対する不信、不満があるのではないかと思われます。

 それに対して、「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」(4節)と、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放されたこと、「わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」(5節)と、シナイの荒れ野から約束の地に導き入れるまでの間、神が与えた恵みを思い起こせ、と訴えています。

 6,7節は被告の反問で、ではどんな犠牲をささげればよいのか、と問いかけます。当歳の子牛をささげればよいのか(6節)と問うた後、幾千の雄羊、幾万の油の流れ(7節)と量を増やし、最後に、長子、胎の実をささげるべきかと言います。北イスラエルが滅亡する直前、子どもを火で焼いて犠牲にすることが流行りました(列王記下16章3節、17章16節)。

 最も高い犠牲を払って、国難を去らせようとしたと考えられます。しかしながら、それは神の忌み嫌われる、モレクという異教の神に対して行う儀式でした(レビ記18章21節、20章2~5節、エレミヤ書7章31節など)。そうしたことをどうして神が喜ばれるでしょうか。

 それに対して、冒頭の言葉(8節)が述べられました。神の求めは、いけにえをささげることではありません。「義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。

 これは、申命記で、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(10章12,13節)と語られている言葉と同様です。

 また、預言者サムエルがサウル王に告げた、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15章22節)という言葉を思い出します。

 9節以下は神による告発で、「正義」と「慈しみ」と「へりくだり」がいかに欠如しているかが述べられ、それゆえに滅びを刈り取らなければならないと告げられます。

 こうしてみると、イスラエルがエジプトの奴隷の苦しみから解放されて以来、神は一貫して同じことを民に求めておられ、それに対してイスラエルの民は、神を畏れず、不正を行い、偽りを語り、異教の神に心迷わされ続けて来たわけです。

 この言葉を聞いて、私たちはどうしたらよいのでしょうか。それはまず、神の恵みを数え、感謝をささげることです。また、神を愛し、隣人を愛することです。そして、怠惰と不従順を悔い改めることです。思い上がらず、主に従って歩み、顔を上げ、胸を張り、誠心誠意働かせていただきたいと思います。


 主の、御名が崇められますように。主を信じ、主に仕える者たちによって、御心が地の上に行われますように。御言葉が聖であること、御言葉の内に命があることを、たえず悟らせて下さい。日々主と共に歩む喜びと平安を味わうことが出来ますように。 アーメン




3月22日(木)の御言葉 「ユダの氏族の中でいと小さき者」 

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」 ミカ書5章1節(口語訳・新改訳では2節)


 4章14節(口語訳・新改訳は5章1節)に、「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵はわれわれを包囲した」とあります。これは、アッシリアの大軍がエルサレムの城壁を取り囲んだときのことでしょうか。

 ヒゼキヤ王がエジプトなどと組んでアッシリアに反旗を翻し、それが一時期は功を奏して、アッシリアからの独立を果たせたかに見えましたが(列王記下18章7,8節)、再びアッシリアが体勢を立て直してイスラエルに進軍してきたときには、それに対抗することが出来ませんでした(同18章13節)。そして、高い賠償金を払わなければなりませんでした(同18章14~16節)。

 その上、大軍がエルサレムを包囲してイスラエルの神を冒涜し、無条件降伏を求めたのです(同18章17節以下、27節以下、19章10節以下)。それは、再び背くことがないように、ヒゼキヤ王を退位させ、アッシリアの言いなりになる別の王を立てるためだったのでしょう。

 そのとき、ヒゼキヤは預言者イザヤに託宣を求めました。イザヤは、アッシリアの王が都に入場することはおろか、戦いを仕掛けることもないと、神の言葉を告げました(同19章20節以下)。そして、神は御使いを遣わして一夜のうちにアッシリア軍を撃ち、アッシリアの王はひとり、ニネベに逃げ帰ったと、列王記の記事には記されています。

 今日の箇所は、イザヤの預言とその成就を見る前なのかどうか、よく分かりませんが、冒頭の言葉(1節)にあるように、ミカは、イスラエルを治める新しい王がベツレヘムから登場することを語ります。

 ベツレヘムは、語られているようにイスラエルの中で小さな町ですが、しかし、ここはダビデ王の出身地です。ですから、ダビデのように、主なる神への堅い信仰をもって国を治める王の登場を期待したものと言えます(3節)。小さい町ですが、そうであればこそ、町を守るのに自分の力などではなく、神に信頼するほかはなかったでしょう。そして、神はその信頼に応えて下さるのです。

 そして、クリスチャンにとって、冒頭の言葉は、特別な意味を持つものとなりました。それは、救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉となったからです(マタイ福音書2章6節)。主イエスは、暗闇に閉ざされている人々に希望の光、愛の光、命の光を与えて下さいます。これが、クリスマスのメッセージです。

 ここで目を留めていただきたいのは、マタイがミカの預言を引用している中で、一箇所不正確なところがあるのです。それは、「いと小さき者」というところが、「決して一番小さいものではない」と変えてあるのです。このような変更が加えられたのは、マタイ自身の体験に基づいているのかもしれません。

 彼は人々に蔑まれながら占領国ローマのために税金を徴収する徴税人でした(マタイ福音書9章9節)。しかし、キリストと出会い、その弟子となり、12使徒の一人に選ばれました。マタイにとって、自分は実際には小さい者ではあっても、キリストが生まれたということ、キリストと出会うことが出来たということは、決して小さいものではない、否むしろ、それは大きなことだということでしょう。

 だから、主イエスの生まれたエフラタのベツレヘムは、かつては「いと小さき者」だったかもしれませんが、今は、「決して一番小さいものではない」と言えるものに変えられた。誰でも、主イエスと出会うならば、同じように、「決して小さい者ではない」といわれる恵みに与ることが出来るというわけです。

 マタイの書いた福音書が、今日も、全世界で読まれています。それこそ、決して小さいことではありません。神は私たちを、能力や知恵、財産などによって選ばれたのではありません。それらのものを持たない、無学で普通の人だからこそ選ばれました。それは、ただ神に信頼するためです。主に信頼するとき、決して小さくない働きが神によってなされていくのです。

 「ミカ」とは、「誰が主のようなお方か」という意味の名前です。この問いの答えは、主のようなお方は他にはいない、主なる神だけが私たちの信頼に足るただひとりのお方だということです。


 主よ、あなたはいと小さい者を選び、主の力、御名の威厳をもって平和を打ち立てられます。それが、主イエスの十字架と復活を通して明らかにされました。どうか、世界中にキリストの平和を与えて下さい。すべての人々の心にキリストの平和がありますように。 アーメン



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