風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年02月

2月29日(水)の御言葉 「酔いしれる者よ、目を覚ませ」

「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」ヨエル書1章5節


 預言者ヨエルについてですが、ヨエルとは、「主(ヤハウェ)は神である」という意味の名前で、旧約聖書中にこの名で呼ばれる人物は、十数名います。勇士、祭司、レビ人など様々ですが(サムエル記上8章2節、歴代誌上4章35節、5章4節、6章36節など)、最も有名な人物が、預言者ヨエルです。ただ、彼の父親の名がベトエルということ以外、ほとんど何も分かりません。

 最近の研究では、紀元前515年ごろ、つまりバビロン捕囚後の比較的早い時期、エルサレム第二神殿が完成した頃に、その周辺で活動した預言者ではないかと考えられているようです。しかし、これについて確実なことは何も言えません。

 ただ言えることは、1節の言葉から、ヨエルは預言者であり、ヨエル書は預言者に臨んだ主の言葉であるということです。ですから、この書から学ぼうとする者は、現在、自分のいる場所に向けて語られた神の言葉として、それを聴くことになります。

 冒頭の言葉(5節)は、酒に酔い痴れている者、酒に溺れる者に呼びかけた言葉です。ヨエル書が「酔える者たち」に呼びかけているのは面白い洒落だといってすませられることではありません。神は彼らに、「目を覚ませ、泣け」と命じられます。

 それは、かみ食らうイナゴ、移住するイナゴ、若いイナゴ、食い荒らすイナゴによる農作物の被害によって(4節)、ぶどう酒を造りたくても造れなくなるから、酒を飲みたくても飲めなくなるから、泣けと言われている、というのが、第一の解釈です。

 しかし、13節で祭司に呼びかけて、「祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ。・・献げ物の穀物とぶどう酒は、もはやあなたたちの神の宮にもたらされることはない」と語られており、5節で酒に酔い痴れ、酒に溺れているのは、この祭司たちのことかと思われます。

 8節で、「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまとうおとめのように」と言われます。祭司らが酔い痴れている結果、神の祝福を失い、感謝のしるしとして地の産物を献げたくても、献げるものが何もないのです。地の産物は、農夫たちの勤勉な労働なしには得られないものですが(11節)、しかし、それは神の恵み、神の賜物なのです。それがイナゴに奪われるということは、そこに、神の手が働いていると考えざるを得ません。

 そうすると、酒が飲めないから泣けと言われているのではなくて、神に仕えている者が酒に酔い痴れていることに対する警告、酒に溺れて神の宮でよい務めが出来ないために、大変な国難が襲おうとしているという警告ではないでしょうか。今は酒に酔い痴れているときではない。目を覚まして神に祈るときだ。訴えるときだ。泣いて悔い改めるときだ、と語っているのではないでしょうか。

 考えてみるまでもなく、これは確かに、二千数百年前のイスラエルのことではなく、今日の私たちに語りかけられた主の言葉ではないでしょうか。私たちが目を覚まして周りを見回してみるならば、嘆かずにはおれない、祈らずにはおれない状況が広がっています。

 飲酒運転による交通事故死が多発し、それによる罰則が強化されても、それで飲酒運転がなくなりはしない。いじめを苦に自殺する子どもたちが後を絶たない。麻薬の蔓延、不当表示、誤魔化し、ずさんな管理、汚職など。その上、現在日本列島各地を襲っている自然災害や原発事故による放射能の脅威。どう祈ったらよいのかも分からないほどです。だからこそ、今、主の御声を聴かなければなりません。

 ヨエルは、「断食を布告し、聖会を招集し、長老をはじめこの国の民をすべてあなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びをあげよ」(14節)と命じています。主の御前に心を開き、思いのままに祈りましょう。

 そのとき、御霊ご自身が切なる呻きをもって、どう祈ってよいか分からない弱い私たちのために、執り成して下さいます(ローマ書8章26節)。御霊に満たしていただきましょう。時を生かして用い、主の御心が何であるかを悟らせていただくためです(エフェソ書5章16~18節)。

 主よ、私たちを御霊に満たして下さい。光の子として歩ませて下さい。この国を清め、愛と平和の国として下さい。 アーメン



2月28日(火)の御言葉 「背く彼らをいやし」

「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」 ホセア書14章5節(口語訳・新改訳聖書は4節)


 ホセア書最後の章で、神は、「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と招かれます(2節)。それは、悔い改めへの招きです。悔い改めとは、罪の懺悔ということもありますが、方向転換して、何よりもまず心を神に向けること、そして、主の御言葉に従うことです。

 神はイスラエルに悔い改めの誓いの言葉を教えられました(3,4節)。その中で、「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません」と言います。これは、アッシリアやエジプトという大国の力に頼ることをやめるという宣言です。また、戦車や騎馬など、軍事力に頼って国を守ろうとすることをやめるという宣言です。

 圧倒的な力を持って迫って来る大国に対し、同盟諸国に頼らず、あるいは軍事力に頼らないというのは、決して容易い話ではありません。まさに、神への信仰が問われるのです。

 また、「自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません」と言います。ダンとベテルに置かれた金の子牛の像を拝み、バアルに仕える偶像礼拝と訣別し、ヤロブアムの罪から離れるという宣言です。この宣言を携えて、神の前に出るのです。

 そこで神は、素晴らしい約束を与えて下さいました。それが、冒頭の言葉(5節)です。そして、その恵みのゆえに、「彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(6~8節)と言われています。

 このように、主がイスラエルの民に誓いの言葉を教え、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と言われるのは、悔い改めの宣言をすれば赦してやるぞ、ということではありません。既に神はイスラエルを赦しておられるのです。そうする以外に、イスラエルの民が神に立ち帰り、恵みを得る道はないからです。

 ここに、神の憐れみが示されます。主なる神は、「咎につまずき、悪の中にいる」(2節)イスラエルの人々に、悔い改めて主のもとに立ち帰るようにと招き、そして、帰ってきた民に豊かな恵みを与えようとしておられるわけです。

 しかしながら、この預言がいまだ実現していないことを、私たちは知っています。むしろ、北イスラエルはこの預言の後、アッシリアに滅ぼされてしまいます(列王記下17章)。それ以来、北イスラエル10部族は完全に失われてしまいました。とすれば、この預言は当たらなかったということになるのでしょうか。悔い改めへと招いたのに、彼らがそれに従わなかったから、滅ぼされてしまっても仕方がなかったということでしょうか。そうかもしれません。
 けれども、これは、もっと広い約束ではないでしょうか。神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造ることがお出来になります(マタイ3章9節)。自らの背きの罪を刈り取らなければならなかったイスラエル、滅ぼされてしまった神の選びの民を、神は癒し、その繁栄を回復されるというのです。

 そればかりでなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を憐れみ、ご自分の宝の民として選び出されたように、罪の奴隷となっていた異邦人の私たちをも、ご自分の民に加えることがお出来になります。そのために主なる神は、主イエスの十字架の贖いを通して、私たちが神の御前に進む道を開いて下いました。

 だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づくことが許されるのです(ヘブライ書4章16節)。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。・・主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ書4章8~10節)。

 主よ、背き続けてきた私たちをも悔い改めへと招き、救いと癒しをお与え下さる御愛と御恵みに、心より感謝します。すべての悪を取り去り、恵みをお与え下さい。神よ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン


2月27日(月)の御言葉 「主の風が荒野から吹きつけ」

「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる。」 ホセア書13章15節

 エフライムは、ヨセフの2番目の息子であり、ヨセフは、イスラエルの父祖ヤコブの12人中11番目の息子です(創世記41章52節)。ヤコブが子らのために祈るにあたり、ヨセフに最大の祝福を与えました(同49章参照)。それに先立って、ヤコブはヨセフの息子たちのために祈りましたが、長男マナセよりも次男のエフライムを祝福しました(同48章12節以下)。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地を分配したとき(ヨシュア記13章以下)、マナセとエフライムは中央部分を分け与えられています。エフライムとは、「実り豊かな地」という意味ですが、その名のとおり、エフライムは豊かな山林地帯でした。特に、エフライムの嗣業の地は、宗教的、政治的にも重要なところです。

 預言者サムエルは、エフライム山地のシロで祭司エリに仕えました(サムエル記上1章21節以下)。シロには、サムエルの時代までイスラエルの神の契約の箱が置かれていました(同3章3節)。また、エフライムの南境にあるベテルは、ヤコブが神と出会った場所であり(創世記28章19節、31章3節)、イスラエルにとって神を礼拝する重要な場所です。

 また、モーセの後継者でイスラエルの民を約束の地に導き入れたヌンの子ホシェア(=ヨシュア)や、イスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエル王国の最初の王となったネバトの子ヤロブアムは、エフライム族出身です(民数記13章8,16節、列王記上11章26節、12章25節)。

 このように、ヤコブの祝福の祈りは、確かに適えられたのです。けれども、エフライムは今や、その祝福を失おうとしています。それは、彼らが満ち足りて高慢になり(6節)、恩を忘れて神の忌み嫌われる異教の神の像を造ることに没頭し、「子牛に口づけ」、即ち、偶像礼拝への愛を表してさえいるからです(1~2節)。

 ネバトの子ヤロブアムは、王となると直ぐにベテルとダンに金の子牛の像を置き、ベテルで自らいけにえを献げ、香を炊きました(列王記上12章25節以下)。彼に続く北イスラエルの王たちは、ヤロブアムの罪から離れることがありませんでした(同15章25,33節など)。

 それゆえ、冒頭の言葉(15節)のとおり、裁きの熱風が襲い掛かります。「主の風」は、「主の息」と訳すことも出来、人を生かすためにその鼻から吹き込まれた命の息が、ここでは、イスラエルを滅ぼす熱風となったわけです。

 熱風で水が涸れたということは、命を守ることが出来ないということであり、後は荒れ廃れるばかりだということです。自然現象による東からの熱風は、イスラエルに干魃をもたらしますが、「すべての富、すべての宝は奪い去られる」ということから、荒れ野から吹き付ける熱風とは、アッシリアを指していると考えることが出来ます。

 エレミヤが、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたし(神)を捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることの出来ない壊れた水溜めを」と預言していますが(エレミヤ書2章13節)、ホセアの預言と同じ消息を物語っているわけです。ということは、南ユダは、北イスラエルの滅亡に学ばず、罪から離れられなかったわけです。

 「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」(14節)とは、死の呪い、陰府の滅びがエフライムの上に早く来るように、ということです。けれどもパウロが、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント書15章55節)というとき、それはどこにもない、ということを示しています。

 誰も自分で罪に打ち勝つことは出来ませんでしたが、主イエスによって私たちに勝利をお与え下さったのです。それは、一方的な神の恵みです。主イエスを信じるだけで、その恵みに与ることが出来ます。

 あらためて、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、神の恵みを受けるほどに絶えず謙り、その神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。神に聴き、神に従いましょう。御声がかけられたら、いつでも「はい」と応答する者でありたいと思います。

 主よ、御名が崇められますように。御国がきますように。御心が行われますように。私たちは、主の贖いの御業のゆえに救いの恵みに与りました。、その深い愛と憐れみのゆえに心から感謝致します。私たちを神の御霊に満たし、福音の前身のために用いられる器として下さい。 アーメン



2月26日(日)の御言葉 「エフライムは偽りをもって」

「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。」 ホセア書12章1節

 12章は、11章と打って変わって、厳しい裁きの言葉で終始しています。ここには、イスラエルの父祖ヤコブについての言及があります。それはしかし、好意的なものではありません。むしろ、マイナス・イメージで語られています。

 1節に、「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもってわたしを取り巻いた」と語り、「ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している」と記しています。ここに、イスラエルを語る言葉として「偽り」、「欺き」という言葉が出て来ました。

 その例示として、イスラエルの父祖ヤコブについて、「ヤコブは母の胎にいたときから兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」(4,5節)と言います。兄エサウから長子の特権を奪い(創世記25章19節以下)、父の祝福を欺き取ったことを言っているわけです(同27章)。

 9節の、「エフライムは言う。『わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい」という言葉は、ヤコブがハランでたくさんの子どもや家畜などを持つようになったことを示していると思われます(創世記30章25節以下、31章参照)。

 しかし、ヤコブがそのように語ったという事実は、聖書の中に見出すことは出来ません。けれども、その後のイスラエルの態度は、まるで神に向かってそのようにうそぶいているようなものだと、ホセアが語っているわけです。

 一方、イスラエルの偽りに対して、神の真実が示されます。父と兄を欺いて逃亡せざるを得なくなったヤコブをベテルで見出して語られたことを示し(5節:創世記28章10節以下)、「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と招いています(7節)。

 「多くの預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した」(11節)のも、神の愛と真実の表れです。一人の預言者モーセを遣わして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の地から約束の地へ導き上ったのは(10,14節)、彼らが、愛と正義によって生きることが出来るようにするためだ、と語っているのでしょう。

 このように、神が愛と信実をもって語り続け、招き続けておられるのに、イスラエルは偽り、欺き、背き離れてさまよっています。そしてそれは、元来、ヤコブ=イスラエルが偽る者、欺く者だったからだ、と言われているわけです。

 具体的には、2節に、「アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ」とあるように、真の王なる主に頼るのではなく、イスラエルを挟むアッシリアとエジプトという、南北の大国に対する外交政策で国を守ろうとしています。

 また12節に、「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない」と言われて、ヤロブアムがベテルとダンに配置した金の子牛を拝ませた偶像礼拝の罪(列王記上12章28節以下)が、イスラエルの各地に広げられていることを示します。

 そして、そのような偽り、欺き、背く者を愛し、真実をもって「神のもとに立ち帰れ」と招き続けられた神が、ここでイスラエルの民に、「エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される」(15節)と、最後通牒を突きつけておられるのです。

 神がイスラエルに求めておられるのは、自分の偽りと欺きを認めること、そして、自分自身を神の真実に委ねて従うことです。私たちは、「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり」(エフェソ書2章3,4節)、救いの恵みに与らせて下さったのです。

 私たちが神の子と呼ばれることのために、父なる神が私たちをどれほど愛して下さっているか、考えて見ましょう(第一ヨハネ書3章1節)。神の恵みによって今日の私があるのです。その恵みを無駄にせず(第一コリント書15章10節)、主の業に常に励みましょう(同58節)。

 主よ、どうか霊と真理をもって礼拝する者とならせて下さい。あなたが霊であられ、また真理であられるからです。霊のあるところに自由があり、また、真理は私たちを自由にします。主イエスの愛と恵みが、常に私たちと共にありますように。 アーメン


2月25日(土)の御言葉 「わたしは神であり」

「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」ホセア書11章9節


 11章では、神とイスラエルとの関係が、親子関係に比して述べられます。1節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とあります。エジプトの奴隷として苦しめられていたイスラエルを神が憐れみ、養子縁組して、わが子として迎えて下さったのです。そして、絶えず呼びかけ(2節)、手を取って立たせ、歩くことを教え、病のときに看病してやリ(3節)、また、食物を与えました(4節)。

 しかしながら、恩知らずにもイスラエルは神から離れ、バアルに身を屈めました(2節)。申命記21章18節以下に、両親に反抗するわがままな息子は、町の長老に訴え出て、町の全住民によって石を投げつけられると規定されています。ということは、神はイスラエルを子とした親として、どんなに愛を注いでも神の御声に耳を傾けようとしない子イスラエルに石を投げつけ、この悪を取り除く義務があるわけです。

 「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる」(5節)と言われます。町の全住民なるエジプトやアッシリアが、イスラエルに石を投げつけるということでしょう。

 8章13節には、「今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」とありました。これは、エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルが、元の奴隷状態に戻されるということで、神の救いが無効となったということを表わしています。

 11章5節で、「彼らはエジプトの地に帰ることもできず」というのは、「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」という言葉に対応しています。即ち、神に立ち帰ることとエジプトに帰ることが対比されているわけです。そして、その裁きは、エジプトに戻ることではなく、アッシリアによって滅ぼされることであるというわけです。

 しかし、神はイスラエルを愛するがゆえに、イスラエルを裁くことを苦しまれました。愛することは、苦しみを担うことでもあると教えられます。ギリシア語で「憐れむ」(スプランクニゾマイ)とは、腸が痛むという言葉です。私たちの苦しみを、神がご自分の苦しみとして味わわれると言ってもよいでしょう。

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き離すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか」と言われます(8節)。アドマ、ツェボイムは、ソドムとゴモラ同様、その罪ゆえに神が怒って滅ぼされた町です(申命記29章22節、創世記19章25節)。

 イスラエルに対して、同じ扱いが出来るかと自問され、選びの民に対する憐れみが、主の御心の内に燃え上がります。憐れみゆえの苦しみを担われた神は、冒頭の言葉(9節)のとおり、「もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない」と決心されました。憐れみが怒りを覆い、イスラエルの赦しを決意されたわけです。

 「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)とは、「神は愛です」(第一ヨハネ書4章8,16節)ということですが、罪の赦しは妥協ではありません。甘やかしでもありません。

 赦しの前に裁きがあります。罰があります。神は、罪の裁きと罰を曖昧にしたのではありませんでした。裁きと罰を神がご自分の身に受けられるのです。神が自らに裁きを課すのです。それが神の愛であり、独り子イエス・キリストの十字架なのです。この贖いのゆえに、私たちは赦され、生かされ、愛されているのです。

 私たちは、罪と死の奴隷の苦しみから贖われました。神の子として生きる道が開かれました。私たちのために、永遠に住むべき場所が用意されました。平安のうちに豊かに歩むことが出来ます。神の愛と憐れみに瞬間瞬間感謝しましょう。いつも喜んで歩みたいと思います。祈りを通して絶えず神と交わりましょう。どんなことにも神の導きと勝利を信じて感謝しましょう。

 主よ、あなたの深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝致します。絶えず主の慈しみの御手のもとに留まらせて下さい。弱い私たちを助け、御言葉と祈りによって義の道、平和の道に導いて下さい。 アーメン


2月24日(金)の御言葉 「ベテルの甚だしい悪の故に」

「ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」 ホセア書10章15節
 
 14節に、「シャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも撃ち殺したあの戦の日」という言葉があります。ベト・アルベルは、ヨルダン川の東側、マナセ族が嗣業として受けたギレアドの地にある町で、ガリラヤ湖の南東約30kmにありました。シャルマンとは誰のことか、よく分かりませんが、恐らく外国の王の名でしょう。

 また、この破壊と殺戮、つまり戦争が、いつ起こったことなのかも、分かりかねます。しかし、当時の人々はこの戦争のことをよく知っていたのでしょう。だから、それを取り上げたうえで、冒頭の言葉(15節)で、「ベテルよ」と呼びかけているのです。そしてホセアは、「お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる」と言います。

 ベテルは、イスラエルでよく知られた町です。かつてここは、イスラエルの父祖ヤコブが、兄エサウの祝福を奪ったことで、ベエル・シェバからハランの地まで逃れる旅をしている途中(創世記28章10節)、神と出会い、祝福を受けた場所です。

 そのとき神は、「①この地を与える。②数が増し、四方へ広がる。③神が共にいる。④どこに行っても守る。⑤必ずこの地に連れ帰る。⑥約束が実現するまで見捨てない」と約束されました(同13節以下)。そして、神の約束どおり、ヤコブは多くの財産を携え、ハランの地から故郷へ戻って来ました(同31章)。

 神の御言葉は信ずべきです。神の約束は必ず実現するのです。ベテルとは「神の家(ベト=家、エル=神)」という意味ですが、ヤコブは荒れ野で神と出会い、その地をベテルと名づけたのです。

 神と出会い、御言葉を聴くところがベテルであれば、今日のベテルはどこにあるのでしょうか。そうです。どこにでもベテルがあります。私たちが神を求め、御言葉を聴こうとするなら、どこもベテルです。

 ところが、この町が滅ぼされ、「夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」と言われています。

 かつてイスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルを治めた初代の王ヤロブアムは、金の子牛の像を2体作り、一つをベテルに、もう一つをダンに置きました(列王記上12章28節以下)。さらに、ベテルに異教の神の像を祀る神殿を建て、祭司を配置しました(同31節以下)。

 以後、北イスラエルの王は、神に背く罪を繰り返します。列王記の記者はそのことを、「彼は主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」と語っています(同15章34節、16章19節、30,31節、22章53節など)。

 ところで、5節の「サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ」という言葉は、ベテルのことを語っているものと考えられます。「ベト・アベン」とは、昨日も学んだように、「邪悪の家」という意味です。ホセアはここで、ヤロブアム以来、北イスラエルの人々は、真の神と出会うべき「ベテル(=神の家)」を、「ベト・アベン(=邪悪の家)」にしてしまった、と断罪しているわけです。

 ベテルの町、ベテルに置かれた神殿がイスラエルを祝福するのではありません。金の子牛がイスラエルを守ることもありません。イスラエルを祝福されるのは、生けるまことの神です。イスラエルの民を守られるのは、真の主なる神のみです。異教の神を祀ってまことの神を怒らせ、その保護を失ったイスラエルは、ホセアが語ったとおり、アッシリアに滅ぼされ、再び王国を再建することは出来ませんでした。

 「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)と言われます。主を信じ、愛しましょう。

 主よ、私たちの耳を開いて下さい。主の御言葉に耳を傾け、御旨を深く悟ることが出来ますように。主を信じ、従うことが出来ますように。 アーメン
 


2月23日(木)の御言葉 「彼らの悪はギルガルにある」

「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。」 ホセア書9章15節

 冒頭の言葉(15節)に、「彼らの悪はすべてギルガルにある」とあります。「ギルガル」という地名が出て来たのは、本書中これが2回目です。1回目の4章15節では、「お前が遊女であっても ―ユダは罪を犯すな― ギルガルに赴くな、ベト・アベンに上るな」と言われていました。

 「ベト・アベン」とは、「邪悪の家」という意味で、そこに異教の神が祀られていることを示しています。その関連で、「遊女」というのは、神殿娼婦のことでしょう。ギルガルにも異教の神が祀られ、神殿娼婦による淫行が行われていたものと考えられます。

 この後、12章12節(口語訳、新改訳は11節)にも、「ギルガル」がもう一度出て来て、そこでは、「ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている」と記されています。こうしたことは、神の忌み嫌われることですから、「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」と言われるのです。

 ギルガルは、かつてモーセによりエジプトを脱出したイスラエルの民が、後継者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入って最初に宿営した場所です(ヨシュア記4章19節)。神はヨシュアにヨルダン川で12の石を拾わせ、宿営した場所に据えさせました。それは、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」です(ヨシュア記4章24節)。

 そして、「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」と主は言われています(同5章9節)。ここで、「取り除く」と訳されているのが、ガーラルという言葉で、そこから、ギルガルという地名が生まれたということになっています。

 そのような主なる神の御業を記念する大切な場所に、イスラエルの民は異教の神々の祭壇を築いていけにえをささげ、神殿娼婦たちによる淫行を行っていたのです。「まさにそこで、わたしは彼らを憎む」という言葉は、このことを言っているのです。イスラエルの恥辱を取り除いた場所、神の救いの御業が実現した場所が、神に憎まれる場所、イスラエルの民が捨てられる場所となったのです。

 10節には、「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」とあります。バアル・ペオルは、モアブの地にある町です。ペオルは、モアブで礼拝されている神で、民数記25章3,5節に「ペオルのバアル」と記されており、「モアブのバアル」と呼ばれることもあったようです。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、モアブの娘たちと異教の神の儀式に加わり、神の怒りを招きました。つまり、イスラエルの民は、エジプトを脱出し、約束の地に到着する以前から、神に背く者たちだったわけで、その意味で、「彼らの悪はすべてギルガルにある」ということは、約束の地に入ったとき、その初めから彼らは偶像礼拝の罪を犯していたということでしょう。

 そしてまた、ギルガルは、イスラエルの初代の王サウルが即位したところでもあります(サムエル記上11章14,15節)。そのこと自体に問題があるというわけではありませんが、しかし、イスラエルの民が王を立てるように求めたことについて、サムエルの目には悪と映ったと記されておりました(同8章6節)。

 さらに、サムエルの祈りに主が、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と語られ(同7節)、続けて「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」(同8節)と言われています。

 8章4節で、「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と言われていましたが、それは、サムエル記上8章の出来事を指しているということも出来ます。

 私たちはどなたを王としているのでしょうか。どなたの言葉に耳を傾け、どなたの言葉に従って歩んでいるのでしょうか。絶えず心の王座を主イエスに明け渡して、王の王、主の主として拝し、その御言葉に聴き従って参りたいと思います。

 主よ、私たちは常にあなたの助けと導きを必要としています。あなたなしに生きることは、到底出来ません。どうぞ私たちの心の真ん中においで下さり、瞬間瞬間、私たちの人生を導いて下さい。そうして、あなたの望まれるとおりの者とならせて下さい。 アーメン


2月22日(水)の御言葉 「嵐の中で刈り取る」

「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。」 ホセア書8章7節


 1節で、「角笛を口に当てよ」と言われます。角笛は、町に危険が迫っていることを警告する警笛として、城壁の上で吹き鳴らすものです。預言者ホセアはこのとき、櫓の上にいる見張り役として、警笛を吹き鳴らすために角笛を口に当てよと、主なる神から命じられているのです。つまり、それほどにイスラエルに危機が迫ってきているわけです。

 それは、彼らが神の契約を破り、律法に背いているからでした(1節)。それも、「わが神よ、我々はあなたに従っています」と言いながら(2節)、神の恵みを自ら退けるという偽善の罪です(3節)。また、神によらず王を立てたこと、つまり、神の指導には従わないということです(4節)。そして、金銀で偶像を造った偶像礼拝を行っていることです(4~6節)。

 冒頭の言葉(7節)に、「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」と記されています。イスラエルの種蒔きは、わが国のそれとはかなり違っています。畑を耕し、畝を起こして、一粒でも無駄にならないように丁寧に蒔くというのではありません。

 種の入った袋を振り回して一帯に種を蒔き散らした後、そこを耕すというやり方をするのだそうです。遠くまで種を蒔くためには、少々風が吹いていたほうが都合がよかったでしょう。「風の中で種を蒔き」とは、そのことです。

 そういう蒔き方をすれば、主イエスが種まきのたとえで語られたように(マルコ福音書4章1節以下)、あるものは道端に落ち、あるものは石地に落ち、またあるものは茨の中に落ちたというのは、さもありなん、ということになります。多くの種が蒔かれたところが耕されて、そこがよい畑となるわけです。よい地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びます。

 しかし、「嵐の中で刈り取る」ということは、せっかく種が芽を出し実っても、収穫前に嵐が来れば、すべてが無駄になってしまう、すべての労苦が水の泡となってしまうということです。これは、イスラエルの人々は国際情勢の風を読みながら、うまく舵取りが出来ているように思っているかもしれないこと、しかしながら、それが一切無駄になってしまうということを示しているのです。

 もっと原文に即して冒頭の言葉を読めば、「彼らは風を蒔いて、嵐を刈り取る」ということになるでしょう。コヘレトの言葉1章14節に、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」という言葉があり、風を追うことは空しいことと言っています。

 「風」を蒔くことは、風を追うことと同様、何の助けにならない空しいことだということです。「風を蒔いて、嵐を刈り取る」。つまり、「嵐」に象徴される「滅び」を刈り取ることになる、それはまさに自業自得なんだというわけです。

 これは、イスラエルが神に頼らず、時にはアッシリアに、時にはエジプトに、また時には周辺諸国に助けを求めていることを示しています。7章11節に、「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と記されていました。それは、真の造り主を忘れ、その保護をあてにしないことです(14節)。

 エジプトに助けを求め、アッシリアに頼ることは、風を追っているようなもので何の力にもならず、最後は時代の嵐に飲み込まれてしまいます。かつて栄えたエジプトやアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、モンゴル、イギリス、そして日本、ロシアにアメリカ、どの国が人類の希望となれるでしょうか。どの国が究極的な救いを保障してくれるでしょうか。

 人の力に頼るのは空しいことです。人は誰も、自分ひとりを救うことさえ出来ません。あなたを、私を救ってくれるのは、主イエス・キリストだけです。真の主を信じ、真の主に依り頼みましょう。日々の生活の中で、主を仰ぎ、主に従う道を歩み、確かな実を収穫することが出来るようにしていただきましょう。

 主よ、導きを感謝します。私たちにはもはや、罪の償いの祭壇は必要ありません。主イエスの十字架という確かな祭壇が、主ご自身によって打ち立てられたからです。私たちは十字架の主を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。どうぞ、御霊に満たして下さい。あなたの御言葉がこの身になりますように。 アーメン



2月21日(火)の御言葉 「なんと災いなことか」

「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。」 ホセア書7章13節


 預言者ホセアは、淫行の女性を妻としてめとり(1章2節)、夫に愛されていながら姦淫を犯す妻を愛せよと、主に命じられました(3章1節)。そのようにして、神に背いて偶像礼拝の罪を犯し続けるイスラエルを愛し続けて下さる神の、深い愛と憐れみを知ったのです。

 ホセアの目には、淫行を続ける妻と神に背き続けるイスラエルが、二重写しになっているのでしょう。そして今ホセアは、自分と神とを重ね合わせながら、1人称の「わたし」という言葉で、神のメッセージを語っています(6章11節以下)。

 神は繰り返し、イスラエルを御自分に立ち帰らせ、神の民を回復しようと働きかけておられます(6章11節、7章1,13,15節)。しかし、冒頭の言葉(13節)のとおり、イスラエルは神から遠く離れ去り、主の招きに応えようとはしません。応えても、それは偽りです(6章1節以下、4節参照)。異教の神々の儀式を行い、主には背を向けています(14節)。悪事を企みます(15節)。ねじれた弓のように空しいものに向かいます(16節)。

 事態は確実に悪くなって来ているのに、主を尋ね求めようともしません(10節)。それは、高慢だからと言われます(10節)。また、愚かで悟りがないからだと言われます(11節)。そうして、結局、自ら滅びを招いてしまうのです。冒頭の「なんと災いなことか」という言葉からは、諦めにも似た思いが伝わって来ます。

 確かに神は、人が自ら方向転換してご自分のもとに返ってくることは、諦められたのかもしれません。しかし、それで人を救うことを諦められることはありませんでした。神は、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ということを承知の上で、それゆえ、人をこの大地の上から消し去ろうというのではなく、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と決心されるお方です(創世記8章21節)。

 それはしかし、人の悪い行いには目をつぶり、人の悪を見ても見ないことにするということではありません。罪には裁きがあります。主は聖なる方、義なるお方です。罪を見過ごしにはなさいません。

 しかしながら、主なる神は、その裁きを私たち罪人に対してではなく、ご自分の独り子キリストの上に下し、十字架にかかられた主イエスの命の代価によって私たちを贖い、その罪を赦そうとお決めになったのです。贖いの血が流されることなしには罪の赦しはあり得ないからです(ヘブライ書9章22節)。

 ローマ書3章23,24節には、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあり、ガラテヤ書3章23節では、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は、皆呪われている』と書いてあるからです」と記されています。

 これは、まったく一方的に与えられた神の恵みです(エフェソ書2章8節)。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(第一テモテ書2章4節)。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ書4章10節)。

 キリストを信じる信仰とは、この神の愛を受け止めることです。神がこの私を愛して下さっているんだと。そして、神に感謝することです。私を愛して下さって有難うございますと。そして、神を愛することです。主よ、私もあなたを愛しますと。神が、「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(6章6節)と語っておられる通りです。

 今日も、神は私たちを助け導いて下さいます。その神の御言葉を聞いたときに、心を頑なにせず、「はい」と答えて従いたいと思います。心の真ん中に主イエスを迎え、主の御心を絶えず中心に受け止めたいと思います。「愛」という漢字は、「心」を真ん中に「受ける」と書きます。神の愛を頂き、神を愛する者とならせて頂くのです。

 主よ、絶えず御顔を慕い求め、主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。その深い御旨を悟ることが出来ますように。御言葉と御霊の御導きに従うことが出来ますように。そうして、主の御心がこの地になされるために用いられますように。 アーメン


2月20日(月)の御言葉 「三日目に立ち上がらせてくださる」

「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」 ホセア書6章2節


 1節に、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」という悔い改めの言葉が記され、続けて、「我々は知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」(3節)と、信仰を表わす言葉が語られます。

 けれども、新共同訳はこの段落の小見出しを、「偽りの悔い改め」としています。それは4節で、「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と、神が断罪されているからです。

 何がイスラエルの民に悔い改めの言葉を口にさせたのでしょう。これまで語られてきたイスラエルに対する裁きの言葉に恐れをなしたのでしょうか。「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5章15節)という御言葉に応答したのでしょうか。

 しかしながら、その悔い改めの言葉に対して、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる」(4,5節)と言われます。主の憐れみと慈愛の御顔を尋ね求めたのに、主の答えはイスラエルの断罪であり、裁きでした。これは、厳しい言葉です。そして、私たちの心をよく知っておられるお方の言葉です。

 事実、ホセアが預言者として働いた時代、ヤロブアム2世を筆頭に、ゼカルヤ、シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア、計7人の王たちは、列王記下14章27節以下にその生涯が短く紹介されていますが、治世が1ヶ月と短かったシャルムを除き、「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を離れなかった」と評されています(同14章24節、15章9,18,24,23節、17章2節)。

 主イエスが弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と話されたとき(マルコ福音書14章27節)、使徒ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同29,31節)と答えました。

 それは、本心であったと思います。けれども、弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまい(同50節)、ペトロも、翌朝を迎えるまでに、「そんな人は知らない」と三度も、最後には呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスとの関係を否定してしまったのです(同68,70,71節)。

 それは、他人事ではありません。実際に口でそのように言うことはなくても、私たちの行動で、態度で、およそ「イエスなど知らない」と語り続けているのではありませんか。

 イスラエルの人々は、冒頭の言葉(2節)のとおり、「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」、と語りました。なぜ二日の後に生かされると語り得たのでしょう。「三日目に立ち上がらせてくださる」とは、何を根拠にしたものでしょう。「苦しみの短からんことを」という期待を込めた言葉なのでしょうか。ただ、4節以下から、神はこの言葉を民の悔い改めと信仰の言葉として聞かれたとは思われません。

 にも拘らず、この言葉は重要な意味を持っています。パウロが、この言葉を念頭において、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(第一コリント15章4節)と記しています。つまり、この言葉を、主イエスの復活の預言と解釈したわけです。それは、主の贖いの業の完成であり、それにより、救いの道が開かれたということです。

 そうすると、イスラエルの民の願い、祈りが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して成就したことになります。まさに、すべてのことは益となるということを明示している出来事です。そして、ここに神の愛があります。

 思いを起させ、実現に至らせて下さる主の御言葉に耳を傾け、その御心に従って歩む者とならせて頂きましょう。


 主よ、深い愛と憐れみをもって私たちを守り導いて下さることを感謝します。絶えず、「我々は知ろう、主を知ることを追い求めよう」と語らせ、全身全霊をもって真実に神を愛することを学び、実行させて下さい。弱い私たちを助け、常に信仰に立つことが出来ますように。 アーメン



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