風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2012年01月

1月31日(火)の御言葉

「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く。」 エゼキエル書46章2節


 45章13節から、献げ物の規定が述べられています。民が規定に従って献げたそれらの献げ物を(同13~15節)、君主が代表して神の御前にささげるのです(同16,17節)。同18節以下には元日の献げ物、同21節以下には過越祭の献げ物について、記されていました。

 46章には、安息日の献げ物(4,5節)、新月の日の献げ物(6,7節)、巡礼の祭りと定められた祝日の献げ物(11,12節)などが定められています。

 そして、最後に、「あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。あなたは、朝ごとにそれに添えて穀物の献げ物をささげねばならない。すなわち、朝ごとに上等の小麦粉六分の一エファと、それに振りかける油三分の一ヒンである。これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である」(13,14節)と、朝ごとの献げ物について規定しています。このような毎日の献げ物については、出エジプト記29章38節以下などにもその規定があります。

 冒頭の言葉(2節)のとおり、「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く」と記されてあり、君主の務めとして、内庭の祭壇で行われる礼拝、いけにえの奉献に立ち会うことが定められています。

 ですから、君主は、一般の人々の参加が求められている安息日と新月の日、国の定められた祝日(過越祭、五旬祭、仮庵祭など)のほか、毎朝行われる礼拝にも、参加が要請されていることになります。君主が国民の代表だということは、イスラエルの民は、その礼拝に君主の出席をもって共に参加しているのであり、現実には日々の労働に勤しんでいるのですが、国民の日々の生活、労働が、神殿でなされる朝ごとの礼拝によって、守り祝されているというわけです。

 私たちにとって、現在、神の御前に贖いの供え物としていけにえを献げることはなくなりました。それは、贖いの代価をすべて、十字架で主イエスが払って下さったからです。そのことに感謝して、毎日曜日になされる主日礼拝を守り、また、週日半ばに行われる祈り会に出席し、賛美と祈りをささげるのです。

 しかし、それだけでなく、朝ごとに神の御前に進み、自ら御言葉に耳を傾け、静かに神に祈ることは、どんなに大切なことでしょうか。そのために払う犠牲は、決して小さいとは申しません。ときには戦いです。苦しみです。しかし、主が払って下さった尊い犠牲のゆえに、それを行うことが出来ることは、大変感謝なことです。

 パウロが、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」、と語っています(コロサイ書1章24節)。

 ここで、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、主イエスの苦しみには「欠けたところ」、不足している部分がある、というのではありません。キリストが罪の呪いをすべて引き受けて下さったからといって、私たちが苦しむ必要がなくなったというわけではない、キリストに委ねられた使命を果たしていくためには、自分も負わなければならない苦難があるということです。

 けれども、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)。

 主の恵みに感謝し、朝ごとに神の御言葉を聴き、示された御言葉に従って歩ませていただき、それによって他とは比べることの出来ない、信仰による栄光の世界を仰がせて頂きましょう。


 主よ、絶えず弱い私たちを助け、励まして下さり、有難うございました。感謝をもって毎週の礼拝、祈り会を守り、朝ごとに主の御前で御言葉を聴き、祈りをささげることを喜びとします。そして、主の恵みの招きに、信仰をもって応答することが出来ますように。 アーメン




1月30日(月)の御言葉 「最も聖なる聖所を設け」

「あなたは、この地域から長さ二万五千アンマ、幅一万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所を設けねばならない。」 エゼキエル書45章3節


 45章で、エゼキエルの見ている幻は、神殿の境内から新しい都へと広がります。

 嗣業の地を分配するときに、先ず、長さ2万5千アンマ(約11.3km)、幅2万アンマ(約9km)の聖なる区域を設けます。そして、その聖域の南半分が祭司たちの住む場所で(3節)、その中心に縦横5百アンマ(225m)の神殿が設けられ(2,3節)、神殿の場所の周囲に幅50アンマ(22.5m)の放牧地が設けられます(2節)。また、聖域の北半分が神殿に仕えるレビ人の住む場所となります(5節)。

 さらに、その南に幅5千アンマ(約2.3km)、長さ2万5千アンマ(約11.3km)を都の所有地とします(6節)。その所有地の中央に4千5百アンマ(約2km)四方の都が置かれ、その周囲に幅250アンマ(約113m)の牧草地が設けられます(48章15節以下)。それから、聖域と都の所有地の東西に君主の所有地が設けられます(7節)。

 君主の土地を除いて、聖域と都の所有地の面積は、縦横2万5千アンマの正方形です。そのほぼ中央に神殿が置かれ、その南に都が置かれており、そして、この神殿と都を挟み、それを守るように君主の所有地が置かれることになります。

 ここに挙げられている以外の土地は、イスラエルの家とその部族に委ねられています(8節)。ヨシュアのときの土地割譲に従い(ヨシュア記15章以下)、エルサレムがその聖域の置かれる場所と考えれば、聖域の北側にベニヤミン族、都の所有地の南側にユダ族が置かれるということになります。

 土地分配が各部族に委ねられたということは、君主の権限が国全体に及んでいるわけではない、ということを表わしているといってよいでしょう。この土地の配分のされ方から、その役割は絶対専制君主ではなく、封建時代の征夷大将軍のような、神殿と都の守護職といったところでしょう。

 この幻がイスラエルの歴史の中で、文字通りに実現したことはありません。けれども、ここに言い表されているのは、新しいイスラエルは、国の中心に神殿を据え、主なる神を礼拝する民として立てられるということです。

 これは、11章17~20節に、「わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と記されていたとおりです。即ち、神御自身が新しいイスラエルの王となられるのです。

 そして、イスラエルの民は、ペルシア王キュロスによって バビロン捕囚から解放され、帰国を果たした後、ゼルバベルとイエシュアに導かれて、まず神殿を建て、神を礼拝することに取り組みました。これを、エゼキエルの預言に従って実現されたこと、と見ることも出来るでしょう。

 これらのことで、私たちは信仰生活の基本を学ぶことが出来ます。それは、主なる神を信じる信仰が私たちの生活の中心であり、信仰が全生活を支えているということです。主の日(日曜日)に教会に集い、1時間余りの礼拝を守ります。

 また水曜日の朝と夜1時間ずつ、聖書の学びと祈りの集いがあります。この礼拝と祈りの集いが、私たちの一週間の生活を支え、またこの礼拝と祈りの集いが、1週間の務め、生活にリズムとアクセントを与えます。

 そして、私たちは日ごとに聖書を開いて神の御言葉に耳を傾けます。私たちは、神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされているからです。そして祈ります。私たちの生活の中心に神を迎え、その導きに従って歩み、主の恵みと平安に与りましょう。

 主よ、特別に聖なる時間というものは存在しませんが、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として、私たちの時間をささげることも、求められていると思います。導きに従い、今日も主の御言葉と祈りの恵みに与る時間を主に献げます。主との交わりがいよいよ豊かになりますように。御心が行われ、御名が崇められますように。 アーメン



1月29日(日)の御言葉 「門は閉じられたままに」

「この門は閉じられたままにしておく。誰もここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。」 エゼキエル書44章2節


 エゼキエルが祭壇の前から神殿の東門のところに連れ戻されると、神の栄光が入ってきたその門が閉ざされていました(1節)。そして、冒頭の言葉(2節)のとおり、「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである」という主の御言葉を聴きました。東門に封印をして出入りを禁ずるというこの言葉から、二つのことが示されます。

 第一に、主のほかに神殿を住まいとするものがあってはならない、後から神々を持ち込むことを許さないということです。かつてイスラエルのひとびとは、異教の神々を祀ってエルサレムの神殿を汚しました(8章)。神殿に仕える祭司たちが、「主の聖所を背にし、顔を東に向けて板。彼らは東に向かって太陽を拝んでいる」(8章16節)という報告もあります。それゆえ、主なる神は神殿を離れられたのでした(10,11章)。そのようなことは、二度とあってはならないということです。

 神殿はただ主なる神のみがお住まいになるところであり、主のみが礼拝されるべき、最も神聖な場所なのです。これは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という十戒の規定をあらためて思い出させられることです(出エジプト記20章3節以下)。

 第二に、主は二度と神殿を離れられることはない、決してここから出て行かれることはないということです。エゼキエルは上に述べたとおり、神の栄光が東の門から去るという幻を見ました(10,11章)。40章以下に新しい神殿の幻を見せられ、43章7節で、「ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と語っておられました。

 そして、一度離れ去った主の栄光が、再び入って来たその門を、閉じられたままにするということは、何があっても、主の栄光はこの神殿を去らない、常に主がご自分の選ばれた民と共におられるという決意をなさって下さったということです。門を閉じられて、主なる神ご自身が、自らの退路を断たれたわけです。

 今日、主イエスを神として信じ受け入れた者たちは、神の子とされ、永遠の命を受け、そして、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿とされました。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい、と教えられています(第一コリント書6章19,20節)。人間が自分で神の栄光を作ることは出来ません。神が聖霊として宿っておられるからこそ、神ご自身の栄光が現されるわけです。

 主なる神が共におられ、私たちの内におられるということは、私たちが常に覚えておかなければならない重要な事柄です。聖霊なる神を悲しませ、その存在を消してしまいたくなるような生活をしていては、神の栄光を表すことは出来ないからです(イザヤ書63章10節、エフェソ書4章30節など)。

 神は、「わたしは、決してあなたを離れず、決してあなたを置き去りにはしない」、と言われます(ヘブライ書13章5節、申命記31章6,8節)。主イエスも、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」、と言われました(ヨハネ福音書14章18節)。そもそも主イエスは、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ福音書1章23節、イザヤ書7章14節)と言われていました。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。

 ヨハネ福音書14章17節には、「この霊(真理の霊)があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」、と記されています。このように、三位一体の神が、いつも共にいて下さると約束しておられるのです。その交わりの豊かさを想像することが出来るでしょうか。主はその恵みを私たちに教え、また味わわせて下さろうとしているのです。

 絶えず主の御顔を拝し、その御言葉に聴き従いましょう。主を愛し、喜んで主に仕えましょう。

 主よ、あなたの憐れみにより、私たちの体を生けるいけにえとして献げます。御言葉と御霊により私たちを清め、あなたに喜ばれるものとならせて下さい。心の一新により、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえることが出来ますように。 アーメン


1月28日(土)の御言葉 「祭壇を贖い、清めて」

「七日の間、彼らは祭壇を贖い、清めて、奉献しなければならない。」 エゼキエル書43章26節


 エゼキエルは、新しく建てられる神殿に、東の方から主なる神の栄光が到来し(2節)、東を向いている門から神殿の中に入り(4節)、そして、神殿を主の栄光が満たしている(5節)という幻を見ました。そして、「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と言われる神の御声を聴きました(7節)。

 エゼキエルは以前、神の栄光がケルビムに乗って、エルサレム神殿を離れるという幻を見ていました(10,11章参照)。イスラエルの背きの罪により、神がエルサレムを裁くため、神殿を離れられたのです。私たちの希望は、神殿やエルサレムの都という場所にあるのではなく、神のご臨在、神が共にいて下さるというところにあるのです。

 「二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない」(7節)という言葉に、かつてのイスラエルの民の、神ならぬものを信仰する偶像礼拝、あるいは、真の神よりもエジプトの力を頼りとしたという背きの罪が示されています。そのために、エルサレムは陥落、神殿は破壊され、町が火で焼かれてしまいました。

 エルサレムを離れた神の栄光が、再び神殿に満ちる様を見たということは、神がもう一度ご自身の都として、エルサレムを選ばれたということです。そして、「わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と言われて、イスラエルの民のエルサレム帰還の夢が適うことを示されたわけです。それは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民にとって、どんなに希望と励ましを与える幻でしょうか。

 ただし、この幻が実現するには、一つの条件が示されます。9節に、「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」、と言われています。それは、背きの罪を悔い改めなさい、ということです。

 神は、エゼキエルに祭壇の寸法を示されました(13節以下)。祭祭は、拝殿の前に置かれています。それは、罪深い人間がそのままで、聖なる神に近づくことは出来ないこと、贖いの献げ物によって清められた後、神を礼拝するため、拝殿に入ることが許されるということです。

 そうして主は、冒頭の言葉(26節)のとおり、その祭壇を清めるため、7日の間、毎日、贖罪の献げ物の雄山羊と、若い雄牛と無傷の雄羊をいけにえとして献げるように命じられました(18節以下)。私たちの罪を贖ういけにえをささげる祭壇を贖い清めるということは、神に近づくために、いかに徹底的に自らを清めなければならないかということでしょう。

 今あらためて、神の愛と憐れみに感謝致します。神は、神に背いて罪を犯す私のために、神ご自身が贖いの献げ物をささげて下さいました。その献げ物は、聖なる聖なる聖なる万軍の主なる神の独り子イエス・キリストで、その祭壇はキリストの架けられた十字架です。

 そのゆえに、私たちは自分で献げ物をする必要がなくなったのです。私たちは、イエス・キリストのささげられた十字架という祭壇を通って、子どもも大人も、女も男も、ユダヤ人も異邦人もみな、はばかることなく神に近づくことが出来るようになりました(ヘブライ書10章19節以下、22節)。いつでも親しく神と交わることが出来るようになったのです。

 この恵みを無駄にすることがないように、畏れの心をもって絶えず主の御前に進み、感謝と賛美のいけにえをおささげしましょう(同13章15節)。日毎に新しく、主の御言葉を聴かせて頂きましょう。絶えず、聖霊に満たされ続けましょう(エフェソ書5章18節)。


 主よ、どうか私たちの心においで下さい。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御救いの喜びを絶えず私たちに味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。主のご愛で満たして下さい。そして主よ、この口を開いて下さい。あなたへの賛美を歌います。 アーメン



1月27日(金)の御言葉 「聖なるものを区別する」

「彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。」 エゼキエル書42章20節

 エゼキエルは主の使いに連れられて、神殿の外庭に出ます(1節)。そこでエゼキエルは、拝殿の北と南に二つの大きな部屋があるのを見ました。

 13節に、「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である」と記されています。この後の数節にも、「神聖」という言葉が繰り返し用いられています。これには、エゼキエルがかつて見たエルサレム神殿の堕落した様子が反映していると思われます(8章参照)。

 その部屋は、「主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる」場所であり、「穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物を置く」場所です(13節)。この場所で、神に献げられた最も神聖なものを祭司たちが食べて、その神聖な務めにつくようにされていたわけです。

 冒頭の言葉(20節)に、「(この神殿は、)聖なるものを俗なるものから区別するために設けられた」とあります。つまり、神は、俗なるものによって汚すことの許されない、聖なる聖なる聖なるお方だということです(イザヤ書6章3節)。

 エフェソ書2章11節以下に、「隔ての壁が壊された」(同14節)という記事があります。かつての神殿には、異邦人や女性、子どもとユダヤ人男性を隔てる壁があり、そして祭司だけが入れる聖所(拝殿)、そして、選ばれた大祭司が一年に一度だけ入れる至聖所(奥殿)と、人を区別する壁が幾重にも建てられていました。

 しかし、キリストが神殿の垂れ幕を真っ二つに裂かれて(マルコ福音書15章38節、ヘブライ書10章20節)、この壁が壊されました。今や、神を信じる者に異邦人とユダヤ人、男と女といった区別はなくなり(ガラテヤ書3章28節)、すべての者が父なる神に近づくことが出来る(エフェソ書2章18節)、と教えられています。

 しかし、壁が壊されたからといって、聖と俗の区別はどうでも良くなったというわけではありません。神は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ書13章8節、マラキ書3章6節も参照)。

 パウロは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(第一テサロニケ4章3節)と語り、ヘブライ書10章10節には、「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と記されています。

 私たちは、「使徒や預言者という土台」(エフェソ2章20節)、つまり、使徒や預言者によって語られた神の御言葉を基盤とする生活をします。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4章4節、申命記8章3節)と書いてあるとおりです。祭司たちが神聖なものを食べて主の務めを果たしたように、私たちも、神の御言葉を食べて、主の僕としての務めを果たさせて頂くのです。

 私たちは主イエスを信じてバプテスマを受けたとき、キリストを着せて頂きました(ガラテヤ書3章27節)。それは、主イエスを信じるすべての者を清めるため、主がご自分の肉を裂き、尊い血潮を流して下さったということであり、主イエスにあって、新しく生きる者とされたということです。先のヘブライ書の引用箇所に言われるとおりです。

 また私たちは、生ける神の神殿とされました(第二コリント書6章16節)。私たちの内に聖なる神の霊が宿っています(第一コリント書3章16節、6章19節)。これは、個々人のことではなく、神の教会を指しています。聖霊の働きによって、御言葉を土台として、主イエスを中心に、主を信じる信仰に導かれた者たちが互いに組み合わされて、聖なる神殿として建て上げられて行きます(エフェソ書2章20,21節)。

 聖霊の内住により、キリストの体として立てられた教会の働きを通して、神の栄光を表わすことが出来るように、今日も御言葉を聴き、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御子の贖いによって神の家族に加えて下さり、感謝します。私たちを日々御言葉によって養い、御霊の働きを通して、神の栄光を表わす神の住まいとして建て上げて下さい。 アーメン



1月26日(木)の御言葉 「ケルビムとなつめやしの模様」

「入り口の上まで、また神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた。」 エゼキエル書41章17,18節


 神殿の幻を見せられているエゼキエルは(40章参照)、その幻の中で、いよいよ、神殿の最も神聖な場所にやって参りました。拝殿(聖所)に入り(1節)、さらにその奥の至聖所の前に進みます(4節)。

 通常、至聖所は、選ばれた大祭司が一年に一度、大贖罪日に入ることを許された場所です(レビ記16章、23章26節以下)。エゼキエルは祭司の家系に生まれた者なので(1章3節参照)、拝殿には入れましたが、至聖所の中に入ることは出来なかったのでしょう。

 そこで、彼を案内している神の使いが至聖所に入って寸法を測り(5節)、エゼキエルに教えます。至聖所の中には何があるのか、ここには何も記されていません。

 冒頭の言葉(17,18節)に、「神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた」という報告があります。これは、ソロモンの神殿にも見られたものです(列王記上6,7章参照)。

 なつめやしの実は食用で栄養価が高く、甘味料としても貴重なものです。この木は、太陽の灼熱にも霜が降りる寒冷にも耐えますが、生育に多量の水分を必要とするため、河川や湖沼の岸辺に好んで生息するので、荒れ地で水の所在を示す徴ともなります(出エジプト記15章27節)。

 また、木の美しさと相俟って、なつめやしは繁栄や優美さの象徴とされています(詩編92編13節、雅歌7章8,9節など)。なつめやしはヘブライ語で「タマル」と言いますが、これは、婦人の名前としてもよく知られています(創世記38章6節など)。

 ケルビムは、「ケルブ」(詩編18編11節)の複数形で、人間の顔、獅子の体、鷲の翼を持つ天的な存在として、描かれています。サムエル記下22章11節(詩編18編11節)には、「(主は)ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる」と記されており、神が移動されるときの乗り物として、神の臨在を表していると考えられます。

 また、神はエデンの園の中央にある命の木を守るために、園の東にケルビムを置かれました(創世記3章24節)。神殿の壁に刻まれた模様で、ケルビムの顔がなつめやしの方を向いているというのは(18,19節)、ケルビムがなつめやしを守っているということでしょう。つまり、創世記との関連で考えると、なつめやしが命の木の象徴とされていることになります。

 かつてエデンの園は、神が人を連れて来て住まわせ、神と相見え、交わることの出来るようにされた場所でした(創世記2章8,15節以下)。ところが、人は神に背いて罪を犯し(同3章1節以下)、そこを追い出されてしまいました(同23節)。その後、神と相見え、交わる場所は、神殿の拝殿の奥の至聖所に限定され、しかもそこは、選ばれた者が一年に一度しか近づけない場所になっていました(レビ記16章参照)。

 勿論、神がその至聖所から外に出ることが出来ない、ということではありません。神は、どこにでもおられます。しかしながら、いつでも、どこででもお会い出来るという存在でもありません。至聖所が拝殿の奥に配置され、それを聖所(拝殿)、内庭、内壁、外庭、外壁で守っているのは、それは汚れた人間が汚れたままで神と触れ合い、交わることが出来ない、神は聖にして聖なる方であるということを示しているわけです。

 しかしながら、主イエスが十字架にかかって死んで下さったとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節ほか)。それは、私たちが神に近づく道を開くことでした。主イエスがご自身を贖いの供え物として、私たちを罪の呪いから解放して下さり、主イエスを信じる者が神の子として、神と親しく交わることが出来るようにして下さったのです。

 ヘブライ人への手紙の記者は、垂れ幕とはキリストご自身の肉のことで、主がご自分の肉を裂いて新しい生きた道が開かれたのだから、主を信頼して、真心から神に近づこうと奨めています(10章19節以下参照)。

 主の御言葉に従い、絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰をもって神に近づきましょう。その恵みに与りましょう。

 主よ、御子イエスが十字架において、私たちのために命の代価を払われ、救いの道が開かれ、親しい交わりに招いていて下さることを感謝致します。御言葉と祈りを通して、絶えず新たに主の恵みを味わわせて下さい。 アーメン



1月25日(水)の御言葉 「神殿の前には祭壇が」

「彼が内庭を測ると、長さは百アンマ、幅も百アンマの正方形であり、神殿の前には祭壇があった。」 エゼキエル書40章47節


 1節の、「我々が捕囚になってから25年、都が破壊されてから14年目」とは、紀元前573年のことで、それは、エゼキエルが預言者として召されて20年後ということになります(1章1節以下参照)。「その年の初めの月の十日」、即ち3~4月ごろのこと、エゼキエルに主の手が臨み(1節)、幻によってイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に降ろされました(2節)。本書において、イスラエルの高い山は、エルサレムを指しています。

 エゼキエルはそこに、神殿の幻を見ます(5節以下)。この幻が、本書の末尾、48章まで続いています。

 かつて、エルサレム神殿に異教の偶像が祀られていて、そのために神の栄光がエルサレムを去ったのをエゼキエルは見ていました(8~10章)。そして、エルサレム神殿は破壊されました。祭司の家系に生まれ、祭司となるべく備えていたエゼキエルにとって、神殿が汚されていること、それゆえに破壊されてしまうというのは、悔やんでも悔やみきれない思いだったのではないでしょうか。

 ところが今、エルサレムに建設された新しい神殿が見せられたのです。その神殿は周囲を分厚い壁に囲まれており、東、南、北に門があります。門の手前に階段があり(6節)、それを7段上がって門から入ると外庭があります(17節)。そして、その庭の一段高くなっているところに内壁があり、手前の階段を8段上がって(31節)門を入ると、内庭があります(28節)。その内庭の一段高いところに拝殿(聖所)があります(41章1節)。

 冒頭の言葉(47節)によれば、内庭の拝殿の前に祭壇が置かれています。この祭壇で贖いの犠牲をささげてから、神殿の最も重要な場所=拝殿へと近づくのです。ここから10段の階段を上がったところが拝殿の玄関の間、神殿の廊です(49節)。この廊を通って聖所へと入ります。

 エゼキエルは、神殿の西を除く三方にある門の構造や、壁に沿って設けられた神殿で働く者たちの控え室の構造などを、一つ一つ丁寧に調べながら、階段を上がって、次第に拝殿=聖所に近づいて来ました。ここに記されている神殿の構造や大きさなどは、読者にとってどれほどの意味があるのかと思われます。けれども、エゼキエルにとっては大変興奮することだったと思います。それは、神によって建てられた新しい神殿なのです。

 神殿が厚い外壁で囲われ、そして、内壁で外庭と内庭が分けられ、内庭の中に拝殿=聖所が置かれているという構造は、神の神聖を侵すことは出来ないことを示します。神殿の造りの緻密さ、精巧さは、神の御業の素晴らしさを物語っています。そして、7段上って外庭、8段上って内庭、10段上って拝殿と、順次、階段を上って神域に近づくのは、神に近づくときの心の高まりを表しているといってよいでしょう。

 エゼキエル自身が、実際に再建された新しいエルサレムの神殿で礼拝することは考えられません。彼は今、バビロンに捕囚となっています。そして、ペルシアの王キュロスによってイスラエルの民が捕囚から解放されるのは、BC538年です。つまり、これからなお35年という長い年月が必要なのです。

 この幻を見ているとき、エゼキエルは既に50歳になっていました。けれども、神殿の幻が与えられたというのは、神がイスラエルの民と共におられるという徴であり、そして、もう一度、まことの神を礼拝する民が再建されるということを意味しています。8章以下で、イスラエルの罪のために、神がエルサレムの都を離れられることを告げていたように、ここでは、神が再びエルサレムに帰って来られることを告げるのです。

 私たちのような異邦の民が、神を礼拝する新しいイスラエルの民とされるために、主イエスが十字架に贖いの供え物としてご自分を献げて下さいました。それゆえ私たちは、主イエスに感謝して、毎日曜日に主なる神に礼拝を献げるのです。

 拝殿(聖所)には、私たちの祈りを象徴する香壇と、御言葉を象徴するパンを置く机が置かれています。御言葉と祈りを通して至聖所に進み、そこで主の御顔を拝し、主との親しい交わりを持たせていただくのです。

 毎日、聖書を開きましょう。賛美しましょう。祈りましょう。神の御声を聴きましょう。


 主よ、私たちの日毎の礼拝を祝福して下さい。静かに祈る時を祝福して下さい。心から主を誉め讃えることが出来ますように。 アーメン



1月24日(火)の御言葉 「ヤコブの繁栄を回復し」

「今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。」 エゼキエル書39章25節

 38章に続き、39章にも、「メシェクとトバルの総首長ゴグ」(1節)に対する預言が語られています。「メシェクとトバル」はマゴグのことで(38章2節)、マゴグとは、城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、イスラエルを襲って来る敵の総称だと、昨日学びました。総首長ゴグは、マゴグの王です。

 神はゴグを徹底的に裁かれます(3節以下)。イスラエルに攻め寄せた軍隊は、山や野で倒れ、猛禽や野の獣の餌食となります(4,5節)。彼らの国マゴグと海岸地方には、火を送ると言われます(6節)。

 イスラエルの民は、廃棄された武器を薪として7年間燃やし続けます(9,10節)。そして、侵入者たちの埋葬には7ヶ月を要し、谷が死者で埋め尽くされると言います(11節以下)。こうしてイスラエルに終末的な平和が訪れるわけです。薪とされた武器には、イスラエルの民が持っていたものも含まれているのでしょう。

 冒頭の言葉(25節)に、「ヤコブの繁栄を回復する」という言葉があります。これは、象徴的な意味を持つ言葉です。イサクの子ヤコブは、かつて長子の権と父の祝福を、双子の兄エサウから奪い取り(創世記25章27節以下、27章1節以下)、その怒りを買っため(同27章41節)、叔父(母リベカの兄)ラバンの住む、遠いハランの地に逃れます(同43節)。

 ベエルシェバからハランまで約800キロメートル、故郷を離れて一人、徒歩で北の国への逃避行です。それは、どんなに心細いものだったでしょうか。「後悔先に立たず」とはまさにこのことかと、思い知らされたことでしょう。

 ところが、ヤコブは一日歩いて野宿したルズ(エルサレムの北およそ20Km、アイの西にある町、ヘブライ語で「アーモンド」の意)で、神の幻を見、神の声を聴きました。それは、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」という約束でした(同28章15節)。

 ヤコブはその幻を見、御声を聞いたところに記念碑を建てて油を注ぎ、そこをベテル(「神の家」という意味)と名付けました(同16節以下、19節)。神が、孤独と不安の闇に包まれていたところを、祝福の神の家に変えて下さったということです。

 そして、約束どおり神はヤコブを祝福されたので、旅に出たときにはほとんど無一物でしたが、やがて二人の妻に二人の側女、12人の息子、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやロバなどを持つ者となったのです(同29,30章、32章15,16,23節)。それは、神がヤコブに一方的にお与えになった恵みの賜物です。

 ヤコブに、それを受け取る資格や権利があったわけではありません。むしろ、ヤコブのしたことは、神から裁かれるようなことでした。だから、ヤコブは故郷のベエルシェバを離れ、ハランで苦しい経験をしなければなりませんでしたし、母リベカの死に目には立ち会えませんでした。しかし、神はその苦しみを顧みて、ヤコブに恵みをお与えになったのです。

 今ここで預言者エゼキエルが、「ヤコブの繁栄を回復する」と告げているのは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民の苦しみを神が顧み、ヤコブに約束されたとおり、神が民と共にいて、守り、そして、イスラエルの地に連れ帰って下さるという、希望に満ちた約束なのです。

 ここであらためて教えられるのは、その恵みをお与えになる主なる神との交わりです。私たちに必要なのは、国土や財産ではなくて、共にいてお守り下さる神ご自身です。

 神は、「わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。たしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」(28,29節)と言われます。

 神の御顔を仰ぐことを楽しみとし、私たちのうちにお住まい下さる御霊なる神との祈りと御言葉による交わりが何よりも嬉しいこととなるように、信仰の道に精進したいと思います。


 インマヌエルなる主よ、御名のとおり、常に私たちと共にいて、私たちを守り、御国に連れて行って下さるという御約束を感謝します。どうぞ御言葉どおりこの身になりますように。そうして、主こそ神であることをすべての民が知るようにして下さい。 アーメン


1月23日(月)の御言葉 「ゴグよ、お前に立ち向かう」

「主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。」 エゼキエル書38章3節


 38,39章には、マゴグのゴグに対する預言が記されています。マゴグがどこにあるのか、どの時代に登場した国なのか、今はよく分かりません。アッシリアのことだろうとかバビロンだとか、ギリシアのアレキサンダー大王とかローマ帝国、はたまた、これは現代の預言で、第二次世界大戦中のドイツになぞらえたり、あるいはロシアのことという解釈もあるそうです。

 6節、15節の「北の果て」という言葉から、イスラエル北方の脅威だった国々や、1節の「メシェクとトバル」という町の名前からの類推で色々と取りざたされているようです。しかし、この章でエゼキエルは、具体的にどの国がイスラエルを攻めてくるのかということを問題にしているのではないでしょう。

 37章において、「枯れた骨の復活」の幻を通して、神の民イスラエルの回復が語られました。実際に、ペルシアのキュロス王により、捕囚から解放されてエルサレムに戻り、国を建て直すことが出来ました(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 そのとき、バビロンを滅ぼして新しい盟主となったペルシアの他、イスラエルの脅威となる国々が周囲に存在しています。そうした脅威に対して、イスラエルは「囲いのない国」、「城壁もかんぬきも門もない」、つまり、自分で自分を守る術を持たない国です(11節)。

 しかしながら、イスラエルの国は、そこで安らかに生活することが出来るというのです。彼らは、バビロンによって滅ぼされ、一度エルサレムは廃虚にされました。けれども、再び建て直されて人が住むようになり、家畜や財産を持つようになると言われるのです(12節)。

 周囲の脅威が取り除かれたのではありません。攻めて来る国がなくなったからでもありません。城壁もかんぬきも門もないことに目をつけて、襲ってくる敵があります。それが、マゴグです。ということは、どこと名指ししているのではなく、そのようにして襲って来るものの総称を、マゴグと考えたらよいでしょう。

 襲って来る者がいる。しかし今、自分で自分を守る術がない。そのようなとき、どうしますか。とりあえず、頑丈な城壁を築きたいでしょう。より強力な軍備を持ちたいかもしれません。北朝鮮が核で武装するなら、その対抗上、韓国に核兵器の配備をと、非核三原則の国是に反することを日本の国務大臣が言って、物議を醸したニュースが以前にありました。今はむしろ、日本も核を保有すべきだという考え方をする政治家も、決して少なくないと思います。そう考えるのが当然なのでしょうか。そうすべきなのでしょうか。

 北朝鮮による拉致被害というのは、まさに、囲いのない国で安らかに生活していた日本人に目をつけたという、非道な行為です。それについて、国として、毅然とした対応を求めるのは当然と言わざるを得ません。ただ、60数年前、アメリカの経済封鎖により、我が国は太平洋戦争へと突き進みました。それと同じ愚を繰り返さないように、慎重に対応して欲しいと思います。

 聖書は、そこに神がおられるというのです。マゴグの王ゴグに対して、冒頭の言葉(3節)で、「わたしはお前に立ち向かう」と言われました。神は、イスラエルが囲いのない国、城壁やかんぬきや門がない国であることをご存知です。そして、そのような中で安らかに生活している民に目をつけて、略奪をほしいままにしようと目論む者がいることもご存知です。そこで神がゴグに立ち向かい、イスラエルを守って下さるというのです。

 神様が味方して下されば、それ以上に心強いことはありません。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ書8章31節)と、パウロが語っているとおりです。

 主イエスは、「わたしは羊の門である」と言われ(ヨハネ福音書10章7節)、また、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同11節)と言われました。主イエスが私たちの囲い、閂のある門となり、私たちを守るために命を捨てて下さるというのです。主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。


 私たちの羊飼いとして、囲いとなり、門となって下さる主なる神様、心から感謝し、御名を褒め称えます。今日も私たちを正しい道に導いて下さることを感謝します。私たちが道を外れないよう、絶えずお守下さい。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン



1月22日(日)の御言葉 「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 エゼキエル書37章4,5節


 37章には、預言者エゼキエルが主の霊に導かれて見た幻が記されています。

 そのときエゼキエルが見たのは、無数の骨でいっぱいになっている谷でした(1節)。その骨は、「甚だしく枯れていた」と言われます(2節)。触っただけで壊れてしまうような状況ということです。主なる神はこれを、「これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『われわれの骨は枯れた。われわれの望みはうせ、われわれは滅びる』と」、と解説しておられます(11節)。

 この言葉から、エゼキエルがこの幻を見たのは、エルサレムが陥落したという報告が届いた第12年10月5日(紀元前585年1月ごろ:33章21節以下を参照)以降だと思われます。つまり、バビロンで奴隷生活を送っている捕囚民にとって、エルサレムが陥落したという報せは、すべての希望が断たれたことを意味していたのです。

 彼らは、エルサレムには壮麗な神殿があり、そこに神がおられて、最後にはイスラエルを救って下さると考えていました。また、エジプトが、バビロンを滅ぼしてくれるものと期待していたのではないでしょうか。しかし、エジプトの援軍はエルサレムに届かず、イスラエルのために神風は吹かないまま、ついに命運つきて滅びてしまったのです。その報せを受けた捕囚の民は、まさに生ける屍というような精神状態になっているわけです。

 主は預言者エゼキエルに、冒頭の言葉(4節)のとおり、その骨に向かって、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語らせます。神の御言葉こそ、私たちの道の光であり、その歩みを照らす灯です(詩編119編105節)。御言葉は私たちに命を得させます(同119編25,107節)。私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません(第二コリント4章8,9節)。神が前からも後ろからも私を囲み、御手を私たちの上に置いて恵みを与えて下さるからです(詩編139編5節)。

 主はさらに続けて、「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る」(5節)と語らせました。初めに神が人間をお創りになるとき、土の塵で人を形づくられた後、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。

 ここで、枯れた骨に霊を吹き込むというのは、もう一度神の息を吹き込んで、枯れた骨を生き返らせよう、御言葉に聴き従う真の神の民を再創造しようと言われるのです。

 エゼキエルが主の命じられたとおり預言すると、骨が組み合わされ、筋と肉が生じ、皮膚が覆いました(7,8節)。さらに霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、生き返りました(9,10節)。

 主イエスがお甦りになって弟子たちにそのお姿をお見せになったとき、彼らに息を吹きかけながら、「聖霊を受けなさい」、と言われました(ヨハネ福音書20章22節)。これは、神が命の息を吹き込まれて人が生きる者となったことになぞらえ、主の弟子たちが聖霊の息吹を受けて、世界宣教の使命に生きる者とされたことを示しているのです(同21節、使徒言行録1章8節参照)。

 私たちの真の希望は、まさしく主なる神にあります。主が御言葉を通して、私たちに信仰を与えて下さいます。希望を与えて下さいます。それにより、苦難をさえ喜びとすることが出来ます。それは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ書5章1~5節)。

 聖霊は、私たちの救いの保証であり(第二コリント書1章22節、私たちが神の子とされていることを、証明して下さいます(ガラテヤ書4章6節)。また、弱い私たちのために呻きをもって執り成し(ローマ書8章26節)、それによって万事が益となるようにされます(同8章28節)。

 主の御言葉を聞きましょう。心を聖霊に満たして頂きましょう。

 主よ、絶えず私たちに御言葉を与えて下さい。私たちの心を聖霊で満たして下さい。主は、求める者によいものを、特に聖霊をお与え下さると約束して下さいました。求めたとおりに与えられたことを信じて感謝します。 アーメン


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