「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く。」 エゼキエル書46章2節
45章13節から、献げ物の規定が述べられています。民が規定に従って献げたそれらの献げ物を(同13~15節)、君主が代表して神の御前にささげるのです(同16,17節)。同18節以下には元日の献げ物、同21節以下には過越祭の献げ物について、記されていました。
46章には、安息日の献げ物(4,5節)、新月の日の献げ物(6,7節)、巡礼の祭りと定められた祝日の献げ物(11,12節)などが定められています。
そして、最後に、「あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。あなたは、朝ごとにそれに添えて穀物の献げ物をささげねばならない。すなわち、朝ごとに上等の小麦粉六分の一エファと、それに振りかける油三分の一ヒンである。これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である」(13,14節)と、朝ごとの献げ物について規定しています。このような毎日の献げ物については、出エジプト記29章38節以下などにもその規定があります。
冒頭の言葉(2節)のとおり、「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く」と記されてあり、君主の務めとして、内庭の祭壇で行われる礼拝、いけにえの奉献に立ち会うことが定められています。
ですから、君主は、一般の人々の参加が求められている安息日と新月の日、国の定められた祝日(過越祭、五旬祭、仮庵祭など)のほか、毎朝行われる礼拝にも、参加が要請されていることになります。君主が国民の代表だということは、イスラエルの民は、その礼拝に君主の出席をもって共に参加しているのであり、現実には日々の労働に勤しんでいるのですが、国民の日々の生活、労働が、神殿でなされる朝ごとの礼拝によって、守り祝されているというわけです。
私たちにとって、現在、神の御前に贖いの供え物としていけにえを献げることはなくなりました。それは、贖いの代価をすべて、十字架で主イエスが払って下さったからです。そのことに感謝して、毎日曜日になされる主日礼拝を守り、また、週日半ばに行われる祈り会に出席し、賛美と祈りをささげるのです。
しかし、それだけでなく、朝ごとに神の御前に進み、自ら御言葉に耳を傾け、静かに神に祈ることは、どんなに大切なことでしょうか。そのために払う犠牲は、決して小さいとは申しません。ときには戦いです。苦しみです。しかし、主が払って下さった尊い犠牲のゆえに、それを行うことが出来ることは、大変感謝なことです。
パウロが、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」、と語っています(コロサイ書1章24節)。
ここで、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、主イエスの苦しみには「欠けたところ」、不足している部分がある、というのではありません。キリストが罪の呪いをすべて引き受けて下さったからといって、私たちが苦しむ必要がなくなったというわけではない、キリストに委ねられた使命を果たしていくためには、自分も負わなければならない苦難があるということです。
けれども、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)。
主の恵みに感謝し、朝ごとに神の御言葉を聴き、示された御言葉に従って歩ませていただき、それによって他とは比べることの出来ない、信仰による栄光の世界を仰がせて頂きましょう。
主よ、絶えず弱い私たちを助け、励まして下さり、有難うございました。感謝をもって毎週の礼拝、祈り会を守り、朝ごとに主の御前で御言葉を聴き、祈りをささげることを喜びとします。そして、主の恵みの招きに、信仰をもって応答することが出来ますように。 アーメン