風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年12月

12月25日の御言葉 「額に印を付けよ」

「主は彼に言われた。『都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ』。」 エゼキエル書9章4節


 神は、「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」と大声で呼ばわられます(1節)。すると、6人の男たちが、都を突き崩す道具を手にしてやって来ました。その中の一人は、亜麻布をまとい、腰に筆入れを着けていました(2節)。冒頭の言葉(4節)のとおり、主なる神はその一人に、「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」と命じられました。

 他の者たちには、「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。老人も若者も、おとめも子どもも人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ」(5,6節)と言われます。エルサレムの罪のゆえに嘆き悲しんでいる者の額に印がつけられ、その印がない者は、神の御使いに打たれるのです。

 かつて、イスラエルがエジプトを脱出するとき、エジプト人の家と区別をするために、家の鴨居に小羊の血で印をつけました。その印のつけられた家は、神の使いが災いを下さずに過ぎ越し、印のない家に入って、その初子を打ちました(出エジプト記12章参照)。しかし、今度はイスラエルの民が打たれるのです。

 その幻を見せられたとき、エゼキエルは、「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか」(8節)と、神に助けを求めて執り成し祈ります。つまり、エゼキエルは、印を押される者、即ちこの災いを免れることの出来る者が一人もいないのではないか、と考えたのでしょう。だから、「イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」、と尋ねるのです。

 8章で見たとおり、エルサレムの都には、神を怒らせる異教の偶像が満ちていました。ですから、その町に住む民が神に打たれても文句が言える立場でないことは、承知の上です。主が御使いたちに、「慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない」(5節)と言われた言葉も聞きました。それでもなお、彼は神の憐れみを求めて、祈らずにはいられませんでした。このことは、アブラハムがソドム、ゴモラのために、そこに住んでいるロトとその家族のために、執り成した祈りを思い出させます(創世記18章16節以下)。

 そうこうしているうちに腰に筆入れをつけている者が戻って来て、「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました」(11節)と報告します。印が付けられた者がいるのかどうか報告されていません。けれども、もし印を付ける者が一人もいなかったならば、わざわざ、「あなたが命じられたとおりに致しました」と報告されることもないように思われます。

 かつて、預言者エリヤに対して神が、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(列王記上19章18節)と言われたことがあります。これは、エリヤが、自分以外には、まことの神を礼拝する者は一人も残っていないと考えて意気消沈していたからです。

 ここに、神のご計画は、すべてを滅ぼし尽くすということではない、憐れみ救うというところにあること、神と心を一つにする者を残そうとしておられることが示されます。エルサレムのために執り成すエゼキエルとユダの長老たちの祈りを受けて、憐れみ深い神は、相当の者たちを残されたのではないでしょうか。

 現在、年間3万数千人も自殺する国は、我が国を除く先進諸国にはありません。その原因は、不景気下の労働条件の悪化にあるという見方がある中で、福祉や教育関連の予算を削り、財政健全化の名目で、消費税率を10%にあげようとする政権。震災と津波に襲われた東日本、既に9ヶ月を経過したというのに、原発事故の放射能汚染も深刻さを増して、なかなか復興支援策を具体的に打ち出せないでいる我が国。その背後で、「戦争の出来る普通の国」作りのため、憲法を改正しようという勢力が、虎視眈々と機会をうかがっている国。そのような現状を思って心痛め、嘆き悲しんでいる人々が多くあることでしょう。

 共に、わが日本のために執り成し祈りましょう。


 主よ、日本を憐れんで下さい。あなたの深い愛と憐れみが、わが同胞の上に豊かに注がれますように。国の指導者たちの周りに、まことの神を畏れる者たちを置き、舵取りを誤ることがないようにして下さい。主の愛と平和が人々の心に満たされますように。 アーメン


12月24日キャンドル・サービス



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12月24日(土)午後7時より、クリスマスイブ・キャンドル・サービス(燭火礼拝)を行いました。
新しい会堂になって丸一年が経過し、二度目のキャンドル・サービスの開催です。
初めて教会においで下さった方も含め、68名の来会者でした。

司会者の挨拶の後、ライトが消され、ロウソクに火が灯されました。
講壇の右側に大きなスクリーンが置かれ、ビデオプロジェクターで、讃美歌の歌詞や聖書の言葉が映し出されます。

今年のキャンドル・サービスの説教題は「地に平和」、ルカ福音書2章1~20節からのメッセージです。

「(飼い葉桶の中に)寝ている」(12節)と訳されている「ケイマイ」という言葉は、「(おのが木の根元に)置かれている」(3章9節)、「(石の水がめが六つ)置いてあった」(ヨハネ2章6節)などと訳されています。それが主イエスに対して用いられるのは、もう一度、「(墓の中に)納めた」(ルカ23章53節)という箇所です。
神の御子が、まるでものを扱うように、飼い葉桶の中に寝かされ、墓に納められ、ご自身の持てるすべてのものを私たちに与え尽くして下さったのです。

神は羊飼いたちのもとに天使を遣わし、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げさせられました(9節以下)。
どのような悲しみ、苦しみ、恐れや不安の中にある者に対しても、「民全体に」=「すべての民に」(口語訳)というのですから、もれなく「大きな喜び」、この上もなく大きな喜びを、お与え下さいます。
それが、救い主の誕生の意味であり、目的だというのです。
そのため、御自分の持てるすべてのものを私たちに与え尽くし、十字架に死んで贖いの業を成し遂げて下さり、ご自身は、墓に捨てられてしまわれたのです。

私たちの主イエスのご降誕を、心から喜び祝いたいと思います。


12月18日の御言葉 「あざみと茨に押しつけられ、」

「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 エゼキエル書2章6節


 神の顕現に接して御前にひれ伏しているエゼキエルに、神が語りかけられました。彼は霊によって立たされます(2節)。それは、実際に立ち上がったということよりも、神のために働く預言者として立たされた、ということを表しています。

 立候補すれば預言者になれるわけではありません。人が推薦したり、選挙したりしてなるものでもありません。神ご自身が預言者として選ばれ、神の霊によって立てられるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)というのは、そのことを言っているわけです。

 神はエゼキエルに、「恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と」(4節)と語り、命じておられますが、「主なる神はこう言われる」というその内容は、まだ明らかにされてはいません。まったくの白紙といってよいでしょう。何を語らなければならないのか、今はまだ分かりません。預言者が口を開くのは、自分が語りたいかどうかではありません。神の言葉に同意したから、それに得心がいったからというのでもありません。まさに、神の語られた言葉を、ただそのまま告げ知らせるだけなのです。

 この務めは、決して楽なものではありません。なぜなら、エゼキエルが神の言葉を告げ知らせる相手は、「わたし(主なる神)に逆らった反逆の民」(3節)であり、「恥知らずで、強情な人々」(4節)なのです。ゆえに主は、冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」と言われます。

 これは、恥知らずの民を恐れることなどない、強情な人々など恐れるに足りないということではありません。あざみと茨に押しつけられるのです。蠍の上に座らされるのです。即ち、酷いことをされるということでしょう。痛い目に遭わされるということでしょう。誰が怖がらないでいられましょうか。誰が進んでそんなところに行きたいと思うでしょうか。主の御言葉をそのまま告げ知らせるとき、エゼキエルにはそのような運命が待ち受けているというわけです。恐れに満たされることでしょう。逃げ出したいでしょう。

 しかしながら、エゼキエルには、この使命を拒むことは許されていません。「あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(8節)と言われるのです。彼には、主の御言葉に従うほか、進むべき道はありません。たとえ口に苦くても、それを呑み込むしかないのです。ここに、預言者として召されることの峻厳さを思います。

 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ福音書8章20節)と言われ、また、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられます。私たちは、主イエスの深い愛によって救われました。使徒パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。

 「私ならば出来ます」という勇気も力も、私にはありませんが、主がせよと言われるのでしたら、「お言葉ですから、やってみましょう」と、従わせて頂きたいと思います(ルカ福音書5章5節参照)。私に知恵も力もないことは、主なる神のほうが先刻承知なのですから。その私に、主が「せよ」と言われるということは、そう命じられる主ご自身の権威、権能、権勢をもってそれを成し遂げて下さるということだと信じます。

 主よ、信じます。信仰のない弱いわたしをお助け下さい。聖霊の満たしと導きを通して、万事が益となりますように。願わくは、御名が崇められますように。御国が来ますように。クリスマスの平和と喜びが、日本全土にありますように。 アーメン!


12月11日の御言葉 「ヨヤキンに情けをかけ」

「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の12月25日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。」 エレミヤ書52章31節


 51章の最後に、「ここまでがエレミヤの言葉である」とありますので、52章は後から他者によって付け加えられたもの、ということになります。この箇所は、列王記下24章18節以下の記事を、ほぼそのまま再録したものであり、また、39章にも記されていました。それは、エレミヤの預言が成就したこと、つまり、イスラエルの歴史の中で現実のものとなったということを明らかにするために、載せているわけです。

 ゼデキヤの代に、イスラエルの国はバビロンによって完全に滅ぼされました。王の目前で王子たちが殺され(10節)、その後、王の両目が潰され、バビロンに連行されて、牢につながれました(11節)。また、神殿や王宮が焼き払われ(13節)、城壁が取り壊されました(14節)。エルサレムにいた多くの者が捕囚となりました(15節)。また、神殿や王宮にあった器物、財宝が奪われました(17節以下)。

 28節以下に、捕囚として連れ去られた民の数が28節以下に記されていますが、第一次バビロン捕囚は、列王記下24章14,16節を見ると、少なくとも1万人はいたはずなので、エレミヤ書では、その数がかなり少なくなっています。何故そうなのか、よく分かりませんが、註解者の中には、これは,家族全員ではなく、家長を数えたのではないか、という人がいます。それが、一番理解しやすいものと思われます。

 ところで、52章の最後に、ユダの王ヨヤキンの解放の記事があります。ヨヤキンは、父ヨヤキムの死後3ヶ月、王としてユダを治めたところで、攻めてきたバビロンに降伏し、一万の勇士らと共に捕囚となりました。彼が王となったのが18歳(列王記下24章8節)、そして、37年をバビロンの牢獄につながれて過ごしました(31節)。その間、彼が何を考えていたか、どのように過ごしていたのか、全く分かりません。しかし、37年目の12月25日、突然、牢から出されたのです。それは、バビロンの王エビル・メロダクの即位に際し、囚人であったヨヤキンに恩赦を与えたわけです。

 それは、第一次バビロン捕囚が起こった原因は、ヨヤキンの父ヨヤキムがバビロンに反逆したためで(王下24章1節)、ヨヤキン自身の罪ではなかったから、ということでしょう。また、同じくユダの王として牢獄につながれていたゼデキヤに恩赦が与えられなかったのは、彼がネブカドレツァルによって王位に就けられた者であるにも拘らず(同17節)、バビロンに反旗を翻したためでしょう(同20節)。いわば、ヨヤキンはバビロンに無抵抗だったので、恩赦に与ったわけです。

 マタイ福音書の最初の系図に、「バビロンへ移住させられた後、エコンヤ(ヨヤキンのこと)はシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを」(マタイ1章12節)という記述があります。シャルティエルの子ゼルバベルは、捕囚から解放され、エルサレムに戻って来た一人で(エズラ記2章2節)、ハガイ書1章1節には、「ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベル」と記されていますので、彼の指導の下、この帰国が実行されたことが分かります。

 ヨヤキンが牢を出され、バビロンの王と共に食卓に着くことになったこと、また、ヨヤキンの孫のゼルバベルが総督となって帰国の指揮をとったことは、ユダの民にとって、「あなた(ダビデ)の家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル記下7章16節)という約束が、破棄されてはいないこと、また、「わたしは数え切れない満天の星のように、量り知れない海の砂のように、わが僕ダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人の数を増やす」(エレミヤ33章22節)という預言が、確かなものとされることを意味しています。そしてそれが、主イエスの系図に連なっているわけです。ここに、まことの希望があり、その希望に向けて、歴史は動いて行くのです。

 主よ、ヨシヤ王の子らが悪を行って裁かれました。しかし、ヨヤキンが縄目から解放され、バビロン王の食卓に着いたのは、私たちにとって、主に罪赦されてその呪いから解放され、主と共に食卓に着き、親しい交わりが持てるという徴です。主の恵みに感謝し、その導きに従って歩ませて下さい。主の恵みと慈しみが常に豊かにありますように。 アーメン


12月4日の御言葉 「自分に何か大きな事を期待しているのか」

「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」 エレミヤ書45章5節

 1節に、「ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」とあり、これは、36章1節と同じとき(紀元前605年)です。その意味では、36章8節に続く出来事と考えてよいでしょう。そのとき、神がエレミヤに、預言の言葉を書き記すように命じられ(36章2節)、エレミヤはネリヤの子バルクに口述筆記をさせました(同4節)。そのとき、バルクについて語られた神の言葉をエレミヤが告げたというのが、今日の箇所です。

 3節にバルク自身の言葉が引用されています。これがどのような状況で語られたものか、詳細は分かりませんが、36章の記事との関連で、エレミヤの預言を書き記したとき、ユダとエルサレムに臨む神の裁きを聞いて、苦しみや悲しみを感じたということがあるでしょうし、あるいは、その預言の言葉を主の神殿で読んだとき、祭司や民らがそれに素直に耳を傾けなかったのを、辛く思っているということなのかも知れません。それはまた、エレミヤ自身の悲しみ、苦しみでもありました(15章10節以下、17章14節以下、20章7節以下参照)。

 そればかりか、これは、主ご自身の痛みでもあったのです。主はここで、「わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする」(4節)とバルクに語っておられますが、エジプトの奴隷の苦しみから救い出し、神の民として約束の地に住まわせたイスラエルの民が神に背き、罪を侵し続けているため、その呪いを受けてエルサレムの町が破壊され、神殿は焼かれ、ユダの民は剣か飢饉か疫病か、あるいは捕囚という苦しみを味わわなければならないのです。主の心情は、エレミヤやバルク以上に、はるかに辛く悲しいものであったに違いありません。

 冒頭の言葉(5節)の、「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか」という言葉で、バルクが期待している内容が分かりませんが、あるいは、エレミヤと共に活動することで、評価されることを求めているということでしょうか。「ネリヤの子」について、51章59節に「ネリヤの子であるセラヤ」なる人物が、ゼデキヤ王の宿営の長と言われており、ネリヤがその兄弟であるならば、高い地位を手に入れたいという願いがあったのでしょうか。いずれにせよ、バルクはそれを獲得することは出来ず、かえって人々から疎まれることになりました(43章3節参照)。

 もしもバルクが、人々に好意的に受け入れられ、高い地位に上ることを望むというのであれば、師と仰ぐ人物をとり違えています。また、仮にそのような評価を受け、あるいは地位を手に入れても、この国に神の審きが下ると、それによって一切のものを失うことになってしまいます。

 5節後半に、「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」と言われています。きっと、この言葉のゆえに、36章ではなく、この場所に置かれることになったのでしょう。

 主が語られたとおり、エルサレムの町は破壊され(39章8節)、植えられたイスラエルの民は抜かれてバビロンに移されてしまい(同9節)、残りの民によってエレミヤとバルクはエジプトに連れて来られたのです(43章6節)。43章8節以下、44章まで、エジプトのユダヤ人に下る厳しい裁きの言葉が記されていました。しかしながら、「あなたの命だけは、どこへ行っても守る」と語られているように、バルクは44章14節に記された「少数の難を免れた者」の一人とされたのだと思います。

 この後、バルクがどのような行動をとったのか分かりませんが(たとえばエルサレムに戻ったとか、あるいはバビロンに身を寄せたとか)、彼は生き残り、エレミヤの語った預言の言葉とその生涯の出来事について、後世に書き残すことが出来たのです。その功績は、計り知れません。天において、大きな報いに与ることでしょう。

 主よ、人は皆草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようです。草は枯れ、花は散ります。しかし、あなたの御言葉は永遠に変わることがありません。主の福音によって信仰に導かれた私たちが、御言葉に土台し、御言葉に従って歩み、その真実と恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン



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