風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年11月

クリスマス案内

主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスの季節が参りました。
今年のクリスマスを祝う行事は以下の通りです。

12月15日(木)午前9時 光の子幼稚園クリスマス音楽祭@大牟田文化会館小ホール
12月17日(土)午後2時 恵愛園クリスマス祝会@大牟田恵愛園
12月18日(日)午前11時10分 プレ・クリスマス礼拝
   〃      午後1時30分 クリスマス祝会
12月24日(土)午後4時 光の子幼稚園キャンドルサービス
   〃      午後7時 クリスマスイブ・キャンドルサービス
12月25日(日)午前11時10分 クリスマス礼拝


下記アドレスをクリックすると案内PDFが開きます。
URF http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/xmas'11.pdf 

ご一緒に、まことのクリスマスをお祝いしましょう。

11月27日の御言葉 「お前たちに任せる」

「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」 エレミヤ書38章5節

 4節に、「どうか、この男を死刑にしてください」と、預言者エレミヤの処刑を願う役人たちの言葉が記されています。そして、その理由も、エルサレムを守るために残っている兵士や民衆の士気を挫くようなことを言いふらし、平和を願わず、むしろ災いを望んでいるからだ、と説明しています(4節)。王の許しを得、彼らは「エレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり下ろし」(6節)ました。

 37章でエレミヤが監禁されていたのは、書記官ヨナタンの家の地下牢でした(37章16節)。その原語を調べてみると、「地下牢」は、「水溜めの家」(ベイト・ハッボール)という言葉で、王子マルキヤの「水溜め」(ハッボール)と同じ言葉でした。つまり、水溜めを地下牢としてエレミヤ監禁に利用していたということです。書記官ヨナタンにせよ、王子マルキヤにせよ、エレミヤを捕らえ、亡き者にしようと考えているというところでは、違いはなかったといってよいでしょう。

 その水溜めには、「水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ」とあり(6節)、溺れ死ぬことはないものの、泥に埋まって窒息するかもしれませんし、そのまま長期間放置すれば、9節にあるように、飢えて死んでしまうでしょう。けれども、37章と同様、エレミヤはその水溜めから救い出されます。それは、宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクがエレミヤの助命を嘆願したからです。

 「エベド・メレク」とは、「王の僕」という意味のヘブライ語ですから、宦官になるときに与えられた名前かもしれません。王の周囲にいる人々がエレミヤの命を狙っている中で、この外国人宦官だけがエレミヤに親切をするというのは、とても不思議な光景です。それはまるで、強盗に襲われた人の隣人になったのが、サマリア人だったという、主イエスの「善いサマリア人」のたとえ話のようです(ルカ福音書10章30節以下)。

 ゼデキヤ王は、エベド・メレクの「この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています」(9節)という報告を聞いて、「ここから30人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」(10節)と命じます。ゼデキヤは、ここでエベド・メレクの報告を聞くまで、エレミヤがどのような仕打ちを受けているのか、詳細を知らなかったかもしれません。

 しかし、「どうか、この男を死刑にしてください」(4節)と訴えた役人たちに、冒頭の言葉(5節)のとおり、「あの男のことはお前たちに任せる」(5節)と答えていました。その段階では、王はエレミヤの処刑に加担していたわけです。ただそれは、全面的な賛意ではありませんでした。「王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから」と付け加えている言葉に、王の思いが表われています。つまり、本意ではないが、お前たちがそうしたいというなら仕方ない、といったところでしょう。勿論、だからといって、エレミヤを役人たちの手に委ねた王の責任が不問にされるものではありません。

 後に、水溜めから引き出したエレミヤと密かに会談した際、「あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る」(17節)というエレミヤに、「わたしが恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々のことである。彼らに引き渡されると、わたしはなぶりものにされるかもしれない」と答えています(19節)。

 ゼデキヤは、役人を恐れて自分の思うような政治が出来ず、またユダの民を恐れてエレミヤの言葉に従うことも出来ません。しかし、本来畏れるべき神を畏れず、預言者の語る神の言葉に耳を傾けようとしないので、結局彼は、自分の家族を守ることも(列王記下25章7節)、都を守ることも出来ませんでした(同9節以下)。

 そのようなゼデキヤの態度から、私たちは、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマ書11章22節)というパウロの言葉に耳を傾け、あらためて人を恐れるのではなく、神を畏れるべきこと、御言葉に耳を傾け、その慈しみの翼のもとに留まるべきことを肝に銘じたいと思います。

 主よ、あなたこそ、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」です。そのお方が、しかし、髪の毛までも一本残らず数えるほどに、私たちに絶えず目をとめ、慈しみを与えようとしていて下さいます。主の慈しみのもとに留まり、御言葉の導きに従って歩むことが出来ますように。 アーメン



11月20日の御言葉 「新しい契約」

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」 エレミヤ書31章31節

 冒頭の言葉(31節)に、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」と記されています。この預言の言葉が、主イエス・キリストにおいて成就しました。ルカ福音書22章20節に、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と語られた主イエスの言葉が記されています。これは、キリストが十字架で流された血潮によって、主なる神と、主イエスを信じる人々との間に、新しい契約が結ばれるという表現です。ここに語られている「新しい契約」という言葉から、「新約聖書」(新しい契約の書)なる言葉が作られたのです。

 新しい契約があれば、古い契約もあります。それが記されているのが、「旧約聖書」(古い契約の書)です。古い契約は、エジプトを脱出したイスラエルの民と主なる神との間で、モーセがシナイ山に登ったときに結ばれました。そしてその契約書として、石の板に記された十戒を授かりました(19章5節、24章、31章18節、34章)。

 けれども、イスラエルの民はそれを守ることが出来ませんでした。「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず」(32節)という、結婚関係を思わせる言葉遣いから、その関係を破壊する姦淫の罪が行われたことが示されます。即ち、神ならぬものを神としたということです。ですから、「彼らはこの契約を破った」(32節)という言葉は、単に契約内容を蔑ろにしたということではなく、契約を無効にする違反をあえて行う罪を犯したということを意味しているのです。そのゆえに、イスラエルとユダの民はその家を出され、主人たる神の保護を失ってしまったため、アッシリア、バビロンとの戦いに敗れ、捕囚とされるという結果を招いてしまったわけです。

 ところが、「新しい契約を結ぶ日が来る」と主が言われます。ということは、古い契約を破棄させた罪が赦されたということです。新しい契約の新しさとは、契約内容の新しさではありません。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)というのは、旧約においても、新約においても語られる契約の内容です(創世記17章7,8節、出エジプト記19章5,6節参照)。つまり、契約の新しさとは、まず、授けられ方にあります。古い契約は、石の板に記されていました(十戒:出エジプト記31章18節)。けれども、新しい契約は、その律法が人々の胸の中に授けられ、心に記されます(33節)。それは、新しく神と契約を結ぶ民は、神の御言葉に従うことが、彼らの心にある思いとなる、ということです。

 この契約が、主イエスによって成就したと記しました。そして、主イエスを信じる者は誰でも、この新しい契約を結んだ者とされます。そこでは、民族としてのユダヤ人であるか、そのために割礼を受けたものであるかどうかは、問題になりません。ローマ書2章29節に、「文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」とあり、また、フィリピ書3章3節に、「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と記されています(コロサイ書2章11節以下も参照)。

 ただ、新しい契約が心に記されて、お互いに「主を知れ」といって教えることはない、と言われますが(34節)、主イエスを信じている者は、御言葉を教わる必要がない人々ではありません。むしろ、信仰に熱心な者ほど、御言葉を学びたい、さらに深く主の御心を知るために教えが必要だ、と言います。それは、「主を知る」ということが、単なる知識としてではなく、主を愛し、主との交わりをとおして、人格的に相手を理解するということだから、主を愛すれば愛するほど、交わりを持てば持つほど、さらにそれを深めたいと思うのです。その意味で、契約が心に記されるとは、主イエスを信じて、主イエスを私たちの心の中心、日々の生活の王座にお迎えすることなのです。


 主よ、私たちに信仰の恵みをお与え下さり、感謝致します。私たち人間が神の律法に完全に従うことは不可能です。しかし、人には出来ないことも神には出来ると言われた主イエスを信じ、日毎に主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みます。御心を行わせて下さい。 アーメン


大牟田熊本ブロック教役者会

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11月15日(火)午後2時より、人吉教会で大牟田熊本ブロックの教役者会が開かれました。
有明教会の田中牧師と一緒に、車で出かけました。
人吉教会へは、南九州自動車道を菊水ICから人吉ICまで走る、片道130km、およそ2時間のドライブです。

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第一部は礼拝。
人吉教会の永渕牧師が、ローマ書8章31~39節の箇所から、メッセージを取り次いで下さいました。
その後、しばらく、感想などを分かち合いました。
先生方の御言葉の読み方や体験談など、毎回、楽しみにしているところです。

第二部は、各教会・伝道所の近況報告です。
*東熊本教会が宣教50周年を記念して、初代牧師の藤沢先生ご夫妻を迎え、感謝礼拝を行われました。
その関係で、保田井牧師が教役者会にお出でになれませんでした。
*豊岡伝道所は、駐車場を整備されたそうです。
*山鹿伝道所は、前回話のあった納骨堂が完成し、その写真を見せて下さいました。
*有明伝道所は、先月、豊岡よりアバヤン師を迎え、伝道集会を開かれました(28名参加)。
*大牟田教会は、9月末にゴスペルコンサートとバイブルメッセージの夕べ(129名参加)、そして先週、原田和代チャペルコンサート(59名参加)を開きました。
*人吉教会は、代表執事の早田兄に悪性腫瘍が見つかり、治療されることになりました。
※連合会長より
12月1日:新旧役員会@国分
12月5~7日:連合連絡協議会@浦和
1月9日:天草伝道所教会組織感謝礼拝
2月18日:聖書教育フォーラム@児湯
3月20日:連合総会@大牟田

次回教役者会は、1月24日(火)午後2時から、有明教会を会場に開催致します。




チャペルコンサート

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11月12日(土)午後2時から、原田和代チャペルコンサート「よかった あなたに出会えて」を開催致しました。
59名の方々がおいで下さいました。
賛美のうたごえと、信仰と子育ての体験談に、大きな感動を頂きました。
ソリスト(ソプラノ)の原田和代さん、ピアノの西川美紀さん、おいで下さった皆様に、心から感謝致します。

このときの映像をUSTREAMで配信する試験を行いたいと思います。
11月14日(月)午後2時、午後7時、15日(火)午前9時の3回です。
下記アドレスをクリックして、ご覧になってみて下さい。

http://www.ustream.tv/channel/omuta-baptist-church



11月13日の御言葉 「良いいちじくのように」

「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデヤ人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」 エレミヤ書24章5節


 エレミヤが、神殿の前に置かれていた、いちじくの入った二つの籠を見ました(1節)。それは、幻だったのでしょうか。あるいは、実際に神殿に供えられた献げ物だったのかもしれません。ひとつは、「初なりのいちじくのような、非常に良い」もので、もうひとつは、「非常に悪くて食べられないいちじく」でした(2節)。悪くて食べられないいちじくの献げ物は、それが実際に供えられたものであるなら、形だけの、内容の伴わない供え物ということで、それをささげた人の信仰を、神が喜ばれるはずがありません。

 そのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり主の声があり、「このところからカルデヤ人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう」と言われ、また、「ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする」と言われました(8節)。

 この預言が語られたのは、エコンヤ王(1節、列王記下24章6節以下ではヨヤキン)がバビロンに連行され、ゼデキヤが王として立てられた直後のことではないかと思われます(1節、列王記下24章17節以下)。列王記によれば、ヨヤキンもゼデキヤも、「主の目に悪とされることをことごとく行った」とされており、それゆえ、一方は良いいちじくと言われ、もう一方が悪いいちじくと言われるのは、それが二人の評価ではあり得ません。

 この良し悪しは、バビロンに連れて行かれた人々と、エルサレムに残り、あるいはエジプトに逃れた人々の、行く末に起こることを言い表しているのです。即ち、バビロンに連行された人々は、後にエルサレムに戻ることが許されます。そして、主を知る心が与えられ、彼らは主の民となり、主が彼らの神となると言われます(7節)。これは、神と彼らとの間に新しい契約が結ばれることを示しています(31章31節以下、出エジプト記19章5,6節参照)。

 一方、エルサレムに残り、あるいはエジプトに逃げた人々は、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となり(9節)、剣、飢饉、疫病を送って滅ぼし尽くされます(10節)。

 一方は恵み、一方は呪い、その違いがどこから来たかと問えば、ただ、神がバビロンに連れて行かれた人々を憐れまれたということと答えるほかありません。もしかすると、エルサレムに残された人々は、バビロンに連行された人々のことを憐れに思っていたかもしれません。エルサレムは神の都で、その神殿に神がおられるので、この町にいればこそ神の憐れみに与ることが出来る、と考えていたかもしれません。また、エジプトに逃れた人々は、そこで力をためて、エジプトやイスラエル周辺諸国と共に、再びバビロンに反旗を翻すときを待とうとしていたのでしょう。

 しかしながら、主なる神は、神殿の置かれた神の都、エルサレムという場所が、民に恵みを与えるのではないこと、エジプトの力、周辺の国々の結束などが将来の希望につながるものではないことを、イスラエルの民に悟らせられます。そもそも、イスラエルがバビロンに降伏し、エコンヤ(=ヨヤキン)が捕囚となったとき、エルサレムの町やその神殿は、何の助けにもなりませんでした。ゼデキヤはエジプトや周辺諸国を頼りとして、バビロンに反旗を翻しましたが、結局、町も神殿も、バビロンによって焼かれ、破壊されてしまいます。エジプトに代表される目に見えるものに頼る策は、それが全く信頼に足るものとはならないことを思い知らされる結果となったのです。

 主なる神は、人々がまことの神を知り、真心をもって主に仕え、主を礼拝することを求めておられるのです。主は今、私たちを良いいちじくのように見なし、恵みを与えていて下さいます。主こそ神であることを知り、真心をもって主に仕えましょう。御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、あなたは放蕩息子に、我に返る心をお与えになりました。それは、私のことでもあります。罪人に過ぎない私に恵みを与え、「わが子よ」と呼んで下さいます。その恵みに応え、霊とまことをもってあなたを礼拝する者、その使命に励む者とならせて下さい。 アーメン


11月6日の御言葉 「祝福されよ、主に信頼する人は」

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」 エレミヤ書17章7,8節


 17章の最初の段落(1~4節)では、バアルの祭壇やアシェラ像という異教の神々を祀るユダの人々の罪が指摘され、それゆえ、富と宝を敵に奪われ(3節)、嗣業の地を失い、敵の奴隷とされる(4節)と、その罰が記されていました。

 次の段落(5~8節)は、新共同訳聖書では「主に信頼する人」という小見出しのつけられた段落になります。ここでは、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人は」と語られ(5節)、一方、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と言われます(7節)。

 ここに、異教の神に頼ること、そして、神ならぬ人間に頼ることを、「その心が主を離れ去っている」という状態であると示しており、それが神に厭われ、呪われているのです。その結果、その人は、「荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする」ことになると言われます(6節)。それは、生ける水の源である神から離れ去ったため、その保護を受けられなくなってしまったのですから、やむを得ない結果ということでしょう。

 それに対して、主に信頼する人は、冒頭の言葉(7,8節)のとおり、主がその人のよりどころとなり、それゆえ、「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」という祝福に与ることが出来るのです。

 このことについて、詩編1編にも同様の対比があります。そこでは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(同2節)が幸いとされています。そして、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」(同3節)と詠われていて、与えられる祝福も酷似していることから、主を信頼するとは、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむこと、と読んでもよさそうです。

 このように、主を信頼する者とそうでない者との相違は歴然というところですが、事態はそんなに単純でないことは、エレミヤも知っています。12章2,3節で、「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます」と語っていました。

 今エレミヤがこのように語るのは、主が15章19節で、「もし、あなたが軽率に言葉をはかず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と語られたので、彼の信仰が目覚めたということを示しているのではないでしょうか。あるいは、主を信頼するという言葉を語ることで、もう一度、エレミヤ自身の信仰が奮い立たせられているといっても良いのかも知れません。

 使徒パウロが、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント書4章17,18節)と記しています。そのころパウロが見、また味わっていた艱難は、決して「一時の軽い」ものではなかったと思いますが(同11章23節以下)、パウロはしかし、それによって心萎えてしまうことはありませんでした。彼の目には、永遠の重い栄光が見えていたからです。

 それこそ、エレミヤが「水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と語っている祝福の姿ではないでしょうか。


 主よ、私たちに信仰の恵みをお与え下さり、感謝致します。絶えず感謝と喜びをもって、御言葉を聴き、信仰の言葉を昼も夜も口ずさみます。御名の栄光をあらわし、主にあって実を結ぶことが出来ますように。 アーメン


原田和代チャペルコンサート「よかった あなたに出会えて」

来週12日(土)午後2時より、原田和代チャペルコンサート「よかった あなたに出会えて」を開催致します。

詳細は、下記URLをクリックして、案内をご覧下さい。

URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/IMG111112.pdf

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