風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年10月

10月30日の御言葉 「主が御声を発せられると」

「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」 エレミヤ書10章13節


 10章では、主なる神に背いて異教の偶像を拝む空しさを笑い、まことの神の力とその御業を誉め讃えています。異教の神々の像は、木を彫って作られ(3節)、その上に金や銀の箔を張って飾られています(4節)。勿論、偶像が口を利いたり、歩き出したりすることはありません。エレミヤはそれを、「きゅうり畑のかかしのよう」と笑います(5節)。像を拝む人々も、実際に神に模して作られた木像が口を利き、歩き出すと考えていないでしょうし、それゆえ、彼らが拝んでいるのは、木像そのものではないと言うでしょう。

 しかし、美しい自然を写真に収めたり、絵に描いてストックするように、目に見えない神を描き、また像に刻むことは出来ません。神にかたちを与えることは、神を自分のものにしよう、自分のある思いの中に神を閉じ込めようとする行為にほかならないのではないでしょうか。

 ただ、像を作らなければよいということでもありません。かつて、ローマ・カトリック教会が免罪符を売り出したのは、教会堂を建て直す資金を集めるという自分たちの目的のために、神の救いの恵みを利用するという意味で、神を偶像化したものと言わざるを得ません。

 その意味では、姿かたちであれ、御言葉であれ、御業であれ、私たちがそれを定義づけて表現しようとするとき、絵画や彫刻ばかりでなく、音楽にせよ、あるいはまた言葉でするにせよ、絶えず偶像化の危険が伴っていることになります。そのような罠に陥らないためには、常に神を畏れ、その御言葉に信仰をもって従順に聴き従うほかありません(6,7節、詩編119編9節以下など)。

 エレミヤは神について、「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」(10節)、「御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を広げられた方」(12節)、「万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主」(16節)と言い、一方、「天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る」(11節)と告げます。

 そして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される」と語ります。イスラエル周辺では、天と地、稲妻や雨なども、神として礼拝の対象になりました。エレミヤは、それらはすべて神の被造物であり、まことの神は、御声をもってそれらのものを従わせておられると、告げているわけです。

 あらためて、私たちの神はどのようなお方でしょうか。今も私たちのために力強く働いていて下さるお方でしょうか。

 1993年の秋、甲子園球場を舞台に、大きな集会が開かれた際、冒頭の言葉から主題歌が造られました。グランドに十字架の形をした大きな講壇が設けられ、バックスクリーンには、講壇のメッセンジャーが映し出されました。日本全国から、毎日3万人以上の人々が詰め掛け、スタンドや球場内の席を埋めました。毎晩、何百人もの人々が主イエスを信じて救いに与りました。集会の中で病気が癒される人もありました。

 翌年には、米国の伝道者ビリー・グラハムが来日して、東京ドームで伝道集会が開催され、その様子が衛星放送で全国各地の集会場に同時配信されました。私はそのとき、四国・松山でこの集会に参加しました。大きなスクリーンに映し出される集会の光景を見ながら、すごい時代になったなあと思ったものです。

 神がその御力を表されるなら、日本国内でもっともっと大きな集会が催され、多くの人々に救いの御業が開かれるようになることでしょう。神の恵みが大雨のごとく降り注ぎ、いたるところで偉大な神の御業を見るようになるでしょう。

 しかしながら、主イエスが故郷のザレの町では、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなされなかった」(マタイ福音書13章58節)と言われるように、私たちが主に大いなることを期待して、神に聴き、御言葉に従う信仰を表さなければ、そのような神の御業を見ることが出来ないでしょう。

 日々主を尋ね求め、御霊に満たされ、主の証人としての使命を果たすことが出来るように、祈りましょう。家族の救い、知人友人の救いを求めて祈りましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、その家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と約束されているからです。

 主よ、あなたは御声をもって天地万物を創造し、御心のままにそれらを用いられます。この地に主の御業が表されますように。私たちの家族が、知人友人が全員救われますように。そのために私たちが用いられますように。御言葉に耳を傾け、喜びをもって素直に従う信仰と、上よりの知恵を授けて下さい。 アーメン



10月23日の御言葉 「立ち帰れ」

「行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。背信の女イスラエルよ、立ち帰れと、主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。」 エレミヤ書3章12節


 3章には、「立ち帰れ」と呼びかける言葉が4度出て来ます(7,12,14,22節)。このように繰り返し呼びかけられるということは、神がユダの民が立ち帰るのを、諦めず憐れみをもって待ち続けていて下さるということです。しかしながら、イスラエルはこのような神の呼びかけにも拘らず、神に立ち帰ろうとしていない、ということです。

 1節に、「もし人がその妻を出し、彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば、前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうと言うのかと、主は言われる」、とあります。妻が夫に離縁されて他の男と再婚すれば、死別や離縁などになっても、前の夫ともう一度ヨリを戻すことは出来ません(申命記24章1節以下)。

 この箇所で、夫は神ご自身、妻は南ユダ王国の民を指しています。彼らは、神を離れ、自分の思いのままに欲に引かれて淫行にふけって来たと言われます。であれば、再び立ち帰ることは不可能ということになります。そう語られるのは、神の「立ち帰れ」という呼びかけに応えるのではなく、今日はこちら、明日はあちらと自分の好きなように相手を変え、それに飽きたら元に戻ろうかなどというような振る舞いは、許されるものではないということです。

 6節以下に、南ユダの裁きが記されます。「ヨシヤ王の時代」(6節)、国中の偶像を廃棄し、ただ主にのみ仕えるという宗教改革が行われました。北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされました。南ユダはそのとき、ヒゼキヤがイザヤに執り成しを願い、その結果、難を逃れました。苦しいときの神頼みという状況でしたが、それでも、憐れみ深い主はヒゼキヤの祈りを聞き届けて下さったのです。

 ところが、ここで神は、「背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また石や木と姦淫している。そればかりでなく、その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだ」と言われ(8~10節)、「裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」とさえ語られます(11節)。つまり、ヒゼキヤ王やヨシヤ王による南ユダの宗教改革は、外面的なものであって、それは真心からなされているものではなかった、ここまで好き勝手して、結婚生活を維持することは出来ないと、厳しく非難しているのです。

 冒頭の言葉(12節)で、「背信の女イスラエルよ、立ち帰れ」と招かれるというのは、どういうことでしょうか。北イスラエルは南ユダの人々よりもましだから、そのように招かれたということではないでしょう。続く13節に、「お前の犯した罪を認めよ」と言われているからです。彼らが招かれるのは、彼らの内にその資格があるからではなく、イスラエルの法では不可能と言わざるを得ない復縁を、神ご自身がその深い憐れみをもって許されるということです。

 そして、北イスラエルが神の憐れみによって招かれたということは、もちろん南ユダをも憐れまれるということでしょう。この言葉は、北イスラエルに向けられているようで、南ユダに悔い改めを求めておられるのです。

 ただ、聖なる神の御前に、血の贖いなしの赦しはありません。神は、神に背いてはなはだしい罪を犯したイスラエルの贖いの供え物として、苦難の僕を遣わされました(イザヤ書53章参照)。苦難の僕とは、ご自身の独り子イエス・キリストのことです。私たちがまだ罪人であり、敵でさえあったときに、御子の死によって私たちの罪を贖い、神と和解させて下さったのです(ローマ書5章8節以下)。この想像を絶する神の深い愛と憐れみのゆえに、心から御名を崇めます。

 この愛と憐れみに応えて罪を悔い改め、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ、主の手足として、主の使命のために用いて頂きましょう。


 主よ、御名を崇め、感謝と賛美をささげます。瞬間瞬間、あなたの憐れみによって支えられ、生かされているからです。その恵みをいたずらに受けるのではなく、十字架にかかられた主イエスの僕として、神の愛に心一杯満たされて、主の恵みを証しし、主の福音を宣べ伝える者とならせて下さい。 アーメン


10月16日の御言葉 「わたしは決して口を閉ざさず」

「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」 イザヤ書62章1節

 62章も、前章に続き、エルサレムの回復がうたわれています。シオン、神の都エルサレムは、「捨てられた女」と呼ばれました。神の都としての栄光を失い、長い間、「荒廃」したままになっていました(4節、60章14,15節)。しかし主は、見捨てられた妻のように失意落胆の中にいるイスラエルの民に呼びかけ、救いを約束されます。

 かつて、イスラエルの民はバビロンにおいて、捕囚として大変な苦難を味わいました。エルサレムの都から遠く離され、神殿は破壊されてしまいました。この苦しみから誰が解放してくれるのでしょうか。そもそも、バビロンの神マルドゥク(エレミヤ書50章2節)やネボ(イザヤ46章1節)は、イスラエルの神、主に優っているのではないでしょうか。

 そのような嘆きの中にいた民に神の慰めの言葉を告げたのが、第二イザヤです(40章1節以下)。彼は、バビロンの神々は、人間が造ったもので、語ることも動くことも出来ず、薪として燃やしたとき、暖かさを与えてくれるだけのものと皮肉ります(44章9節以下)。預言者がそう語る背景に、バビロンの人々が捕囚の民を嘲り、おのが神を誇るということがあったのでしょう。

 その後、ペルシアがバビロンを倒し、イスラエルの民は帰国を果たすことが出来るようになりました。それは、民にとって、夢を見ているのではないかといった出来事でした(詩編126編1節)。キュロス王が救い主、メシアに見えました(45章1節など)。けれども、帰国を果たすことが出来たものの、未だ、約束の地は彼らに祝福をもたらしてはいません。むしろ、強大なペルシアの力の前に、卑しめられています。

 かつて第二イザヤは、召命記事で、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」といい(42章2節)、また、捕囚の民の苦しみに寄り添い、癒すお方として御自分のことを、「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のように喘ぎ、激しく息を吸い、また息を吐く」と言われていました(同14節)。主なる神は、自分の功績などを声高に宣伝するようなお方ではない、黙して語らない中に、救いの業を進められるお方であることを、示していたのです。

 しかし、帰還したイスラエルの民にとって、その沈黙が救いの徴とは見ることが出来ませんでした。むしろ、救いを求める民の声に神が応えて下さらない、自分たちは神から捨てられたのではないかといった疑いが、広がって来ました(64章9節以下、11節参照)。その声に応えるように語られているのが、冒頭の言葉(1節)です。

 預言者が、「彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」、つまり、神とイスラエルとの関係が正され、その救いが実現し、それを、諸国の人々が見るようになるまで、語り続けるというのです。そこに、神の御言葉に対する預言者の確信があります。

 そのときイスラエルは、「捨てられた女」ではなく、「夫を持つ者」(ベウーラー)と呼ばれます(4節)。神がイスラエルにとって、花嫁を守る花婿となって下さるのです。それは、イスラエルの民の功績などではありません。2節に、「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれる」とあります。即ち、主なる神の一方的な恵みによるものであることを示しています。

 黙示録21章2節に、「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整え、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。同9節に、「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」と言い、それが、聖なる都エルサレムのことと、同10節に記されています。

 ヨハネ3章29節の洗礼者ヨハネの言葉と併せ、教会は、聖なる都、新しいエルサレムのひな形といってよいでしょう。私たちに救いの衣を着せ、恵みの晴れ着をまとわせ、輝きの冠をかぶらせ、宝石で飾って下さいます(61章10節)。見えるところでは、未だ困難の中かも知れません。神が沈黙し、あるいは眠っておられるように見えるかも知れません(マルコ4章38節参照)。けれども、常に共にいて下さる主に平安を見出し、希望と喜びをお与え下さる主の恵みを、「口を閉ざさず」人々に告げ知らせていきたいと思います。

 主よ、御言葉と祈りを通して、常に主との親しい交わりにお導き下さり、有り難うございます。主の深い御心に触れ、心が主の平安で包まれます。聖霊に満たされ、力を受けて、その恵みを喜びと感謝をもって、人々に告げ知らせることが出来ますように。 アーメン





10月9日の御言葉 「主を尋ね求めよ」

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 イザヤ書55章6節


 55章は、第二イザヤと呼ばれる預言集(40~55章)の締めくくりの章です。この章は、「真に福音的な章」と称する学者もあるほどに、重要な箇所ということが出来ます。

 ここで主なる神は、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)と招かれます。「銀を持たない者も来るがよい」、「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」というのですから、これらのものは、神から与えられる一方的な恵みであることが示されます。

 そのことが3節では、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」、と語られています。捕囚生活でも、水とパンは提供されていたでしょう。しかし、イスラエルの民が生きるためには、彼らを活き活きと生かす心の栄養が必要だったのです。主は、御自分に聞き従うすべての者に、生きるために必要なすべてのものを豊かにお与え下さるというわけです。

 主イエスが荒れ野でサタンから、石をパンに変えて空腹を満たしたらどうかと試みられたとき、「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と、申命記8章3節の言葉を引用して、その誘惑を退けられました(マタイ4章3,4節)。これは、霊的なものは神から、しかし空腹を満たすためにはパンが必要ということではありません。主イエスは、御自分の体の欲求のために神の力を用いることはなさいませんでした。イザヤと同様、必要なものはすべて、神が語られる御言葉を通して与えられると言われたのです。

 それから、冒頭の預言者の言葉(6節)で、「主を尋ね求めよ」と命じ、すぐに「呼び求めよ」とたたみかけます。かつてイスラエルは、「主に信頼せよ」という預言者の言葉に耳を傾けず、異教の偶像に頼り、エジプトやバビロンを当てにして難局を乗り切ろうとした結果、主なる神の保護を受けることが出来なくなり、亡国の憂き目を見ることになりました。今改めて、「わたしのもとに来なさい」と招かれる主の言葉を聞き、悔い改めて主のもとに帰るために、この機会を逃してはならないというのです。

 8節に、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」、と言われています。訳出されていませんが、この言葉の冒頭に、「なぜならば」(キー)という言葉が語られています。人と神の思いが異なり、道が異なるのは当然、だから私たちは私たちの道を行く、という話ではないのです。異なっているのは当然、異なっていてよいということではなくて、主なる神の思いと私たちの思いが異なり、神の道と私たちの道が異なっているから、神の御心のうちに留まり、神の道を歩むために、主を尋ね求め、神に立ち帰れと言われているのです。

 私が牧師になる前、「わたし(神)の考えとお前(私)の考えは違う」という言葉を、直接耳で聞くように聞いたことがあります。ひらめいた言葉といってもよいのかもしれません。そのとき、それは当たり前だ、神とわたしの考えが違って当然だと思いました。そのころ、高校受験のときから牧師になることを目指していましたが、大学を卒業するころ、違う職業を選んだのです。そのため、何かにつけて後ろめたさを覚えていました。そして、聖書を読み、祈る喜びや情熱も失っていたのです。ですから、もう神の道を歩めないということか、とさえ思いました。

 けれども、やがてその言葉は私に、「お前は自分の夢を壊し、自分の計画とは違う道を歩んでいると思っているかもしれないけれども、この道を歩ませることが神の思い、神の計画なのだ」という意味ではないか、と思えるようになったのです。神は、もう二度と神の道を歩ませないために、このように言われたのではありません。私たちがどこにいても、何をしていても、神は傍におられ、尋ねれば見出し、呼び求めれば答えて下さるのです。主の御言葉を信頼し、その道を歩み続けたとき、神は私に、神の御言葉の教師となるようにという使命を与え、その道に導いて下さいました。

 以来、主は事ある毎に御言葉を示し、進むべき道を教えて下さいます。私が道を外れそうになっても、その都度、正しい道に呼び戻して下さいました。今あるは、実に神の恵みです。それ以外の何ものもありません。これからも主を畏れ、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと願っています。

 主よ、今日もあなたの憐れみに支えられ、主の道を歩ませて頂いています。あなたの御言葉こそ、私たちの道を照らす命の光です。絶えず、御言葉の悟りを与えて下さい。真理に従って歩むことが出来ますように。 アーメン


10月2日の御言葉 「平和は大河のように」

「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」 イザヤ書48章18節

 48章は、ヘブライ語原典で見ると、「聞け」(シェマー)で始まっています(1節)。イスラエルの民は、毎朝晩、「聞け、イスラエルよ」(シェマー・イスラエル)で始まる、申命記6章4~9節の御言葉を唱えます。イスラエルの民は、神の御言葉で一日を始め、御言葉で一日を終わるのです。つまり、イスラエルは、神の御言葉を聞く民であるということです。

 そして、この48章には、「聞く」(シャーマー)という動詞が、合計11回(1,3,5,6②,7,8,12,14,16,20節:新共同訳では、「知らせる、告げている」と訳されているものもあります)出て来ます。イザヤがどれほど、神の御言葉を聞くことを大切に考えているかということを、窺わせる数です。そして、それはまた、ヤコブの家、即ちイスラエルの民が神の御言葉を聞くことを、イザヤが言うようには大切にして来なかったということも、示しています。

 実際、4節には、「お前が頑固で、鉄の首筋を持ち、青銅の額を持つことを知っているから」と記されていて、かつてイスラエルが厚顔で強情であったことを非難しています。また8節には、「お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。お前は裏切りを重ねる者、生まれた時から背く者と呼ばれていることをわたしは知っていたから」と記されており、これは、イスラエルの民がエジプトから救い出されたときから、御言葉に聞き従わない、神に背く者であったということです。

 神は、祭司らを立て、預言者を送って神の御言葉に耳を傾け、その掟を守るようにと招かれましたが、イスラエルの王とその民は、聴き従おうとはしませんでした。それゆえ、神の裁きを受け、亡国の憂き目を見る結果となったのです。

 そのような頑固で厚顔な民、生まれながら神に背く者であったイスラエルの民に対して、主は「これから起こる新しいことを知らせよう」(6節)と言われ、「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」(16節)と招かれます。そして彼らに、「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20節)と命じられました。

 「これから起こる新しいこと」とは、イスラエルの民がかつてエジプトを脱出したように、バビロンを脱出することであり、そして出バビロンの際には、出エジプトのときとは違って、神の御言葉に聞き従い、その感謝と喜びを全世界に告げ知らせる神の僕の使命を果たすということです。

 神は、「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」(17節)と告げ、さらに、冒頭の言葉(18節)のとおり、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」と語られます。ここで、「平和」(シャローム)とは、単に争いがないということではありません。健康や安全、そして繁栄という意味もあります。また、「恵み」と訳されている言葉(ツェダカー)は、本来「正義」を意味する言葉ですが、救いや勝利という意味を含んでいることから、ここでは、「恵み」と訳されているわけです。また、「大河」(ナハル)は、詩編93編3節では、「潮」と訳されています。

 パレスティナには、雨季のときだけしか水が流れない、乾季には川床まで乾いてしまう「ワーディー」と呼ばれる水無し川がたくさんあります。これまでのイスラエルは、まさにこのワーディーのようなものだったと思います。即ち、短い期間、神に聴き従って、豊かな繁栄を味わいますが、ことが順調に進むとやがて神から離れ、その結果、恵みが枯渇してしまうのです。「平和は大河のように、恵みは海の浪のように」とはほど遠い、砂漠や荒れ野が広がっているのです。

 だから、主の言われるとおり、その戒めに絶えず耳を傾け、ただ聴くだけでなく、その御言葉に従って歩みましょう。そのとき、恵みの流れは、ナイルやチグリス・ユーフラテスのように、尽きない豊かな流れとなるのです。

 天のお父様、日毎に御言葉を聞かせて下さり、感謝します。主イエスが、「聞く耳のある者は、聞くがよい」と言われました。「聞く耳のある者」とは、聞いて行う意思のある者のことでしょう。どうか、聞くだけで終わるのでなく、聞いて行う者とならせて下さい。恵みを証しすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン


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