風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年09月

9月25日の御言葉 「恐れることはない」

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」 イザヤ書41章10節

 41章には、「恐れるな」という言葉が、3度(10,13,14節)記されています。ということは、イスラエルの民が恐怖に戦いている現実があるわけです。そして、その都度、「あなたを助ける」と神が語られます。恐れないでいられる根拠は、主なる神の助けが与えられるということです。

 そのとき、イスラエルの民が恐れていたのは、バビロンの東、即ちペルシアにおいて奮い立った王キュロスのことでしょう(2節以下参照)。キュロスはエラムの出身ですが、メディア、リディアをはじめ周辺諸国を征服しました。当時、バビロンの奴隷となっていた民は、次第に迫ってくるペルシアの脅威に、恐れを抱かずにはいられなかったのです。

 これまで、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、アッシリアを滅ぼしたバビロンによって南ユダは滅ぼされました。バビロンがペルシアに滅ぼされるようなことがあれば、バビロンに捕囚とされているイスラエルの民の運命はどうなるのでしょうか。

 しかし、キュロスを奮い立たせ、「国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは」(2節)、主なる神です。つまり、キュロス王は神の手先なのだから、恐れる必要はないというわけです。キュロスはバビロンに無血入城し、そして、イスラエルの民を解放しました。イスラエルの民にとって、全く思いがけない展開になったのです。

 40章27節に、「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と」、と語られていました。50年に及ぶ捕囚の生活は、帰国の希望を失わせるほどの耐え難いものであり、イスラエルの民は、神に見捨てられた、忘れ去られた、と嘆いていたわけです。

 けれども、神はイスラエルを見捨ててはいなかったのです。神は、「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」(9節)と言われます。すなわち、ただバビロン捕囚から救われた、というのではなく、神の使命のために再び選ばれ、立てられたというわけです。

 希望を失っていた捕囚の民に何が出来るのでしょう。14節には、「虫けらのようなヤコブよ」という言葉があります。かつて、出エジプトの民が、カナンの地を偵察した際、そこに住む先住民に恐れをなして、彼らを巨人と言い、そして自分のことはイナゴのように見えたと言いました(民数記13章32,33節)。イスラエルにとって、バビロンもペルシアも巨人で、その力の前に、イスラエルは虫けらのような存在と考えていたことでしょう。しかし、その「虫けらのようなヤコブ」を、神は捕囚の地から御自分の使命のために選んで呼び出し、立てたのです。

 パウロが、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力なものとするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(第一コリント1章26~29節)と語っていますが、イスラエルが選ばれたのは、ここに語られた通りの状況と考えてよいでしょう。

 「恐れるな」と言われて、それで一切の恐れが消え失せるわけでもないでしょう。だから、くりかえし、「恐れるな」と言われるのです。そして、繰り返し神の助けを経験するのです。神がイスラエルと共におられ、恐れる民に平安と導きを授けて下さるのです。

 主イエスは、「インマヌエル」と唱えられるお方です(マタイ1章23節)。それは、神が私たちと共におられる」という意味です。主イエスがいつも私たちと共におられ、内におられて、私たちを慰め、励ましていて下さいます。主に信頼し、その御言葉に従って歩みましょう。


 主よ、あなたの導きを感謝します。私たちを贖い、神の民の一員として下さいました。私たちの体を、神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてあなたにささげます。それこそ、日毎に私たちのなすべき礼拝だからです。絶えず聖霊の真理なる主イエスを通して、主を崇めさせたまえ。 アーメン


ゴスペルコンサートとバイブルメッセージ

9月24日(土)午後7時より、九州リバイバルミッション・ゴスペルコンサートとバイブルメッセージの夕べを、大牟田教会で開催致しました。

音楽ゲストは、サックス奏者のロン・ブラウンさん。
御自分がクリスチャンとなられるきっかけとなった体験談を話されながら、イエス・キリストの愛と力、驚くべき恵みについて、演奏を通して示されました。
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今年7月には、東日本の被災地を訪問され、帰国後、ロサンジェルスでチャリティーコンサートを開かれたことも話され、地震と津波で破壊された町の写真をバックに、"A Dream Renembers"という曲を、ソプラノ・サックスで演奏されました。
その優しいメロディーラインに、ロンさんの思いを感じました。


バイブルメッセージの講師は、福島が生んだ世界的伝道者の有賀喜一先生。
先生は、関西在住で16年前に阪神淡路大震災を経験され、そして今回は、先生の生まれ故郷が地震と津波に加え、原発事故という三重苦に見舞われました。
被災地に対する思いも一入のことと思います。
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先生は今回、コリント人への第二の手紙5章17節(「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」)の御言葉から、「神による新創造」と題して、分かり易く、そして力強く、メッセージを語って下さいました。

今回は、近隣の教会も応援下さって、乳幼児を含め、会堂に満ちる129名という多くのの方がおいでになり、演奏とメッセージに耳を傾けて、豊かな恵みに満たされました。
本当に感謝でした。

大分から始まったミッションの働きが、宮崎、鹿児島、熊本と回って、今日福岡に入りました。
佐賀、長崎と、7県を回り、諸教会で開催されるミッション。
全日本リバイバルミッションの先生方、スタッフ、そしてロン・ブラウンさんのお働きの上に、主の恵みと慈しみがこれから更に豊かに注がれますように。

ゴスペルコンサート&バイブルメッセージの夕べ

先月告知していましたが、再掲します。


9月24日(土)午後7~9時、九州リバイバルミッションを、「ゴスペルコンサート&バイブルメッセージ」と題して、大牟田教会で開催致します。

下のアドレスをクリックすると、案内PDFファイルが開きます。
http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/9.24omutamission.pdf

世界のトップミュージシャンと共演する最高峰サックス奏者ロン・ブラウンが、再び大牟田にやって来ます。
また、日本は福島県が産んだ世界的伝道者・有賀喜一先生(全日本リバイバルミッション代表など)をお迎えします。

今回は、九州リバイバルミッションの一環として、九州各地の教会で集会が開かれます。
http://www.j-revival.com/9rm/index.html

9月9日~12日:大分
9月14日~17日:宮崎
9月21~23日:熊本
9月24日~10月2日:福岡
10月1日:長崎
10月2日:佐賀

詳細は、全日本リバイバルミッション発行のニュース8月号をご覧下さるか、全日本リバイバルミッション(℡0536-23-6712)にお問い合わせ下さい。

集会の様子が、USTREAMでON AIRされます。
同時配信ですから、これをご覧になりながら、その集会に参加することが出来ます。
http://www.ustream.tv/channel/kyushumission


9月18日の御言葉 「主の書に尋ね求め」

「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。」 イザヤ書34章16節

 イスラエルに対する終末の希望が語られた後、全世界の神に背く民への徹底的な裁きが語られます(1~4節)。そして、この神の怒りを受ける代表であるかのように、5節以下に、エドムに対する神の裁きが記されています。13~27章にも周辺諸国に対する裁きの預言が語られており、その代表として、バビロンが取り上げられましたが、そのシリーズには、エドムは登場して来ませんでした。

 エドム人は、イスラエルの父祖ヤコブの兄エサウの子孫です。つまり、イスラエルと血縁関係にあります。エドム人の地は死海の南部、セイルの山地です。そこは主がエサウの子孫に与えたもので、イスラエルの民には与えないと、モーセに語られてことがあります(申命記2章1~8節)。

 2,5節に「絶滅」(ハーラーム)という言葉があります。これは、申命記7章2節で、「滅ぼし尽くさねばならない」と訳されている言葉です。新改訳聖書では「聖絶」と訳されます。すなわち、イスラエルの民が他の神々に仕えて、神の怒りを招く事態に陥らぬように、カナンの地に住む7つの民(ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)を絶滅させよというわけです。しかしながら、イスラエルの民はその掟を守らず、彼らと交わり、異教の神々に仕える道を突き進み、神の怒りを招く結果となりました。

 6,7節でエドムに対する陰惨な裁きが語られる背景には、「報復の日」(8節)という言葉があるように、エドムとイスラエルとの間の確執があげられます。ダビデ時代、周辺諸国との戦いがなされた際、塩の谷でエドム人1万8千を討ち殺し」たとあり(サムエル記下8章13節)、その後の占領政策で、軍の司令官ヨアブがエドムの男子をことごとく打ち殺したという報告があります(列王記上11章15節)。恐らく、それに対する報復の一環として、バビロン捕囚の際、エドムはバビロンによってユダが絶滅することを願い、エルサレム占領に加わり、その後、イスラエル南部を領有したりしています。ここに、報復が報復を生むかたちで、神による聖滅が語られていると言ってもよさそうです。

 徹底的な殺戮で住む人の絶えた地は(6節)、火と硫黄の燃える地となり(9,10節)、「茨」や「いらくさとあざみ」が生い茂り(13節)、「ふくろうと山あらし」、「みみずくと烏」(11節)、「山犬」、「駝鳥」(13節)、「ジャッカル」、「山羊」(14節)、「鳶」(15節)などの住処となります。33章に語られた祝祭の都エルサレムとは正反対の、死の支配する呪われた地となったのです。

 冒頭の言葉(16節)に、「主の書に尋ね求め、読んでみよ」とあります。それは、エドムの領地が廃墟と化し、あらゆる獣の住処となることなどが、「主の書」に記されているということで、即ち、エドムが絶滅させられるのは、主の定めということです。獣の住処とすべく、主の霊がそれを集めたということは、そこには、二度と悪をなす人を住まわせないということでしょう。

 けれども、イスラエルは憐れみを受け、エドムは絶滅させられるというのは、もう一つ胃の賦に落ちないものがあります。イスラエルは真の神を知り、その恵みに与りながら、神に背いて異教の偶像に走って神の怒りを招いたのです。エドムが絶滅させられるというなら、イスラエルの民は、人類の記憶から消し去られるほどに重く裁かれる必要があるのではないでしょうか。

 ですから、イスラエルが憐れみを受けて、聖なる都エルサレムが再創造されるとすれば、新生イスラエルには、エドム人を含むすべての民が憐れみを受け、その住民として招かれると考えるべきでしょう。事実、神の御子、主イエスは全人類の罪を贖うために十字架にかかられ、すべての民を弟子とするように招かれました(マタイ28章19節、マルコ16章15節)。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ書11章32節)。

 主よ、あなたは私たちの不信仰、不従順をご存知です。けれども、その深い憐れみにより、私たちも神を知り、侵攻の恵みに入れて頂きました。あなたの民でなかったものを、『わたしの民』と呼び、宝の民として下さるその愛のゆえに、心から感謝致します。主の愛に留まり、御旨を行なって歩むことが出来るように、日々信仰に目覚め、御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン



9月11日の御言葉 「わたしと和解するがよい」 

「そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。」 イザヤ書27章5節


 27章は、「イザヤの黙示録」(24~27章)の最後の章で、ここに、「その日」という言葉が4度語られます(1,2,12,13節)。

 最初の「その日」は1節で、主が逃げる蛇レビヤタンを罰し、海にいる龍を殺すと語られます。「レビヤタン」は、わにのような怪獣で(ヨブ記40章25節以下参照)、海に住んでいます(詩編104編26節)。主に罰を受け、殺されるという表現から、神に逆らう悪しき存在で、悪魔、悪霊の象徴と考えられています。

 ヨハネ黙示録21章1節で、新天新地では、「もはや海もなくなった」と言われていますが、これは、美しい海が干上がってしまうというようなことではなく、旧約テキストとの関連で、海に住む悪しきレビヤタンが滅ぼされるという意味に解釈すべきでしょう。となれば、イザヤの語る「その日」とは、過去の歴史的な出来事を指しているのではなく、世の終わりに主がご自身の主権をもって行動される日を指している、ということになります。

 2番目の「その日」は2節で、「見事なぶどう畑について喜び歌え」と言われます。イザヤは5章にも「ぶどう畑の歌」を記していますが、それは、喜びの歌ではなく、ぶどう畑を呪う歌でした。同7節には、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」とありました。そして、イスラエルが主なる神の期待を裏切り、悪を行うので見捨てられ、茨やおどろが生い茂るようになると言われていたのです(同6節)。

 しかるに、その日には、「常に水を注ぎ」(3節)、「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたし(主なる神)は進み出て、彼らを焼き尽くす」(4節)と言われます。それで、「時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」(6節)というのですから、5章で歌われていた呪いが祝福に変えられ、喜びの歌となっているわけです。

 第3の「その日」は12節で、「ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人よ、あなたたちはひとりひとり拾い集められる」と言われます。「エジプトの大河」と言えば、ナイル川のことでしょう。メソポタミア地域からエジプトまで、その広い地域が主なる神に打たれるというのです。

 ここで、聖書で「エジプトの川」というときには、ナイルではなく、通常、イスラエルとエジプトの間の国境線を流れるワーディー・アル・アリーシュのことを指しています。創世記15章18節で、主なる神がアブラハムと契約を結んで、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」と言われているのが、それです。このアブラハムとの契約は、ダビデ・ソロモンの時代にも実現してはいません。世の終わりの日に、神に背く悪しきものが滅ぼされた後、それが完成するということでしょう。

 最後は13節で、「その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」と語られています。「アッシリアの地」という表現で、アッシリアに滅ぼされて連行された北イスラエルの民(列王記下17章6節)だけでなく、バビロンの捕囚となり、あるいはその難から逃れるためにエジプトに下った南ユダの民も、帰還することが表明されています。それによって、別れ散らされていた、神を礼拝する民イスラエル12部族を再建するのです。

 このように語られる「その日」を迎えるために、冒頭の言葉(5節)で主なる神が民に向かい、「わたしと和解するがよい」と、繰り返し呼びかけておられます。そういえば、ローマ書12章1節で、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」という言葉の「憐れみ」は、原文では複数形が用いられていました。憐れみの豊かさの表現なのでしょうけれども、繰り返し憐れみをもって呼びかけられ、勧められているとも読めます。主の呼びかけに従い、主と和解して呪いを祝福に変えていただき、主を礼拝する神の民として造り上げて頂きましょう。

 主よ、あなたの深い憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与らせていただきました。御言葉と聖霊の導きにより心強められ、御前に聖なる者となり、清い生活をすることが出来ますように。私たちをお互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて下さいますように。 アーメン



九州リバイバル聖会

九州リバイバル聖会は、1981年に開かれて以来、今年で30回を迎えました。
毎回、素晴しい講師を通して、その年のメッセージを取り次いでいただき、恵みを受け続けて参りました。

次回は、2012年1月9日(日)~11日(火)、例年のとおり、休暇村志賀島を会場に開催致します。
講師は、全日本リバイバルミッション代表の有賀喜一先生、東京バプテスト教会ミニストリー牧師の渡辺聡先生、全日本リバイバルミッション主幹の瀧元明先生です。

今から予定に入れ、是非ご参加下さい。


九州リバイバル聖会の公式ブログが開設されています。
URL http://kyushu-revival.cocolog-nifty.com/blog/
アドレスをクリックして、覗いてみて下さい。

九州内の教会宛に、聖会のパンフレット、会報を送付させて頂いています。
01
順次、発送作業を進めて参りますが、御自分の教会にも送って欲しいというご希望がありましたら、聖会事務局(中津扇城教会内 tel 0979-22-8977 fax 0979-22-2122)にご連絡下さい。
宜しくお願い致します。




大牟田・熊本ブロック教役者会

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9月5日(月)午後2時より、熊本南教会において、大牟田・熊本ブロック教役者会が開かれました。

第一部は礼拝で、濱田牧師がヘブライ書11章1~3節より、「望んでいる事柄を確信」するということを、具体的に語って下さいました。
礼拝後、いつものように受けた恵み、感想を分かち合いました。
特に今回は、死、葬儀などが話題になりました。

第二部は、近況報告と協議です。
東熊本教会、山鹿伝道所は、墓地を購入、納骨堂を建てようとしています。
有明教会は、豊岡におられるアバヤン師を賛美ゲストに迎えて、10月23日に特別伝道集会を開かれます。
豊岡伝道所は、アバヤン師が扁桃腺炎で入院しておられ、来年2月に帰国予定だということです。
熊本南教会は、先生の体調のこともあり、午後3時から礼拝を行うようになりました。
菊池シオン教会は、矢野先生ご夫妻が10月末で辞任され、千葉に転任されることになりました。

矢野先生の辞任を受けて、無牧師となる菊池シオン教会の礼拝説教者について、協議しました。後任が決まるまでの間、第一主日は、麦野賦先生(伊集院教会)、第二、第三主日は、九州バプテスト神学校に説教を依頼されています。場合によっては、大牟田・熊本のブロック教役者会で対応することもあります。

大牟田教会としては、前任の平林先生が辞任されて7ヶ月の間、毎月矢野先生に説教と主の晩餐式の司式をお願いしたという恩義がありますので、積極的に応答したいと思っています。

会の最後に、矢野先生ご夫妻とホストの濱田先生を中心に、記念撮影を行いました。

次回教役者会は、11月15日(火)午後2時に人吉教会(未定)で行います。


9月4日の御言葉 「足から履き物を脱いで」

9月4日(日) 「主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。『腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け』。彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った。」 イザヤ書20章2節
 

 1節に、「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年」とありますが、アッシリアがペリシテに攻め込んだのは、紀元前711年のことです。それに先立って、冒頭の言葉(2節)にあるとおり、主なる神はイザヤに、「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け」と命じられました。これは、行動預言と言われるもので、イザヤの行動を通して、神がご自身の御心を示されているわけです。そして3節以下に、この行動についての説明が、主なる神によってなされています。
 
 まず3節で、「わたしの僕イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしと前兆として、裸、はだしで3年間歩き回った」とあります。3年間は、文字通り3年という解釈もありますが、足掛け3年、つまり14ヶ月とする解釈もあります。ただ、裸、裸足では、寒いイスラエルの冬を過ごすことは出来ないので、その間ずっとイザヤが裸、裸足で過ごしていたというのではなく、ことが起こる3年前、あるいは足掛け3年前に、象徴的な行為によって預言した、あるいはまた、3年の間、時折そのような姿をして見せたということではないかと思われます。
 
 いずれにせよ、イスラエルには、昼日中はとても暑くなることがあり、裸で表を歩くという習慣はないので、イザヤの行為は、人々の目にとても奇異に映ったことでしょう。711年の3年前といえば、南ユダ王国ではヒゼキヤが王位についたころ、ということになります。
 
 続く4節で、イザヤが裸、裸足で歩いたように、「アッシリアの王は、エジプトの捕虜とクシュの捕囚を引いていく。若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行く」と語っています。このように語られているのは、勿論エジプトやクシュのためなどではありません。エジプトとクシュが、アッシリアの前に敗れて捕虜、捕囚とされるのだから、彼らに頼って反アッシリア同盟に与してはならない、と言われているのです。
 
 紀元前715年ごろ、クシュの王シャバコがエジプトを制圧して王となりました。その強さは、アッシリアに対抗し得るものと見た周辺諸国は、エジプト・クシュを軸に、反アッシリア同盟を組もうとしました。というのは、721年にアラムと北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたとき、パレスティナの諸国は滅亡を免れるため、アッシリアに貢ぎ物を送らざるを得ず、その負担が重くのしかかっていたからです。そしてそれは、南ユダも例外ではありませんでした。
 
 ヒゼキヤの父アハズは、アラム・エフライム連合軍の攻撃に対抗するためもあり、進んで朝貢しました。列王記下18章7節に、「彼(ヒゼキヤ)は、アッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった」とありますので、このとき、ペリシテなどの反アッシリア同盟の動きに同調して、アッシリアへの朝貢を辞めたのでしょう。しかしながら、アシュドドがアッシリアの攻撃を受けたときも、そして、ユダが壊滅寸前の危機に陥ったときも(前701年)、エジプト・クシュは、ユダを守ってくれはしませんでした。その後、そのエジプト・クシュがアッシリアに敗れ(前663年)、預言が成就します。
 
 エジプトのような強国でもこのような有様ならば、パレスティナの小国イスラエルの運命はどうなることでしょう(6節参照)。北イスラエル、ペリシテ、エジプトの出来事を見ながら、神の御言葉に聞き従わず、真に悔い改めることのなかったユダも、アッシリアに対しては首の皮一枚でその攻撃を凌ぐことが出来ましたが、次いで登場したバビロニア帝国により、紀元前587年に滅ぼされ、捕囚の憂き目を見たのです。
 
 けれども、主なる神は、それで神を礼拝する民を滅ぼしておしまいになるわけではありません。もう一度、その縄目から解放し、新たな契約を結んで、神の民を造られます。それが、エレミヤ書31章31節以下に記される「新しい契約」なのです。
 
 私たちは、この新しい契約の時代に生かされています。放蕩息子のたとえにあるように、イエス・キリストという最上の衣が着せられ、神の子とされたしるしの指輪がはめられ、罪の奴隷ではないことを示す履物が履かされました(ルカ福音書15章22節)。その恵みに感謝し、聖霊の力を受けて、主の愛と慈しみを証ししつつ、光の子らしく歩みたいと思います。
 

 主よ、神の民イスラエルから最も遠くにいた私をも、永遠の計画の中に入れていて下さり、主イエスを信じる信仰の恵みに与らせて下さいました。古い人を脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々、新たにされて、真の知識に達することが出来ますように。 アーメン


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