風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年07月

7月31日の御言葉 「神に願をかけたら」

「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ。」 コヘレトの言葉5章3節

 冒頭の言葉(3節)で、「神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない」という言葉は、山上の説教で主イエスが、「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている」(マタイ福音書5章33節)と語り出されたことを思い出させます。「誓いを果たすのを遅らせてはならない」という命令の言葉が記されているということは、誓いを果たさない人々がいるということです。

 本書の著者はこの言葉で、誓いを果たさない者、誓いの実行を遅らせる者のことを、「愚か者」と呼び、それでは神に喜ばれないと言います。これはむしろ、「怒りを買う」ということでしょう。そして、「誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい」と言っています(4節)。確かに、願かけをしてそれがかなえられたら、これこれの供え物(これを満願の献げ物と言う)をしますという約束をしておきながら、それを実行せず、神の怒りを買って罰を蒙るくらいなら、願かけをしないほうがよかった、誓わなければよかったということになるでしょう。

 ところで、主イエスは先の言葉(マタイ5章33節)に続けて、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(同34節)と言われました。つまり、旧約聖書の命令の上を行って、「守れないなら誓うな」ではなく、「一切誓いを立ててはならない」と言われるのです。これは、どうせ皆約束を守れないのだから、守れない約束をするのは無駄なことだ、それならむしろ、一切誓ってはならない、と仰っているということではありません。

 そもそも、私たちが誓いを立てるのは、相手に対して約束したことが真実、確かであることを保証しようとするからです。もしも私たちが、いつも真実に語り、語ったことを常に真実に行っていれば、それが信用されて、あらためて「誓う」などという必要はなくなります。誓約書を書くよう求められるということは、私たちの言葉が信用されていない証拠ですね。主イエスは私たちに、誓いを立てる必要がない、常に真実な言葉を用いるように、と教えておられるのです。

 キリスト教会では、昔から婚約式、結婚式を大切に執り行って来ました。婚約式では、結婚式を挙げるときまで、互いに神の御前に清い交際を行うという誓いを立てます。また、結婚式では、死が二人を分かつまで、どんなときにも堅く節操を守ると誓います。聖書で、「一切誓うな」と命じられているのに、婚約式、結婚式で誓約をさせるというのは矛盾ではないか、と言われそうですね。言葉の上では確かにそうです。

 婚約式、結婚式は、神の御前にする礼拝です。「約束する」、「誓う」という言葉を神の前で語るとき、それは主の御前で、主に対して誓ったことだから、絶対果たさなければならないということではありません。私たちがどんなに誠実で、真剣に約束すると語った言葉であっても、どうしても守れなくなることがあります。どんな時にも伴侶を愛し、敬い、守り、助けると約束しても、そして、その言葉に嘘偽りはなくても、時と場合によって、その心を貫けなくなることがあります。

 だから、誓約など出来ないというのが正直なところかも知れませんが、それは、相手に対して誠実な態度ではないでしょう。生涯の伴侶となる相手を「今!」愛していること、そして、その愛を貫きたいと思っていることを、「約束する」、「誓う」という言葉で言い表すわけです。それを神と会衆との前で語るのは、私の伴侶への愛、真心さえも、自分だけで真実に守っることが出来ないということを知っているからです。だから、誓約の言葉を聞いた会衆には、二人のために、神の祝福と導きを祈り続ける責任があります。私たちは、互いに祝福を祈り合う祈りによって、その祈りを聞き届けて下さる神の御愛によって、守られ、支えられていくのです。

 結婚の誓約の後には、指輪の交換をします。指輪は、新郎新婦入場の際、リングボーイによって司式者のもとに運ばれ、祭壇の上にささげられます。そして、指輪の交換のときに祭壇から取り下ろして新郎新婦に渡すという形式を取ります。それはまさに、お互いを愛する愛が真実なものとなるように、神に生涯支え続けていただくということを、そこに象徴的に表現しているのです。つまり、主の御愛こそ、私たちを真実に生かす力なのです。

 主よ、私たちの人生、様々な計算違いがあります。あなたはカナの婚礼で、ぶどう酒が足りなくなるという事態に、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行って、その結婚披露宴を祝福されました。どうか、あなたの恵みに依り頼みつつ、絶えず御前に真実に歩ませて頂くことが出来ますように。 アーメン


南九州バプテスト大会

南九州バプテスト大会が、7月25日(月)~26日(火)、宮崎教会を会場に開かれました。

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主講師は、沖縄・普天間バプテスト教会牧師の神谷武宏先生です。
教会から200メートルの距離にある普天間基地の問題について、語って下さいました。
本来、米軍の飛行場設置基準の中に、飛行場から300メートル以内に人家などがあってはならないことになっているのだそうですが、普天間基地の周囲には、病院や学校などがあります。
そこに、教会も建っているのです。
米軍の基地設置基準を適用すれば、沖縄には基地を設けることが出来なくなります。
それが何故、沖縄ではまかり通るのでしょうか。


宜野湾市役所が作成した、普天間基地の騒音実態を記録した映像が紹介されました。
その映像が、YouTubeにアップされていました。
騒音や振動など、許されるレベルではありません。

特に今回、太平洋戦争末期、米軍が沖縄に上陸してから今日までの米兵による婦女暴行事件について、報告されました。
それを見る限り、沖縄では、まだ戦争が終結していないのだということが、はっきり分かります。

これから、沖縄の基地問題について、もっと注目していきたいと思いました。


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大会の中で、連合の臨時総会が開かれました。
議長は、大牟田フレンドシップ教会の叶義文主事、副議長は、延岡教会の中村勉牧師です。
右の写真は、財務の報告、提案をする連合会計の川内活也牧師(川内教会)です。

議題は、'10年度決算報告、'11年度補正予算案の承認、そして次期連合役員の選挙です。
決算報告、補正予算は、原案どおり承認されました。
また、選挙の結果、次期連合会長に原田牧師、会計に田渕亮牧師(鹿児島教会)、事務局長にマウマウタン牧師(国分教会)が選出されました。

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宮崎丸山町教会の金子千嘉世牧師は、連盟から東日本大震災復興支援ボランティアとして福島郡山に派遣され、8月に2度目、福島に入るということで、小羊会のコーヒーワークの収益金で調味料などを購入して支援センターに持ち込み、独居高齢者の多くいる仮設住宅で配るということでした。
コーヒーワークの収益は、35,000円あまりでした。

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その後、教会音楽部、教会教育部、伝道部による分科会が開かれました。
左は、音楽部の田渕雅子主事、右は、教会音楽分団講師の田中文人先生(有明教会牧師)です。
今回は、音楽奉仕者(奏楽者)の心構えについて、田中先生の経験を通して教えて頂きました。

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最初と最後に、田中先生の伴奏で高らかに賛美をささげました。



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また、福島の原発事故を受けて、日本バプテスト連盟の公害問題特別委員会のメンバーである徳渕敬尚牧師(児湯教会)のアピールを聞きました。
それに先だって、小嶋智暁姉(大牟田教会)が、連合青年修養会メタノイアで、講師の野中宏樹先生(鳥栖教会牧師)から聞いた原発問題についての話を、短く紹介しました。

九電のやらせメールや、原発の運転再開のために腐心する保安院の問題など、原子力行政に対する信頼を失わせる事態もあり、1度の事故で国の財政が破綻しかねない事態になることが分かった今、電力不足に陥ると原発推進派がいう嘘にだまされず、一刻も早く、脱原発に向けて歩み出すべきだと思います。


大会終了後、引き続いて伝道部の特別講演会が開かれました。講師は、福岡・平尾教会牧師の平良憲政先生です。
数年前、人吉教会で開かれた研修会で、平良先生ご夫妻から、平尾で取り組んでおられる共同保育を通しての伝道成果について、学ばせて頂きました。
今回は、福岡中心部の大名という町に、300坪の土地が与えられ、特に若者に特化した伝道を展開する拠点とするというビジョンを語って下さいました。
大変刺激的な学びの機会となりました。


平良先生ほか、開会礼拝、閉会礼拝などの写真を撮り損ねました。
ご容赦下さい。



最後に、大会の閉会礼拝のはじめに、小羊会の子どもたちが、歌とベルで主を賛美した様子をYouTubeにアップしましたので、ご覧下さい。

大変豊かな学びと交わりのときを備えて下さった主なる神に、心から感謝致します。

7月24日の御言葉 「幻がなければ民は堕落する」

「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」 箴言29章18節

 冒頭の言葉(18節)で、「幻」(ハーゾーン)は、「見る」(ハーザー)という言葉から派生したものですが、これは特に、預言者に啓示と託宣を与える手段として用いられるものです(サムエル記上3章1節、イザヤ書1章1節、ナホム書1章1節。ハバクク書1章1節など)。その意味では、口語訳のように「預言」と訳してもよさそうです。

 また、「堕落する」(パーラーのニファル形)という言葉は、「自由にさせる、抑制が効かない」という言葉です。そこから、「自分勝手に振舞う、わがままになる、滅びる」といった意味に解されています。

 そこで、口語訳は「預言がなければ民はわがままにふるまう」とし、新改訳は「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」、KJV(欽定訳)は「Where there is no vision, the people perish(幻がなければ、その民は滅びる)」と訳しています。

 初代の王サウルの時代には、サムエルという預言者がいました。ダビデの時には、ナタンやガドという預言者がいました。ソロモンに油を注いで王としたのは預言者ナタンですが、彼の治世に預言者は姿を見せなくなります。預言者は、神の代弁者として神の御言葉を語るのですが、その職務の一つは、政治指導者に託宣を告げること、罪を示して悔い改めを迫ることです。

 ソロモン王の御世に預言者の姿が見えないのは、あらゆる知恵知識に通じていたので、預言者を必要とはしなかったということかも知れません。しかしながら、王としての圧倒的な権力によって、預言者の働きを排除していたというのであれば、それは、聖書が求めている、神を畏れる知恵を持つ者の姿ではありません。

 ですから、「幻(預言)がなければ民は堕落する」という言葉が、ソロモンの第二格言集(25~29章)に語られているというのが、興味深いところです。あらゆる知恵知識に通じていたソロモンが、娶った千人もの女性たちに惑わされて、主の戒めに背き(列王記上11章1節以下)、その結果、イスラエルの国が分裂する原因を作ってしまいます。

 主なる神はソロモンに、「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す」(同11節)と仰せられました。まさに、神の言葉がなかった、あるいは聞こうともしなかったので、自ら堕落してしまったのです。

 私たちは、神の御言葉を「聖書」として、手に持っています。いつでも、御言葉に触れ、それを目にすることが出来ます。御言葉がないわけではありません。けれども、自分に語りかけられた神の言葉として御言葉を聞こうとしないならば、それは、わがままに振舞っていること、信仰が堕落していることと言えるのではないでしょうか。

 アモス書8章11節に、「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」と記されています。神の御言葉を聞こうとしないから、また、聞いてもそれを行いに表そうとしないから、霊が、魂が飢えと渇きに苦しむことになるというわけです。

 ヨエル書3章1節に、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」と記されています。聖霊が注がれると人々は預言をし、夢と幻を見ると言われています。聖霊について主イエスは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26節)と教えておられます。

 パウロは、聖霊に満たされること(エフェソ書5章18節)と、キリストの言葉をうちに豊かに宿らせること(コロサイ書3章16節)との間に密接な関係があることを教えています。それによって引き起こされる行動が全く同様だからです。

 神が遣わしてくださる真理の御霊、弁護者なる聖霊に満たされ、キリストの言葉を絶えず思い起こさせて頂き、かくて、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ者となって、その人のすることはすべて、繁栄をもたらすという祝福に与らせて頂きましょう。


 主よ、私たちに幸いを授け、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人にならせて下さい。私たちはあなたに依り頼み、御言葉と聖霊の導きに従って歩み、心から主を褒め称えます。 アーメン


なでしこジャパン ワールドカップ優勝

なでしこジャパンのイレブンが、ワールドカップで金メダルの快挙!!
ファンタスティック!!


YouTubeにワールドカップのダイジェスト映像がアップされていました。
[後日、FIFAの著作権侵害の申し立てにより、削除されたようです。]

NHKのサイトで、ダイジェスト映像(ゴールシーン)を見ることが出来ます。
URL http://www.nhk.or.jp/sports2/wworldcup/movies/movies.html

何度見ても、感動しますね。

なでしこイレブンの諦めない“根性”に、心からの拍手を送りたいと思います。


FIFAの公式サイトにも、ハイライト映像がありました。
公式サイト URL http://www.fifa.com/womensworldcup/index.html
ハイライト URL http://www.fifa.com/womensworldcup/highlights/video/index.html
ゴールシーン URL http://www.fifa.com/womensworldcup/goalofthetournament/index.html

アナウンス・解説なしの映像をご覧になりたい方はどうぞ。

SAMURAI BLUE TVというサイトに、日本出発から決勝前日までのナデシコの素顔映像がありました。
URL http://tv.samuraiblue.jp/




7月17日の御言葉 「歩むべき道の初めに」

「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」 箴言22章6節


 冒頭の言葉(6節)について、原文では、最初に、「教育せよ」と訳されている「ハノーク」という言葉が記されています。「ハノーク」は、「捧げる(dedicate,consecrate)、訓練する(train up)」という言葉です。「捧げる」という言葉が、「訓練する」という意味も持ち合わせているというのは、なかなか意味深いことだと思います。つまり、子どもを神に献げるということは、子どもが神のものであるということで、その子を神のものとして訓練する、光の子どもとして養育するという思いが込められるようになったのでしょう。

 また、「歩むべき道の初め」と訳されている部分の原文は、直訳すると「彼の道の口の上で」という言葉です。ここで、「~の口の上で」(アル・ピ・~)というのは、「~に従って(in accordance with~)」と訳される慣用句ですから、「彼の道に従って」という訳になるわけです。口語訳は、「その行くべき道に従って」、新改訳は、「その道にふさわしく」と訳しています。新共同訳が「初めに」としているのは、「口の上」を「入り口、初め」と解釈したからでしょう。

 子どもの教育は、親に課せられている非常に重大な責務ですが、それは、子ども一人一人の個性や才能、また、成長発達の段階に合わせて行われなければならないということでしょう。その時々に相応しい訓練の仕方、教育のあり方が求められるわけですが、特に、「年老いてからもそこからそれることがない」との関連で、「初め」、即ち人生の初めの教育が重要だという訳文になっていると考えられます。

 「三つ子の魂、百まで」という言葉にも示されるとおり、幼児期の教育や躾が、確かにその子どもの人生に大きな影響を与えます。箴言には、「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」(13章24節)、「打って傷を与えれば、悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て」(20章30節)という、善悪を弁えさせる躾のために、子どもに体罰を与えることを肯定する言葉が出て来ます。

 私は、体罰を全く否定するものではありません。わが子も、ときに叩いて教えました。しかし、昨今の、親による児童虐待の現状を考えると、無条件にそれが肯定される言葉というわけにもいかないでしょう。まさに、親としての愛情、子どもを正しく育てるための知恵が問われていると思います。

 私たちが子どもに教えたいのは、親の鞭を恐れさせることではなく、親の愛に安らぎ、信頼することです。どれだけ自分が親から愛されているのかということを知ると、子どもは自分が大切な存在であることを悟ります。自分が大切な存在であることを悟った子どもは、自分の命を粗末にすることはないでしょう。そして、周囲の人々をも大切にする心優しい人に育つでしょう。

 また、子どもを愛するとは、欲しがるものを何でも与えるということではありません。今の子どもたちは、私たちが子ども時代には夢にも思えなかったようなものを、たくさん持っています。にも拘らず、親の愛に飢え、やがて親を憎むようになる子どもたちがいます。親が子どもに豊かさを味わわせようとしてあくせくしている間、子どもは親に遊び相手、話し相手になってもらえなかった寂しさをこらえて過ごしていなければならなかったからです。

 そのように、寂しくて悲しくて泣いている子に、泣くな、しっかりしろと鞭を当てるなら、後から何を買い与えたとしても、子どもは自分が親から愛されていると感じることは、金輪際出来ないでしょう。子どもの話を聞くこと、辛抱強く子どもの相手になること、一緒に仕事を手伝わせ、たくさん褒めてやること、必要な時には適切に叱ることなど、様々なことの積み重ねにより、子どもは親の愛を心と体で感じ、味わうのです。

 特に、信仰を持つ私たちにとって、「歩むべき道」とは、主イエスに従う道です。私は、父が主の御前に畏み祈る姿を通して、神を知りました。私のために執り成す祈りによって、父の愛を知り、そして、神の愛と赦しを知りました。父が日々の生活を通して、そして折りある毎に示してくれた信仰の姿、特にその祈りによって、今の私が造られたと思っています。既に天に召されましたが、今も、尊敬すべき父を与えて下さった神に、心から感謝しています。

 主よ、私たちに与えられている信仰の喜び、平安、その恵みを、確実に子や孫に、幼稚園にお預かりしている子どもたちに手渡していくため、御言葉どおり、歩むべき道の初めに、心を込めてしっかりと教育出来ますように。そのために必要な愛を、知恵を、力をお与え下さい。 アーメン


7月10日の御言葉 「宴会にひとしい」

「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」 箴言15章15節

 7節に、「知恵ある人の唇は知識を振りまく。愚か者の心は定まらない」とあって、そこでは、「知恵ある人の唇」と「愚か者の心」が対比されています。唇で語る言葉とその心には密接な関係があること、それゆえ、語る言葉によってその心が判断出来ることを示しています。

 主イエスが、「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ福音書6章43節以下)と、語られている通りです。

 また、言葉と同様に、顔の表情も、その人の心のうちを表します。13節に、「心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ」と言われています。喜んでいる人の顔は明るいです。そして、沈んでいる顔は、その人の心の痛みを示しています。その痛みが癒されなければ、「霊は沈み込む」と言われるように、体と心の健康を害してしまうでしょう。

 12章25節の「心配は人をうなだれさせる」、17章22節の「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」、18章14節の「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」という言葉なども、それを示しています。

 殉教目前のステファノが、最高法院に引き出されて証言台に立たされたとき、その顔は、決死の覚悟で強張っていたというのでなく、天使の顔のように見えたと言われます(使徒言行録6章15節)。その心境は、同5章41節の「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」というところでしょう。そして、主に委ねられた使命を果たし終え、意気揚々と天に凱旋しようという、気分の晴れ晴れとしたステファノの様子を思い浮かべます。

 そのとき、ステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言っています(同7章56節)。その顔の輝きは、神の右に立つ人の子イエス・キリストの姿をはっきりと見ていたからだったというわけです。そして、神の右に座しておられる主イエスが(ローマ書8章34節、コロサイ書3章1節など)、立ち上がっておられるということは、命を懸けて最高法院で福音のメッセージを語っているステファノを、主が立ち上がって賞賛しておられた(スタンディングオヴェーション)ということではないでしょうか。

 冒頭の言葉(15節)に、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」とあります。これは、心を暗くさせるような災いに襲われても、心が朗らかならば、いつも宴会のような喜びがあるということですが、それは、私たちの力で出来るものではありません。主が共におられて私たちを支え、そして万事を益となるようにして下さるからこそ、災いの中でも、心が平安で、朗らかにしておられるのです。

 かつて、松江で伝道しておられた英国人宣教師バックストン先生が、いつもにこやかな顔をしておられるのを見て、仏教の僧侶が感銘を受け、それがもとで道を求めてキリスト教の信仰に入るという出来事があったそうです。私たちも、ステファノやバックストン先生とまでは行かなくても、主イエスから与えられた信仰の喜びを、顔色でも証し出来るような者にならせていただくことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。そのために、いつも主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って恵みのうちを歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちの生活には、憂いが満ちています。思いがけないことで喜びが奪われます。どうか、いつも私たちの心に、喜びと平安を与えて下さい。主が共にいて、私たちを助けて下さい。キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿りますように。そのために、御子を、そして聖霊をお遣わし下さった父なる神の御愛を感謝します。 アーメン


7月3日の御言葉 「その道の初めに造られた」

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」 箴言8章22節

 8章には、「知恵の勧め(3)」という小見出しがつけられています。ここでは、知恵を擬人化して、知恵自身が教師となって人々を教えるという表現をとっています。そして、10,11節に、「銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない」と語り、知恵こそが最高の宝であることを示します。

 冒頭の言葉(22節)で、「主は、その道の初めにわたしを造られた」と、神が天地を造られる前に、知恵が創造されていたことを記しています。27節の、「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という言葉は、創世記1章2節の、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という言葉を思い出させます。混沌とした大地、闇に覆われた深淵ということですから、そこには何の法則も秩序も働いていない、まさに混沌と闇が支配している状態です。

 そのような太初の混沌と闇の世界に、神は「光あれ」と言われて光を創造され(同3節)、大空を造って深淵を上の水と下の水に分けられ(同6,7節)、下の水を一箇所に集めて乾いた陸地を造られました(同9,10節)。かくて、自然の秩序が設けられ、そこに生命が息吹きます(同11節以下、20節以下)。

 このような天地創造の御業が始められる前に、知恵が生み出されていたというわけです。ということは、神が天地を創造するためには、知恵が必要であった。それぞれは偶然の産物ではなく、神が知恵を尽くして一つ一つのものを設計し、バランスを考えて配置されたということでしょう。

 地球は一日に一回自転しながら、一年かけて太陽の周りを公転します。しかも、地軸は公転面に対して23.5°傾いていて、その傾きを保ったまま公転するので、四季の移り変わりのある地域が生まれました。動力をつけたり、何かでぶら下げられたりしているわけでもないのに、どうして止まらないのでしょう。落っこちてしまわないのでしょう。少しでも太陽に近づけば、地球は暑くなり過ぎます。遠ざかれば、氷の星になってしまうでしょう。地球の現在の位置、バランスが、生物が生育するのにちょうどよい環境になっているわけです。

 「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30,31節)とあります。これは、天地万物を巧みに創造された方が、主の御もとで主の心に適う者として過ごしておられたこと、そして、主から遣わされてこの世に来られ、地上の人々に神の御心を教え、共に楽しむようにされたことを物語っています。これは、この世においで下さった主イエスのことを示しているのです。

 ヘブライ書1章2,3節に、「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と記されているとおりです。前にも引用しましたが、第一コリント書1章24節に、「神の知恵であるキリスト」という言葉があります。即ち、天地万物が創造される前に産み出されていた知恵とは、主イエスのことで、主イエスがその知恵で天と地と、そこに住むすべてのものを創造されたということを、聖書は語っているわけです。

 天地万物を創造し、その知恵によってすべてに秩序を与えておられる主イエスは、贖いの供え物として御自分を十字架につけられました。私たちを神の子とするためです。神の知恵たる主イエスは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、神の子とし、御霊の賜物を授けて下さいます。日々、平安と喜びをもって導いて下さいます(34,35節参照)。主イエスと共に心から神の恵みに感謝し、心から主をほめ讃えましょう。

 主よ、私はあなたによって創られました。あなたは私の主、私の神です。あなたの御声に耳を傾けます。あなたの計らいはいかに貴いことでしょう。どうか私を究め、私の悩みを知って下さい。私の内に迷いの道があるか試し、私をとこしえの道に導いて下さい。全世界に、私たちのただなかに、クリスマスの喜びが豊かにありますように。 アーメン


スペシャルオリンピックス2011夏期世界大会アテネ

何の気なしにヤフーの検索バーを見たら、「SOアテネ大会情報」というボタンがありました。
クリックしてみてびっくり、それは、表題のとおり、「スペシャルオリンピックス2011夏期世界大会アテネ」の情報サイトでした。
「スペシャルオリンピックス」という組織、大会があること、今まで知りませんでした。

スペシャルオリンピックス(SO)というのは、世界170カ国以上の国で約370万人の知的発達障害のある競技者たちと、約70万人のボランティアが参加している世界規模の活動です。

情報サイトのアドレス
URL http://so.yahoo.co.jp/index.html

NPO法人スペシャルオリンピックス日本の公式サイトのアドレス
URL http://www.son.or.jp/index.html

スペシャルオリンピックス2011の公式ブログのアドレス
URL http://blogs.yahoo.co.jp/specialolympics_nippon


スペシャルオリンピックスは、故ケネディー大統領の妹ユニス・ケネディ・シュライバー(Eunice Kennedy Shriver)が創設したものです。ユニスの姉ローズマリーが知的発達障害者だったこともあって、自宅の庭を開放して知的発達障害者のデイキャンプを行いました。それがきっかけとなって、1968年に知的発達障害者のスポーツ祭典「スペシャルオリンピックス」が創設されることになったのです。

1988年、国際オリンピック委員会(IOC)と議定書を交わし、オリンピックの名称使用について公式に承認を受けました。

ユニスは、2009年8月11日に88歳で召天し、現在、息子のティモシー・ベリー・シュライバーが「スペシャルオリンピックス」の会長を務めています。
カリフォルニア州知事シュワルツネッガー氏の妻マリアは、ユニスの娘。ユニスの夫 サージェント・シュライバーは元駐仏大使で、1972年の大統領選で民主党の副大統領候補になったそうです。

日本では、1980年から「スペシャルオリンピックス」の活動が始められたようですが、1994年、「スペシャルオリンピックス日本」が国際本部より認可を受け、熊本で発足しました。初代理事長は、細川護煕元首相夫人の細川佳代子氏(現在名誉理事長)です。
2006年、NPO法人として国税庁の認定を受けました。
2007年、事務所を東京に移しました。
2008年、有森裕子氏が第3代理事長に就任し、現在に至ります。
有森裕子氏は、2011夏期世界大会アテネの日本選手団団長も務めています。

アテネ大会は既に中日を過ぎていますが、競技結果に注目したいと思います。

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