ヘレンは、1880年の今日、アメリカはアラバマ州タスカンビアの地主の娘として、産声を上げました。
しかし、1歳半になった頃、原因不明の高熱と腹痛に襲われ、それがもとで視力と聴力を失ってしまいました。
両親はしかし希望を捨てず、つてを頼ってパーキンス盲学校の校長に手紙を書き、家庭教師を推薦してもらいます。
それで派遣されてやって来たのは、同校を優秀な成績で卒業したアニー・サリバン女史でした。
サリバン女史は、同校での訓練と数度の手術により、ある程度、視力を回復することが出来たそうです。
ヘレンは、サリバン女史の献身的な教育と奉仕により、「言葉の世界」に目覚めていきました。
これまで、サリバン女史に出会うまでのヘレンは、手のつけられない乱暴な少女という先入観を持っていましたが、女史の手記に依れば、ヘレンは聡明で、子どもらしく可愛い少女だったようです。
また、井戸で水に触れて、「水」という言葉を思い出して、それを声に出したという映画のシーンを見たことがありましたが、実際にヘレンが声を出すことが出来たのは、そのときではなく、9歳でサリバン女史の母校であるパーキンス盲学校に入り、そして、10歳を過ぎてボストンの聾学校で発音を学んだのです。
そのときの喜びを、ヘレンは自伝に、「私は校長先生が一言を発するごとに彼女の顔の上に手をあて、その唇の運動や舌の位置を探って、その真似をして、一心に学んだ結果、1時間後には六つの音の要素(M.P.A.S.T.I)を覚えこんだ。かくて私は最初に『It is warm today.(今日は暖かいです)』と、自分には聞えないながらも、声だけは発し得た時の驚きと喜びは、終生忘れ得ないことです。それは聞き取りにくい言葉ではあった。しかし正しく人間の言葉であった。私はこれで永い間の苦悩から救い出された」と書いているそうです。
1904年、ラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学の女子部)を優秀な成績で卒業した後、世界各地で講演活動を行い、視聴覚障害者の福祉活動に献身します。
ヘレンは、1937年に初来日し、11年後の1948年に再来。
これを記念して2年後の1950年、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団と、財団法人西日本ヘレンケラー財団が設立されています。
さらに1955年に3度目の来日を果たし、熱烈な歓迎を受けました。
来日の理由は、1954年に没した朋友・岩橋武夫に花を手向けるためだったそうです。
岩橋武夫は、早稲田大学在学中に失明したため、郷里の大阪に戻り、関西学院に入り、卒業後、盲学校の教師になります。
その後、エジンバラ大学に留学して学位を取得、母校関西学院の講師となりました。
教鞭を執る傍ら、大阪盲人協会の会長職を務めます。
そして、1934年12月、米国にヘレン・ケラーを訪ね、ヘレンに日本の障害者支援の呼びかけを要請しました。
ヘレンの来日は、この要請に基づくものだったのです。
岩橋はその後、身体障害者福祉法の制定に尽力し、1949年12月26日、それが実現しました。
ヘレンの活躍は、サリバン女史なしにはあり得ないことでした。
ヘレンとサリバン女史について描いた劇作家ウィリアム・ギブソンの戯曲「奇跡の人」があります。
ヘレンが井戸水に触れて「ウオーター」と発音したというのは、この戯曲に出てくるギブソンの創作でした。
「奇跡の人」とは、三重の障害を克服したヘレンのことと誤解されている向きがありますが、原題は
「the Miracle Worker」、つまり、ヘレンに奇跡をもたらした人ということで、これは、サリバン女史のことを指しているのです。
サリバン女史は、1887年3月にヘレンの家庭教師となり、1936年10月に70年の生涯を閉じるまで、限りない愛と忍耐をもって、ヘレンを支え続けました。
あらためて、ヘレンは、障害を克服した、奇跡的に障害をなくしたということはありません。
彼女は障害を持って生き続けました。
彼女を助けたサリバン女史も、また、日本の障害者福祉のために尽力した岩橋武夫も、視力障害者でした。
障害者が偉大なことをしたのを、「奇跡」とよぶのは、彼らの努力を無にすることではないでしょうか。
障害の有無が、その人の人格を決めるわけではありません。
時折、「障害者があれだけ頑張っているんだから、健常者はもっと頑張らないと」といった主旨の発言を聞くことがあります。
確かに、障害があるというのは、不便なことがあり、健常者と同じことをするにも、努力を要することがあります。
だから、健常者よりも劣っているなどということはあり得ません。
健常者の方が障害者よりも優れた成績が上げられると考えるのは、思い上がりです。
私はそのことを、松山で牧師をしていたとき、視力障害者の野本春幸さんから教えて頂きました。
何かの時に、野本さんに向かって「めくら蛇に怖じずですね」と言ってしまった後で、取り返しのつかないことを言ったと後悔したのですが、野本さんは、「めくらでも蛇は怖いですよ」と、優しく応じられました。
そして、「視力障害者を盲人、めくらと呼ぶこと自体を差別とは思わない。表現が差別的でなくても、心の中の差別がなくなるわけではない。表現されない差別の方がたちが悪い」と、野本さんは仰ったのです。
蛇を怖がらないのは愚かなこと、めくらは愚かだと考えるから、「めくら蛇に怖じず」という諺が生まれるわけです。
その諺のおかしさに気づけない私の愚かさこそ、笑われる必要があります。
その意味で、「百聞は一見にしかず」も、間違った諺だと思うようになりました。
たとえば、一度、象の映像をみせることと、象を見たことのある人からその印象を百回聞くこと、どちらが心に残るでしょうか。
本当は、「一見は百聞にしく能わず」というべきです。
いろいろな人の言葉、話に耳を傾け、正しい知恵を身につけたいものだと思います。