「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」 詩編95編7節
95編は、私たちにまことの礼拝とは何かを教える教訓的な詩です。
それはまず、主を賛美することです。「主に向かって喜び歌おう」と言い(1節)、「楽の音に合わせて喜びの叫びを上げよう」と歌います(2節)。主を賛美するのは、主が大いなる神であられ、そして大いなる王であられるからです(3節)。そしてその根拠は、天地万物を創造され、それを御手の内に治めておられること、私たち人間も、神の被造物だということです(4~6節)。
冒頭の言葉(7節)に、「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民」という言葉があります。これは、私たちが神の被造物というだけでなく、神と私たちとの間に契約があることを示しています。その契約によって主が私たちの神となられ、私たちは主の民としていただいたのです。主はかつてモーセに、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました(出エジプト記19章5,6節)。
また、エレミヤの預言に、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とあります(エレミヤ書31章33節)。つまり、モーセによる旧い契約も、やがて主イエスを通して結ばれる新しい契約も、その内容は、主が私たちの神となり、そして私たちが神の民となるという、同じ内容ことであることが分かります。私たちは「主なる神の民」として、神を礼拝するために神によって召し集められたものなのです。
主なる神の契約の民として、私たちのなすべきことは、主の御声に聞き従うことです。「主に養われる群れ、御手の内にある羊」という言葉が、神と私たちの関係を言い表しています。私たちは、羊飼いのイメージで語られる主なる神によって守られ、養われています。羊が羊飼いによって養われるのは、羊が羊飼いに従うからです。羊飼いは先頭に立って羊を囲いから出し、牧草地へ、水の湧き出る泉に連れて行きます。羊飼いに聞き従わず、自分勝手に進むことは、荒れ野を彷徨うことになり、それは死を意味することでした。
かつて、モーセに率いられたイスラエルの民は、シナイの荒れ野を40年の間彷徨いました。それは、イスラエルの民が神の御言葉に信頼しなかった結果です(民数記13,14章参照)。彼らは、荒れ野のメリバやマサで神を試しました(8節)。それは、荒れ野で飲み水がなく、「我々に水を与えよ」とモーセに求めたことですが(出エジプト記17章2節)、そのとき彼らは、ただ水を求めただけではなく、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試したというのです(同7節)。つまり、ここで水を出すことが出来ないような神は、我々には必要がないと言っているのと同じことでしょう。
主イエスが、公生涯の最初に、悪魔によって荒れ野で試みを受けられました(マタイ福音書4章1節以下)。そのとき、様々な悪魔の試みに対して、主イエスがなさったのは、ただ神の御言葉にのみ従うということでした。それこそが、荒れ野の試みに打ち勝つ唯一の道なのです。ここに、主を神とし、神の民となるまことの礼拝者の信仰の姿勢が、主イエスによってあらためて示されたのです。
創り主なる主をほめたたえ、すべてのものを御手の内におさめておられる主を信じ、その御言葉に聴き従いましょう。
主よ、あなたこそ賛美を受けるにふさわしいただ一人のお方です。私たちは御旨によって形作られたにも拘わらず、その御旨に背いて歩んでおりましたが、深い憐れみにより神の民としていただくことが出来ました。今、豊かな主の養いに与り、感謝致します。絶えず御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン