5月29日(日)午後3時半より、山鹿伝道所において、大牟田・熊本ブロック壮年交流会が開催されました。
その様子は、教会のサイトにレポートを掲載していますので、ご覧下さい。
URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/weeklyphoto01.html
そのなかで、ヘラルド・アバヤン師が素晴しい歌声を聞かせて下さいました。
デジカメで撮った映像をYouTubeにアップしましたので、ご覧になりたい方は、スタートボタンを押して下さい。
新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。
「御覧ください。僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます。」 詩編123編2節
123編は、「都に上る歌」詩集の4番目の詩で、主に憐れみを求める祈りが記されています。
前半(1,2節)が主に対する信頼を言い表し、そして後半(3,4節)は、嘲る者らからの救いを求める祈りが記されます。その双方を結んでいるのが、「憐れみ」という言葉です。
「わたしたちを助けてください、救ってください」というべきところを、「憐れんでください」(3節)と求めているということは、詩人が、自分には神に救いを願う権利や資格がないと考えているか、あるいは、神に対する罪意識があるということではないでしょうか。もし、自分は神の御前に正しく歩んでいる、潔白だ、と考えているならば、敵の嘲り、蔑みに対して、神が相手を正当に裁いて下さるように、そうして恥を雪いで下さるように、と求めたことでしょう。そう願っていないのは、敵の嘲りの言葉、侮辱の言葉が、詩人らの罪責をあげつらうもので、悔しいながら、それに反論出来ないということだろうと思います。
詩人は敵対者のことを4節で、「平然と生きる者ら」、「傲然と生きる者ら」と呼んでいます。その言葉の背後には、彼らもまた、神の前に罪なしとはされない者たちであるという詩人の思いが込められているのでしょう。嘲りや蔑みというのは、高いところに立って他者を見下げる行為、それを言葉にしたという表現です。私たちが人を裁くとき、そこに神への畏れや、相手のことを思い遣る心なしにそれをするなら、いつの間にか自分を高いところ、即ち、神の御座において人を断罪しているということになるのではないでしょうか。
「敵対者」をヘブライ語で言うと、「サタン」です。サタンは、ヨブ記1,2章に見るように、私たちの敵対者として神の前に立ち、私たちの罪をあげつらい、断罪するという役割を果たします。
敵対者が詩人たちを罪に定め、嘲笑し、侮辱している中、この詩人は天に向けて目を上げます(1節)。そこには、主なる神がおられ、詩人たちを見下ろしておられます。主なる神の口は、その手は、どのように動き、どのように語ることでしょうか。詩人は、冒頭の言葉(2節)のとおり、まさにそこに目を注いでいます。
「僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように」とは、僕、はしための関心は、常に主人・女主人が自分たちをどのように取り扱うかにあるということ、そして、出来ることなら、主人が自分たちに寛大であることを求めているということです。詩人はそのことを取り上げて、主なる神に目を注ぎ、憐れみを待つ、と言います。即ち、嘲られて当然、侮辱されても仕方のない自分たちを、しかし、慈しみ深い恵み豊かな主は、きっと憐れんで下さると期待しているのです。
その祈りに答え、求めに応じて、主なる神は彼らに憐れみを注ぎ、すべての罪を赦し、その呪いから解放して下さいました。それは、彼らが受けるべき罪の刑罰、嘲笑、侮辱を、神の独り子、主イエス・キリストが身代わりに受け、贖いの供え物とすることによって、成就されたのです。
今、私たちの心は、神の愛と恵みによって平安に満たされ、また感謝と喜びに溢れています。ゆえに、私たちも天を仰ぎます。私たちを憐れみ、救って下さった御子キリストが、神の右に座しておられ、敵対者サタンの告発に対し、私たちの弁護者として、今も私たちのために執り成していて下さるからです。
主よ、贖いを感謝します。救いを感謝します。平安を感謝します。憐れみを感謝します。私たちは打ち捨てられて当然の罪人に過ぎませんが、憐れみのゆえに神の子とされ、主を礼拝する民の一員とされました。あなたのなして下さったことを何ひとつ忘れず、絶えず感謝し、喜んで御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン
「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」 詩編116編10,11節
116編は、救いを求めて嘆き祈る祈りが主によって答えられたことに対する感謝の賛美の歌であり、あらためて主を信じる信仰を宣言する詩です。
詩人は、「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ」(3節)、「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった」(8節)、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(15節)と、繰り返し「死」について語っているので、それが病いであるにせよ、押し迫って来る敵の存在であるにせよ、詩人の命が脅かされている苦しみ、嘆きであったことが分かります。
そのような状況に陥ったとき、詩人にはもはや、主なる神のほかに頼りになるものがありません。それゆえ、「苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救い下さい』」と詠うのです(3,4節)。
ということは、詩人にとって死と陰府の脅威とは、何より、神との交わり、神との関係が完全に断たれてしまうことを意味していることになります。パウロが、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ書3章23節)、「罪の支払う報酬は死です」(同6章23節)というのも、同様のことを語っていると思います。
15節の、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉は、興味深い言い回しです。これは、主の慈しみに生きる人は、主の目に価高いのだから、いつ死んでもよい、などということではありません。「主の目に価高い」とは、主の慈しみに生きている人を死なせるような、もったいないことをしないで下さい、そのような人の命を貴いものとして下さい、という願いが込められた言葉なのです。
「主の慈しみに生きる」とは、主の慈しみのうちを歩む、慈しみを受けて生きるということでしょう。「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」(6節)と語られていることから、詩人は、自分が哀れな人で、弱り果てている者であると告白し、そのような自分を守り、救って下さる神に感謝し、恵み豊かな主とその御言葉に信頼して生きよう、と言っているわけです。
自分自身が弱り果てているときもそうでしょうけれども、自分の弱さ、足りなさを最も痛感するのは、愛する者が苦しんでいるのを見ながら、何をしてやることも出来ないというときでしょう。しかしながら、この詩人は、「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる」(6節)と、主への信仰を告白し、さらに、冒頭の言葉(10,11節)で、「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも。不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」と宣言しています。
前述のとおり、ここに来て、詩人には主なる神のほか、頼りとするものは何もないのです。人に頼れば、「不安がつのり、人は必ず欺く」という思いから解放されず、ますます不安が募って来るといった悪循環に陥ってしまうのです。
けれども、主を信じ、主を頼りとするとき、主が憐れみ深く、情け深いお方であることを味わい、悟ります(5節)。第二コリント書12章9節で、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう」と語られているとおり、私たちの弱さの中で、神の力ある御業がなされるとき、それは私たちのゆえではなく、神の恵み、慈しみのゆえであることが分かります。
当然のことながら、弱さそのものが私たちの誇りなのではありません。私たちの弱さの中で力強く働いていて下さる主を誇りとし、それゆえ、どのようなときにも喜びと感謝をもって、主なる神に賛美と祈りをささげるのです(1,2節、17節以下)。
主よ、わたしには、訪ねてきた友に出してやるパンがありません。どうか、必要な助けをお与え下さい。私自身を憐れみ、守り助けて下さい。絶えず、あなたの慈しみのうちを歩ませて下さい。 アーメン
「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが、あなたの僕は喜び祝います。」 詩編109編28節
109編は、自分の善意に悪意で答える敵からの救いを求める「祈りの詩」です。
その中で、8~20節は、詩人を苦しめる者に対する呪いの言葉になっています。注解者の中には、この部分は、詩人を苦しめる者の言葉であるという立場をとる人もいます。しかしながら、前段(6,7節)には、敵対者の裁きを願う言葉がありますし、17節の、「彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼に返るように」という言葉に示されるのは、これが敵対者の言葉であるなら、彼(詩人)が呪うことを好んでいる、つまり、先に呪いの言葉を口にしたのは詩人の方だ、その呪いが詩人に返るようにと言っていることになります。
詩人が先に敵を呪ったということになれば、4,5節の、敵は詩人の善意に悪意で答えるという表現と適合しません。それでは、喧嘩を売ったのは、むしろ詩人の方だということになってしまうからです。やはり、新共同訳聖書などと同様、ここは素直に、詩人が相手を呪う言葉としてとらえ、自分の善意に悪意で答えるような、善意の人を呪うことを好む輩の上に、その呪いが返るように願う言葉と考えるべきでしょう。
詩人は、神に逆らう輩が自分を欺き、偽りの言葉をもって語りかけ(2節)、それによって自分を苦しめるのは、理由のないことだと言い(3節)、詩人は相手に愛を示したのに、相手は敵意を示し、善意に対して悪意を返すのだと訴えます(4,5節)。ということは、自分が相手を呪うのは、理由のないことではない、彼らの自分に対する悪意に答えるのだ、と言っていることになります。
ただし、いったい誰が、自分は相手を苦しめる正当な理由もないのだけれども、とにかく苦しませよう、呪ってやろう、と思うでしょうか。誰もが、自分がすることには正当な理由がある、悪いのは相手だと考えていることでしょう。しかし、自分にとって正当だという理由が、相手にしてみれば不当であるということも、往々にしてあります。
かつて、アメリカがイラクに仕掛けた戦争は、イラクが不当に大量破壊兵器を集め、使用しようとしていると主張してのものでしたが、イラク国内でそれを見出すことは出来ませんでした。イラク大統領の政治が気に入らないからといって、大量破壊兵器をもって攻め込んだアメリカのやり方を、イラク国民は正当なやり方だと歓迎するでしょうか。そう思わないから、テロ攻撃が止まないのです。そのように、相手を呪い、苦しめ、死に追いやる人々を、神がそのままにしておかれるのでしょうか。
詩人は、主の慈しみによってこの苦しみから救われることを願い(26節)、冒頭の言葉(28節)のとおり、「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます」と語り(28節)、祝福を求めました。神は呪いを祝福に変えることが出来ると詩人は信じているわけです。ゆえに、敵は恥に落とされ、自分は喜び祝うことが出来るというのです。
かつて、モアブ王バラクが呪い師バラムを招き、イスラエルを呪おうとしたことがあります(民数記22章以下)。ところが、神が呪い師バラムに与えたのは、イスラエルを祝福する言葉でした(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)。三度語られた祝福の言葉の最後は、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」という言葉でした(同24章9節)。そしてこれは、神がアブラハムに対して与えた、祝福を約束する言葉でもあります(創世記12章3節)。
であれば、詩人も考えなければなりません。自分を苦しめる相手には呪いを、苦しめられている自分には祝福を、と願い求める気持ちは大変よく分かります。誰もがそう願うことでしょう。しかし、相手を呪うことは、神が良しとされることでしょうか。神は、敵が自分を呪う言葉を祝福に変えることがお出来になるように、自分が敵を呪う言葉をも、祝福に変えることがお出来になるのです。そして、神は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われているのです。つまり、敵に対しては、自分の呪いの言葉を祝福に変えて与え、敵を呪った自分には、その呪いが返ってくるというわけです。
神は私たちに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と命じておられます(第一ペトロ書3章9節)。誰がその命令に従えますか。誰にも出来ることではないかも知れません。そういう私たちのために、キリストが犠牲となられました。殺す者を赦し、祝福を願われたのです(同3章18節以下)。その主イエスの執り成しにより、私たちは恵みに与りました。
主イエスを心の王座に迎え、アブラハムの子として、祝福の源とならせて頂きましょう(創世記12章2節)。
主よ、弱く乏しい私たちの右に立って、私たちを守り支えて下さい。私たちの心の王座に着き、私たちを呪いと報復の連鎖から解放し、すべての人々の祝福を祈る者とならせて下さい。 アーメン
5月14日は、水銀温度計を発明し、華氏温度計(°F)に名前を残すポーランドの物理学者ファーレンハイト(ガブリエル・ダニエル・ファーレンハイト Gabriel Daniel Fahrenheit 1686~1736)の誕生日です。
最初に温度計を発明したのは、あのガリレオ・ガリレイでしたが、それは気圧の影響で測定温度が変化する代物だったそうです。
華氏温度は、塩化アンモニウムを寒剤として得られる当時人間が作り出せた最低温度を0度、成人男性の平均体温を96度として、その間を等分して目盛りをつけた水銀温度計を発明し、それが、標準温度計となりました。
この温度計によると、水が凍る温度は32度、沸騰する温度は212度になります。
ファーレンハイトが1724年に発表し、現在では、主にアメリカ・カナダ・イギリスで用いられています。
中国では、ファーレンハイトに「華倫海」の字を当てたことから、「華氏」と呼ばれるようになりました。
ファーレンハイトは、自身の温度計を使って様々な液体の沸点を計測しました。
それにより、液体ごとに沸点が異なること、及び大気圧によってその沸点が変動することを発見しました。
その後、スウェーデンの天文学者セルシウス(アンデルス・セルシウス Anders Celsius 1701~1744)が、気圧計の目盛りが一定の時、水の 沸騰する温度がつねに一定であることに気づき、一気圧のときの水の沸騰点と、氷の融解点との間を100等分した目盛り(℃)を提唱しました。
これが、セルシウスの水銀温度計であり、今日、世界的に採用されている摂氏温度といわれるものです。
「摂氏」も、中国でセルシウスに「摂爾修」の字を当てたことに由来しています。
因みに、華氏を摂氏に転換する公式は、 C=5(F-32)/9 です。
今では、目に見えない赤外線の光を利用した温度計へと発展し、測りたいものに直接触れなくても、離れた位置から温度が測れる「非接触型温度計」と呼ばれるものも、出て来ているそうです。
気象庁のサイトに、「ファーレンハイトの誕生日を記念して、5月14日は温度計の日と制定されています。」と記されていましたが、いつ誰がどのようにして、「温度計の日」を制定したのかは、不明です。
もしかしたら、温度計を作っている会社が販売促進のために定めたのではないか、と思っているのですが・・・
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「主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。」 詩編102編13節
102編は、「あなたは怒り、憤り、わたしを持ち上げて投げ出された」(11節)という言葉や、「どうか、立ち上がって、シオンを憐れんで下さい」(14節)という言葉などから、バビロンで強制労働に従事させられているイスラエルの民が、神に救いを求める「祈りの詩」と考えられます。キリスト教会は伝統的にこの詩を、七つの悔い改めの詩(6,32,38,51,102,130,143編)の一つに数えて来ました。
詩の中に、具体的な罪に対する言及はありません。また、罪を悔いる言葉もありません。どうしてこれが、悔い改めの詩と言われるのでしょうか。
悔改めとは、「向きを変える、ターンする」という言葉です。つまり、ごめんなさいと言うか言わないかというようなことではなく、今までの生き方を変えるということです。詩人をはじめイスラエルの民は、神に背き、御言葉に従わない生活をしていました。真の神を求めて祈ることもなかったのではないでしょうか。その結果、上述の11節の言葉のように、神の怒りを買い、投げ捨てられたようになったわけです。具体的には、イスラエルがバビロニア帝国に滅ぼされ、民はその奴隷となったということです。
詩人は今、主の御名を呼び、「主よ、わたしの祈りを聞いて下さい」(2節)と神の御前に祈り求めるようになりました。確かに、神に対する態度が変わったのです。
表題に、「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」(1節)とあるように、詩人は、捕囚の苦しみの中、頼りとする一切のものを失って心挫けてしまったのです。しかし、そのとき、もう一度まことの神、主を思い出して、祈りをささげているのです。それは、「苦しいときの神頼み」と揶揄されそうな事態です。しかしながら、苦しいときに依り頼むことの出来る神がおられることが、詩人の救いです。まさに、表題に言う「貧しい人」とは、神のほか、頼りとなるものを何も持たない人のことだからです。
詩人が思い出した主なる神は、冒頭の言葉(13節)のとおり、「とこしえの王座についておられる」お方です。そのことについて、「わたしの神よ、生涯の半ばでわたしを取り去らないでください.あなたの歳月は代々に続くのです」(25節)と願い、神には終りの時がないけれども、人は取り去られるときが来る。そのときを早めないで欲しいと言います。また、「あなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは長らえられます」(26,27節)。「すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては変えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません」(27,28節)と言い、最後にもう一度、「あなたの歳月は終わることがありません」(28節)と語ります。
詩人は、主なる神が永遠に変わらない、とこしえの王座に着いておられることに希望を置いて、「どうか、立ち上がって、シオンを憐れんで下さい。恵みのとき、定められたときが来ました」(14節)と言っています。主が心引かれてイスラエルの人々を御自分の宝の民とされたのは、彼らが強く優秀な民だったからではなく、むしろ他のどの民よりも貧弱だったからです(申命記7章6,7節)。ですから、神がシオン=エルサレムを神の都として選ばれ、そこに神殿が建てられたのは、シオン山がどの山よりも高くそびえ、美しかったからではなく、神がイスラエルを恵みと憐れみによって選ばれたしるしだったのです。
であれば、とこしえの王座に着き、永遠に変ることのない神は、今、神の憐れみを求めて祈る詩人たちのために、その怒りによってシオンを永遠に滅ぼしてしまわれることはないだろう。かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民の呻きに耳を傾け、憐れみをもってその苦しみから救いだして下さったように、ご自身の御名のゆえに、その栄光を回復させて下さるときがやって来るだろう、と詩人は受け止めたわけです。
そして、そのときがくるのを一日千秋の思いで待っています。それが、「あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み、塵をすら、どれほど慕うことでしょう」(15節)という言葉になっています。最後に、「あなたの僕らの末は住むところを得、子孫は御前に堅く立てられるでしょう」(29節)と、主への信頼を言葉にすることが出来ました。
主がこの信仰の祈りに答えて下さったことは、歴史が証明しています。
主よ、罪が裁かれて苦しみを受けたイスラエルの民が、そこで本心に立ち返り、神を求めてその恵みに与ることが出来たのであれば、その裁きは実にあなたの愛の表れであり、そこに深いご経綸のあったことを示されます。確かに、御前に無益なことは一つもなく、すべてがプラスに変えられると信じます。どうか私たちの心の王座に着かれ、絶えず私たちを真理に導いて下さい。 アーメン
またデリケートなお茶の香味は、専門の保存施設で保たれます。
家庭や職場などでの購入は必要なだけ、新鮮なものを少しずつ買うのがベストです。
また、1㎏のお茶が必要ならば、大袋で1㎏より、200gを5袋購入する方が新鮮なお茶を楽しめます。
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