風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年04月

4月24日の御言葉 「朝ごとに祈りは御前に」

「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」 詩編88編14節

 88編は、重い病などの苦しみから、神に救いを求める「祈りの詩」です。ここには、神に対する信頼の言葉や賛美の言葉は、全く記されていません。4節に、「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます」とあるように、まさに死に直面して、嘆き苦しみ、それゆえに、この祈りが神に聞き届けられることを求めて叫び続けているわけです(2,3節)。

 6節には、「汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました」とあり、詩人は、死に直面させる病いなどの苦しみがある上に、その病のゆえに神の前に汚れた者、神に捨てられた者と見なされます。そのために、家族や知人との交わりから隔離され、生きながら死者の中に住まいする者とされていることが、詩人を一層苦しめています。

 16節には、「わたしは若いときから苦しんできました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」と記されています。若いころには、将来に期待して耐えることも出来たでしょう。周りの家族や友人も様々に慰め、励ましてくれたことでしょう。しかし、長い年月が過ぎ去り、もはや若くはありません。明日に希望をもてなくなり、死を待つばかりとなりました。

 19節の、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という言葉は、愛する者や友が詩人に愛想をつかしたというようなことなのでしょうか。それとも、「汚れた者と見なされ」(6節)たことによって、彼らが詩人に近づくことが出来なくなったということなのでしょうか。あるいはまた、愛する者や友も年老いて、詩人を支えることが出来なくなったということなのでしょうか。色々と想像致しますが、いずれにせよ、彼の孤独な状況を思うと身につまされるものがあります。

 詩人のような苦悩の中にいる人々に対して、何をどのように語れば、慰めとなり、励ましとなるでしょうか。うずくまっている人を立ち上がらせるのは、容易なことではありません。私には、人を慰める言葉も力もないことを、あらためて思い知らされます。自分がこの詩人であったらと思うと、やりきれないような思いにされます。

 しかしながら、一つ思うことは、この詩人は神の御前に諦めてはいないということです。「昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります」と語り(2節)、そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます」と言っているからです。

 「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(19節)と語る詩人にも、朝の光が差し込んでいます。昼、助けを求めて叫び、御前に眠れない思いで夜を過ごした詩人が、朝の光の中で身仕舞を整え、姿勢を正して神に祈っています。彼を取り巻く現実は、少しも変わっていないかも知れません。詩人が神の前に祈る言葉は、昨日も今日も同じかも知れません。けれども、事毎に神の御前に座り、訴え叫ぶ詩人の祈りの姿勢の中に、その祈りを聞いておられる神の御顔を見るように思います。神が詩人にそのように祈らせておられるのではないか、と思えます。詩人は、ほかの誰でもない神ご自身によって、その祈りに導かれ、そこに力を得て昼叫び、夜深く神を思い、朝を迎えて再び神に祈るのです。

 ベトザタの池の傍らで、38年間の長患いの男に「良くなりたいか」と主イエスが声をかけられたとき(ヨハネ福音書5章6節)、その男は、「はい」とも「いいえ」とも答えませんでした。彼は、「わたしを池に入れてくれる人がいないのです」と答えました。この人にとって、病も苦しいものだったとは思いますが、それ以上に、助ける者のない孤独な状況が彼を苦しめていたわけです。それは、病気が治ったところで解消しない苦しみだったのです。しかし、このやり取りができたとき、この人の心には明るい光が差し込んでいたのではないでしょうか。この人の関心を寄せ、「良くなりたいか」と声をかけて下さる方が現れたからです。そのお方に、神の愛を見ることが出来たのです。

 主よ、私たちは自分で自分を救うことが出来ません。私にはその力がありません。あなたを信じることが出来ること、あなたに祈りをささげることが出来ることは、本当に幸いです。どんな時にも、主を信じて祈るようにと導いて下さいます。主の愛の光を受けて、朝ごとに新しく、主を仰がせて下さい。御声を聴かせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン


4月17日の御言葉 「わたしの民よ、聞け」

「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 4節に、「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの第七月一日、新月の安息日で、その日は、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く十日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる十五日の安息日から一週間、仮庵祭(かりいおさい)が行われます(同34節)。ということで、この詩は仮庵祭のたびに朗読されるように作られたものと思われます。

 仮庵祭は、葡萄の収穫祭で、秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 そのことに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、長い間荒れ野を旅して、テントで生活したことを重ね合わせ、その苦労を忘れないため、そして、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです。

 角笛を吹き鳴らして呼び集めた民に、この詩が、神のメッセージとして朗読されます。その中心メッセージは、詩の中心にある、「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え」(9節)という言葉です。そして、神に聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という約束が与えられます(11節)。

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」と言われます(12節)。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 神は、「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています(14,15節)。このメッセージは、「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれたら、守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」と言おうとしているわけではありません。

 このようなメッセージを聞かせつつ、今このメッセージを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますか、と問いかけているのです。そして、もし聞き従うなら、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」と、主が再び、約束されているのです(17節)。

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせて下さいという祈りの儀式です。

 ヨハネ福音書7章で、主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、生きた水と言われているのは、聖霊のことです。

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」ということで、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られた、と記しているのです。

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われているのです。

 主よ、御名を崇めます。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。 アーメン

 

4月10日の御言葉 「夜もあなたのもの」

「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 詩編74編16,17節

 74編は、神がイスラエルを顧み、敵の手から救い出して下さるように願い求める「祈りの詩」です。「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃墟となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」(2,3節)などという言葉から、バビロンによってエルサレムの都が破壊され、神殿が焼かれた情景を思い浮かべることが出来ます。

 「どうか、御心にとめて下さい。・・このシオンの山を」ということは、詩人は今、廃墟となった神殿の丘で、神の救いを祈り求めているわけです。「永遠」(ネーツァー)という言葉が、1,10,19節にも用いられていて、一つのキーワードになっています。神殿が廃墟となってから、ずいぶん長い時間が経過しているわけです。

 詩人を取り巻いている現実は、厳しいものがあります。神が永遠に守られると信じた都が破壊され、神殿が廃墟とされたのです。また、王をはじめ、主だった者はすべて、捕囚として連れ去られました。彼らを指導する預言者も、執り成し祈る祭司もいません(9節)。エルサレム周辺に残されている人々は、敵の嘲りにさらされて生活しています(10節)。

 詩人は、見えるものすべてが破壊され、焼き払われてしまったエルサレム神殿の廃墟で、目に見えない神に、「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」と、嘆きの祈りをささげます(1節)。詩人は、この最悪の状況の中で、まさにすべての拠り所が失われた状況の中で、必死にその拠り所を求めているのです。

 詩人にとって神は、「いにしえよりの王」であり、「この地に救いの御業を果たされる方」なのです(12節)。「御力をもって海を分け」(13節)というのは出エジプト記14章の出来事を指しています。その後に出てくる「竜」は海の象徴、「レビヤタン」(14節)というのは、イザヤ書27章1節などの記述から、川を象徴しているものと考えられます。川も海も、人を死に追いやり、飲み込んでしまう悪しき獣が住む場所と考えられていたわけです。

 ですから、竜の頭を砕き、レビヤタンの頭を打ち砕いて、砂漠の民の食糧とされたというのは、海や川、砂漠という、人の命を脅かすところが、神の養いを受け、その恵みを味わうところに変えられたということです。具体的には、イスラエルの民の前に紅海が分けられ、また、ヨルダン川がせき止められたことや、岩から水が出たこと(出エジプト記17章、民数記20章)、あるいはまた、天からマナが降ったこと(出エジプト記16章)などを指しています。

 冒頭の言葉(16,17節)のとおり、神は昼には太陽、夜には月や星という光を放つものを備えられました(創世記1章14節以下)。確かにそれは、昼も夜も神が支配しておられるというしるしです。詩人は、古の出来事にその拠り所を見出し、順風も逆風も神の御手の業であること、地の境を定められるのも神であられることを悟りました。

 だからこそ、この最悪と思われる状況も神の御手に中にあり、この逆境をむしろ神の民がひとつになって神を求めるべき時とし、神の助けを頂いてその恵みを味わうべき時としようと、声をあげているのです。ここに、イスラエルの人々が持つ信仰を見ることが出来ます。

 私たちも、昼も夜も支配され、夏も冬も造られた主を信じ、逆境のときこそ主を求める時として、絶えず賛美と祈りに導かれる、この信仰にあやかりたいと思います。

 主よ、あなたは確かにイスラエルの主です。その罪によって永遠に捨てられたように見えたイスラエルの民の祈りを聞き、再び光を備えられました。その民の中に、すべてのものを救うメシアをお遣わしになりました。主よ、今未曾有の苦難の中にいる人々を顧み、その心に、生活に、光を備えて下さい。そして、共に賛美と祈りに導いて下さい。 アーメン

 

東日本大震災の被災者支援募金のお願い

頂いたメールを、管理人の責任において、ここに転載します。

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11日午後に発生した東北関東大地震は、現在も全容が判らないほど、大規模で甚大な被害が出ています。
私たちは、家なき人々、路上の困窮者の支援を長年行ってまいりました。
現在、東北一帯で数十万という人々が家を失い、避難所で、また路上で過ごされています。
この家なき人々の叫びにどう応えるかを全国ネットして模索しています。
また、この震災の中でホームレスがさらなる災害弱者にされないように、支援したいと思います。
全国ネットワークとしては、現地の団体と協力しつつ、被災者支援を開始しました。
現在、仙台地区におきましてワンファミリー仙台と仙台夜まわりグループが被災者に向けて炊き出しを開始しています。
どうぞ、皆さまのご協力をよろしくお願い申し上げます。

NPO法人 ホームレス支援全国ネットワーク 理事長 奥田知志
(この情報を、各自メール、ツイッター等でお広めくだされば幸いです)



◇被災者支援募金お振込口座 Donation Account

● ゆうちょ銀行からのお振込の場合
 銀行名称:ゆうちょ銀行総合口座
 口座名称:記号17480 番号32293661
 口座名称:特定非営利活動法人ホームレス支援全国ネットワーク
 (トクテイヒエイリカツドウホウジンホームレスシエンゼンコクネットワーク)

● その他金融機関からのお振込みの場合
 銀行名:ゆうちょ銀行
 店名:748店(ナナヨンハチ店)
 預金種目:普通
 口座番号:3229366
 カナ氏名(受取人名):トクテイヒエイリカツドウホウジンホームレスシエンゼンコクネットワーク

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同じ内容が、ホームレス支援全国ネットワークのサイトにも記されています。
http://www.homeless-net.org/index.html

また、北九州ホームレス支援機構のサイトもご覧下さい。
http://www.h3.dion.ne.jp/~ettou/npo/top.htm


日本バプテスト連盟も、災害対策本部を設置し、ブログで情報を発信しています。
http://baptist.exblog.jp/

4月3日の御言葉 「御顔の輝き」

「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。」 詩編67編2節

 67編は、神の祝福を祈る歌で、7節の「大地は作物を実らせました」という言葉から、秋の収穫祭のために詠まれたものではないか、と考えられています。

 冒頭の、「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉(2節)は、民数記6章24~26節の、「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」というアロンの祝福の祈りに似ています。

あるいは、この祈りを援用して作詞されたのかもしれません。そして、アロンの祝福はイスラエルの民のためでしたが、この詩では、「すべての民」(3節)がその恵みに与って感謝をささげることを願っています。

 ここに、「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「彼(神)が御顔を私たちの傍で(私たちと共に)輝かせられますように」となり、岩波訳ではそれを、「われらのもとでかれの顔を輝かせますように」と訳しています。神の御顔の輝きが私たちの傍らに、私たちと共にあるということは、神が私たちに味方していて下さるということ、それによって、私たちも共に神の栄光に輝くことを願っていることになります。
 
 新共同訳が、「傍で、共に」という言葉を「に向けて(unto)」と訳しているのは、民数記の「主が御顔を向けて」という言葉を参考にしたからでしょう。神の御顔が自分たちに対して向けられることは神の愛の表れであり、それが自分たちを祝福する光に照らされることと考えての訳です。

 どちらをとっても内容的にはそんなに違わないことでしょうが、しかし、3節で、「あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」と語っていることから、詩人は、神の御顔の光が自分たちを通してすべての民に向かうことを願っていると考えられるため、岩波訳のように訳す方が原意にかなっているのではないか、と思います。
 
 このことについて、パウロが「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と語っている言葉が、第二コリント書4章6節にあります。パウロは、はじめ、キリストが神の御子であることを認めること、信じることが出来ませんでした。しかし、神はパウロの心を照らして、御子の栄光を悟らせられたのです。

 その光は、しかし、彼を祝福する光であっただけでなく、「闇から光が輝き出よ」という言葉に示されるとおり、パウロという闇から福音の光が輝き出よと神が命じられて、今や、パウロの内から福音の光が周りを照らすようになったわけです。パウロの福音メッセージが手紙に記されたことによって、どれほどの人がその光の恵みに与ったことでしょうか。

 けれども、それはパウロに限ったことではありません。私たちも、「自分の体で神の栄光を現しなさい」と言われているのです(第一コリント書6章20節)。桜は桜の花を咲かせ、タンポポはタンポポの花を咲かせるように、私は私の、神に委ねられた使命があり、その使命を果たすことで現される神の栄光があるのです。

 イスラエルが主の聖なる民として選ばれ、宝の民とされたのは、ほかのどの民よりも貧弱だったから、それゆえ、神を信頼し、その御言葉を守るよりほか、生きる術なき民だったからです(申命記7章6節以下)。主を仰ぎ、その手足として主に用いていただくことが出来るように、祝福と導きを祈りましょう。

 主よ、私たちを憐れみ祝し、私たちと共に、私たちの内にあって、御顔の光を輝かせて下さい。御言葉を聴き、主の御心に従って歩み、恵みと愛を家族に、隣人に、証しすることが出来ますように。そして、多くの人々に神の恵みが届きますように。 アーメン
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