「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」 詩編88編14節
88編は、重い病などの苦しみから、神に救いを求める「祈りの詩」です。ここには、神に対する信頼の言葉や賛美の言葉は、全く記されていません。4節に、「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます」とあるように、まさに死に直面して、嘆き苦しみ、それゆえに、この祈りが神に聞き届けられることを求めて叫び続けているわけです(2,3節)。
6節には、「汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました」とあり、詩人は、死に直面させる病いなどの苦しみがある上に、その病のゆえに神の前に汚れた者、神に捨てられた者と見なされます。そのために、家族や知人との交わりから隔離され、生きながら死者の中に住まいする者とされていることが、詩人を一層苦しめています。
16節には、「わたしは若いときから苦しんできました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」と記されています。若いころには、将来に期待して耐えることも出来たでしょう。周りの家族や友人も様々に慰め、励ましてくれたことでしょう。しかし、長い年月が過ぎ去り、もはや若くはありません。明日に希望をもてなくなり、死を待つばかりとなりました。
19節の、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という言葉は、愛する者や友が詩人に愛想をつかしたというようなことなのでしょうか。それとも、「汚れた者と見なされ」(6節)たことによって、彼らが詩人に近づくことが出来なくなったということなのでしょうか。あるいはまた、愛する者や友も年老いて、詩人を支えることが出来なくなったということなのでしょうか。色々と想像致しますが、いずれにせよ、彼の孤独な状況を思うと身につまされるものがあります。
詩人のような苦悩の中にいる人々に対して、何をどのように語れば、慰めとなり、励ましとなるでしょうか。うずくまっている人を立ち上がらせるのは、容易なことではありません。私には、人を慰める言葉も力もないことを、あらためて思い知らされます。自分がこの詩人であったらと思うと、やりきれないような思いにされます。
しかしながら、一つ思うことは、この詩人は神の御前に諦めてはいないということです。「昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります」と語り(2節)、そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます」と言っているからです。
「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(19節)と語る詩人にも、朝の光が差し込んでいます。昼、助けを求めて叫び、御前に眠れない思いで夜を過ごした詩人が、朝の光の中で身仕舞を整え、姿勢を正して神に祈っています。彼を取り巻く現実は、少しも変わっていないかも知れません。詩人が神の前に祈る言葉は、昨日も今日も同じかも知れません。けれども、事毎に神の御前に座り、訴え叫ぶ詩人の祈りの姿勢の中に、その祈りを聞いておられる神の御顔を見るように思います。神が詩人にそのように祈らせておられるのではないか、と思えます。詩人は、ほかの誰でもない神ご自身によって、その祈りに導かれ、そこに力を得て昼叫び、夜深く神を思い、朝を迎えて再び神に祈るのです。
ベトザタの池の傍らで、38年間の長患いの男に「良くなりたいか」と主イエスが声をかけられたとき(ヨハネ福音書5章6節)、その男は、「はい」とも「いいえ」とも答えませんでした。彼は、「わたしを池に入れてくれる人がいないのです」と答えました。この人にとって、病も苦しいものだったとは思いますが、それ以上に、助ける者のない孤独な状況が彼を苦しめていたわけです。それは、病気が治ったところで解消しない苦しみだったのです。しかし、このやり取りができたとき、この人の心には明るい光が差し込んでいたのではないでしょうか。この人の関心を寄せ、「良くなりたいか」と声をかけて下さる方が現れたからです。そのお方に、神の愛を見ることが出来たのです。
主よ、私たちは自分で自分を救うことが出来ません。私にはその力がありません。あなたを信じることが出来ること、あなたに祈りをささげることが出来ることは、本当に幸いです。どんな時にも、主を信じて祈るようにと導いて下さいます。主の愛の光を受けて、朝ごとに新しく、主を仰がせて下さい。御声を聴かせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン