風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年03月

3月27日の御言葉 「警告を受け入れるように」

「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた。」 詩編60編6節

 詩編60編は、3節に、「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた」と記されてあり、12節にも、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたはわれらと共に出陣してくださらないのか」と訴える言葉があることなどから、外国との戦争に敗れたイスラエルの民が、神の助力を求めた「祈りの詩」ということが出来ます。

 ところが表題に、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰ってきて塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)とあります。これは、サムエル記下8章1節以下の出来事を指していますが、それは、ダビデがイスラエルの王となり、エルサレムを都とし神の箱を都に迎え、近隣諸国と戦えば連戦連勝といった、最高潮の時期にあたります。

 8節以下の主の宣言には9つの地名が出て来ますが、10節のモアブ、エドム、ペリシテは、まさに表題に語られている時期に、ダビデによって屈服させられ、イスラエルに隷属するようになったところです。神がその宣言どおりにして下さったということで、2節の表題がつけられたのでしょうけれども、そのときに、ダビデがここに詠われているような心境であったとは、およそ考えられません。

 もしかして、やることなすこと皆うまくいったので、それがダビデの自惚れや傲慢となって、神を怒らせたとでもいうのでしょうか。サムエル記下24章の「ダビデの人口調査」はそれを思わせるものですが、しかしながら、それは、表題の時期ではありませんし、神の憤りは、「三日間の疫病」をもたらすという形で示されたのであって、敵との戦いなどではありませんでした。

 5,6節で詩人は、神がご自分の民に辛苦の酒を飲ませ、それを、神を畏れる人に対する警告として受け入れるようにされた、と記しています。それは、苦難のときこそ、神を畏れ、謙って御言葉に従いなさい、ということでしょう。

 冒頭の言葉(6節)で、「警告」(ネーム)というのは、「旗、印、基準」という意味の言葉です。原文を直訳すると、「あなたは、あなたを畏れる者に、旗を与えられた」、となります。戦いに敗れて散り散りにされた者たちを、もう一度、その旗印の下に集め、皆でこの戦場を離脱しようとしている、といった状況を思い浮かべればよいのではないでしょうか。

 また「真理」(コーシェス)と訳されている言葉は、「弓」(コーシェト)とは母音の着け方が違うだけですから、「弓」という読みを採用して、「弓の前に掲げるための」と訳すことも出来るでしょう。そうすれば、弓に示される敵の攻撃による裁きが行われる前に、警告を受け入れよ、といった意味になるでしょうか。

 いずれにせよ、イスラエルは、自分たちの兵力、軍事力に頼るのではなく、神の導きのもとに謙り、その旗印に従って歩むところに、自分たちの生きる道があるということです。神はその旗印を、神を畏れる者たちにお与えになりました。神を畏れる者たちは、自分たちの辛苦を通しても、神の真理を悟らせていただくのでしょう。神がお与え下さる旗印は「錦の御旗」などではなく、神の前に奢り高ぶっている者への「警告」と解釈されるわけです。

 その意味で考えるならば、この詩は、何かの史実に基づいて詠われているのではなく、敵との戦いに臨むにあたり、王として、神の助けなしにその闘いに勝利することは出来ないこと、全地を「わたしのもの」と言われる主の御手に頼り、その導きに従って歩むべきことを教えるという目的を持って造られたものということが出来るでしょう。

 キリストの救いに与っている私たちは、真理とは主イエスのことを指していると教えられています(ヨハネ福音書14章6節など)。私たちの旗印は、主イエスの十字架です。主イエスは私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)、と命じられました。

 これは、主イエスから愛され、罪赦されて神の子とされた私たちが、十字架を旗印として互いに赦し合い、愛し合い、助け合う道を、主と共に歩むようにと、主イエスに招かれているのです。主を愛し、日々十字架の主を仰ぎながら、御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、絶えずあなたの慈しみをもって、深い御憐れみをもって、私たちを導いてください。主の御言葉に従って歩むことが出来るように、私の内に清い心、新しく確かな霊を授けて下さい。救いの喜びを褒め詠うように、自由の霊によって支えてください。 アーメン


3月20日の御言葉 「大いに恐れるがよい」

「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」 詩編53編6節

 この詩は、詩編14編と非常によく似ています。細かく比較してみるのも、味わい深いものです。違いは二つです。

 一つは、14編で「主」(ヤハウェ)と記されている神の名が、すべて一般名詞の「神」(エロヒーム)とされています。これは、十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という規定に従うために、すべて神と書き改めたのではないだろうかと思います。

 今一つは、冒頭の言葉(6節)です。14編のこの部分(5,6節)には、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」と記されていました。これは、不法を行う者たちが、自分の利益のために貧しい人々を食い物にし、搾取しようとする抜け目ない企みは、神が彼らの避けどころとなられるために、挫折させられる、ということです。

 それが冒頭の言葉のように変えられたということになると、少々困惑させられます。「大いに恐れるがよい」と告げた後、「かつて、恐れたこともなかった者よ」というのであれば、それに続く言葉は14編と同様、神が貧しい者をお前たちの手から救い、そして、お前たちに裁きを下すといった内容のことが語られると期待されます。

 ところが、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」というのです。これでは、悪を為す者に向かって陣を敷き、攻撃しようとした者たちを神が殲滅して、彼らの名を挙げさせられた、ということになってしまいます。これは、どう考えたらよいのでしょうか。

 新共同訳聖書が、「恐れたこともなかった者よ」と、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を」の間に空白を置き、段落を変えているのは、内容的に、ここに断絶があると考えているわけです。

 そして、この空白には、バビロン捕囚が入るのだと思います。イスラエルの民は、神に背いた罪のゆえに国を失い、捕囚の憂き目を見ました。まさしく、神がイスラエルの上に、恐るべき事を為されたのです。だから、かつて恐れたこともなかった者よ、大いに恐れよと言われたわけです。

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうためではありませんでした。彼らが悔い改めて神の御前に謙り、再び主の御名を呼び求めるように(エレミヤ書29章11節以下)、そうして、新しい契約をイスラエルの家、ユダの家と結ぶためです(同31章31節以下)。

 ただし、イスラエルの民が悔い改めたから、捕囚から解放されるというのではありません。神の憐れみによって、解放の恵みに与ったので、悔い改めて神に従う者となるのです。そのために、イスラエルを支配していたバビロンを退けて下さるということです。

 主イエスは、私が悔い改めたから、十字架で贖いの供え物として死んで下さったのではありません。私は、「神などない」と言わんばかりに愚かなことを語り、悪を行っていた者です。そのような罪人の私のために、主イエスが十字架に死んで下さることで、私に対する愛を示して下さいました。敵対している私のために、その贖いの死によって、神と和解する道を開いて下さったのです(ローマ書5章8,10節)。

 放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たして帰って来た息子のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めたという「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11節以下、23,24節)のように、主イエスは私を父なる神のもとへ連れ帰って下さり、親しく食卓を囲む交わりに迎えて下さいました。「神が御自分の民、囚われ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)と言われるとおり、私はただ、主の御名を「ハレルヤ!」とほめ讃えるのみです。

 主よ、深い御愛を心から感謝致します。私たちが神の子とされるためにどれほどの御愛を頂いたことでしょうか。御独り子が十字架で血を流し、罪の呪いを一身に負い、贖いの業を成し遂げて下ったことを常に心に刻み、御名をほめ讃えさせて下さい。聖霊に満たされ、主の愛と恵みの証し人として用いて下さい。 アーメン

3月13日の御言葉 「力を捨てよ」

「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 詩編46編11節

 宗教改革者マルチン・ルターは、特にこの詩を愛し、この詩をもとにして、1529年に「神はわがやぐら」(新生讃美歌538番)というコラールを作詞作曲しました。後にメンデルスゾーンがこのコラールを用いて、交響曲第五番を作曲し、これに「宗教改革」という名前をつけています。また、同じように英国の優れた讃美歌作家アイザック・ウォッツも「神はわが力」(教団讃美歌286番)を作詞しています。この力強い詩に感動し、励ましを受けた人は和知れないことでしょう。

 3,4節に、「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と詠われています。唐の詩人杜甫が、「春望」という詩に「国破れて山河在り」と詠んでいます。長安の都は戦乱のために破壊されてしまったけれども、山河の自然は昔のままに残っているということですね。大地は揺るがないもの、山は動かないものの象徴といえます。

 ところが、「地が姿を変え、山が揺らいで海に移る」という、考えられないような天変地異が起こったとしても、詩人は、「わたしたちは決して恐れない」と語っています。

 一昨日、東北沖で起こった地震と津波は、甚大な被害をもたらしました。全世界の観測史上5本の指に入る規模(マグニチュード9.0)の地震が引き起こしたもので、16年前の阪神大震災を上回る被害になるだろうと思われます。私たちは、このような想定外の出来事に遭遇すると、動転してしまいます。およそ冷静な判断も出来なくなります。「決して恐れない」どころではありません。

 ここで詩人が「恐れない」と語っている根拠は、不撓不屈の精神力というようなものではありません。天変地異を恐れ、震え上がっているとしても、8節、12節に繰り返し語られているとおり、「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」という確信です。この確信の背景には、神が「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」という経験があるのです(2節)。

 過去には、エジプトから脱出させていただいた奇跡の物語があります(出エジプト記参照)。また、アッシリアの猛攻から奇跡的に救われたこともありました(列王記下18章13節以下参照)。バビロニアの捕囚からも奇跡的に解放されました(歴代誌下36章20節以下など)。そのようにして、イスラエルの民は、自分たちと共におられる主こそ、まことの神であることを知ったのです。

 冒頭の言葉(11節)で、「力を捨てよ」とは、「静まる、リラックスする」という意味の言葉(ラーファー)です。「静まれ」といえば、水戸黄門の印籠を思い出しますね。三つ葉葵の紋章の前にひれ伏すごとく、「わたしは神」と宣言されるお方の御前に、恭順の姿勢を示すことが求められています。

 嵐の船の中で眠っておられた主イエスが、風と湖を叱って「黙れ、静まれ」と言われると、すっかり凪になりました(マルコ福音書4章35節以下、39節)。やがて、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺る動かされる」(マルコ福音書13章24,25節)という、この世の終わりのときがやって来ます。それよりも先に、自分自身の人生の終末を迎えるかも知れません。

 そのとき、どんなに心が騒ぎ、波立っても、まさに溺れ死にしそうな状態であっても、そこに、インマヌエルと称えられる御子イエスが共にいて下さるのです。その主イエスが、「わたしの平和を与える」と約束して下さいました(ヨハネ福音書14章27節)。怖じ惑う私たちに、「心騒がせるな、おびえるな」と声をかけて下さる主の平和、平安が、そのとき授けられるのです。それゆえに私たちも、「決して恐れない」と語らせていただくことが出来るでしょう。何しろ、私たちは天に国籍を持つものとされており、その行くべき所が既に定まっているのですから。

 主よ、「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」という、すべての拠り所を失って不安と恐れに押しつぶされてしまいそうな状況にあっても、「わたしたちは決して恐れない」と、その信仰を言い表す恵みと導きが与えられることを、心から感謝致します。神の恵みと平安が、今災害のさなかで苦しんでおられる方々の上に豊かに注がれますように。 アーメン

 

3月6日の御言葉 「沈黙していないで」

「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。」 詩編39編13節

 この詩の中に、「沈黙」が3度出て来ます。最初の沈黙は2,3節で、舌で罪を犯さないように、黙っていようというものです。これは、「神に逆らう者が目の前にいる」と記されていることから、神に自分の苦しみを訴えることで、神に逆らう者と同じであるとは見られたくない、という心理が表されているのでしょう。ではありますが、そうしているとかえって苦しみがつのり、黙っていられなくなってしまいました。

 2度目は10節で、主に信頼しての沈黙のようです。自分の苦しみを訴えて後、主なる神が自分にどのようなことをして下さるか、沈黙しつつ注目する様子を窺うことが出来ます。

 そして最後は冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください」と願い求める言葉が記されています。ということは、詩人の訴えにも拘らず、いまだ神は沈黙しておられるということでしょう。

 これらのことから、この詩人の境遇を想像してみました。詩人は、重い病いを患っているのではないかと思われます。

 そして、命の火が消えそうになっていると感じているようです(6,7,11,14節)。詩人は、この病いが神によって与えられたものであり、それは、詩人の罪を責め、懲らしめるものと考えています(11,12節)。

 そこで、病いの苦しみと死の恐れから、詩人の心にはさまざまな思いが湧き上がって来るのでしょう。神を呪いそうになることさえあるのでしょう。そんな自分の心の闇を垣間見た詩人は、あわてて口を閉ざします。けれども、やっぱり黙っていられない思いになるのです(3,4節)。

 時には心を奮い立たせ、神を信頼してみようという思いになります。神こそ、詩人の命を御手の中に握っておられるお方だからです。そこで、主が自分をどのように取り扱われるか期待しながら、沈黙し、待ち望んでいるのです(8~10節)。

 けれども、すぐには応答がありません。詩人は悩みます。このまま陰府に降って行くのでしょうか。神は救って下さるのでしょうか。神よ、黙っていないで何とか仰って下さい。これ以上苦しませないで下さい。私の涙を放っておかないで下さい、と叫び求めます。これは、ヨブが13章21,22節で神の求めたことと同じでしょう。

 詩人は、信仰と疑いとの間で揺れ動きながら、なお神に向かって訴え祈ります。彼の目の前には死の壁が立ち塞がっていて、もう前に進むことが出来ず、それを乗り越える力もないのです。今まで彼が積み上げてきたもの、頼りにしてきたものは、何の役にも立ちません。すべてが空しいものでした(5~7節)。

 主なる神との激しいやり取りの中で詩人が到達した結論は、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)ということであり、そして、「わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人」だということです(13節)。すなわち、神の憐れみなしには生きることが出来ない者であるということ、事ここに至り、一切を主に委ねるほかはないということです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と約束された主イエスが、この詩人の死の壁を打ち壊して下さり、それに代わって彼の前に永遠の命の扉が開いて下さることでしょう。私たちも主イエスを信じ、何事につけ、その求めるところを神に申し上げたいと思います(フィリピ書4章6節)。

 天のお父様、御子イエスが私たちの大祭司として、御前にあって執り成し祈っていて下さることを感謝します。その祈りに励まされて、どんなことも神に打ち明けます。人知を超える平安をお授け下さるという約束を信じて、感謝致します。栄光が主に限りなくありますように。この地に、主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン

 

音楽と講演の集い

音楽と講演の集い
























2月26日(土)、27日(日)両日、音楽と講演の集いを開催致しました。
そのときの様子が、有明新報の3月2日(水)朝刊の第4面に掲載されました。
写真がそれです。

ホルンとピアノによる世界の名曲の音声を聞きたい方は、
URL 
http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto0227.html

金子牧師の講演を聴きたい方は、
URL 
http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/sp110226.html (初日)
URL 
http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/sp110227.html (二日目)

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