風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年02月

2月27日の御言葉 「いかに幸いなことでしょう」

「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」 詩編32編1,2節

 この詩は、七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。宗教改革者M.ルターは、詩編51,130,143編と共に、この詩をパウロ的詩編と読んでいます。というのは、パウロの手紙にこれらの詩編からの引用がなされているからです。ということは、パウロに福音理解の根拠を与えた詩ということも出来るでしょう。

 ローマ書4章5節でパウロは、「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と語り、そして、「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています」(同6節)と述べてから、冒頭の言葉(1,2節)を引用しています。パウロにとって、「神から義と認められる」というのは、「背きを赦され、罪を覆っていただいた」ということです。

 「働きがなくても」と言っていますから、律法を完全に守ったかどうかが問題なのではありません。むしろ、律法を守れなかったこと、掟に背いたことを、神が赦して下さる、無かったことにして下さるというのです。ですから、「いかに幸いなことでしょう」とは、「ラッキーでしたね」という意味などではありません。私たちの背きを赦し、罪を覆うために、私たちを神の恵みへと招く言葉、私たちに幸いを授けようという祝福の言葉なのです。

 ダビデ王は、自分の忠実な部下であり、勇士であったウリヤの妻バト・シェバと姦淫し、その罪を誤魔化すためにウリヤを戦死させ、その後、バト・シェバを自分の妻として迎えました(サムエル記下11章)。ダビデの罪を知る者は少なくなかったと思われますが、そのことで王を咎める者はいませんでした。王の権力を恐れたでしょうし、王に石を投げることの出来る罪なき者もいなかったのです(ヨハネ福音書8章7節参照)。けれども、王の心は罪の咎めによって暗く、重くなっていきました。そして、それをどうすることも出来なかったのです(3,4節)。

 預言者ナタンから、その罪が指摘されてはじめてダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と告白することが出来ました(サム下12章)。そのとき、その罪が赦され、罪の咎めから解放されたのです(5節)。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章8,9節)と言われているとおりです。

 罪が赦され、その咎から解放された今、ダビデは「あなたはわたしの隠れ家、苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方」(7節)と、ここに感謝の祈り、喜びの賛美を献げているのです。

 しかしその赦しは、ただ罪を水に流したということではありません。ダビデとバト・シェバとの間に与えられた幼子が、ダビデの罪の身代わりとなりました(サム下12章14節以下、18節)。そして、ダビデの子孫としてこの世においで下さった主イエスが、私たちの罪のために十字架に死なれ、それによって、私たちは罪赦され、咎から解放されたのです。

 主イエスが、ルカ福音書15章11節以下で、「放蕩息子のたとえ」を話されました。父親は、放蕩の限りを尽くした後、ボロボロになって帰って来た弟息子を憐れみ、彼に最上の衣を着せ、指輪をはめ、靴を履かせます。それは、息子としての権利を回復したという徴です。そして、祝宴を開きます。先程までひどい格好をし、おなかをすかせていたのが嘘のようです。

 息子は、自分の腹を満たすパンを求めて、雇い人にでもしてもらおうと考えて帰って来たのですが、父親は、自分を「お父さん」と呼んでくれる息子の帰宅を待ち望んでいたのです。ここに、神の無条件の愛が表されています。

 ダビデだけでなく、ユダヤ人だけでなく、私たち異邦人すべてに及ぶこの無条件の赦しは、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによってもたらされました。この救いの恵みを味わい、喜びと感謝をもって神をほめたたえ、主に従う者となりましょう。「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ」(11節)。

 主よ、私たちはあなたの祝福への招きを聴きました。赦しと救いの恵みに与りました。この喜びと平安がすべての人に豊かにありますように。主の慈しみの御手で守り導いて下さい。 アーメン

 

 


伝道百周年記念式典・献堂式

記念写真1















2月20日(日)午後4時半より、伝道百周年記念式典・献堂式を執り行いました。
1911年2月22日(月)に、我が大牟田の町に講義所が設置されて以来、百年に亘って伝道が続けられて来ました。

特に戦前の記録が殆ど残されていないため、どのような始まりだったのか、そこにどんな苦労があったのか、全く詳らかではありません。
しかし、その時々に、教会を担い、祈り、働かれた方々がおられたので、今日、わが大牟田教会はここに立てられているのです。

そのことに感謝を込め、第二世紀に向かう新たな拠点として、新会堂建築を行い、この式典において、神さまにお献げしました。
献堂式とは、そのことです。

はじめに、「教会の歩みと献堂の言葉」を、教会を代表して建築委員長の堤嘉宏執事が読み上げました。

続いて、新会堂建築に携わって下さった(有)スネルゴイ建築研究室(代表・川内寛氏)、(株)岩堀工務店(代表取締役・岩堀博隆氏)に記念品と共に感謝状を差し上げました。

フレンドシップ教会・田中真理音楽主事の独唱(ピアノ伴奏は有明教会・田中文人牧師)、有明教会・大牟田教会合同聖歌隊の合唱(指揮・谷山雅子姉、ピアノ・金子亜都子姉)の後、大牟田教会出身で元ブラジル宣教師、現在は蓮根教会・茗荷谷教会・各務原教会の協力牧師をしておられる戸上信義先生に、「福音を伝えよ」と題して、マルコ福音書16章14~20節の御言葉で奨励を頂きました。

また、連盟を代表して鳥栖教会牧師の野中宏樹理事、連合を代表して東熊本教会員の島村保夫会長に、祝辞を賜わりました。

最後に、おいで下さった方々と一緒に記念撮影を行いました。
今回、大牟田教会員37名を含めて、147名の参加者があり、皆様の祝福と喜びが満ち溢れ、とても豊かな集いとなりました。
心より感謝申し上げます。


2月20日の御言葉 「あなたの道をわたしに示し」

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」 詩編25編4節
 
 この詩にも、アルファベットによる詩という注がついています(9,10編参照)。各節の最初の文字がアルファベットの文字順にならんでいるわけです。それは、詩の言葉を覚えやすくするという一つの技巧ですが、そこに、あらゆる言葉を尽くし、技巧を凝らして主に祈り、また賛美するという信仰の姿勢を見ることが出来ます。
 
 この詩を読んで目につくのは、「道」という言葉です。そのうち、4節の「(従う)道」と10節の「(主の)道」は「小道」(オーラハ)という言葉、残りは、「道、大路」(デレク)という言葉です。また、「道」(デレク)から派生した「導く」(ダーラク)という動詞が、5,9節に用いられています。
 
 冒頭の言葉(4節)の中で、二つの「道」という言葉が使われているのは、詩の技巧によるものでしょう。マソラ本文(ヘブライ語原典)には、「従う」という言葉はありません。口語訳は、「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」と訳し、新改訳は、「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい」と訳しています。リビングバイブルでは「進むべき道」、「歩むべき小道」となっていました。
 
 道は往来する場所、目的地に向かって通過するところですが、そこに、「従う」とか、「進むべき」、「歩むべき」という形容詞がつくと、私たちが生きている上での規範というような、道そのものが意味のあるものになります。
 
 「あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えて下さい」という願いに、苦難を乗り越えて生きるべき道を教えてほしいという思いと、神に従い、神と共に歩む道を示してほしいという思いを見ることが出来ます。
 
 詩人は、神の憐れみ、助けと導きがなければ生きることは出来ず、そして神に従うことも出来ないと考えているわけです。だから、「あなたのまことにわたしを導いてください。教えて下さい。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」というのです(5節)。
 
 「道」、「まこと」といえば、主イエスを思い起こします。主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ福音書14章6節)。ここで主イエスが言われた「道」は、父なる神のもとに行くための道路という意味ですが、「真理、命」と並べられて、生き方、生きる姿勢を示すものとなっています。つまり、その道を通って神との交わりに導かれ、そこから真理を得、豊かな命に与らせていただくことが出来るのです。
 
 私たちは神に愛され、選ばれてこの道を歩む者としていただきました。主は、「わたしがあなたがたを選んだ」(同15章16節)と仰せ下っています。主の道を歩むとは、主イエスと共に歩むということです。主イエスとの親しい交わりに導かれます。御言葉を聴くことが出来ます。
 
 そして、この道は十字架に向かいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われる道です(ルカ福音書9章23節)。これは、大変な覚悟を伴う言葉でしょう。道楽や片手間で出来ることではありません。
 
 私たちは主イエスに招かれて、この道を歩み始めました。そして、主イエスがいつも共にいて、必要な助け、知恵と力を授けて下さいます。ゆえに、嫌々ながらではなく、感謝と喜びをもって歩むことが出来ます。
 
 我が大牟田教会は、今日、伝道開始百周年を祝う式典を開催致しました。ここから、第2世紀の歩みを始めます。これまでの恵みに感謝し、御名を誉め讃えつつ、新たな世紀においても、主の道を主と共に、御旨に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちを交わりに招いて下さり、感謝します。あなたの御声を聴き、御旨に従って歩むことが出来ますように。主の御名にふさわしく、いつも正しい道に導いて下さい。賛美しながら主イエスという門から入り、感謝して主を礼拝する者として下さい。 アーメン

 

伝道開始百周年

百周年記念式典・献堂式
2月20日(日)16:30~19:00
於大牟田バプテスト教会
奨励 戸上信義先生(蓮根教会・茗荷谷教会・各務原教会協力牧師)

百周年記念伝道集会 音楽と講演の集い
2月26日(土)19:00~21:00
2月27日(日)10:30~12:30
於大牟田バプテスト教会
講師 金子敬先生(古賀教会牧師)
音楽ゲスト 宮田四郎氏(ホルン奏者)
詳細は 
こちらをご覧下さい


大牟田バプテスト教会は、今年(2011年)2月25日で、伝道開始百周年になります。
それを記念して、新会堂建築に取り組み、この度無事竣工を見ましたので、記念式典・献堂式を行うことになりました。
また、新装なった礼拝堂で、音楽と講演の集いを催します。

どなた様もご自由に、ぜひご出席下さい。
入場は無料です。
なお、2月27日(日)の集いの際に、席上自由献金があります。


2月13日の御言葉 「あなたは自ら降り」

「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支える。あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」 詩編18編36節
 
 18編のもと歌ともいうべき詩が、サムエル記下22章にあります。表題の、「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」という言葉も(1節)、サムエル記にほぼそのままの言葉で記されているものです。ということは、これは、ダビデがその晩年に,自分の人生を振り返り、神への感謝として詠ったものです。ダビデは優れた軍人であり、指導者でしたが、また優れた歌人でもありました。

 ただ、「サウルの手から救い出されたとき」がいつを指しているのか、よく分かりません。それがサウルの死を意味しているのであれば、そのときダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を歌ってはいますが(サムエル記下1章17節以下)、当然のことながら、それは感謝の歌ではありません。

 ダビデの人生はまさに、「死の波がわたしを囲み、奈落の激流がわたしをおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」(5,6節)というように、苦難の連続でした。その中で主を呼び求め、その都度、主が避けどころとなられ、ダビデは主の救いを受けるという恵みに与ったのです(2~4節)。だから、「主は命の神、わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ」(47節)と、生きて働きたもう神を賛美するのです。
 
 その中でダビデは、「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る」と詠っています(22~24節)。これに対しては、反論したい人がいるでしょう。ダビデの勇士ウリヤ、その妻バト・シェバ、預言者ナタン、軍の長ヨアブたちが、「ダビデよ、それは本気で言っているのですか」と、厳しく問うのではないでしょうか。神の御前で、それは嘘だと告発するのではないでしょうか。
 
 そうです。ダビデは罪を犯しました。ウリヤの妻バト・シェバと姦淫し(サムエル記下11章2節以下)、その罪を隠すためにウリヤをヨアブに託し、戦場で死なせました(同14節以下)。そして、バト・シェバを自分の妻にしました(同27節)。これらの罪をナタンに責められたことがあります(同12章1節以下)。そして何より、これらのことを神ご自身がご存知のはずです。それなのに、なぜこのように詠えるのでしょうか。
 
 36節に、「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支える。あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる」、とあります。ここで、「あなたは、自ら降り」を、新改訳は「あなたの謙遜は」と訳しています。フィリピ書2章6節以下の主イエスの謙りを思わせる訳です。
 
 また、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント8章9節)という御言葉を思い起こします。
 
 つまり、神がダビデのすべての罪を赦し、「わたしは主に対して無垢である」と詠うことが出来るように、神自ら地上に降られたということです。そしてそれは、神の御子、主イエスが神と等しい身分を捨てて人間となられてこの地上に来られたこと、そして十字架の死によって人類の罪の贖いを成し遂げて下さったことを示しているわけです。
 
 ダビデはこの信仰を、聖霊の導きによって獲得したのでしょう。それ以外に説明する言葉を持ちません。この主イエスの贖いのゆえに、ダビデは神の御前で、清い者とされたわけです。
 
 そして、今この詩を味わっている私たちも、その恵みに与りました。それ故、右の御手で支えられ、主に強められて、「御目に対してわたしの手は清い」(25節)と詠うことが出来るのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ書2章10節)。ハレルヤ!アーメン!
 
 主よ、御前に清い神の子とされていることを感謝します。キリストにあって善い業を行うように新しく造られたことを、常に覚えさせて下さり、悪に負けず、善を行うことが出来ますように。弱い私たちの目と心を、いつも主に向けさせて下さい。 アーメン

 

2月6日の御言葉 「御目は人の子らを見渡し」

「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」 詩編11編4節
 
 1節に、「主を、わたしは避けどころとしている」と記されています。原文でも、「主」という言葉が冒頭にあります。わたしは主を信じる、主に依り頼む、主のみもと以外にわたしの避けどころはない、という信仰の表明です。

 これは、平時に語られた言葉ではありません。「鳥のように山に逃げよ。敵が命を狙って弓を引き絞っているぞ。神を信じてたって、こんなときには何の役にもたたないだろう。私のいうことを聞け。お前のためだ」(1~3節参照)という友の言葉に対して、詩人が答えた言葉なのです。
 
 これは、山に逃げるか、主の神殿に逃げ込むか、という逃げ場所選びの問題ではありません。山には神がおられないというようなことではないのです。そうではなくて、自分で自分の身の安全を図るというのではなく、その判断を神に委ね、神の導きに従うということです。ということは、私は今ここから逃げ出さない。ここは、神が私を置いて下さった場所だ。ここで、神に委ねられた働きをする、と言っていることにもなります。
 
 冒頭の言葉(4節)のとおり、聖なる宮におられる主なる神は、天に御座を置いておられる真の神です。そして、そのお方は、ひとり天において孤高を保っておられるのではありません。「御目は人の子らを見渡し」(4節)とあるように、神はその眼差しを私たちに向けておられるのです。
 
 ここで、「見渡し」(原語:ハーザー)というのは、「見る、予見する、知覚する、見て取る、預言する」という意味で、新改訳聖書は、「見通す」と訳しています。外見だけでなく心までも見られる神が、よくよく目を凝らして注視しておられる、と解釈すればよいでしょうか。
 
 「山に逃げよ」と勧告した友は、神ではなく、敵の姿を見ています。敵が矢を番えて狙いをつけるその眼差しに目を留めました。けれども、詩人は、自分に注目していて下さる主なる神に目を上げたのです。このように、何を見ているか、何に目を向けているかということで、その人がどこに立っているか、ということが示されます。
 
 ということは、「そのまぶたは人の子らを調べる」と言われていることから、神は、私たちが何に目を向けているか、何に信頼して立っているか、敵の姿や困難な問題を通して調べられる、とも言うことが出来そうです。ヨブが苦しみを経験したのも、そういうことだったのかもしれません。アブラハムに、「長子を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたあの無理難題も、そうでしょう(創世記22章参照)。
 
 私はこの試験に合格する自信はありません。正直に言えば、ペトロのように主を否み、山に逃げ出すことでしょう。また、ヨナのように舟に乗り込み、ニネベとは反対の方へ逃げ出すかも知れません。けれども、そのような弱い私にも、主は眼差しを向けておられます。
 
 三度否んだペトロを見つめられたあの主イエスの眼差しです(ルカ福音書22章61節)。それは、「そら見ろ、前もって言っておいたとおり、やっぱり裏切っただろう、わたしは嘘を言わないのだ」というような目ではないでしょう。「信仰が無くならないよう、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22章32節参照)という、愛と恵みに満ち溢れた眼差しでしょう。その眼差しに支えられ、励まされてペトロは再び立ち上がることが出来ました。
 
 主はその眼差しを私たちにも向け、弱い私たちを労わり、励まして下さっているのです。だからこそ詩人は、「主を、わたしは避けどころとしている」と言うのです。御目をもって私たちを見通しておられる主の憐れみに依り頼み、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちは自分一人でしっかりと立っていることは出来ません。常にあなたの助けを必要としています。問題に遭遇するたびに主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、主の導きに従うことが出来ますように。恵みと導きが絶えず豊かにありますように。 アーメン

 

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