風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2011年01月

1月30日の御言葉 「主の慈しみに生きる人」

「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」 詩編4編4節
 
 9節の「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」という言葉から、この詩は、夕べの祈り、あるいは夕べの歌として親しまれ、そして、多くの人々に慰めや励ましを与えて来ました。
 
 詩人は今、苦難の中にいて、「呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ」と神を呼び、「苦難から解き放ってください、憐れんで、祈りを聞いてください」と祈り願っています(2節)。
 
 そして、「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。空しさを愛し、偽りを求めるのか」と言っています(3節)。苦しんでいる詩人を非難中傷する者たちの存在が、そこにあります。詩人は、彼らの目が開かれ、真理を悟るに至ることを願っています。それは、その非難に真実がなく、空しいものだからです。
 
 詩人は、これまで何度も、苦難の中から神を呼び求める祈りをささげ、その祈りが聞き届けられるという経験を繰り返して来ました。それを物語るのが冒頭の言葉(4節)です。

 ここで、「慈しみに生きる人」と訳されているのは、「敬虔な、忠実な」(ハーシード)という意味の言葉で、口語訳は、「神を敬う人」と訳していました。新改訳はそれを「聖徒」としています。新共同訳の「慈しみに生きる者」という訳は、ハーシードが「慈しみ」(ヘセド)に由来していることから、その言葉の意味を出して、敬虔な者とは、神の慈しみに生きる者である、という表現にしたわけです。
 
 「見分ける」は、「区別する、取り分ける」(パーラー)という言葉で、ここでは、「聖別した」、つまり、「神が御自分のために取り分けた」と訳してもよいのではないでしょうか。詩人はここで、神が詩人を、その愛に生きる忠実な者として、御自分のために聖別された者なのだと語っているわけです。
 
 その証拠に、「呼び求める声を聞いてくださると知れ」と言います。原文を直訳すると、「主は聞かれる、わたしが彼を呼ぶとき」となります。「聞く」という言葉は、ここでは、未完了形が用いられています。聞くという動作が完了していない、つまり聞き続けて下さっているということで、主を呼び求める度に、その祈りが聞き届けられたということを、詩人が何度も経験して来たわけです。
 
 7節で、「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と言い、8節で、「それ(麦とぶどうの豊かな収穫)にもまさる喜びを、わたしの心にお与えください」と祈っていますが、詩人にとって、神が自分に御顔の光を向けてくださることにまさる喜びはない、ということです。
 
 主イエスは、ご自分の名によって父なる神に願い求める者は、喜びで満たされる、と約束しておられます(ヨハネ福音書16章24節)。神が祈りを聞いて下さること、その願いが聞き届けられること、そして神がお与え下さる賜物は、この地上のいかなる幸福にも替え難いものなのです。主イエスの名で願い求めるとは、その贖いによって神の子として頂いた者として祈るということです。だからこそ、祈りが聞き届けられるのです。
 
 主イエスは、私たちに神の義を与えるため、自らを十字架で贖いの供え物とされました。主イエスを信じることによって、信じる者すべてに神の義が与えられます。そして、神との関係が正しくなり、平安が与えられる結果、私たちの眠れぬ夜に終止符が打たれ、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠り」につくことが出来るわけです(9節)。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)というのは、そのことでしょう。
 
 ですから、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章6,7節)。
 
 主よ、私たちが祈り願うことを、主がその時々に最もふさわしいかたちで聞き届けて下さることを、心から感謝致します。確かに主は生きておられます。絶えず主の御顔を拝させて下さい。御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン

 

1月23日の御言葉 「(駝鳥に)知恵を貸し与えず」

「神が(駝鳥に)知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」 ヨブ記39章17節
 
 
39章では、
神はヨブの目を、地上の動物たちに向けさせます。山羊(1節a)や鹿(1節b以下)、野ろば(5節以下)、野牛(9節以下)、駝鳥(13節以下)、馬(19節以下)、鷹(26節)、鷲(27節以下)など、ここに描かれている動物たちの生態について、私は殆ど何も知りません。これらが科学的に正確な描写であるのかどうかも分かりません。神が造られた動物で、その名を知っている動物でも、分からないことだらけです。
 
 ここにあげられている動物の中で、駝鳥の評価が最も低いようです。鳥なのにコウノトリのように空は飛べませんし(13節)、卵は産みっぱなし(14,15節)、雛を守ろうともしない(16節)というような、ひどい言われようです。そして、その理由は、冒頭の言葉(17節)のとおり、神が駝鳥に知恵、分別を与えなかったからだと書かれております。
 
 それでも神は、駝鳥を見捨てて滅びるにまかせておられるというわけではありません。種が絶滅することのないように、駝鳥にも神の特別な配慮があるのです。駝鳥は強靱な脚力で、馬やその乗り手(人間)をあざ笑うかのような走りが出来ます。
 
 人間は、神のかたちに創造されており(創世記1章26節以下)、被造物の中の最高傑作だと言われます。しかし、評価の最も低い駝鳥を、自分の思い通りに動かすことなど、容易に出来るものではありません。
 
 神は何故、駝鳥のような鳥を創られたのでしょうか。それは、神にしか分かりません。誰もその奥義を悟ることは出来ません。神に代わることは出来ないのです。
 
 最近話題の鳥インフルエンザ対策の一つとして注目されているのが、駝鳥の卵を使って鳥インフルエンザの抗体を作るというものです。この抗体を吹き付けた防護マスクでインフルエンザ・ウイルスから感染力を奪い、ウイルス感染を完全に防御することが出来るそうで、そのマスクは市販されています。評判がよくて、売り切れ状態が続いているとも聞きました。
 
 何でも、駝鳥の卵は病原体への抵抗力が強く、その上、鶏の卵の20~25倍の大きさがあり、卵1個からマスク8万枚分の抗体がとれるそうです。また、卵1個の抗体からインフルエンザ検査薬が2万人分作れるとも報道されています。
 
 駝鳥は年間100個近い卵を産むそうで、しかも、駝鳥の寿命は60年以上、産卵期間も40年ほどあることから、同質の抗体を長期間にわたって安定供給出来ることも強みということでした。また、肉は高タンパク低脂肪で健康志向で需要が高まり、世界各地に飼育農場が増加しているそうです。
 
 勿論、鳥インフルエンザ対策やメタボ対策という、人間の健康保持のために、神が駝鳥を創造されたわけではないでしょう。とはいえ、駝鳥のお蔭で私たち人間の命が守られるというのは、確かなことです。
 
 いずれにせよ、神が造られた被造物の多様さ、しかも、その一つ一つに注がれた配慮の細やかさには、目を見張るばかりです。
 
 神がヨブに創造の神秘を語られるのは、被造物一つ一つに込められている神の深い御心に気づかせるためでしょう。そして、それによって、ヨブの上にも神の特別な配慮があることを気づかせるためだったのではないでしょうか。
 
 主イエスが、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりも張るかにまさっている」(マタイ福音書10章29~31節)と言われました(1アサリオン=16分の1デナリオン≒300円)。
 
 ルカ12章6節では「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と言われており、4羽買うと1羽おまけでついてくるという雀について、神が航空管制官よろしく、地に落ちることがないように目を留めておられるのです。
 
 慈しみ深い神に信頼し、すべてをその御手に委ねることの出来る者は幸いです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言われているとおりです。
 
 主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。あなたの威光をたたえます。あなたの指の業を仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何者なのでしょう。心を尽くして感謝し、その御愛を語り伝えましょう。全世界に主イエスの平和が豊かにありますように。アーメン

菊池シオン教会で礼拝

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1月12日(水)から休暇を頂いて、ちょうどその日、産院から退院して来た娘と産まれたばかりの孫と、慌ただしくも充実した日を過ごすことがで来ました。

16日(日)は、熊本県合志市の菊池シオン教会へ出かけ、礼拝を守りました。
菊池シオン教会の牧師は、矢野満先生です。

菊池シオン教会では、第2~第4主日(日曜日)は、朝10~12時の礼拝の中で、30分間(10時30分~11時)、全年齢層の教会学校(幼小科、青年科、成人科4クラス)が行われます。
教会学校の後、再びもとの席に戻り、礼拝が再開されます。

列王記から、ホレブの山で神の前に立ったエリヤの記事を通して、説教を語って下さいました。
座して説教を聞かせて頂けるということが、いかに大きな恵みであるかということを、今回も味わわせて頂きました。

休暇を与えて下さった大牟田教会の皆様に、説教のご用を担って下さった堤先生に、心から感謝致します。


追伸
菊池シオン教会のサイトに、礼拝全体の音声を配信するページがあります。
ここをクリックして、主日礼拝のページを開き、1月16日の礼拝を味わってみて下さい。


1月16日の御言葉 「彼を負かすのは神である」

「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない。」 ヨブ記32章13節
 
 ヨブの最終弁論が終わったとき、腹を立てて発言を始めた人物がいました。それは、ブズ出身でラム族のバラクエルの子エリフという若者です。ブズは、アラビアの町で、その町に出身者をブズ人と呼んでいたようです。つまり、エリフも、ユダヤ人ではないということです。エリフが、ヨブや三人の友らとどのような関係にあるのか、よく分かりません。
 
 ここでエリフは、ヨブに対して怒りをもって語り始めます。それは、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するからです(2節)。神が言い分を聞いて下されば、自分が潔白であることが分かるというヨブの主張は、神が今ヨブに対して行っていることは間違っていると言っていることになるわけで、それは、ヨブの方が神よりも正しいと主張していることになるわけです。
 
 また、このように神を敵に回して言い争おうとするヨブの過ちを正しく指摘できない三人の友らに対しても、エリフは怒ります(3,5節)。三人の友がヨブに言い負かされて沈黙したことは、神の義を汚し、ヨブの過ちを黙認するという大問題だったのです。
 
 2~5節の短い箇所に、4回も「怒る」(ハーラー)という言葉が出て来ますので、彼がたいへん感情を害していたこと、そしてその感情丸出しの意見開陳であったことが伺えます。大変な苦しみの中にいるとはいえ、そして、ヨブが律法に従って正しく歩んで来た者であることは誰もが知っていることだったのでしょうけれども、しかし、神よりも自分の方が正しいなどというヨブの暴論を、エリフとしては到底聞き流しておくことが出来なかったわけです。
 
 エリフの言葉の中に、大変重い言葉を見つけました。それは冒頭の言葉(13節)の、「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」という言葉です。これは、三人の友らに向けて語られているもので、ヨブの過ちを正しく指摘しないまま、ヨブを打ち負かすのは神御自身で、それは人の役割ではないと、沈黙してしまうのは間違いだ、ということです。
 
 何が重いのかといえば、苦しみの中にいる人、そしてその苦しみの中から神に向かって抗議の言葉を語る人に対して、人間が何を語り得るのかということです。どういう言葉が彼の慰めとなり、励ましとなるのでしょうか。どうすれば、彼を正しく苦しみの闇から希望の光へと導き出すことが出来るのでしょうか。
 
 人が人の上に立って、見下すような思いで語られる言葉は、相手の心を動かしません。同じ苦しみを味わい、同じ境遇におかれた者でない限り、相手の心に届く言葉を語ることは出来ないのではないかと思われるのです。特に、苦しみの上に友らとの議論で冷静さを欠いているヨブに対して、「怒り」をもって語るエリフの言葉が届くのでしょうか。しかも、このエリフの言葉は、ヨブに向かっても、自分が聞きたいのは神の御言葉だけだ、ほかの者は沈黙せよなどという思い上がった考えを持つなという、挑戦的な意味合いを持っています。
 
 しかしながら、ここには、神と人との交わりを閉ざし、人と人との交わりを妨げ、破壊しようとする、どのような企てにも屈しないぞというエリフの心意気を感じます。エリフがこれを語ったのは、日数、年数といった人生経験ではありません。「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」という言葉(8節)に示されているように、彼の背後に神がおられ、語るべき言葉を与えておられたということです。
 
 しかるに、感謝すべきかな、私たちの主キリストは、私たちの痛み、病いをその身に負って下さったお方であり(イザヤ書53章3節以下)、私たちと同じように試練に遭われ、私たちの弱さに同情して下さるお方です(ヘブライ書4章15節)。私たちの傍らで私たちに寄り添って下さる主の御声に耳を傾けてみましょう。
 
 主よ、私たちの心に主イエス・キリストの愛を満たして下さい。知る力、見抜く力を身に着けて、私たちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができますように。 アーメン

 

ゴスペル・フラ


第30回九州リバイバル聖会が、休暇村志賀島で開かれました。
その中で、鹿児島からおいでになった方々がゴスペル・フラをご披露下さいました。
YouTubeに動画をアップしましたので、ご覧下さい。

大牟田教会のサイトにも、写真が掲載されています。
ここをクリックして下さい。

1月9日の御言葉 「神の前に正しくあり得ようか」

「どうして、人が神の前に正しくあり得よう。どうして、女から生まれた者が清くあり得よう。」 ヨブ記25章4節
 
 ヨブの三人の友人がヨブに語る意見は、この章で終わりです。ツォファルが三度目に発言することはありません。もはや語り疲れたのでしょうか。自分たちの意見に従おうとしないヨブの頑なな態度に閉口してしまったのでしょうか。そう思わざるを得ないほどに、今回のビルダドの言葉はずいぶん短いものですし、しかも、これまで語ってきたことを繰り返すだけです。
 
 冒頭の言葉(4節)で、「どうして、人が神の前に正しくあり得よう」という文言は、ヨブ記の中で繰り返される大事な主題の一つです。先ず、エリファズが二度語っています(4章17節、15章14節)。神に自分の無実を訴えるヨブの言葉に対して、そう語られているわけです。
 
 一方、ヨブ自身も、ビルダドが、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)などと語る言葉を引き受けて、「それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか」(9章2節)と語っていました。
 
 ビルダドは、ヨブが神より自分の方が正しいと主張しているといって非難しているわけで、それに対してヨブは、「神の裁きは間違っている、私は正しい」と主張したくても出来ないという意味で、「神より正しいと主張できる人間があろうか」と言っているのです(同14,15節参照)。ということは、ビルダドの非難は必ずしも間違ってはいない、ということになります。
 
 ただ、「人がどうして神の前に正しくあり得よう」という言葉は、ヨブばかりでなく、エリファズ、ビルダド、ツォファルらにも、そして、今ヨブ記を読んでいる私たちにもあてはまります。ヨブに石を投げる資格のある者はいません。皆同じ罪人なのです。
 
 パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」と指摘しているとおりです(ローマ書3章9~12節)。
 
 その意味では、ビルダドは自分で自分に有罪の宣告をしているわけです。
 
 私たちは、自分で自分を義とすることは出来ませんけれども、しかし、最後の審判の時、主イエスが私たちの右にお立ち下さり、神の御前で私たちのために弁護者として私たちの無罪を主張して下さいます。それはちょうど、サタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(1章8節)と語られた神の言葉のようなものではないでしょうか。
 
 なぜ、神の前に正しくあり得ないと言われる人間が、「無垢な正しい人」と評価されているのでしょうか。神は、ヨブが自分の義を盾に、神は間違っていると主張し始める前だったので、そう評価されたというわけではないでしょう。サタンの試みに遭えば、無垢ではいられなくなるということを、神はよくよくご存じだったのではないでしょうか。
 
 それにも拘わらず、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と賞されるのは、それこそ、主イエスの贖いの業、救いの恵みゆえです。主イエスがご自分の十字架の死によって、私たちを訴えて不利に陥れる証書を、その規程もろとも破棄してしまわれたからです(コロサイ書2章14節)。私たちの罪の代価がキリストの十字架を通して支払われたので、私たちは晴れて無罪放免、主に結ばれて、罪なき者として生きることが出来るようにされたわけです。
 
 このような神の恵みを無駄にせず、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、心から父なる神に感謝しつつ、委ねられた使命を果たすべく、その御業に励みましょう。
 
 主よ、主に敵対して歩んでいた罪人の私のために、御子が贖いの業を成し遂げて下さったこと、その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。御名が崇められますように。和解の御業が前進しますように。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン

 

1月2日の御言葉 「神を知らぬ者」

「ああ、これが不正を行った者の住まい、これが神を知らぬ者のいた所か、と。」 ヨブ記18章21節
 
 18章には、ビルダドの2度目の言葉が記されています。彼は、ヨブのエリファズに対する応答を聞いているうちに黙っていられなくなり、ヨブの言葉を遮るようにして発言しました。それは、ヨブが自分たちの言葉を聞かず、愚かなことを言い続けているように見えるからです。
 
 そこでビルダドは、「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか」と言います(2節)。「人を呪わば穴二つ」という諺ではありませんが、相手の揚げ足を取るようにして非難し合い、そして、自ら言葉の罠に陥り、解決策を見いだせなくなっているというのです。
 
 「なぜわたしたちを獣のように見なすのか」というのは(3節)、獣は、神が天地をされた第六の日に、人と共に創造され(創世記1章24節以下)、また、人を助けるものとして創造されました(同2章18~20節)。
 
 しかし、神のかたちに創造されたのは人だけで(同1章26,27節)、また、人の真の助けとなるのは、人から造られた人だけでした(同2章23節)。つまり、人を獣のように見なすというのは、下に見る、見下すということ、さらには、その人を軽蔑するということです。軽蔑する相手の話は聞かないでしょう。しかし、彼らはもともと親しい友人でした。ヨブの災難を聞いて彼を慰めようと見舞いに来たのです。
 
 だから、ビルダドは勿論、ヨブが災難に遭えばよいと思っているわけではありません。5節以下、神に逆らう者の灯火は暗くなり(5節)、その歩みも弱り(7節)、破滅の罠に陥り(8節)、家族に不幸が及び(12節)、自らも病いに冒されて(14節)、死に絶え(16節)、その記憶も残されない(17節)と語りながら、こんな結末を迎えることがないように、と警告しているのです。そして、ヨブがおのが非を認めて悔い改め、その苦しみから一刻も早く解放されて欲しいと願っているわけです。
 
 数年前、東京秋葉原で無差別殺人を行った被告は現在、東京地裁で裁判を受けていますが、当時、携帯サイトに自分の鬱憤をぶちまけ、殺人予告までしていたとか。思い通りの大学進学が出来なかったことが、容疑者の心に深い影を落としていたようですが、そのようなことをする者の心に、真の希望、真の喜びがあろうはずがありません。失望して破壊的な言葉を書き込む度に、さらに闇が増していったのでしょう。

 短大卒業後、1年ほどで各地を転々として仕事をしていた被告は、至るところで、誰も自分を正当に評価してくれない、いつでも取り替え可能な機械部品のような扱いを受けて来たと感じていたのではないでしょうか。そういう自分がこのままいなくなっても、誰の記憶にも残らないと思い、そんな冷たい世の中に復讐するために、記憶に残る犯行を思い立ったわけで、それこそ、相手は誰でもよかったのです。
 
 私は少年の頃、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだとき、自分が助かるために他の者を蹴落とそうとして蜘蛛の糸が切れ、再び真っ逆様に地獄に堕ちたカンダタとは自分のことだと受け取り、地獄の恐ろしさに震えたのを覚えています。
 
 もし、神を認めない生活をしていれば、「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とパウロが記しているとおり(エフェソ書2章3節)、滅びを刈り取らなければならなかったでしょう。そして、そのことで家族は不幸になり、やがて死に絶え、その記憶も残されなくなという結末を迎えなければならなかったことでしょう。
 
 しかるに、憐れみ豊かな神は、そのような私たちをその深い憐れみの心でとらえ、この上なく愛し、導き、救って下さいました。あらためてここにビルダドの語る言葉を自分のことと考え、そのようなところから救い出されたことを神に感謝しましょう。信仰によって私たちの心の内にキリストを住まわせ、神の愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として頂きましょう。その喜びを、世に向かって証ししましょう。
 
 主よ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。主の恵みと平和が全世界に、特に我が国の同胞の上に常に豊かにありますように。私たちが御業のために用いられる器となりますように。 アーメン

元旦礼拝

新年、明けましておめでとうございます。

今年も宜しくお願い致します。

01













朝6時過ぎまでは雪もちらほらで、殆ど積もっていなかったのですが、7時を回った頃、すっかり銀世界になっていました。

02













園庭側から見た教会堂です。赤い屋根がすっかり雪で覆われています。


03













園庭もすっかり雪化粧です。この写真を撮っていた頃は、このまま雪が降り続くなら、もしかすると、今日の元旦礼拝にお見え下さる人は、殆どいらっしゃらないのではないかなと思っていました。

04












元旦礼拝後、記念撮影をしました。大雪になったにも拘わらず、こんなに沢山の方々が、新しくなった会堂で最初の元旦礼拝においで下さいました。「初詣は教会へ!」と、心定めておられる方々がこんなにおいで下さることに、励まされます。

元旦礼拝では、「キリストの名によって」と題して、使徒言行録3章からのメッセージを聞きました。
生まれながら足の不自由な男が、使徒たちの「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いて、歩き出しました。
この箇所から、祈りを大切にすること、神の言葉を聞くこと、信じ、従うこと、そして、その恵み、喜びを証しすることを学びました。
この一年、主の御名によって立ち上がり、主の御言葉に従って歩きたいと思います。

皆様の上にこの年も、主にある希望、平安、喜びが、常に豊かにありますように。 アーメン




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