「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」 詩編4編4節
9節の「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」という言葉から、この詩は、夕べの祈り、あるいは夕べの歌として親しまれ、そして、多くの人々に慰めや励ましを与えて来ました。
詩人は今、苦難の中にいて、「呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ」と神を呼び、「苦難から解き放ってください、憐れんで、祈りを聞いてください」と祈り願っています(2節)。
そして、「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。空しさを愛し、偽りを求めるのか」と言っています(3節)。苦しんでいる詩人を非難中傷する者たちの存在が、そこにあります。詩人は、彼らの目が開かれ、真理を悟るに至ることを願っています。それは、その非難に真実がなく、空しいものだからです。
詩人は、これまで何度も、苦難の中から神を呼び求める祈りをささげ、その祈りが聞き届けられるという経験を繰り返して来ました。それを物語るのが冒頭の言葉(4節)です。
ここで、「慈しみに生きる人」と訳されているのは、「敬虔な、忠実な」(ハーシード)という意味の言葉で、口語訳は、「神を敬う人」と訳していました。新改訳はそれを「聖徒」としています。新共同訳の「慈しみに生きる者」という訳は、ハーシードが「慈しみ」(ヘセド)に由来していることから、その言葉の意味を出して、敬虔な者とは、神の慈しみに生きる者である、という表現にしたわけです。
「見分ける」は、「区別する、取り分ける」(パーラー)という言葉で、ここでは、「聖別した」、つまり、「神が御自分のために取り分けた」と訳してもよいのではないでしょうか。詩人はここで、神が詩人を、その愛に生きる忠実な者として、御自分のために聖別された者なのだと語っているわけです。
その証拠に、「呼び求める声を聞いてくださると知れ」と言います。原文を直訳すると、「主は聞かれる、わたしが彼を呼ぶとき」となります。「聞く」という言葉は、ここでは、未完了形が用いられています。聞くという動作が完了していない、つまり聞き続けて下さっているということで、主を呼び求める度に、その祈りが聞き届けられたということを、詩人が何度も経験して来たわけです。
7節で、「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と言い、8節で、「それ(麦とぶどうの豊かな収穫)にもまさる喜びを、わたしの心にお与えください」と祈っていますが、詩人にとって、神が自分に御顔の光を向けてくださることにまさる喜びはない、ということです。
主イエスは、ご自分の名によって父なる神に願い求める者は、喜びで満たされる、と約束しておられます(ヨハネ福音書16章24節)。神が祈りを聞いて下さること、その願いが聞き届けられること、そして神がお与え下さる賜物は、この地上のいかなる幸福にも替え難いものなのです。主イエスの名で願い求めるとは、その贖いによって神の子として頂いた者として祈るということです。だからこそ、祈りが聞き届けられるのです。
主イエスは、私たちに神の義を与えるため、自らを十字架で贖いの供え物とされました。主イエスを信じることによって、信じる者すべてに神の義が与えられます。そして、神との関係が正しくなり、平安が与えられる結果、私たちの眠れぬ夜に終止符が打たれ、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠り」につくことが出来るわけです(9節)。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)というのは、そのことでしょう。
ですから、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章6,7節)。
主よ、私たちが祈り願うことを、主がその時々に最もふさわしいかたちで聞き届けて下さることを、心から感謝致します。確かに主は生きておられます。絶えず主の御顔を拝させて下さい。御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン