「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ。」 ヨブ記11章5節
ヨブがシュア人ビルダドに答える言葉を聞いて、ヨブの三人目の友、ナアマ人ツォファルも黙っていられなくなり、「これだけまくし立てられては、答えないわけにいくまい」といって口を開きます(1節)。三人の友らはいずれも、ヨブが語った言葉に対して反応しています。そして、彼らの語った言葉は、正論です。
ということは、彼らにとって、ヨブの言葉は正論を脅かす暴論ということになります。そのまま黙っていれば、その暴論を承認したことになります。ですから、聞き流すわけにはいかず、反論せずにはいられないのです。
しかし、お互いが対等の立場で討論をしているのならばともかく、財産を失い、子どもたちを失い、身も心もぼろぼろになって呻き叫ぶヨブに対する議論として、これはいかがなものでしょうか。彼らは、ヨブを慰め、励ましたかったのです。
それなのに、彼を慰め、励ますよりも、彼の激しい言葉に心乱され、彼ら自身が憤りの心をもってヨブに向かい合うことになります。そうなれば、いかに正論であっても、相手を慰め、励ますことは困難です。どうしても、相手をへこますために上からモノを言うことになるからです。
「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」(4節)というヨブの言葉に対し、ツォファルは冒頭の言葉(5節)のとおり、「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ」と言っています。神の審判を仰げというわけです。
けれどもしかし、これは本当に、「神様、ヨブのことをあなたはどうお考えになっているのですか」と尋ねる言葉ではなくて、神がヨブのことを潔白だと言うはずがない、自分もそう思わないのだから、という意味でしょう。そして、実際にツォファルが神に尋ねることはないんですね。
ということは、ヨブが語ったという「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」という言葉は、ツォファル自身の思いで、11章に語る自分の「正しい」主張をヨブに受け入れさせようとしているわけです。
ですが、何故ヨブが神に苦しめられているのかを、自分の頭で考えるのでなくて、ヨブの身になって神に尋ねてみればよいのです。そうすれば、全く違った思いになるでしょう。ヨブにかける言葉もきっと、全く違ったものになるでしょう。他人に向かって語った言葉を、自分自身に当てはめてみればよいのです。
人を裁くその裁きで自分も裁かれます(マタイ7章2節)。人を罪に定める者は、自分も罪に定められます。人を祝福すれば祝福されます。人を呪えば自分も呪われます(創世記12章3節)。憐れみ深い人は神の憐れみを受けます(マタイ5章7節)。
主イエスは、ルカ福音書の「平野の説教」(ルカ6章17節~49節)において、「敵を愛しなさい。人によいことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6章35~36節)と言われました。これを、自分の力で実行出来る人がどれだけいるでしょうか。
でも、実行したいと思うことは出来ます。実行させて下さいと神に願うことも出来ます。私たちの天の父は、求める者によいものを下さいます(マタイ7章11節)。ルカは、よいものを「聖霊」と規定しています(ルカ11章13節)。聖霊をいただいて、人からしてもらいたいと思うことを、人にして差し上げることの出来る者とならせていただきましょう。
主よ、姦淫の現場で捕らえられた女性に対し、罪を犯したことのない者が、先ず、石を投げなさいと主イエスに言われて、石を投げることの出来た者は一人もいませんでした。御言葉の光に照らされるとき、自分自身が神の憐れみを必要とする罪人であることが分ります。互いに赦し合い、愛し合うために、聖霊を通して神の愛を満たして下さい。御言葉を行う者とならせて下さい。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン