風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年12月

12月26日の御言葉 「神の言葉を聞きたいものだ」

「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ。」 ヨブ記11章5節

 ヨブがシュア人ビルダドに答える言葉を聞いて、ヨブの三人目の友、ナアマ人ツォファルも黙っていられなくなり、「これだけまくし立てられては、答えないわけにいくまい」といって口を開きます(1節)。三人の友らはいずれも、ヨブが語った言葉に対して反応しています。そして、彼らの語った言葉は、正論です。
 
 ということは、彼らにとって、ヨブの言葉は正論を脅かす暴論ということになります。そのまま黙っていれば、その暴論を承認したことになります。ですから、聞き流すわけにはいかず、反論せずにはいられないのです。
 
 しかし、お互いが対等の立場で討論をしているのならばともかく、財産を失い、子どもたちを失い、身も心もぼろぼろになって呻き叫ぶヨブに対する議論として、これはいかがなものでしょうか。彼らは、ヨブを慰め、励ましたかったのです。
 
 それなのに、彼を慰め、励ますよりも、彼の激しい言葉に心乱され、彼ら自身が憤りの心をもってヨブに向かい合うことになります。そうなれば、いかに正論であっても、相手を慰め、励ますことは困難です。どうしても、相手をへこますために上からモノを言うことになるからです。
 
 「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」(4節)というヨブの言葉に対し、ツォファルは冒頭の言葉(5節)のとおり、「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ」と言っています。神の審判を仰げというわけです。

 けれどもしかし、これは本当に、「神様、ヨブのことをあなたはどうお考えになっているのですか」と尋ねる言葉ではなくて、神がヨブのことを潔白だと言うはずがない、自分もそう思わないのだから、という意味でしょう。そして、実際にツォファルが神に尋ねることはないんですね。
 
 ということは、ヨブが語ったという「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」という言葉は、ツォファル自身の思いで、11章に語る自分の「正しい」主張をヨブに受け入れさせようとしているわけです。
 
 ですが、何故ヨブが神に苦しめられているのかを、自分の頭で考えるのでなくて、ヨブの身になって神に尋ねてみればよいのです。そうすれば、全く違った思いになるでしょう。ヨブにかける言葉もきっと、全く違ったものになるでしょう。他人に向かって語った言葉を、自分自身に当てはめてみればよいのです。
 
 人を裁くその裁きで自分も裁かれます(マタイ7章2節)。人を罪に定める者は、自分も罪に定められます。人を祝福すれば祝福されます。人を呪えば自分も呪われます(創世記12章3節)。憐れみ深い人は神の憐れみを受けます(マタイ5章7節)。
 
 主イエスは、ルカ福音書の「平野の説教」(ルカ6章17節~49節)において、「敵を愛しなさい。人によいことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6章35~36節)と言われました。これを、自分の力で実行出来る人がどれだけいるでしょうか。
 
 でも、実行したいと思うことは出来ます。実行させて下さいと神に願うことも出来ます。私たちの天の父は、求める者によいものを下さいます(マタイ7章11節)。ルカは、よいものを「聖霊」と規定しています(ルカ11章13節)。聖霊をいただいて、人からしてもらいたいと思うことを、人にして差し上げることの出来る者とならせていただきましょう。
 
 主よ、姦淫の現場で捕らえられた女性に対し、罪を犯したことのない者が、先ず、石を投げなさいと主イエスに言われて、石を投げることの出来た者は一人もいませんでした。御言葉の光に照らされるとき、自分自身が神の憐れみを必要とする罪人であることが分ります。互いに赦し合い、愛し合うために、聖霊を通して神の愛を満たして下さい。御言葉を行う者とならせて下さい。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

キャンドルサービス



12月24日(金)午後7時より、キャンドルサービス(燭火礼拝)が行われました。
新しい礼拝堂は、121名の来会者で一杯になりました。

キャンドルサービスでは、主イエスの御降誕の様子を描いている聖書の御言葉の朗読を聞き、それをテーマにした讃美歌を歌います。
聖書と讃美歌によるページェントです。

映像は、大牟田教会聖歌隊が「グロリア」を高らかに歌っているところです。
ご覧になりたい方は、スタートボタンを押して下さい。

ローソクの火の向こうで、聖歌隊員の姿は殆ど映っていませんが、ロウソクの灯りの温かみとともに、素晴らしいハーモニーが会堂に響き渡っています。

心に温かみを感じる素晴らしい一時でした。

教会ホームページもご覧になって下さい。
ここをクリックすると、写真のページに飛びます。

12月19日の御言葉 「神を畏れる生き方、完全な道」

「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか。」 ヨブ記4章6節
  
 ヨブが口を開いて自分の運命を呪い、神を呪うのを聞いて、テマン人エリファズは黙っていることが出来なくなりました。エリファズは、何とかヨブを力づけ、励ましたかったのです。そこで、持てる知識や経験などを総動員しつつ注意深く言葉を選び、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか」と話しかけました(2節)。
 
 エリファズは先ず、ヨブ自身が悩み苦しんでいる多くの人々を諭し、力づけて来たことを思い起こさせます(3,4節)。それなのに、自分に苦難が降りかかったら、それで弱り果て、怖じ気づいてしまうのか、と叱咤するのです(5節)。
 
 そして、ヨブがこれまで拠り所としていたところを確認させます。それが冒頭の、「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか」(6節)という言葉です。神を畏れ、正しく歩んで来たのであれば、心配しないで、その苦難を乗り越えるべく、その道を守り通すべきだ。その生き方を忘れて何に頼り、どこへ行こうとしているのか。どこで間違ってしまったのか、ということです。
 
 道に迷っている人は、自分が今どこにいるのか、どちらに向かって行けばよいのか、分らなくなっています。自分の居場所、そして進むべき方向が分れば、目指すところに辿り着くことが出来ます。
 
 確かに、ヨブが帰るべきところは、神を畏れ、その御言葉に従って生きる生活です。かつては、確かにヨブはそれを頼みとしていました。そして、神はヨブに力を与え、また、恵みを与えておられました。恵みを失い、苦しみが襲いかかって来たときに、すぐに信仰を失ってしまうようなことはありませんでした。
 
 けれども、苦しみが続く中で、次第に分らなくなってしまったのです。それは、彼が神を畏れ、神に従うことをやめたから、苦しみを受けたというのではなく、信仰生活を守り、神に従って歩んでいたにも拘わらず、苦しみの穴に落ち込んでしまったからです。そして、どうすればその穴からはい出ることが出来るのか、皆目見当もつかないからです。
 
 サタンが語っていたように、利益がなければ、人は神を畏れ、信仰生活を守り通すことが出来ないのでしょうか(1章9節)。苦難に遭えば、人は皆、信仰を捨ててしまうのでしょうか。繰り返し、そのことが問われています。
 
 エリファズは、ヨブの苦しむ有様を見るに忍びなかったのでしょう。苦しみの中で自分の運命を呪い、神への不信を口にするヨブの言葉を聞くに堪えなかったのでしょう。それはしかし、エリファズ一人の問題ではありません。私たちも皆そうです。人を慰め、励ましたいと思うのは、苦しむ姿を見ていられないのです。立ち直った姿を見て、自分も安心したいのです。
 
 それが悪いということでもありませんが、しかし、苦難の中にいる人の苦しみを本当に理解しようとするなら、解決を焦らず、先ずその人の語る言葉にじっと耳を傾け、苦しみの共感に務める必要があるでしょう。
 
 「もしも誰かが君の側で、泣き出しそうになったときは、黙って腕を取りながら、一緒に歩いてくれるよね。世界中の優しさで、この地球を包みたい。今、素直な気持ちになれるなら、憧れや愛しさが、大空に弾けて耀るだろう。 アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる」(「ビリーブ」(作詞・作曲:杉本竜一)より)。
 
 誰よりも主が私たちに寄り添い、私たちの声に耳を傾け、共に涙して下さいます。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ諸4章16節)。

 天にまします我らの父よ、願わくは、神を畏れる生活が守られますように。願わくは、我らを試みに遭わせず、悪しきものから救い出して下さい。国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。全世界にキリストの平和と導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

12月12日の御言葉 「自分が立てた柱につるされ」

「こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。」 エステル記7章10節
 
 王妃エステルが主催する2度目の酒宴に、ハマンと共に臨んだクセルクセス王は(1節)、前回同様、「何か望みがあるならかなえてあげる」と言いますと(2節、5章3,6節参照)、エステルから思いがけないことが告げられました。それは今、王妃と王妃の民族は取引され、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているので、命を助けて欲しいという願いです(3,4節)。
 
 そのとき、ペルシアでは、首相ハマンの進めるユダヤ人絶滅計画が、その開始のときを待っていました(3章6節以下)。それは、王が実行許可を与えたものです(同10,11節)。しかしながら、王は、ハマンが絶滅させようとしているのが、ユダヤ民族であることを知らなかったのかも知りません(同8,9節)。また、エステルがユダヤ民族の一員であることは、それまで秘密にされていました(2章10,20節)。
 
 ですから、命の恩人であるユダヤ人モルデカイに栄誉を与えよとハマンに命じたとき(6章参照)、王はモルデカイが属するユダヤ民族の絶滅計画を変更したり、取り消そうとはしていません。
 
 王は、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか」と、エステルに尋ねました(5節)。エステルはその問いに、「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」と答えました(6節)。それで王は、ようやくハマンの計画を正しく理解したわけです。
 
 しかし、すぐにハマンを断罪してはいません。怒って立ち上がりましたが、そのまま庭に出て行くのです(7節)。そのとき、クセルクセス王が何を考えていたのかは記されていません。ただ、自分が詳細を知らないまま許可した計画で、王妃がハマンに殺されるところだったと知って、憤りはしたものの、エステルとハマン、王妃と首相、どちらをとるべきか、頭を冷やして考えようとでも思ったのではないでしょうか。
 
 そもそも、王は自分の言うことに従わなかった前王妃ワシュティを、あっさり切ることの出来た人物です(1章19,21節)。また、ハマンが巨額の献金をもって一民族の根絶を進言したとき、それはどの民族か確認しないまま、許可を与えた人物なのです(3章9,10節)。
 
 ところが、王が王宮の庭から酒宴の席に戻ってくると、ハマンがエステルのいる長椅子に身を投げかけていました(8節)。ハマンはエステルに命乞いをし、王に口添えを頼もうとしていたわけですが(7節)、王には、ハマンがエステルに言い寄っているように見えたのです。王は、「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか」と言います(8節)、これで、ハマンの罪が確定しました。

 そのとき、宦官ハルボナが、「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。50アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています」と告げました(9節)。命の恩人モルデカイへの悪意までも知った王は、即座に、「ハマンをそれにつるせ」と命じました(9節)。
 
 その柱の長さは50アンマ、およそ23メートルもあります。どこからもよく見えたことでしょう。首相に取り立てられたハマンは、すべての者が自分に敬礼することで、思い上がっていました。そして、ただ一人、自分に礼をしないモルデカイとその民族を根絶しようと企んでいました。その結果、首相の座から引きずりおろされ、自分の愚かな罪の姿を誰からもよく見える高い柱の上にさらさなければならなくなったのです。
 
 それは、私の罪の姿です。芥川龍之介の著書「蜘蛛の糸」に登場するカンダタの、釈迦の垂らした蜘蛛の糸を独り占めしようとして、再び地獄に落ちていく姿に、自分自身を見る思いがしました。誰も、自分が何をしているのか知らずにいるのです。

 しかし、罪深い私に代わって、主イエスが木にかけられ、その呪いをご自分の身に受けつつ、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られました(ルカ23章34節)。それによって、私の罪は赦され、王の王、主の主なる神の怒りが治まったのです。主の御名はほむべきかな。
 
 今日も、十字架の主を見上げ、その御足跡に従って歩ませていただきましょう。
 
 主よ、愚かで罪深い私のために、主イエスが贖いの業を成し遂げ、救いの道を開いて下さったことを感謝致します。今日も、全世界に主イエス・キリストの平和が豊かにありますように。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。私たちを平和の器として用いて下さい。 アーメン

 

12月5日の御言葉 「モーセの書が読み聞かされ」

「その日、モーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に永久に加われないと記されているのが分かった。・・人々はこの教えを聞くと、混血の者を皆、イスラエルから切り離した。」 ネヘミヤ記13章1,3節

 冒頭の言葉(1,3節)で、「その日(城壁奉献の日)にモーセの書が民に読み聞かされ、アンモン人とモアブ人は神の会衆に加われないことが分った(ので)・・・混血の者を皆、イスラエルから切り離した」と記されているということは、エズラ記9章で読んだ異邦人との結婚、混血の事件が再び起こり、同10章でなした契約と誓いが忠実に守られなかったということです。
 
 23節にも、「またそのころ、ユダの人々がアシュドド人やアンモン人やモアブ人の女と結婚していることが、わたしに分かった」と記されており、しかも、「その子どもたちの半数は、アシュドドの言葉あるいはそれぞれの民族の言葉を話し、ユダの言葉を知らなかった」(24節)と語られています。なんたることでしょうか。
 
 こうしたことが繰り返される背景には、イスラエルに戻って来た民の生活が、ずっと苦しく厳しいものだったということがあるのではないかと思います。始終、近隣の強い敵に脅かされ、あるいはパレスティナの厳しい自然環境に苦しめられていたのでしょう。そこで、少しでも安定した生活を送るために、強い国の民と姻戚関係を結び、彼らの生活習慣を取り入れ、その民のようになることを望むということが、繰り返し行われたのでしょう。
 
 アンモン人とモアブ人が永久に神の民に加われないというのは、ユダヤ教に改宗することを許さない、神の民に加えることが出来ないということではなく、異教の神をイスラエルの中に持ち込ませない、異教の習慣に倣ってはいけないということです。エズラの時代にも、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、カナンの地の諸民族の汚れを離れて来た人々は、過越の食事に加わることが許されました(エズラ記6章21節)。
 
 士師の時代に、飢饉に見舞われたユダ族はエリメレク一家が故郷のベツレヘムを離れてモアブに移り住み、そこでモアブ人の嫁を迎えました(ルツ記1章1,2節)。それが災いを呼んだのか、一家の主人エリメレクと二人の息子たちが相次いで亡くなりました(同3,5節)。エリメレクの妻ナオミは傷心のうちに一人寂しく帰国しようとしますが(同8節以下)、息子の嫁の一人ルツが一緒について来ることになりました(同16節以下)。
 
 そのとき、ルツはナオミに、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言い、イスラエルの民となり、ナオミの神を自分の神にすると固く決意していました。そして、導かれてエリメレクの親戚ボアズに嫁ぎ、ナオミのために男の子をもうけます(同4章13節)。その子はオベドと名付けられました(同16節)。
 
 2節に、「わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった」という言葉が記されていますが、確かに神は、モアブ人の嫁ルツを通して、ナオミの一族の呪いを祝福に変えて下さったわけです。しかも、そのオベドは、イスラエルの偉大な王ダビデの祖父にあたります。イスラエルにとっても、大きな恵みが与えられることになったわけです。
 
 ネヘミヤは、このような厳しい状況の中で、罪を繰り返し犯し続けるイスラエルの民を正しく導くために、乱れた祭司室を清め(9節)、レビ人と詠唱者を集めて務めに就かせ(11節)、安息日を守らせるためにエルサレムの城門の管理を厳しくし(15節以下)、レビ人に身を清めて安息日を聖とするように命じました(22節)。そして、神の憐れみと恵みの導きを求めて祈っています(14,22,29節以下)。

 主は、主を尋ね求める者にご自分を示して下さり(歴代誌下15章2節)、主と心を一つにしようとする者を力づけて下さいます(同16章9節)。
 
 私たちも、人ではなく、ただ主を求め、主に信頼して、歩ませて頂きましょう。

 主よ、天変地異の前に私たちは本当に無力です。病と死の力に打ち勝つことも出来ません。主よ、すべての命が守られますように。全世界にキリストの平和がありますように。私たちを憐れみ、絶えず主の恵みに与らせ、御名の栄光をほめ讃えさせて下さい。 アーメン

 

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