風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年10月

10月31日の御言葉 「ヨヤダの生きている間は」

「ヨアシュは、祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」 歴代誌下24章2節
 
 ヨアシュ王は7歳で即位し、40年間王位にありました(1節)。その間、祭司ヨヤダがヨアシュに大変よい指導をしました。ですから、冒頭の言葉(2節)にあるとおり、ヨアシュは主の目にかなう正しいことを行うことが出来ました。
 
 しかしながら、そこには、「祭司ヨヤダが生きている間」という限定がついています。ということは、主の目にかなう正しいことが出来たのは、祭司ヨヤダの指導のお蔭であり、ヨヤダの死後は、その指導を受けることが出来なくなったため、正しいことを行わなくなってしまった、ということを示しているわけです。
 
 正しいことを行っているとき、ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し(4節)、神殿修復のための資金を民から集め、すぐに取りかかるようにという命令を、レビ人が速やかに実行しようとしないのを見ると(5節)、ヨヤダを呼びつけ、何故レビ人にすぐに実行するように要求しないのか、と質します(6節)。その様子を、むしろヨヤダは喜んでいたのではないでしょうか。民も喜んで資金供与に協力し(10節)、工事担当者は神殿の修復補強作業を終え(13節)、祭具類も作り直されました(14節)。
 
 ところが、ヨヤダが130才で亡くなると、事態が変わります。ヨヤダの死後、ユダの高官たちがヨアシュのもとに来て、ひれ伏しました。そのとき、何を進言したのかは記されていませんが、ヨアシュは高官たちの言うことを聞き入れた、と言われます(17節)。その結果、彼らは先祖の神、主の神殿を捨ててアシェラと偶像に仕えるようになりました。そして、その罪悪のゆえにユダとエルサレムに神の怒りが下った、と記されています(18節)。
 
 何があったのか全く分かりませんが、ユダの高官たちにしてみれば、祭司ヨヤダが摂政として国の政治を支配しているのが面白くなかったのかも知れません。けれども、王の信任厚いヨヤダを排除できませんでした。そこで、ヨヤダの死後、徹底的にヨヤダ色を排除する道を、ヨアシュ王に歩ませようとしたのではないかと考えられます。
 
 一方、ヨアシュはなぜ、ヨヤダの教えに従う道を捨てて、高官たちに耳を貸したのでしょうか。ヨアシュは、幼くして父アハズヤを失いました。祭司ヨヤダが祖母アタルヤの暴虐から自分をかくまって盾となり、それ以来、親代わりとなっていたでしょう。ですから、ヨヤダの死はヨアシュにとって、大変大きな衝撃を与えたことでしょう。彼の心にぽっかりと大きな穴があいたことでしょう。物事を正しく判断することが出来る状態ではなかったのかも知れませんね。
 
 主イエスが、汚れた霊が人から出て休み場を捜して、見つからないので戻ってくる、という話をされたことがあります(マタイ12章43節以下)。そこは空き家で、掃除をして整えられていたので、自分より悪いほかの七つの霊を連れてきて住み着くと、その人の後の状態は前よりも悪くなる、と教えられました。
 
 ヨアシュの心は、ヨヤダを失った後、すっかり空き家状態にになっていて、そこを悪霊につけ込まれたのでしょう。彼は、ヨヤダの恩を忘れ、その息子を殺すことさえしてしまいます。
 
 パウロは、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神にささげなさい」と命じています(ローマ6章13節)。それは、聖霊の支配に自らを委ねること、聖霊なる神に自分自身を明け渡すことです。
 
 神に命じられたとおり、聖霊を心に迎え、聖霊に満たされることを求めましょう。絶えず主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って歩みましょう。感情に左右されるのではなく、正しい人は、信仰によって生きると書いてあるとおり(ローマ1章17節など)、聖霊なる神を信じて進みましょう。

 主よ、私たちが主の道から逸れることがないように、絶えず御言葉を聞かせて下さい。私たちの心を探り、御前に相応しくないものを取り除いて下さい。主の血潮によって、清めて下さい。聖霊で満たし、御業のために用いて下さい。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

10月24日の御言葉 「主はヨシャファトと共におられた」

 「主はヨシャファトと共におられた。父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかったからである。」 歴代誌下17章3,4節

 冒頭の「主はヨシャファトと共におられた」(3節)という言葉は、短い言葉ですが、とても素晴らしい言葉です。主がわたしと共にいて下さる。主イエスについて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われていました。そして、「インマヌエル」とは、「神は我々と共おられるという意味である」と説明されています(マタイ福音書1章23節)。
 
 どうして、主がヨシャファトとご一緒下さったのでしょうか。それは、「父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のように行わなかったからである」と記されています。
 
 ヨシャファトの父王アサに対し、神が預言者アザルヤを通して、「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいて下さる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示して下さる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」、と告げておられました(15章2節)。そのことを、ヨシャファトは父から聞いていたのではないでしょうか。また、実際にアサが行っていたことを、傍らで見ていたのでしょう。
 
 ただし、アサは生涯その道を歩み通すことが出来ませんでした。最後に道を踏み誤ってしまったのです(16章7節以下)。先見者からそれを指摘されるとかえって怒りを表わし、民の中のある者たちを虐待するという、八つ当たり的な行動を取っています(同10節)。そして、晩年、重い病にかかりましたが、そのときにも主を求めなかった、と批判されています(同12節)。
 
 ただ、そのことで、アサのなした業績がすっかり無駄になったとは思いません。神は、主の人のために汲んだ水一杯の恩を忘れないと言われるお方だからです(マルコ9章41節)。彼は41年という長い治世を全うし、眠りにつきました。アサのもとで、国が長い間、平穏の内にあったのです。だから、特別な葬りがアサのためになされたのでしょう(16章14節)。
 
 そして、主に慰められる以上の慰めはありません。主が共にいて下さるということ以上の平安はありません。アサの心変わりにも拘わらず、神が憐れみのゆえにアサとも共にいて下さったということではないでしょうか。だから、それを見たアサの子ヨシャファトが、さらに熱い心で主を求めたのだと思います。

 彼は、父に倣って聖なる高台やアシェラ像をユダから取り除きました(6節)。また、高官やレビ人、祭司たちが主の律法の書を携えてユダのすべての町々で教育を行うように遣わし、民の教化に努めました(7~9節)。
 
 それゆえ主はヨシャファトを祝福され、多くのものがもたらされました。ユダの民がヨシャファトに貢ぎを贈ります(5節)。主の恐れが近隣の国々を襲い、ユダに戦いを挑む者はなく(10節)、むしろペリシテから貢ぎ物や税が届けられ、アラビア人も雄羊、雄山羊を7700匹ずつ届けました(11節)。ヨシャファトはおおいに富み栄え、勢力を増し、ユダを守る勇士、武装兵の数は百万を越えています(12節以下)。
 
 何よりも先ず主を求める者のためには、その必要のすべてを豊かに与えて下さるという約束の実現を、そこに見ることが出来ます(マタイ6章33節参照)。持っている人は更に与えられて豊かになる、という言葉がありますが(同25章29節)、主との関係が正しくされるときに、主が共にいて下さるという恵みに、すべての必要が満たされるという恵みが加えられるのです。

 私たちもまず主を求め、主が共におられて私たちを祝福していて下さることを感謝する者とならせていただきたいと思います。
 
 主よ、ヨシャファト共におられ恵みを賜ったように、いつも私たちと共にいて下さることを感謝します。あなたを求めることを心に定め、御言葉に耳を傾けます。キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。私たちの歩みを導き、御心を行わせて下さい。 アーメン!

 

10月17日の御言葉 「神の計らい」

「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」 歴代誌下10章15節

 ソロモンの死後、息子レハブアムがイスラエル4代目の王として即位しました(9章31節)。そこへ、ネバトの子ヤロブアムがやって来ました(2節)。彼は、ソロモンがイスラエルの民に課した苛酷な労役、重い軛を軽くしてくれるようにと願いました(4節)。
 
 レハブアムは先ず長老と相談しました(6節)。長老たちは、願いを聞いてやれと進言します(7節)。次にレハブアムは、自分に仕える同期の若者に尋ねます(8,9節)。若者たちは、もっと厳しくしてやれと言います(10,11節)。レハブアムは長老たちの勧めを捨て、若者の意見を採り入れて、ヤロブアムに厳しい回答を与えました(12節以下)。
 
 その結果、ユダとベニヤミンを除く10部族がヤロブアムと行動を共にするようになりました(16節)。それを見て、労役の監督ハドラムを遣わしますが、イスラエルの人々が彼を石で打ち殺したため、恐れをなしたレハブアムは戦車に乗り、エルサレムに逃げ帰ります。「わたしの小指は父の腰より太い。父が重い軛を負わせたのだから、わたしはさらにそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる」と豪語したレハブアムはどこへ行ったのでしょう。
 
 ここで、レハブアム王は何故、ヤロブアムの願いを聞き入れなかったのでしょうか。聖書はそれを、冒頭の言葉(15節)の通り、「神の計らいによる」と語っています。つまり、神御自身の手によって、長老たちの意見を採用しないよう、レハブアムの心が頑なにされ、若者の意見を採用するという愚かな判断に導かれたわけです。ということは、初めからイスラエルを二つに分裂させるおつもりだったということになります。
 
 何故神は、イスラエルを二つに裂くようなことをなさるのでしょうか。小国イスラエルが二つに分かれて争っていては、外敵に当たることは出来ません。主イエスも、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまう」と仰っておられます(マタイ12章25節)。これは、神がそのようになさったのは、ソロモンが神の教えに聴き従わなかったからでした(列王記上11章9節以下)。主なる神は、二度も御自身をソロモンに現され、他の神々に従ってはならないと戒められたのですが、ソロモンはそれに従わなかったのです。
 
 ソロモンは主なる神より、契約と掟を守らなかったから、王国を裂いて取り上げると告げられておりました(同11節)。神が出されたこのイエローカードの告知を、ソロモンが悔い改めて神に立ち帰っていたならば、ヤロブアムが反旗を翻す事態になることはなかったかも知れませんし、また、ヤロブアムに背かれたときに神の御前に謙り、国が分裂しないで済むよう神に懇願したのではないでしょうか。けれども、ソロモンは、悔い改めすることが出来ませんでした。
 
 そこで神はヤロブアムにイスラエル10部族を託し、彼がダビデと同じように主に聴き従って主の道を歩むことを期待されたのです(同11章30節以下、38節)。つまり、神のご計画は、イスラエルを内部で分かれ争わせて滅ぼしてしまおうというのではなく、ヤロブアムによってイスラエル10部族をご自身に従わせることだったのです。
 
 預言者エレミヤが告げるとおり、神のご計画は災いではなく、平和の計画であり、将来と希望を与えるものなのです(エレミヤ書29章11節)。主を呼び、主に祈り求めるなら、主は聞かれ、主を尋ね求めるならば、主に会うことが出来ると約束して下さいました(同12,13節)。

 どのようなときにも主を求め、主に従って歩みましょう。わたしたちに救いをお与え下さるのは、主イエスのほかには、おられないからです(使徒言行録4章12節)。

 
 主よ、ソロモンの場合、地位や名誉、体面などが御前に謙ることの妨げになったようです。どんなときでも謙遜に御前に進み、その御言葉に耳を傾け、導きに素直に従うことが出来ますように。あなたのなさることが最善であり、主によってどんなマイナス状況も益とされ、将来と希望を与える平和の計画が実現するからです。 アーメン

 

10月10日の御言葉 「モリヤ山で」

「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」 歴代誌下3章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、ソロモンが主の神殿の建築を始めました。それは、その治世の第4年2月2日のことです(2節)。
 
 古い尺度のアンマは約52センチということなので、神殿は、奥行き31.2メートル、間口10.4メートルという大きさのものです(3節)。高さは、列王記6章2節によれば、15.6メートルです。4節には、前廊の高さが62.4メートルになっており、前廊の部分だけ、塔のようになっていたということでしょうか。
 
 神殿の内部は9メートル四方の部屋三つに区切られています(4,8節、列王記上6章3,4節)。最初の部屋が前廊(4節)、それから外陣とも呼ばれる聖所(拝殿)、そして、内陣とも呼ばれる至聖所です(8節)。
 
 その内部には糸杉が貼り付けられ、それを金で覆い、そこにナツメヤシと網目模様の浮き彫りが施され(5節)、さらに宝石で飾られました(6節)。また、壁にはケルビムの浮き彫りがつけられました(7節)。至聖所には、2体のケルビムが置かれました(10節)。
 
 聖所と至聖所を分けるのは、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で作られる垂れ幕で、そこにもケルビムの縫い取りが施されました(14節)。神殿入り口には、ヤキンとボアズという名の青銅製の2本の柱を立てました。民はこの柱の間を通って、前廊に入ることになります。
 
 ところで、神殿が建てられたのはエルサレムのモリヤ山で、そこはかつて、エブス人オルナンの麦打ち場があったと、1節に記されています。かつて、ダビデが民の数を数えようとして神の怒りを招き(歴代上21章1節以下)、疫病で7万もの死者が出ました(同14節)。民を打つ天使がエルサレムの町に襲いかかろうとしたとき、神が天使にストップをかけました(同15節)。天使はそのとき、この麦打ち場の傍らにいました。
 
 一方、神はダビデに、オルナンの麦打ち場に祭壇を築かせ(同18節)、ダビデはそこでいけにえをささげます(同26節)。その祈りが聞かれ、疫病はやみました(同27節))。神が天使をストップさせた背後に、このダビデの祈りがあったというわけです。

 それも、神の導きでした。民の苦しみを見て自らの罪を深く悔いているダビデに、祭壇を築くこと、つまり神の御前にいけにえをささげて祈ることを命じられたのです。神は、そのダビデの心を見、また、疫病に苦しむ民の呻きを聞かれて、災いを思い返されたのです。ダビデはその場所に神殿を築くことにしました(歴代上22章1節)。
 
 ダビデがこの神殿でいけにえをささげることはありませんが、かつてダビデが神の前に罪を犯し、裁きがなされた場所、そして、そのための執り成しがなされ、犠牲が捧げられた場所に神殿が建てられたことが繰り返し思い起こされることで、神の憐れみをその都度新たに味わうことが出来ます。こうして、罪の増すところ、主の恵みもまたいや増すのです(ローマ5章20節)。
 
 また、モリヤ山と言えば、かつてアブラハムが神に命じられて、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として神にささげようとした場所です(創世記22章1節以下、2節)。それは、神がアブラハムの信仰を試されたのでした(同12節参照)。そして、神はイサクの代わりに雄羊を用意しておられ、それをいけにえとしました(同13節)。
 
 アブラハムは、神がいつも自分を見守っていて下さること、必要を満たして下さることを知り、そこを「ヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)」と名付けました(同14節)。神に従う者のために、神は豊かな祝福をもって答えて下さるということです。
 
 そして何より重要なことは、神殿を建てられたその場所は、やがてキリストの十字架が建てられる場所になったのです。キリストこそ、ダビデの罪を赦し、アブラハムに甦りの命を証しするためにささげられる神の小羊です。絶えず十字架の主を見上げ、憐れみの主の御声に従って歩ませていただきましょう。
 
 主よ、御子イエスの贖いのゆえに感謝します。私たちはキリストのものとされ、主は私たちの体を、神が遣わされた聖霊の宿る神殿とされました。この体で、神の栄光を表わすことが出来ますように。絶えず主の十字架を仰ぎ、御言葉に従って歩ませて下さい。 アーメン

 

10月3日の御言葉 「楽器を奏でながら預言」

「ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。」 歴代誌上25章1節
 
 
歴代誌の記者は、
これまで何度も詠唱者について取り上げています(6章、9章、23章)。それは、主を賛美する務めがいかに重要かと考えているしるしでしょう。
 
 昼も夜も楽器を奏で、賛美の歌声を絶えず神殿に響かせるため、多くの音楽奉仕者が選ばれていました。23章5節には、楽器を奏で、主を賛美する者は4000人と記されています。そして、賛美は神に捧げられるものですから、最高の演奏、最高の音楽だったことでしょう。
 
 私たちも、不平不満、つぶやきといった雑音や不協和音などではなく、賛美のいけにえ、神の御名をたたえる唇の実を絶えず神に献げたいと思います(ヘブライ書13章25節)。そのためには、聖霊に満たされることだと、パウロは教えています(エフェソ書5章18~20節)。
 
 主は「聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」であると、詩編22編4節にありますが、口語訳では「イスラエルのさんびの上に座しておられる」と記し、新改訳は「賛美を住まいとされる」と訳しています。主なる神は、賛美のあるところに臨在されるということでしょう。ですから、聖霊に満たされると賛美に導かれ、そして、賛美によっていよいよ豊かに聖霊に満たされるわけです。
 
 特に、今日の箇所には興味深い言葉があります。冒頭の言葉(1節)に、「アサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した」、と記されています。アサフたちは楽器を奏でながら賛美した、歌ったというのではなく、「預言した」というのです。これは、どういうことでしょうか。
 
 主の霊が激しく下ると、預言する状態になると言われます(民数記11章25節、サムエル記上10章10節、19章23節、ヨエル書3章1節)。使徒言行録には、人の上に聖霊が降って、彼らが霊の語らせるままに語り出すという現象について、何度も報告されています(2章4節、4章31節、6章10節、10章44~46節、19章6節)。また、パウロは、聖霊から授けられる賜物(カリスマ)として、知恵の言葉や知識の言葉、預言する力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力など、言葉に関する霊的な賜物をいくつも挙げており(第一コリント書12章4節以下)、特に、預言するための賜物を熱心に求めなさいと勧めています(同14章1節)。
 
 預言とは、文字通り、言葉を預かることで、神から御言葉を預かり、それを神の御言葉として人々に語り伝えることです。その意味で、これからのことを言い当てるという「予言」とは異なります。
 
 主の霊が下ると、異言を語ったり預言をしたりするということは、聖霊の働きで神の御言葉を聴きとることが出来、また、それを語り伝える力が与えられるのです。
 
 つまり、アサフ、ヘマン、エドトンの子らが賛美を通して聖霊に満たされ、聖霊によってさらに賛美に導かれた結果、彼らに神の御言葉が預けられた。また、彼らの賛美が、聞く者に神の真理を教えるメッセージ、預言としてとして受けとめられたということでしょう。3節の、「竪琴を奏でながら預言して主に感謝し、賛美をささげた父エドトンの指示に彼らは従った」というのは、そのことを言っているわけです。
 
 詩編に、アサフの詩や(50,73~83編)、ヘマン(88編)、エドトンの詩があり(39編)、またエドトンの曲もあったようです(62,77編)。楽器に合わせて賛美された詩が、聞いた者の心に深く留められた証拠でしょう。
 
 賛美と神の御言葉、いずれも礼拝に欠かせない大切な要素です。礼拝で牧師が語るメッセージと同様に、奏楽者や聖歌隊、そして会衆の歌う賛美がいかに大切かということになります。そのため、牧師の働きのために祈ると共に、音楽の奉仕にあたる人々が聖霊に満たされて、その務めを果たすことが出来るように祈ることも、礼拝が整えられるためにとても重要なことということが出来ます。
 
 だからこそ、「礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われているわけです(ヨハネ福音書4章24節)。
 
 主よ、どうか私たちを日々聖霊に満たし、心から主をほめ讃えさせて下さい。約束どおり、主が私たちを聖霊に満たして下さるとを信じて感謝します。 アーメン

 

内藤容子 「そのままで」

YouTubeで見つけました。味わってみて下さい。



そのままでいい どれくらい信じてるかな

そんなこと言うけど これしなかったら ダメなんでしょ
ああならないと いけないんでしょ
なんの役にも たたなくなったら 見放すんでしょ
だって このままのあたしが 愛されるはずない

だから 鞭打って働いてるよ
疲れてるのに あなたのため
だから 愛してくれるんでしょ

でも 神様の愛はそんなんじゃない

その荷物を君が一人で抱えてるから 君を好きなんじゃない
辛いことを涙見せずにこらえてるから 君を好きなんじゃない
明るいから 強いから 笑ってるから 正しいから
そんなことで そんなことで 君のことを好きなんじゃない

ただ その存在が大切で嬉しい
ただ その命が何よりも愛しくて
いつでも側にいたい

ありのままの君が好きだよ たとえ何も出来なくても
飾らないで 背伸びしないで そのままで君を愛してるよ

ありのままで従っておいで 必要な力 すべて与えるから
そのままの君に わたしが働いて
わたしの業を行うから
わたしの栄光 あらわすから

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