「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。」 列王記上2章2節
ダビデは自分の死期を悟り(1節)、冒頭の言葉(2節)で始まる遺言を、王位継承者に決定したソロモンに語りました。ここで、ダビデの語った「この世のすべての者がたどる道」とは、死への旅路ということです。その道を歩まずにすむ者はいません。誰もが、遅かれ早かれ、死の時を迎えます。
それにも拘わらず、死について考えたり話したりするのは縁起でもないことといって、遺言の準備など全く考えようとしない人も、少なくありません。準備の有無に拘わらず、誰にも死は訪れます。備えあれば憂いなしいう言葉がありますが、よく死ぬための備えが必要です。
よく死ぬというのは、人生を振り返って、これまで生きて来ることが出来て良かった、今ここで人生を閉じても思い残すことはない、という死に方をすることでしょう。それは、毎日を悔いのないように生きる生き方をするということです。つまり、よく生きることこそ、よく死ぬための備えなのです。
遺言するとき、勿論、よく考え、言葉を選ぶでしょう。当然、大切なこと、必要なことを言い残そうとするでしょう。それが実践に裏打ちされた言葉であるとき、聞く者の心に深く刻まれる言葉となります。親の生き様を見て来た子が、その死に様を見て、しかも最後に遺した言葉を聞けば、親の生き方に倣いたい、遺言を守ろうと決意するでしょう。
私たちは、私たちの人生が死では終わらないことを学んでいます。人は一度死ぬことと、その後に神の御前で裁きを受けることが定まっている、とヘブライ人への手紙9章27節にあり、死の道を通って救いに与るか、滅びに至るかが判断されます。それはまさに、よく生きることが出来たかどうかが、神の御前で問われるということです。
ダビデはソロモンに、「勇ましく、雄々しくあれ」と語りました。これは、他国との戦いなどにおいて勇ましく、雄々しくあることが、イスラエルの王に求められているということです。
かつて、モーセの後継者ヨシュアに対して、神が同じような言葉を語っておられます(ヨシュア記1章6,7節)。約束の地を獲得する戦いにヨシュアが赴かなければならないからです。そして、勇ましく、雄々しく歩むことの出来る根拠は、神がいつも共にいて下さるという約束でした(同1章5節)。ダビデがソロモンに「勇ましく、雄々しくあれ」と語っているのも、同じく、神が共にいて下さるからこそです。
この言葉に続いてダビデは、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ」と命じ(3節)、「そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」という祝福の言葉を語っています。
王として、すべきこと、すべきでないことを、モーセの律法、即ち主の教えに基づいて判断し、また、主の語られた命令を実行せよというわけです。そうすることで、良い成果を上げることが出来、また、王位が保たれるという、祝福の約束なのです。
ダビデは、自分の知恵と力で道を正しく歩むことが出来ませんでした。神の御前に姦淫と殺人という大罪を犯しました。しかし、預言者ナタンに罪を指摘されるまで、特別に罪責感を持ってもいなかったようです。絶対的権力者として、したいことは何でも出来るという立場にあったからです。
しかし、主の教えという物差しを当てたとき、いかに自分が罪深い者であるかということを思い知らされました。その罪を認め、悔い改めました。だから、主の教えを守れというのです。
主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰せられました(ヨハネ14章6節)。主イエスの道は、父なる神によって罪人の世に敷かれました。荒れ野に道が敷かれたのです(イザヤ43章19節)。この道を歩む者が真理を知り、命を得るためです。主の御言葉に従い、死んでも死なない命の恵みに与らせていただきましょう。
主よ、私たちを信仰に導き、命の言葉を与えて、この道を歩めと教えて下さり、有り難うございます。御言葉は、私たちの歩みを導く灯火であり、道を照らす光です。日々御言葉によって開かれる道を、右にも左にも曲がらずまっすぐに歩み通すことが出来ますように。御霊の導きをお与え下さい。 アーメン
ダビデは自分の死期を悟り(1節)、冒頭の言葉(2節)で始まる遺言を、王位継承者に決定したソロモンに語りました。ここで、ダビデの語った「この世のすべての者がたどる道」とは、死への旅路ということです。その道を歩まずにすむ者はいません。誰もが、遅かれ早かれ、死の時を迎えます。
それにも拘わらず、死について考えたり話したりするのは縁起でもないことといって、遺言の準備など全く考えようとしない人も、少なくありません。準備の有無に拘わらず、誰にも死は訪れます。備えあれば憂いなしいう言葉がありますが、よく死ぬための備えが必要です。
よく死ぬというのは、人生を振り返って、これまで生きて来ることが出来て良かった、今ここで人生を閉じても思い残すことはない、という死に方をすることでしょう。それは、毎日を悔いのないように生きる生き方をするということです。つまり、よく生きることこそ、よく死ぬための備えなのです。
遺言するとき、勿論、よく考え、言葉を選ぶでしょう。当然、大切なこと、必要なことを言い残そうとするでしょう。それが実践に裏打ちされた言葉であるとき、聞く者の心に深く刻まれる言葉となります。親の生き様を見て来た子が、その死に様を見て、しかも最後に遺した言葉を聞けば、親の生き方に倣いたい、遺言を守ろうと決意するでしょう。
私たちは、私たちの人生が死では終わらないことを学んでいます。人は一度死ぬことと、その後に神の御前で裁きを受けることが定まっている、とヘブライ人への手紙9章27節にあり、死の道を通って救いに与るか、滅びに至るかが判断されます。それはまさに、よく生きることが出来たかどうかが、神の御前で問われるということです。
ダビデはソロモンに、「勇ましく、雄々しくあれ」と語りました。これは、他国との戦いなどにおいて勇ましく、雄々しくあることが、イスラエルの王に求められているということです。
かつて、モーセの後継者ヨシュアに対して、神が同じような言葉を語っておられます(ヨシュア記1章6,7節)。約束の地を獲得する戦いにヨシュアが赴かなければならないからです。そして、勇ましく、雄々しく歩むことの出来る根拠は、神がいつも共にいて下さるという約束でした(同1章5節)。ダビデがソロモンに「勇ましく、雄々しくあれ」と語っているのも、同じく、神が共にいて下さるからこそです。
この言葉に続いてダビデは、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ」と命じ(3節)、「そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」という祝福の言葉を語っています。
王として、すべきこと、すべきでないことを、モーセの律法、即ち主の教えに基づいて判断し、また、主の語られた命令を実行せよというわけです。そうすることで、良い成果を上げることが出来、また、王位が保たれるという、祝福の約束なのです。
ダビデは、自分の知恵と力で道を正しく歩むことが出来ませんでした。神の御前に姦淫と殺人という大罪を犯しました。しかし、預言者ナタンに罪を指摘されるまで、特別に罪責感を持ってもいなかったようです。絶対的権力者として、したいことは何でも出来るという立場にあったからです。
しかし、主の教えという物差しを当てたとき、いかに自分が罪深い者であるかということを思い知らされました。その罪を認め、悔い改めました。だから、主の教えを守れというのです。
主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰せられました(ヨハネ14章6節)。主イエスの道は、父なる神によって罪人の世に敷かれました。荒れ野に道が敷かれたのです(イザヤ43章19節)。この道を歩む者が真理を知り、命を得るためです。主の御言葉に従い、死んでも死なない命の恵みに与らせていただきましょう。
主よ、私たちを信仰に導き、命の言葉を与えて、この道を歩めと教えて下さり、有り難うございます。御言葉は、私たちの歩みを導く灯火であり、道を照らす光です。日々御言葉によって開かれる道を、右にも左にも曲がらずまっすぐに歩み通すことが出来ますように。御霊の導きをお与え下さい。 アーメン