風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年07月

7月25日の御言葉 「この世のすべての者がたどる道」

「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。」 列王記上2章2節

 ダビデは自分の死期を悟り(1節)、冒頭の言葉(2節)で始まる遺言を、王位継承者に決定したソロモンに語りました。ここで、ダビデの語った「この世のすべての者がたどる道」とは、死への旅路ということです。その道を歩まずにすむ者はいません。誰もが、遅かれ早かれ、死の時を迎えます。
 
 それにも拘わらず、死について考えたり話したりするのは縁起でもないことといって、遺言の準備など全く考えようとしない人も、少なくありません。準備の有無に拘わらず、誰にも死は訪れます。備えあれば憂いなしいう言葉がありますが、よく死ぬための備えが必要です。
 
 よく死ぬというのは、人生を振り返って、これまで生きて来ることが出来て良かった、今ここで人生を閉じても思い残すことはない、という死に方をすることでしょう。それは、毎日を悔いのないように生きる生き方をするということです。つまり、よく生きることこそ、よく死ぬための備えなのです。
 
 遺言するとき、勿論、よく考え、言葉を選ぶでしょう。当然、大切なこと、必要なことを言い残そうとするでしょう。それが実践に裏打ちされた言葉であるとき、聞く者の心に深く刻まれる言葉となります。親の生き様を見て来た子が、その死に様を見て、しかも最後に遺した言葉を聞けば、親の生き方に倣いたい、遺言を守ろうと決意するでしょう。
 
 私たちは、私たちの人生が死では終わらないことを学んでいます。人は一度死ぬことと、その後に神の御前で裁きを受けることが定まっている、とヘブライ人への手紙9章27節にあり、死の道を通って救いに与るか、滅びに至るかが判断されます。それはまさに、よく生きることが出来たかどうかが、神の御前で問われるということです。
 
 ダビデはソロモンに、「勇ましく、雄々しくあれ」と語りました。これは、他国との戦いなどにおいて勇ましく、雄々しくあることが、イスラエルの王に求められているということです。

 かつて、モーセの後継者ヨシュアに対して、神が同じような言葉を語っておられます(ヨシュア記1章6,7節)。約束の地を獲得する戦いにヨシュアが赴かなければならないからです。そして、勇ましく、雄々しく歩むことの出来る根拠は、神がいつも共にいて下さるという約束でした(同1章5節)。ダビデがソロモンに「勇ましく、雄々しくあれ」と語っているのも、同じく、神が共にいて下さるからこそです。
 
 この言葉に続いてダビデは、「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ」と命じ(3節)、「そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」という祝福の言葉を語っています。

 王として、すべきこと、すべきでないことを、モーセの律法、即ち主の教えに基づいて判断し、また、主の語られた命令を実行せよというわけです。そうすることで、良い成果を上げることが出来、また、王位が保たれるという、祝福の約束なのです。
 
 ダビデは、自分の知恵と力で道を正しく歩むことが出来ませんでした。神の御前に姦淫と殺人という大罪を犯しました。しかし、預言者ナタンに罪を指摘されるまで、特別に罪責感を持ってもいなかったようです。絶対的権力者として、したいことは何でも出来るという立場にあったからです。
 
 しかし、主の教えという物差しを当てたとき、いかに自分が罪深い者であるかということを思い知らされました。その罪を認め、悔い改めました。だから、主の教えを守れというのです。
 
 主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰せられました(ヨハネ14章6節)。主イエスの道は、父なる神によって罪人の世に敷かれました。荒れ野に道が敷かれたのです(イザヤ43章19節)。この道を歩む者が真理を知り、命を得るためです。主の御言葉に従い、死んでも死なない命の恵みに与らせていただきましょう。
 
 主よ、私たちを信仰に導き、命の言葉を与えて、この道を歩めと教えて下さり、有り難うございます。御言葉は、私たちの歩みを導く灯火であり、道を照らす光です。日々御言葉によって開かれる道を、右にも左にも曲がらずまっすぐに歩み通すことが出来ますように。御霊の導きをお与え下さい。 アーメン

7月18日の御言葉 「王を連れ戻す」

「あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか。王を連れ戻すのに遅れをとるのか。」 サムエル記下19章13節

 反乱軍の首謀者アプサロムが討ち取られ、ダビデ軍が勝利を収めました。けれども、素直に喜べません。アブサロムはダビデの息子です。本来ならば、王位継承順位の筆頭にいるはずの息子です。それなのに、その息子が父に背き、謀反を起こしたのです。ダビデはアブサロムの死を悼み、大声を上げて嘆きます(1,5節)。
 
 何故、こんなことになってしまったのでしょう。それはすべてダビデ自身が播いた種、自分の犯した罪の結果であると、改めて思い知らされていたのではないでしょうか。ダビデはむしろ、死ぬべきは若いアブサロムではなく、自分の方だったと考えていたのだと思います。そうしたダビデを察してか、凱旋軍が喪に服するかのように、音も立てないようにして都に戻って来ました(3,4節)。
 
 それを知った軍の司令官ヨアブは、嘆き続けているダビデのもとに行き、「アブサロムが生きていて、ダビデの兵が皆死んでいたらよかったのか。今出て来て兵に言葉をかけなければ、今後、ダビデのために働く者はいなくなる」と諭します(6節以下)。それに促されたダビデは、帰還した兵士に労いの挨拶をしました(9節)。
 
 一方、アブサロムを担いで王にしようとしたイスラエルの人々が、再びダビデを王として迎えるべく、動き始めます(10節以下)。そのとき、態度を決めかねていた部族があります。それは、ユダ族です。その大半がダビデを見限り、アブサロムの側についたのです。特に、ユダ族の長老たちはダビデの報復を、軍の司令官アマサは、ダビデの懲罰を覚悟していたと思います。
 
 そのような彼らに対して、ダビデの方から働きかけました(12節以下)。謀反を起こした息子アブサロムの死を悼み、嘆いていたダビデです。どうして、自分の多数の親族を失うことが出来るでしょうか。彼は、腹心の友、祭司ツァドクとアビアタルを通して、ユダの長老たちに自分を王宮に連れ戻すように、伝言させたのです。そして、アマサをヨアブに代えて軍の司令官に迎えると誓うのです(14節)。
 
 これは、ヨアブが自分の命令に従わずに息子アブサロムを殺したことに対する報復人事ということかも知れません。しかし、この言葉は、ダビデの報復を恐れていたユダの人々をどれほど安心させたことでしょうか。ダビデの寛大な処置をどんなに喜んだことでしょうか。ですから、彼らは一致してダビデを迎えるのです。
 
 15節に、「ダビデはユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした」とありますが、ダビデが寛容さを示していなければ、逆にユダ族は、アマサを自分たちの指導者として立て、ダビデ・イスラエルに敵対する勢力になっていったかも知れません。かくてダビデは、クーデター派の人々には、全く報復をしません。誰に対しても寛容さを示しました。それによって、ダビデはイスラエルのすべての部族の再統一に威功したのです。
 
 主イエスが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)と命じられました。それは容易く出来ることではありませんが、主イエスご自身、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか如らないのです」(ルカ福音書23章34節)と、ご自分を殺そうとする人々の赦しのため、執り成し祈られました。
 
 また、私たちが王なる主イエスを心の王座に迎えるよう、主イエスの方から私たちの心の戸口に立って、その扉をノックされます(ヨハネ黙示録3章20節)。主イエスが、私と共に食車を囲み、互いに親しい交わりをしようと言われるのです。実に、神の御子が私たちの兄弟、私たちの骨肉となって下さったのです。
 
 朝ごとに主に向かって心を開き、御言葉に従って、心の王座に主イエスをお遡えしましょう。

 主よ、今日から新しい週が始まります。今週も、日々王の王、主の主なる神の御名が崇められますように。絶えず私たちの心の王座に着き、私たちをあなたの望まれるような者に造り替えて下さい。御心がこの地の上でも行われますように。そのための道具として用いて下さい。アーメン

鉄骨工事・上棟


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7月10日(土)、大型重機が運び込まれ、鉄骨工事が始りました。

見ている間に柱が立ち、屋根の上に十字架の塔が乗せられました。

塔屋が上がったところで上棟ということにしようと、予め設計士、建築会社と約束していたので、7月17日(土)に上棟式を行いました。

その様子は、教会のサイトにも掲載されています。
URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto0649.html
ご覧下さい。

7月11日の御言葉 「そんなことをした男は死罪だ」

「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」 サムエル記下12章5節

 貪りと姦淫、さらに殺人の罪まで犯したダビデ王に対して(11章参照)、主は預言者ナタンを遣わしました(1節)。ナタンはダビデに一つの話をします。それは、多くの羊や牛を持つ豊かな男が、来客をもてなすのに自分の家畜を惜しみ、近くに住む貧しい男の娘のように可愛がっている一匹しかいない雌の小羊を取り上げて客に振る舞った、という話です(1節以下、4節)。
 
 その話を聞いて激怒したダビデ王は冒頭の言葉(5節)のとおり、「その男を死罪にせよ」と言い、さらに、「奪ったものを4倍にして償え」と言います(6節)。それは、正しい判断です。他人の罪は、正しく裁くことが出来ました。
 
 しかしながら、ダビデにはそのように裁きを行う資格はありません。ナタンはダビデに、「その男はあなただ」と告げました(7節)。ダビデこそ、隣人ウリヤから小羊バト・シェバを取り上げた男なのです(9節)。
 
 ダビデは、預言者ナタンから指摘されるまで、はっきりと自分の罪を自覚してはいなかったようです。神の前に、自分が何をしているのか、分かっていなかったのです。そしてこれは、ダビデ一人のことではなく、私たちの現実です。他人の過ちは、どんなに小さくても断じて許せないと思うのに、自分の過ちには極めて寛大です。主なる神が私たちの罪を裁かれるならば、言うまでもなく「そんなことをした男は死罪」なのです。
 
 ナタンから自分の罪を指摘されたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と直ちにそれを認め、悔い改めました。そのときのダビデの祈りが、詩篇51編に詠われています。その中に、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。・・・神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください」(詩51編9,12,13節)という祈りがあります。
 
 ダビデは、自分が犯した罪は、もはや自分がその命をもって償うほかはないことを、はっきり自覚しました。もしも 罪人の自分が生きるのを許されるのであれば、それには魂の清めが不可欠だ。それも、生半可のことではない、修理や改善などでは間に合わない、清い心を創造し、確かな霊を授けて頂くほかはないというのです。
 
 これは、ずいぶん手前勝手な願いのように聞こえます。自分が罪で汚した魂を、清いものと取り替えてもらいたい、そこに、神の確かな霊を満たして欲しいというのですから。けれども、ダビデが詠うとおり、罪人が生きるには、そのように神の憐れみに寄り縋るほかはないのです。
 
 4人の男に連れられてきた中風の男が、家の屋根を破って主イエスの前につりおろされたことがあります(マタイ9章)。そのとき、癒しに先立って、「あなたの罪は赦される」と、宣言されました。主イエスに会うということは、この罪の赦しの宣言を聞くことだ、と学んだことがあります。
 
 中風の男だけでなく、連れて来た4人の男たちも、そして私たちも、先ず、主イエスに赦しの宣言を聞かなければならない罪人なのです。その宣言を聞いて初めて、自分が罪人であるということを正しく悟ることが出来るのです。そして、その罪の贖いのために、罪なき神の御子の命が支払われたのです。
 
 預言者ナタンは、「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と言い(13節)、続けて、「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(14節)と告げました。
 
 それを聞いたダビデはその子のために神に願い、断食します(16節)。子に罪はない、罪の呪いは自分にと願っての断食ですが、七日目に子は息を引き取りました(18節)。自分の罪のために死んだその子を思うダビデの痛みはどれほどのものだったでしょう。
 
 それは、誰よりも神ご自身が深く知っておられます。神は、独り子を私たちの罪のために、贖いの供え物としてささげられたからです。それは、十字架以外に、罪人の私たちを清め、生かす術がなかったからです。人知を遙かに超えた主の恵みに日々感謝し、今日も主の御旨に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたは御子イエスを私たちの身代わりに十字架に磔になさるために地上にお遣わしになりました。今日は、御子が人としてこの世にお生まれ下さったことを喜び祝うクリスマスです。キリストによって贖われ、自由にされたことを感謝し、その喜びが全世界に広げられますように。 アーメン

基礎工事

wp0647296月8日(火)、杭打ちが始りました。

といっても、大きな音を立てて什器のハンマーでコンクリートの柱を地中深く打ち込むというのではありません。
ドリルで穴を開け、そこにコンクリートを流し込むというやり方です。





wp064815そのようにして築かれた杭の上にしっかりとした基礎が築かれました。

聖書に、「岩の上に立てた家」という話が記されています。

主イエスが「山上の説教」の最後のところで語られたたとえ話です。

固い岩盤に届くように杭が打たれ、その岩に土台して、新しい会堂が建てられるのです。

私たちの人生も、キリストの御言葉という永遠に変わらない岩の上にしっかりと立てられ、神の愛と平安に包まれていきたいものだと思います。

基礎工事の様子は、教会のサイトにも掲載されています。
① URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto0647.html
② URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto0648.html
ご覧下さい。

7月4日の御言葉 「イスラエルの王とした」

「ダビデはヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。」 サムエル記下5章3節
 
 ダビデは、自ら王になろうとはしませんでした。王になるために、前の者を押しのけたりはしませんでした。ダビデが王になったのは、ダビデと共におられた主なる神の選びであり、導きでした。力を用いず、策略を用いず、ただ神の油注ぎのゆえに、王とされたのです(サム上16章12,13節)。
 
 勿論、ダビデは優れた軍人でした。勇敢な戦士でした。戦術の心得もありました。言葉に分別があって外見もよく、竪琴を巧みに奏で、詩を作る才に長けていました(同16章18節)。しかし、そのように有能だから王とされたのではありません。ダビデが神の御旨を尋ね求め、神に聴き従う者だからこそ、神に選び立てられ、王とされたのです。
 
 ダビデがイスラエルの王とされたのは「30歳」のときですから(4節)、少年の日にサムエルによって油注がれてから、およそ20年を過ごしてきたわけです。この長きに亘り、主に忠実に従って歩むことが出来たのは、しかし、ダビデ一人の力ではなく、両親から学んだ信仰、ダビデを励ましたヨナタン、そして何より、ダビデをお選びになった神の恵みと導きの賜物です。
 
 そして、神に油注がれ、神の使命が与えられた者には、必要な知恵や力が備えられるのです。このことは、自分の器にあった働きを願うのではなく、委ねられている使命を果たすのに必要な賜物が与えられるように祈れ、と教えられるところです。
 
 ダビデが神によって油注がれた者であることが、今や全イスラエルの民の認めるところとなりました。2節に、「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者になる』と」と記されていますが、これは、ヘブロンにいたダビデのもとにイスラエルの全部族が集まり、ダビデに語った言葉でした。
 
 かくて、冒頭の言葉(3節)のとおり、ユダの王であったダビデは、ヘブロンにおいて主の御前に民と契約を結び、イスラエルの長老たちの手によって油注がれて、名実共にイスラエルの王となったのです。
 
 ダビデは、そのときはまだエブス人の町であったシオンの要害(=エルサレム)を陥落させ(7節)、そこに住んでこれをダビデの町と呼び、町の周囲に城壁を築きました(9節)。ここは、ユダとベニヤミンの境界に位置し、イスラエルとユダを統治するのに相応しい場所でした。
 
 やがて、隣国ティルスの王ヒラムがダビデに使節を送り、そこに王宮を建てさせました(11節)。こうして、ダビデの王権は、いよいよ堅く打ち立てられていきました。これからバビロンによってエルサレムが陥落させられるまで、およそ400年に及ぶダビデ王朝がスタートしたのです。
 
 後に、ダビデの子孫としてベツレヘムにお生まれになった主イエス・キリストは(マタイ2章5節、ルカ2章4節以下)、エルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架にかかり(マタイ27章33節など)、葬られ(同27章57節以下)、三日目に死と罪にうち勝って甦られました(同28章1節以下)。

 その後、この町にいた120人のキリストの弟子たちに聖霊が激しく降り(使徒言行録2章1節以下)、彼らが大胆に福音を語り始めた結果、3000人もの人々が救われ、教会が形作られました(同2章41,42節)。ここから弟子たちは散らされて、全世界に福音が宣べ伝えられて行ったのです。

 それは主イエスが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語られたとおりです(同1章8節)。私たちも、聖霊の油注ぎを受けて、私たちの主キリストの福音を、このよいときに私たちの家族、友人、同僚、地域の人々に伝えていきましょう。

 主よ、サウルは油注ぎにも拘わらず、王位から退けられました。ダビデは油注ぎの故に、イスラエル全家の王となりました。その鍵は、神に聴き従うことでした。絶えず、御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませて下さい。私たちが果たすべき使命のために必要な賜物、知恵と力を豊かにお授け下さい。御名が崇められますように。 アーメン
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