風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年06月

6月27日の御言葉 「主は生きておられる」

「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。だが、武将たちはお前を好まない。」 サムエル記上29章6節

 ダビデがペリシテの地ガトに逃れ、ツィクラグに住んで1年4ヶ月(27章1節以下、6,7節)。傭兵としてガトの王アキシュに仕えて来ました。これまで、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲っても(同8節)、ユダのネゲブ、エラフメエル人のネゲブ、カインのネゲブを襲ったと嘘をついて、アキシュを安心させていたダビデです(同10節)。ようやく得た安住の地を、そう容易く失うわけにはいかなかったのです。
 
 ところが、ペリシテ軍がシュネムに集結し、イスラエル軍と一戦交えることになりました(28章1節以下、4節)。アキシュはダビデにも戦陣に加わるように要請し(同1節)、ダビデがそれを承諾したので、アキシュはダビデを護衛の長としました(同2節)。
 
 その後、ペリシテは軍をアフェクに動かします(1節)。アキシュ率いるペリシテ軍の中に、ダビデとその兵士たちもいます(2節)。アキシュと同行して、同胞イスラエルと戦うためです。彼らはアキシュ護衛のため、今日はしんがりに控えています。
 
 そのとき、ダビデはどんな思いだったのでしょうか。アキシュに雇われている身で戦いに参加しないとは言えず、さりとて、自分の同胞に刃を向けることも出来ません。何というジレンマでしょう。ダビデはそのとき、イスラエルと戦いを交えるつもりだったのでしょうか。
 
 かつて、神が自分の手にサウルを渡されたとき、自分は主が油注がれた方に手をかけることはしないと言明していましたが、ここでペリシテ軍の手を借りて、サウルを殺してしまおうと考えたのでしょうか。そうであれば、神の民に弓引くことになりますので、サウルの死後、ダビデがイスラエルの王となることは不可能です。

 それとも、ペリシテの武将たちが考えたように、途中でペリシテを裏切り、武将たちの首を土産にイスラエルに帰還するつもりだったのでしょうか(4節)。しかし、関ヶ原の合戦での小早川のごとく、ペリシテからイスラエルに寝返ることは、再びサウルに命を狙われ、国内を逃げ回る日々に逆戻りすることになります。
 
 このジレンマからダビデを救ったのが、ペリシテの武将たちでした。彼らは、ダビデの同胞イスラエルと戦っている最中にダビデに寝返られたらかなわないので、この戦いに参加させるなというのです。アキシュは不承不承、苛立っている武将たちの言葉を入れて、ダビデを帰すことにしました(6,7,10節)。これによって、ダビデは同族と戦うという難を逃れることが出来ました。
 
 冒頭の言葉(6節)でアキシュは、「主は生きておられる」と言いました。それはアキシュにとって、生ける神に誓ってといった表現だったのですが、ダビデにとっては、まさに神が生きておられるので、この窮地からお前を救い、自分の与えられた町ツィクラグに平和に帰ることが出来るということだったのです。
 
 異邦のペリシテの地にも神の守りの御手が延べられ、ダビデを守り支えていたのです。しかしそれは、ダビデが祈り求めたことではありませんし、神が守って下さるという信仰にダビデが立っていたというわけでもありません。ダビデが守られたのは、一重に神の憐れみです。
 
 今回は、イスラエルと戦うペリシテの武将たちを用いて、ダビデの窮地を救われました。神は確かに、万事を相働かせて益とすることが出来るお方であり、そのお方のお陰で私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされないのです。信じている通りに告白して、絶えず主の恵みに与らせて頂きましょう。
 
 主よ、どこに行っても、あなたはそこにおられ、御手をもって私たちを導き、守り支えていて下さいます。あなたの御計らいは、いかに貴いことでしょう。その果てを極めようと思っても、とうてい計り知ることが出来ません。私の内に迷いの道があるかどうかをご覧になり、私をいつも永久の道に導いて下さい。 アーメン

6月20日の御言葉 「わたしのもとに留まれ」

「わたしのもとにとどまっていなさい。恐れることはない。わたしの命をねらう者はあなたの命をもねらう。わたしのもとにいれば、あなたは安全だ。」 サムエル記上22章23節
 
 サウルを恐れて逃避行を続けているダビデですが、彼のもとに人が集まり始めました。まず、ダビデがアドラムの洞窟に難を避けていることを聞いた兄弟や父の家の者が皆、ベツレヘムから下って来ました(1節)。ダビデがサウル王から命を狙われているということは、兄弟や家族、親族にとっても大きな脅威でしょう。実際に、彼らにもサウルの手が伸びていたのかも知れません。
 
 続いて、「困窮している者、夫妻のある者、不満を持つ者」が集まって来ました(2節)。サウルのもとでは力が発揮出来なかった者、役に立たなかった者が、ダビデのもとで整えられ、やがて大切な戦力となっていきます。その数は既に400人にもなりました。
 
 ダビデは、両親をモアブの王に託します(3節)。モアブは、ダビデの曾祖母ルツの故郷です。おそらく、ダビデの両親は年老いていて、サウルを避けて荒れ野を旅するのは困難なことだったと考えられます。また、サウルの兵と戦いを交えることになれば、そのとき、モアブの王とダビデの間に友好関係が築かれていたわけです。
 
 更に預言者ガドがやって来て、彼に指示を与えます(5節)。ダビデは、ガドの言葉に従って、すぐに行動を起こしました(5節)。それから、祭司アヒメレクの息子アビアタルです(20節)。アヒメレクとその父アヒトブの家の者たち、「亜麻布のエフォドを身に着けた者(即ち祭司)85人」(18節)がサウルに無実の罪で殺され(11節以下)、祭司の町ノブの住民も家畜も、皆殺しにされました(19節)。アビアタルがただ一人、逃れることが出来たのです。
 
 その悲劇の原因は、昨日学んだとおり、ダビデがその種を播いたのです(21章参照)。おのが罪を認めたダビデは(22節)、冒頭の言葉(23節)にある通り、アビアタルの保護を約束します。
 
 一方、サウル王は、神の命に背いたため、預言者サムエルが彼を離れ(15章35節)、ダビデが油注がれた結果、主の霊がサウルを離れ(16章14節)、誰よりも勇敢に戦って武勲を立て、名声を得た家臣ダビデを妬み、殺そうとしたので(18章30節)、ダビデとその家の者が離れ、そして、サウル王の息子ヨナタン、ダビデの妻となったサウル王の娘ミカルはダビデを愛していたので、王の命に背いてダビデを逃がしました(19章2節以下、同11節以下)。
 
 そして、ダビデに味方してサウルに刃向かわせたという廉で祭司一族を皆殺しにします(13,16,18節)。そのようなことをして、神を味方に付けることは出来ません。神に敵対しながら、今後、外敵に対してどのように立ち向かうつもりなのでしょう。
 
 こうしてサウルが王座にしがみつこうと躍起になればなるほど、神に背いて神に退けられるという結果を招いているのです。サウルに不満を持つ者がダビデのもとに身を寄せるようになるのも、主の霊が彼のもとを去り、神の恵みを失ってしまっているからです。
 
 こうして、サウル王が失ったものを、ダビデが従えるようになっていきます。主がダビデと共におられ、神の国イスラエルを立て直そうとしておられるのです。そこに神の癒しがあり、救いがあります。ダビデがアビアタルに、「わたしのもとにいれば、あなたは安全だ」と言っていますが、ここで安全を保証出来るのは、ダビデの力ではなく、主が共におられるからです。
 
 神の御言葉に背いたサウルから主の霊が去ったように、主を信頼し、御言葉に従おうとしないなら、恵みを失います。私たちと共に働いて、万事が益となるようにして下さる主を仰ぎ、信じて御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、私たちは心を確かにして、あなたに賛美の歌を歌います。あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います。神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせて下さい。 アーメン

6月13日の御言葉 「高慢は偶像崇拝に等しい」

「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる。」 サムエル記上15章23節
 
 サムエルが主の言葉として、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」(3節)とサウルに命じました。アマレクは、創世記36章12節によれば、エサウの孫で、イスラエルにとっては親族という間柄です。
 
 しかし、エジプトを脱出したイスラエルの民にレフィディムで攻撃を仕掛けたり(出エジプト記17章8節以下)、士師時代、近隣諸国の民と共に攻め上って来たりして(士師記3章13節、6章3節)、絶えず敵対しています。アマレクを滅ぼし尽くせという命令は、レフィディムの攻撃に報復するため、既に申命記25章17節以下に、その命令がモーセを通じてイスラエルの民に語られていました。
 
 サウルは21万の兵を集め、イスラエル南方のアマレクの町に攻め込み(4節以下)、アマレク人を討ちました(7節)。けれども、滅ぼし尽くせという命令にも拘わらず、アガグ王は生け捕りにし(8節)、羊と牛の最上のもの、肥えた動物、小羊など、上等なものは惜しんで滅ぼし尽くしませんでした(9節)。
 
 それを見た主はサムエルに、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」と告げます(11節)。サムエルは翌朝サウルのもとに赴き、主の命令に従っていないことを指摘すると(14節,17節以下)、それは神への供え物にしようと、最上のものをとっておいたのだと言い訳けをします(15節,20,21節)。
 
 サムエルはサウルに、主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではなく、主の御声に聞き従うことではないかと問い、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさると示した後(22節)、冒頭の言葉(23節)のとおり、その反逆行為によって、王位から退けられると告げます。
 
 偶像を仰ぐことや占いや呪い、霊媒などは、主の目に悪とされ、そのようなことを行う者は神に厭われます(レビ記19章4,26,31節)。「口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ」(同20章6節)という言葉もあります。今サムエルはサウル王に対して、神の命令に従わないこと、御言葉に耳を傾けないことは、神への反逆であり、高慢なことであると、それは、占いや偶像礼拝の罪に等しいと断罪しているのです。
 
 さらに、サウルの高慢は、命令に忠実に従おうとしなかっただけでなく、勝利をお与になった主に感謝して賛美をささげることはせず、自分のために戦勝記念碑をカルメルに建てているというところにも表われています(12節)。そのときサウルは、サムエルに報告することさえしていないのです。

 サムエルによる厳しい断罪の言葉を聞いてサウル王は慌てて罪を認めますが、しかし、「兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」と責任を転嫁します(24節)。さらに、「民の長老の手前、イスラエルの手前」、自分を立ててくれるように、そうすれば、主を礼拝する、とサウルは答えます(30節)。およそ真の悔い改めとはほど遠い、地位にしがみつこうとする権力者の姿をここに見ます。
 
 サウルは、神に喜ばれることよりも自分自身を喜ばせることを優先し、神を畏れるよりも人々の前に体面を失うことを恐れています。これは、昨日学んだサウルの息子ヨナタンの信仰とは全く好対照です。サウルのこうした姿勢が、やがて登場してくるダビデに対して、地位を守るためになりふり構わずその命を狙うという行動に出させるのです(18章6節以下)。
 
 サウル王を反面教師として、サムエルが告げたとおり、主の御声に耳を傾け、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御慈しみをもって私たちを憐れんで下さい。深い御憐れみをもって、私たちの愚かな背きの罪をぬぐって下さい。神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。神よ、私たちの救いの神よ、恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いて下さい。この口はあなたの賛美を歌います。 アーメン

6月6日の御言葉 「王を立ててください」

「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」 サムエル記上8章5節

 長い間、ペリシテ人に苦しめられていたイスラエルの人々は、預言者サムエルの指導のもと、しばらく平和を享受していました。しかし、サムエルも年老いました。そこでイスラエルのために、息子たちを「裁きを行う者」、即ち士師に任じました(1節)。長男ヨエル、次男アビヤはベエル・シェバで裁きを行うのですが(2節)、彼らは父サムエルとは違い、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げるようなことをしました(3節)。
 
 私たちは、危機を覚えているときには、互いに力を合わせ、思いを一つにすることが出来るのに、危機が去ると気が弛み、利己的になるという弱さを持っています。祭司エリの息子たちの非道な振る舞いのために多くの民が苦しめられたことを忘れたかのように、サムエルの子らも、父の心を悲しませる振る舞いに手を染めていました。
 
 そこで、イスラエルの長老たちがこぞってラマのサムエルのもとを訪ね(4節)、冒頭の言葉(5節)のとおり、他の国々のように、王を立てるように求めました。王が立つことで部族間に統一が生まれ、強い国を作ることが出来ると考えているのでしょう。
 
 長老が全員集まって、「今こそ」と求めているのは、これまでにもサムエルにそう要求していたことを示しています。また、特にサムエルの子らがこのような体たらくでは、将来がまったく覚束ないので、必ず求めを入れてくれるように、と迫っているのです。
 
 サムエル自身は、王を立てることをよしとしていませんでした。6節には、「サムエルの目には悪と映った」と言われています。それは、イスラエルの民が、神を信頼しようというのではなく、王に依り頼もうとしているからです。
 
 確かに、指導者の存在は、決して小さいものではありません。そして、これまでも、よい指導者が立つときには国が安定しました。しかし、士師は世襲ではありませんでしたし、常駐してもいませんでした。ですから、継続的によい指導者が立てられる仕組みとして、王制を敷くようにと、サムエルに求めているわけです。
 
 しかしながら、聖書が絶えず問題にしているのは、王がいないとか、組織がしっかりしていないというようなことではありません。彼らが主なる神の御言葉に耳を傾けず、その導きに従って歩まないで、絶えず異教の神々にひかれ、偶像礼拝に陥ってしまうことです。そして、それによって神の怒りを招いているということです。
 
 7,8節に神ご自身が、「彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」と仰っています。 
 
 そもそも、国の制度や組織は万能ではありませんし、不完全な人間が完璧な国家を作ることなど、不可能です。にもかかわらず、目に見えない神に依り頼むよりも、目に見えるものにその確かさを求めようとするところに、私たちの罪があります。

 教会も同じです。人や組織、活動に頼むではなく、主イエスこそ私たちの真の指導者であり、神であることを認め、信頼していくとき、そこに主の御業がなされ、神の栄光が現れるのです。サムエルが絶えず神に聴き、神と交わり、神に従って歩んだように、私たちも主を信じ、御言葉を慕い求めて歩ませていただきましょう。
 
 主よ、あなたは、私たちが何よりも先ず求めるべきものは、神の国と神の義であると教えて下さいました。主との関係が正さそると、豊かな恵みを見ることが出来るからです。主は求める者に、良いものを下さると約束されています。神の支配、神との正しい関係、主なる神が私たちの内に住まわれ、共に歩んで下さること以上に、良いものはありません。私たちに絶えず御言葉に約束されている恵みが豊かに開かれますように。 アーメン

起工式

wp00606146月6日(日)礼拝後、新会堂建築工事の起工式を執り行いました。

前日、予報を確認すると曇りということだったので、テントはいらないだろうと考えたのですが、なんと、かんかん照りの好天。

急遽、全員に傘を持たせて式に臨みました。

工事期間を通じて、主が私たちの予想を遙かに上回る恵みをもって導いて下さるしるしだろうと思いました。

起工式の様子は、教会のサイトにも掲載されています。
URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto0646.html
ご覧になって下さい。

上の写真は、建築委員長の堤執事が鍬入れをしているところです。
式に参加した全員で、「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!」と発声して鍬入れを行いました。

新会堂建築の業に主の栄光があらわされますように。 アーメン
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