「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。だが、武将たちはお前を好まない。」 サムエル記上29章6節
ダビデがペリシテの地ガトに逃れ、ツィクラグに住んで1年4ヶ月(27章1節以下、6,7節)。傭兵としてガトの王アキシュに仕えて来ました。これまで、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲っても(同8節)、ユダのネゲブ、エラフメエル人のネゲブ、カインのネゲブを襲ったと嘘をついて、アキシュを安心させていたダビデです(同10節)。ようやく得た安住の地を、そう容易く失うわけにはいかなかったのです。
ところが、ペリシテ軍がシュネムに集結し、イスラエル軍と一戦交えることになりました(28章1節以下、4節)。アキシュはダビデにも戦陣に加わるように要請し(同1節)、ダビデがそれを承諾したので、アキシュはダビデを護衛の長としました(同2節)。
その後、ペリシテは軍をアフェクに動かします(1節)。アキシュ率いるペリシテ軍の中に、ダビデとその兵士たちもいます(2節)。アキシュと同行して、同胞イスラエルと戦うためです。彼らはアキシュ護衛のため、今日はしんがりに控えています。
そのとき、ダビデはどんな思いだったのでしょうか。アキシュに雇われている身で戦いに参加しないとは言えず、さりとて、自分の同胞に刃を向けることも出来ません。何というジレンマでしょう。ダビデはそのとき、イスラエルと戦いを交えるつもりだったのでしょうか。
かつて、神が自分の手にサウルを渡されたとき、自分は主が油注がれた方に手をかけることはしないと言明していましたが、ここでペリシテ軍の手を借りて、サウルを殺してしまおうと考えたのでしょうか。そうであれば、神の民に弓引くことになりますので、サウルの死後、ダビデがイスラエルの王となることは不可能です。
それとも、ペリシテの武将たちが考えたように、途中でペリシテを裏切り、武将たちの首を土産にイスラエルに帰還するつもりだったのでしょうか(4節)。しかし、関ヶ原の合戦での小早川のごとく、ペリシテからイスラエルに寝返ることは、再びサウルに命を狙われ、国内を逃げ回る日々に逆戻りすることになります。
このジレンマからダビデを救ったのが、ペリシテの武将たちでした。彼らは、ダビデの同胞イスラエルと戦っている最中にダビデに寝返られたらかなわないので、この戦いに参加させるなというのです。アキシュは不承不承、苛立っている武将たちの言葉を入れて、ダビデを帰すことにしました(6,7,10節)。これによって、ダビデは同族と戦うという難を逃れることが出来ました。
冒頭の言葉(6節)でアキシュは、「主は生きておられる」と言いました。それはアキシュにとって、生ける神に誓ってといった表現だったのですが、ダビデにとっては、まさに神が生きておられるので、この窮地からお前を救い、自分の与えられた町ツィクラグに平和に帰ることが出来るということだったのです。
異邦のペリシテの地にも神の守りの御手が延べられ、ダビデを守り支えていたのです。しかしそれは、ダビデが祈り求めたことではありませんし、神が守って下さるという信仰にダビデが立っていたというわけでもありません。ダビデが守られたのは、一重に神の憐れみです。
今回は、イスラエルと戦うペリシテの武将たちを用いて、ダビデの窮地を救われました。神は確かに、万事を相働かせて益とすることが出来るお方であり、そのお方のお陰で私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされないのです。信じている通りに告白して、絶えず主の恵みに与らせて頂きましょう。
主よ、どこに行っても、あなたはそこにおられ、御手をもって私たちを導き、守り支えていて下さいます。あなたの御計らいは、いかに貴いことでしょう。その果てを極めようと思っても、とうてい計り知ることが出来ません。私の内に迷いの道があるかどうかをご覧になり、私をいつも永久の道に導いて下さい。 アーメン
ダビデがペリシテの地ガトに逃れ、ツィクラグに住んで1年4ヶ月(27章1節以下、6,7節)。傭兵としてガトの王アキシュに仕えて来ました。これまで、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲っても(同8節)、ユダのネゲブ、エラフメエル人のネゲブ、カインのネゲブを襲ったと嘘をついて、アキシュを安心させていたダビデです(同10節)。ようやく得た安住の地を、そう容易く失うわけにはいかなかったのです。
ところが、ペリシテ軍がシュネムに集結し、イスラエル軍と一戦交えることになりました(28章1節以下、4節)。アキシュはダビデにも戦陣に加わるように要請し(同1節)、ダビデがそれを承諾したので、アキシュはダビデを護衛の長としました(同2節)。
その後、ペリシテは軍をアフェクに動かします(1節)。アキシュ率いるペリシテ軍の中に、ダビデとその兵士たちもいます(2節)。アキシュと同行して、同胞イスラエルと戦うためです。彼らはアキシュ護衛のため、今日はしんがりに控えています。
そのとき、ダビデはどんな思いだったのでしょうか。アキシュに雇われている身で戦いに参加しないとは言えず、さりとて、自分の同胞に刃を向けることも出来ません。何というジレンマでしょう。ダビデはそのとき、イスラエルと戦いを交えるつもりだったのでしょうか。
かつて、神が自分の手にサウルを渡されたとき、自分は主が油注がれた方に手をかけることはしないと言明していましたが、ここでペリシテ軍の手を借りて、サウルを殺してしまおうと考えたのでしょうか。そうであれば、神の民に弓引くことになりますので、サウルの死後、ダビデがイスラエルの王となることは不可能です。
それとも、ペリシテの武将たちが考えたように、途中でペリシテを裏切り、武将たちの首を土産にイスラエルに帰還するつもりだったのでしょうか(4節)。しかし、関ヶ原の合戦での小早川のごとく、ペリシテからイスラエルに寝返ることは、再びサウルに命を狙われ、国内を逃げ回る日々に逆戻りすることになります。
このジレンマからダビデを救ったのが、ペリシテの武将たちでした。彼らは、ダビデの同胞イスラエルと戦っている最中にダビデに寝返られたらかなわないので、この戦いに参加させるなというのです。アキシュは不承不承、苛立っている武将たちの言葉を入れて、ダビデを帰すことにしました(6,7,10節)。これによって、ダビデは同族と戦うという難を逃れることが出来ました。
冒頭の言葉(6節)でアキシュは、「主は生きておられる」と言いました。それはアキシュにとって、生ける神に誓ってといった表現だったのですが、ダビデにとっては、まさに神が生きておられるので、この窮地からお前を救い、自分の与えられた町ツィクラグに平和に帰ることが出来るということだったのです。
異邦のペリシテの地にも神の守りの御手が延べられ、ダビデを守り支えていたのです。しかしそれは、ダビデが祈り求めたことではありませんし、神が守って下さるという信仰にダビデが立っていたというわけでもありません。ダビデが守られたのは、一重に神の憐れみです。
今回は、イスラエルと戦うペリシテの武将たちを用いて、ダビデの窮地を救われました。神は確かに、万事を相働かせて益とすることが出来るお方であり、そのお方のお陰で私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、うち倒されても滅ぼされないのです。信じている通りに告白して、絶えず主の恵みに与らせて頂きましょう。
主よ、どこに行っても、あなたはそこにおられ、御手をもって私たちを導き、守り支えていて下さいます。あなたの御計らいは、いかに貴いことでしょう。その果てを極めようと思っても、とうてい計り知ることが出来ません。私の内に迷いの道があるかどうかをご覧になり、私をいつも永久の道に導いて下さい。 アーメン