「ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。」 サムエル記上1章20節
今日から、サムエル記を読み始めます。サムエル記という表題は、サムエルという偉大な預言者に由来しています。しかし、サムエルはこの巻物、上下合わせて55章あるうちの、最初の8章に登場するだけです。
サムエル記には、主要な人物が二人登場して来ます。それは、イスラエルの初代の王となったサウルと、二代目の王で主イエスの先祖となったダビデです。上巻はサウル王の死で終わり、下巻には王となったダビデのことが記されます。
この二人の王は、それぞれ預言者サムエルから油注がれて王に任命されました。ですから、この巻物が「サムエル記」といわれて、気を悪くすることはないだろうと思います。
1章には、サムエルの誕生の次第が記されています。エフライム山地にエルカナという人が住んでいて(1節)、彼にはハンナとペニナという二人の妻がいました(2節)。二人の妻がいたということは、彼はかなり裕福な人物と言えます。
経済的には問題がなかったエルカナ家ですが、家族間には大きな問題がありました。エルカナはハンナの方を愛していたのですが、彼女には子供が授かりませんでした(5節)。ペニナはハンナに嫉妬し、子がないことでハンナを苦しめました(6節)。
ハンナは主の御前に激しく泣いて祈りました(10節)。子どもを授からない苦しみを主に訴え、子を授けて下さるようにと、心を注ぎ出して祈っていたのです。その祈りの中で彼女は、「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」と誓います(11節)。ハンナは自分のために子を授けて欲しいというのではなく、主に献げるために、男の子を授けて欲しいと願っています。
ここで、「その子の頭には決してかみそりを当てません」というのは、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となることを表すものです(民数記6章5節)。その子が生まれながらのナジル人となるため、ハンナも「ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません」(同6章3節、士師記13章4,5節参照)。
ハンナが心の内で祈っていて、唇は動いていても声が聞こえなかったため、祭司エリは、最初は酒に酔っていると勘違いをしましたが(13節)、ハンナの真意が分かると、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたのこいねがうことを適えて下さるように」と祝福します(17節)。
主はハンナの祈りに応えて、男の子をお授けになりました(19,20節)。ハンナはその子をサムエルと名付けました。それは、「その名は神」という意味です。岩波訳ではこれを、「(願いを聞いて下さった)神の名(をいつも覚えているように)」という意かと説明していますが、聖書中ではその名の根拠を、「主に願って得た(シャーアル)子供なので」と言っています。
27節の「願ったこと」、28節の「委ねます」にも、同じ「シャーアル」が用いられています。「生涯、主に委ねられた者です」は、「シャーウール」(シャーアルの受身形)が用いられています。「シャーウール」は、イスラエル初代の王サウルと同じです。神に献げられたサムエルから、イスラエルを治めるバトンを委ねられるのが、サウルというわけです。
もしも、苦しみを経ずにハンナに子が授けられていれば、ハンナは子を神に献げようとは思わなかったかも知れません。子が授けられるよう、バアルやアシェラに求めても、与えられなかったでしょう。神への真剣な祈りを通して子が授けられ、その子を神に献げた結果、偉大な神の指導者が登場して来ることになったのです。
「あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固く立つ。主は御旨にそってすべての事をされる」(震源16章3,4節)。
主よ、ハンナに与えられた苦しみが祈りとなり、やがて真の指導者を産み出すこととなりました。背後に、主の御手があり、常にすべての者を最善に導かれること、主を愛する者のためには、どんなこともプラスになることを教えられます。常に主を愛し、主に信頼する者とならせて下さい。 アーメン
今日から、サムエル記を読み始めます。サムエル記という表題は、サムエルという偉大な預言者に由来しています。しかし、サムエルはこの巻物、上下合わせて55章あるうちの、最初の8章に登場するだけです。
サムエル記には、主要な人物が二人登場して来ます。それは、イスラエルの初代の王となったサウルと、二代目の王で主イエスの先祖となったダビデです。上巻はサウル王の死で終わり、下巻には王となったダビデのことが記されます。
この二人の王は、それぞれ預言者サムエルから油注がれて王に任命されました。ですから、この巻物が「サムエル記」といわれて、気を悪くすることはないだろうと思います。
1章には、サムエルの誕生の次第が記されています。エフライム山地にエルカナという人が住んでいて(1節)、彼にはハンナとペニナという二人の妻がいました(2節)。二人の妻がいたということは、彼はかなり裕福な人物と言えます。
経済的には問題がなかったエルカナ家ですが、家族間には大きな問題がありました。エルカナはハンナの方を愛していたのですが、彼女には子供が授かりませんでした(5節)。ペニナはハンナに嫉妬し、子がないことでハンナを苦しめました(6節)。
ハンナは主の御前に激しく泣いて祈りました(10節)。子どもを授からない苦しみを主に訴え、子を授けて下さるようにと、心を注ぎ出して祈っていたのです。その祈りの中で彼女は、「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」と誓います(11節)。ハンナは自分のために子を授けて欲しいというのではなく、主に献げるために、男の子を授けて欲しいと願っています。
ここで、「その子の頭には決してかみそりを当てません」というのは、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となることを表すものです(民数記6章5節)。その子が生まれながらのナジル人となるため、ハンナも「ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません」(同6章3節、士師記13章4,5節参照)。
ハンナが心の内で祈っていて、唇は動いていても声が聞こえなかったため、祭司エリは、最初は酒に酔っていると勘違いをしましたが(13節)、ハンナの真意が分かると、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたのこいねがうことを適えて下さるように」と祝福します(17節)。
主はハンナの祈りに応えて、男の子をお授けになりました(19,20節)。ハンナはその子をサムエルと名付けました。それは、「その名は神」という意味です。岩波訳ではこれを、「(願いを聞いて下さった)神の名(をいつも覚えているように)」という意かと説明していますが、聖書中ではその名の根拠を、「主に願って得た(シャーアル)子供なので」と言っています。
27節の「願ったこと」、28節の「委ねます」にも、同じ「シャーアル」が用いられています。「生涯、主に委ねられた者です」は、「シャーウール」(シャーアルの受身形)が用いられています。「シャーウール」は、イスラエル初代の王サウルと同じです。神に献げられたサムエルから、イスラエルを治めるバトンを委ねられるのが、サウルというわけです。
もしも、苦しみを経ずにハンナに子が授けられていれば、ハンナは子を神に献げようとは思わなかったかも知れません。子が授けられるよう、バアルやアシェラに求めても、与えられなかったでしょう。神への真剣な祈りを通して子が授けられ、その子を神に献げた結果、偉大な神の指導者が登場して来ることになったのです。
「あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固く立つ。主は御旨にそってすべての事をされる」(震源16章3,4節)。
主よ、ハンナに与えられた苦しみが祈りとなり、やがて真の指導者を産み出すこととなりました。背後に、主の御手があり、常にすべての者を最善に導かれること、主を愛する者のためには、どんなこともプラスになることを教えられます。常に主を愛し、主に信頼する者とならせて下さい。 アーメン