風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年04月

4月25日の御言葉 「上と下の溜池」

「彼女は言った。『お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください』。彼は上と下の溜池を娘に与えた。」 ヨシュア記15章19節

 15章には、ユダ族に与えられた地の範囲が記されています。それは、ヨルダン川が死海に注ぎ込む河口から西に地中海まで線を引き、その線の南方、死海と地中海に挟まれた地域です。カナンの地の三分の一以上の大きさがあります。父祖ヤコブによる祝福(創世記49章8~12節)が、土地取得の場面にも表れていると考えてよいのでしょう。
 
 13節に、ヨシュアがカレブにヘブロンを割り当て地として与えたことが記されています(14章13節参照)。カレブはアナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイという3氏族を追い出し(14節)、次いで、デビルの町を攻めました(15節)。それを自分が攻め落とすというのではなく、それが出来た者に娘を妻として与えると約束します(16節)。
 
 すると、カレブの兄弟オトニエルが名乗りを上げ、町の占領を成し遂げました。そこで、カレブは娘アクサを妻として与えました(17節)。
 
 アクサは夫となるオトニエルに、父から畑をもらえと言い、アクサ自身はカレブに、冒頭の言葉(19節)の通り、溜池も添えてくれと願います。ネゲブの地はあまり耕作に適さない荒れ野ですから、水の確保は欠かせないのです。カレブはその求めに、「上と下の溜池を娘に与えた」と記されています。
 
 アクサは、父が娘夫婦の求めに必ず応えると信じていたのでしょう。パウロは、「わたしの神は、御自分の栄光の冨に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さいます」(フィリピ4章19節)と言いました。神は豊かなお方で、その豊かさに従って私たちに必要なものを豊かに満たして下さるお方だと、教えてくれます。
 
 二つの池ということで、イスラエルの大きな湖のガリラヤ湖と死海を思います。ガリラヤ湖には多種多様な魚が群れて、漁れた魚の一部は輸出されるほどだそうですが、死海には魚が一匹もいません。塩分濃度が高く、生息出来ないのです。
 
 ガリラヤ湖の水は、ヨルダン川を通じて死海に注いでいますが、死海は、海抜マイナス396メートルで、その水は蒸発する以外、どこにも流れ出ていきませんので、塩分が濃縮してしまうのです。恵みを受けるだけで、与えることをしなければ、その恵みは死んでしまうということを見えるかたちで教えているようです。
 
 ヨハネ福音書には、二つの泉の記述があります。ひとつは4章14節で、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と記されています。これは、主イエスを信じる者に、命の泉がわき出るというので、主イエスとの交わりによって豊かに活かされるという表現と見ることが出来ます。
 
 今ひとつは7章38節で、「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉です。生きた水が川となって流れ出るというのは、霊のことと39節に注記されています。つまり、霊の働きは、その人の内から命の水が川となって流れ出るようにさせることだというわけです。しかも、川は複数形です。川々となって流れ出るということで、何という豊かな流れでしょうか。
 
 使徒言行録1章8節に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」とあるのはそのことです。即ち、主イエスとの交わりによって生かされている人には聖霊の恵みが与えられ、それは、他の人を生かす働きをする者となるということです。
 
 神の恵みを豊かに受けて、それを他の人のために用いる人は、さらに豊かに与えられるでしょう。恵みを私するなら、それは腐って役に立たなくなってしまうでしょう。信仰によって二つの泉を持ち、常に主の御業に励む者とならせて頂きましょう。

 主よ、主イエスの贖いによって罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。今、私たちの内には聖霊が宿り、御言葉の真理を教え、主の証人となる力を授けて下さいます。主との日毎の交わりが豊かにされ、力を受けて主の御用をまっとうすることが出来ますように。 アーメン

4月18日の御言葉 「全軍隊を引き連れて」

「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。』」 ヨシュア記8章1節

 前章に続き、再びアイの町を攻撃することになりますが、今回は、主の命令に従って行動を起こします。主は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「全軍隊を引き連れて攻め上れ」と言われます。そこで、「ヨシュアは、三万の勇士をえりすぐって」(3節)送り出します。
 
 先の攻撃では、斥候に行った者たちは、全軍が出るまでもなく、二、三千人も行けば十分、とヨシュアに進言していました(7章3節)。けれどもそれは、主の命令を受けてということではありませんでした。そして、その判断が甘過ぎたということ、そして、この戦いに主の助けが必要であることを、徹底的に思い知らされたわけです。
 
 三万の勇士のうち、五千を伏兵として町の西側に配置し(2,12節)、残りをヨシュアが率いてアイの町の北側に陣を張ります(13節)。伏兵に気づかなかったアイの王は、ヨシュア軍を迎え撃つため、町を出ます(14節)。ヨシュア軍がそれを見て退却すると(15節)、追撃するため、町の中にいた全兵士がおびき出されます(16節)。前の戦いと同じ展開になったのを、イスラエルの策略と見抜くことが出来なかったためです。
 
 17節には、「イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった」と記されています。アイの北西2kmほどのところにベテルの町があり、そこからの援軍があったということでしょう。あるいは、ベテルとは「神の家」という意味ですから(創世記28章19節)、ベテルの町ではなく、アイの町にあった神殿のことを指しているという学者もいます。
 
 当時の神殿は、町を守る最後の要塞となるよう、堅固な城壁で囲まれていました。神殿を警護する兵士もイスラエル追撃に参加したということになれば、先の勝利に味を占めたアイの王の自信過剰振りを如実に表していると見ることも出来ます。
 
 アイとベテルの全軍がおびき出されたところで、主がヨシュアに、伏兵に合図するようにと言われます(18節)。伏兵は合図を見て町に攻め込み、そこを占領した後、火を放ちます(19節)。
 
 その火を合図に、今度はヨシュア軍が退却をやめ、追撃してきたアイの兵士に打ちかかり(21節)、町を出た伏兵も後ろから挟み撃ちにします(22節)。アイの兵士全員が戦死し、王は生け捕りにされました(23節)。
 
 町に残っていた全住民も一人残らず剣にかけられ、総数1万2千が殺されたと報告されます(25節)。「男女合わせて」ということですから、男子が六千、子どもも年寄も含まれていることを考えると、その半数の三千が兵士でしょう。それに対して、神の助けを得たイスラエル軍は3万もの兵が必要だったのかというところですが、今回の戦いは、兵の数ではなく、すべての民が神の命令に従うことを求められたわけです。
 
 この戦いにおけるヨシュアの役割は、「アイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」(26節)ということでした。これは、かつてアマレク軍が戦いを挑んできたときに、モーセが手を上げていたことを思い起こさせます(出エジプト記17章8節以下、11,12節)。

 つまり、ヨシュアはモーセの後継者として、その役割を担ったわけです。ということは、今回の勝利は、主が彼らのために戦って下さったために得られたものであるということを、ここに示しています。
 
 今日のこの記事について、神の名による戦争を肯定するものとして読むことは出来ません。そうではなく、私たちの内外に働きかけて、御言葉に従うことを妨げ、神に従わせまいとする様々な力に対して、まさに御言葉に聴き従うことを通して、神の助けを求めて手を挙げて祈ることにより、完全に勝利すべきであるという神の教えとして、心に銘じましょう。

 主よ、私たちを聖霊の宮としてその内に住み、絶えず共にいて下さることを感謝します。あなたこそ私を守る堅固な岩であり、砦です。御力に依り頼みます。御教えに聴き従います。どうか私の耳を開いて下さい。絶えず御顔を仰がせて下さい。御足跡に従うことが出来ますように。 アーメン

4月11日の御言葉 「強く、大いに雄々しく」

「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」 ヨシュア記1章7節
 
 今日から、ヨシュア記を読み始めます。ヘブライ語聖書(マソラ本文)では、ヨシュア記は、続く士師記、サムエル記、列王記と共に、「預言者」(ネビーム)の中に分類されています。聖書における預言の役割は、これから起こる出来事を予め語るというよりも、「律法の書」(トーラー)に記されている教えを解説し、それを実行するように命じるものです。
 
 1章には、モーセの後継者としてヨシュアが任命されたことについて、記されています。ヨシュアは、「モーセの従者」(1節)と紹介されているように、レフィディムでのアマレクとの戦いを指揮する者として選出されて以来(出エジプト記17章9節)、忠実なモーセの僕として歩みました(同24章13節、32章17節、33章11節など)。
 
 メリバの水の一件でモーセが約束の地に入れないことになって(民数記20章1節以下、12節)、神はヨシュアを後継者に任命されました(同27章12節以下、18節)。申命記でも、1章38節、3章28節、31章にそのことが記されていました。
 
 ここにあらためて、ヨシュアがモーセの後継者として立てられたのですが、ヨシュアは勿論、モーセではありません。モーセは神に聴き、神に従う「主の僕」でした(申命記34章5節)。ヨシュアも勿論神に従う僕ですが、しかし、冒頭の言葉(7節)で、神がヨシュアに対して、「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」と命じられています。つまり、ここではモーセの命じた律法に従うことが求められているのです。その意味でも、実にヨシュアは「モーセの従者」なのです。
 
 モーセは、モアブのピスガの頂から約束の地カナンの全域を見渡しました(申命記34章1,2節)。モーセの従者ヌンの子ヨシュアは、ヨルダン川を渡ってその地を領土とします(4節)。これは、アブラハムと契約を結ばれたことが成就することを意味します(創世記12章7節、15章18節以下)。
 
 主はヨシュアと共にいて、見放すことも、見捨てることもしないので(5節)、「強く、雄々しくあれ」(6節)と命じられます。それは、主が与えると誓われた土地を、民に継がせるためです。
 
 幼稚園では、運動会の練習の際に、「雄々しくあれ」(こどもせいか30番:中田羽後作詞)の讃美歌が歌われます。それはこの箇所からとられた歌です。「雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ」と歌い出しますから、その勇ましさがお互いを鼓舞するのに相応しいということで、いつも選ばれているようです。確かに、子どもたちが声をそろえ、力一杯歌うその歌声を聴いていると、そこから力を頂き、自分も頑張ろうという思いが湧いて来ます。
 
 6節では、外敵との戦いにおいて「強く、雄々しく」あることが求められているようですが、冒頭の言葉(7節)では、律法を守り行うことに、強さ、雄々しさが求められています。御言葉から右や左へそらさせようとする様々な力が働くからです。
 
 イスラエルにとって、飢えや渇きが、御言葉からそらさせる力になることがありました。また、彼らの前に立ちはだかる敵が、神に背かせる力となりました。
 
 主は、「律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(7節、申命記5章32,33節)と言われ、続けて、「この律法の書をあなたの口から放すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」と約束されます(8節、詩編1編2,3節)。

 何事にもまず御言葉に聴き、そこから力を得て、まっすぐに歩む者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたの教えを愛し、その導きに従って歩むことの出来る者は幸いです。主を信じ、御言葉に従って歩む者に、豊かな実を結ぶ人生をお与え下さるからです。常に主を畏れ、御言葉を愛する者とならせて下さい。御言葉に従い、右にも左にも曲がらず、まっすぐに歩ませて下さい。御名が崇められますように。 アーメン

4月4日の御言葉 「すべてに豊かでありながら」

「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せにあふれてあなたの神、主に仕えないので」 申命記28章47節

 28章には、「神の祝福」(1節以下)と「神の呪い」(15節以下)が記されています。神の祝福には、理想的な姿、こうであればよいなあいう、希望溢れる表現が並んでいます。
 
 一方、神の呪いは、まず分量的に、神の祝福の4倍の長さで語られています。内容は、15~18節に神の祝福を裏返したき術があり、、20節以下は、疫病や天変地異、そして異国の支配など、これは悲観的なものというよりも、実際にイスラエルが味わった災難、悲劇の描写というものになっています。
 
 疫病や天変地異などは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、エジプトに下された災いでした。イスラエルの民は、神の恵みを得てエジプトを脱出したのです。エジプトに下された災いでイスラエルの民が打たれ、そして、「エジプトに送り返される」というのは、文字通りエジプトの奴隷となるということでもありましょうけれども、神の一切の恵みを失い、呪われた結果であるということが明示される形なのです。
 
 イスラエルの民は、ダビデ王の時代に、神の祝福を得ました。それこそ神は、町にいても祝福され、野にいても祝福され、入るときも祝福され、出て行くときも祝福され、立ち向かう敵を目の前で打ち破られたのです。
 
 ダビデから王朝を引き継いだその子ソロモンも、神から受けた知恵をもって、これ以上ないというほどの祝福を受けました(列王記上3章)。壮麗な神殿を建て、贅を尽くした王宮を完成することも出来ました(同6~8章)。ソロモンの名声を聴き、知恵を聞くために世界中の人々が拝謁を求め、貢ぎ物を携えてやって来たと言います(同10章1節以下、23~25節)。
 
 ところが、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいて、この妻たちがソロモンを惑わしました(同11章1節以下)。外国から王妃や側室のために異教の神々を祀る場所が築かれ、その礼拝が行われるようになり、ソロモンは主の戒めに背いたのです。ソロモンはいったい何のために千人もの妻たちを抱えたのでしょうか。
 
 その結果、ソロモンの存命中に既に敵対する者が起こり、死後、イスラエルは南北に分裂します(同12章)。そうして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアに(列王記下15章27節以下)、南ユダは紀元前587年にバビロンに滅ぼされ、民は捕囚として連れ去られるという結果を刈り取ることになりました(同25章)。
 
 民を正しく裁き、善と悪を判断するために聞き分ける心をお与え下さいと神に求め、知恵に満ちた賢明な心を授かったソロモンが(王上3章6節以下、9節)、なぜ、愚かにも神に背く道を歩んでしまったのでしょうか。その理由は定かではありませんし、理解に苦しむところです。

 冒頭の言葉(47節)で、「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので」と言われていることから、ソロモンがあらゆる面で豊かになったときに、初めは謙遜に神に感謝していたのでしょう。けれども、シェバの女王を初め多くの来訪者たちが賛辞を口にするのをおのが誉れとし、いつしか心高ぶって感謝を忘れ、一つ一つ神に知恵を求めずとも自分の知恵で判断し、裁決出来ると思い始めて、歯車を狂わせてしまったのではないでしょうか。
 
 主を畏れることが知恵の初めであり(箴言1章7節)、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイ書2章3節)。神の御前に謙ればこそ知恵が明らかにされるのいであり、神を畏れる心を忘れて、懸命に生きることはできないのです。神の恵みが仇となることがないように、恩知らずにならないように、絶えず御前に謙り、日々御言葉に耳を傾け、「今日」主が命じられるところをことごとく忠実に守り、主と共に歩みましょう。

 主よ、与えられている恵みに心から感謝致します。その恵みを主の御業の前進のために生かして用いることの出来るために、聞き分ける心、実践する力を授けて下さい。御心が行われますように。 アーメン
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