風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年03月

3月28日の御言葉 「木にかけられた死体」

「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日の内に埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」 申命記21章23節

 冒頭の言葉(23節)の直前、22節に「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば」と記されています。ところで、イスラエルには、人を木にかけて処刑するという規則はありません。
 
 レビ記20章に「死刑に関する規定」がありますが、死罪にあたるのは、子をモレク神にささげたり(同2節以下)、口寄せ・霊媒をするなど(同6,27節)、神ならぬものに依り頼むこと、また父母を呪うこと(同9節)、そして、姦淫することです(同10節以下)。
 
 死刑の方法として、同2節と同27節、すなわち初めと終わりに、「石で打ち殺す」と言われています。すなわち、死罪にあたる罪を犯した者は、石で打ち殺されるということです。ただ、祭司の娘が姦淫の罪を犯したときには、「焼き殺さねばならない」と、同21章9節に記されています。
 
 「木にかけられた死体」という言葉は、処刑後に木につるして晒しものにする表現と読めます。しかし、どのような場合、処刑した後、死体を木にかけるのかを定めた規則というのも見当たりません。
 
 創世記40章でエジプトのファラオが料理役の長を木にかけたこと、ヨシュア記8章でヨシュアがアイの王を木にかけ、同10章で、同じくヨシュアがエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの5人の王を木にかけたこと、サムエル記下4章でサウルの子イシュ・ボシェトを殺した従者二人を木につるしたこと、それから、エステル記7章でペルシャのクセルクセス王が大臣のハマンを木にかけたことが、旧約聖書中で木にかけるという実例のすべてです。
 
 このように実践例があまり多くないのは、刑の惨たらしさに原因があるのではないかと思われます。また、冒頭の言葉(23節)の中に、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という一句があります。木にかけることが、人々に対する見せしめというだけでなく、神の呪いを受けることだというのです。死刑に処せられた後、神に呪われるということは、死んだ後、裁かれて地獄に落とされることと言えばよいでしょうか。
 
 ヘブライ書9章27節に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」と言われています。死後、祝福の天国か呪いの地獄か、神の裁きが下るわけです。勿論、祝福を受けて天国に行きたいですよね。
 
 ところで、私たちは祝福を受けられる資格を有しているでしょうか。胸に手を当てて考えるまでもなく、私は祝福を受けたいけれども、祝福が受けられるような生活をしてきたと、神の前に胸を張ることが出来ません。むしろ、呪いを覚悟しなければならないような歩みをしていると言わざるを得ないのです。
 
 そのような私を救い、祝福を与えるために主イエスが来て下さいました。ガラテヤ書3章13節に、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と書いてあるとおりです。
 
 罪のない神の御子キリストが木にかけられたのは、御自分が神に呪われて、私たち人類を罪の呪いから解放するためでした。イエス・キリストの命によって私たちは贖い出され、もはや呪いを受けなくてもよいようにして頂いたのです。
 
 同14節には、「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるためでした」とあります。律法を行い得ないという点で、ユダヤ人も異邦人もありません。皆同じです。主が律法の呪いを引き受けられたということは、すべての民に救いが及ぼされたということです。
 
 ということは、主イエスの受難によって私たちを罪の呪いから贖い出し、救いの恵みに与らせるために、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という掟を予めお与え下さっていたわけです。

 主よ、私たちは、生まれながら神の怒りを受けるべき者でしたが、憐れみ豊かな神は私たちをこの上なく愛され、その愛によって、罪に死んでいた私をキリストと共に活かし、共に復活させ、共に天の王座に就かせて下さいます。これは、実に一方的な神の恵みです。その感謝と喜びを一人でも多くの方々と分かち合わせて下さい。 アーメン

3月21日の御言葉 「主の子ら」

「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。」 申命記14章1節

 冒頭の言葉(1節)に、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」とあります。「主の子ら」というのは、聖書中ここだけにしか出て来ない、とても珍しい表現です。

 ただ、32章5節の「もはや神の子らではない」は、原文を直訳すると、「もはや彼の子らではない」で、「彼」は前節の「主」を受けていますから、意味をはっきりさせるなら、「主の子ら」となるところです。口語訳、新改訳はそのように訳しています。
 
 イスラエルの民を「神の子」と呼んでいるのは、旧約聖書中、詩編29編1節とホセア書2章1節だけです。それ以外に4回、「神の子」が出て来ますが、創世記6章2,4節、ヨブ記38章7節とダニエル書3章25節では、天使というべき存在をそのように呼んでいると考えられます。
 
 もう一箇所、申命記32章8節にも「神の子らの数に従い」とありますが、原文には「イスラエルの子らの数に従い」と記されていて、口語訳、新改訳は正しく訳していますので、そのように訳すべきだと思いますが、同5節との関連で、「神の子ら」という訳語を選んだのでしょう。
 
 また、主なる神がイスラエルの民を、「わたしの子」と4回呼んでいます(出エジプト記4章23節、詩編2編7節、イザヤ書45章11節、エゼキエル16章21節)。そして、ダビデを指して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(サムエル記下7章14節、歴代誌上17章13節)、ソロモンのことをダビデに対して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(歴代誌上22章10節、28章6節)あります。
 
 かくて、イスラエルの人々が自ら積極的に「わたしは神の子です」と告白する信仰は、旧約の時代には出て来ていません。
 
 その意味で、イスラエルの民一人一人を指す言葉として、「あなたたちは、主の子らである」と言われているところ、そして、個人を指して「わたしの子」と呼ぶ例は、新約聖書の信仰につながってくるところです。
 
 新約聖書では、「神の子」、あるいは「御子」が120回ほど出て来ます。大半、神の御子イエス・キリストを指して用いられますが(マルコ1章1節など)、20回ほど、主イエスを信じる者を指して用いられます(ヨハネ1章12節など)。また、平和を実現する人々が神の子と呼ばれ(マタイ5章9節)、使徒言行録17章29節は、アテネの人々を含め全人類を神の子孫としています。
 
 勿論、私たちは人間から生まれた人間の子であって、イエス・キリストと同じ神様の子どもではありません。神の子だから主イエスを信じることが出来たというわけでもありません。イエス・キリストが私たちの罪の贖いの供え物として十字架に死んで下さり、私たちに命を授けて下さるという一方的な恵みによって、神の子としていただいたのです。神の深い憐れみなしには、私がどんなに逆立ちしても、神の子になれるはずがないからです。
 
 ですから、冒頭の言葉で「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と言われているのは、憐れみ深い神の一方的な恵みの宣言なのです。そして、イスラエルの民が神の子とされたのは、すべての者に神の恵みが証しされるためでした。アブラハムが祝福の源とされ、アブラハムによって地上のすべてが祝福に入ると言われているからです(創世記12章2,3節)。
 
 主イエスを信じる信仰によって、神の子として頂いた私たちも、「主の聖なる民」であり、「地の面のすべての民の中から」、神の「宝の民」とされた者です(2節、一ペトロ2章9節)。
 
 私たちは土の器に過ぎませんが、内側には永遠の宝を宿しています(二コリント4章7節)。主イエスが内にいて下さるからこそ、宝の民なのです。主のものとされたのですから、主の恵みに感謝して、その愛の御業をあまねく宣べ伝えましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私をも憐れみ、神の選びの民に加えて下さったことを感謝致します。私の内に宝なる主がおられます。主に愛されている僕として、いつでもキリストの福音を宣べ伝える者とならせて下さい。そして、多くの人々が豊かに恵みを受けられますように。 アーメン

3月14日の御言葉 「主の聖なる宝の民」

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」 申命記7章6節
 
 主なる神は、約束の地に入った時、七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を自分たちの前から追い払えと命じられます(1節)。それは、容易いことではありません。ユダヤの民よりも数と力において勝っている民だと言われます。追い払えと言われる主を信じ、その命令に従うとき、主の助けによってそれが可能になります。私たちは無力でも、主なる神は全能のお方だからです。
 
 神はイスラエルの民を、ご自身のものとしてお選びになりました。主は彼らを、冒頭の言葉(6節)のとおり、「主の聖なる民」と呼ばれ、また、「ご自分の宝の民」と言われます。勿論、主なる神はイスラエルだけを作られたのではなく、全世界のあらゆる種族、部族、民族を作られたのです。
 
 けれども、主はその中からイスラエルを選び出して、ご自身の「宝」(セグッラー)とされました。注解書によれば、この言葉は経済用語で、金や銀といった非常に高価な財産、宝を指すものだそうです。また、「主の聖なる民」とは、主がご自分のために他から区別した、とっておきの民ということです。

 そう言うと、さぞ優れた民族なのだろうと思われますが、その特別さというのは、イスラエルの民の特質などによるものではありません。聖書は彼らが選ばれた理由について、「主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と記しています(7,8節)。
 
 つまり、神がイスラエルを選び、その力ある御手をもって救い出して下さるのでなければ、民の数が多くはなく、むしろ貧弱と評されたイスラエルにとって、自力でエジプトを脱出することなど、到底適わないことだったわけです。
 
 ということは、初めに述べたように、約束の地から、彼らより数も多く、力も強い七つの民を自力で追い出すことは出来ないでしょう。けれども、エジプトの手からイスラエルを救い出された神は、七つの民を打ち破り、イスラエルの前から追い出すことがお出来になるのです。
 
 そのように、数も少なく貧弱な民が、どうして「主の聖なる民」、また「宝の民」と言われるのでしょう。そのことについて、出エジプト記19章5,6節の、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という御言葉に答えを見いだすことが出来ると思います。
 
 つまり、主に従い、契約を守ることによって「宝の民」とされ、「祭司」の務めを果たすために区別された民だということです。
 
 宝石などが「宝」であるのは、その希少性と純粋な美しさにあるでしょう。我が国において、純度99.99パーセント以上の金を純金と言います。現段階で、不純物を一切含まない純度100パーセントの純金を作ることは、未だ出来てはいないようです。
 
 七つの民を追い払うというのは、文字通りそれを実行するというより、イスラエルの民がその心の内より一切の不純物を取り除き、純度100パーセントの全き心で主の御言葉に耳を傾け、その契約を守るということでしょう。そのとき、彼らは主にとって、まさに宝の民となるわけです。
 
 言い換えれば、イスラエルの民が主によって与えられた戒め、また祭司としての使命を「宝」として受け止め、大切に守ることが求められているのです。そしてそれは、人が独りでよく行うことの出来るものではありませんから、常に主の御声に耳を傾け、導きと助けを願って祈り求めることです。

 そのとき、主は私たちの心を聖霊で満たし(ルカ11章13節)、聖霊を通して神の愛を豊かに注いで下さいます(ローマ書5章5節参照)。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存じです。しかし、神の力はその弱さの中で十分に働くということを知っています。主よ、あなたに御心を行う知恵と力、信仰を与えて下さい。私たちの心からあらゆる不純物を取り除きを聖霊で満たし、愛と平和に溢れさせて下さい。 アーメン

3月7日の御言葉 「嗣業の土地を固く守って」

「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない。」 民数記36章7節
 
 いよいよ、民数記最後の章です。民数記1章1節に、「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」、とありました。「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル)が、民数記の原題です。
 
 そして、36章13節には、「以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通してイスラエルの人々に命じられた命令と法である」と記されています。つまり、民数記には、シナイ山のふもとに広がっていたシナイの荒れ野から、もう一歩でカナンという、ヨルダン川の東側、モアブの平野まで、約39年に及ぶシナイ半島の荒れ野の旅において起こった出来事が記されていたわけです。
 
 1章と26章に、「民数記」という題がつけられる根拠となった、イスラエルの人口調査の記事があります。1章では、エジプトを脱出した民の数が数えられます。そして、25章までに、それらの人々はモーセに不平を言い、神に背いたため、カレブとヨシュアの二人を除き、荒れ野で死に絶えてしまいました。
 
 26章で数えられたのは、約束の地に入ることが出来る民の数で、彼らは荒れ野で死に絶えた民の子どもの世代の人々です。言ってみれば、25章までの荒れ野の旅で、世代交代がなされたわけです。
 
 36章には、「相続人が女性である場合の規定」が記されています。これは、27章の「ツェロフハドの娘たちの申し出」と関連があります。マナセ族のヘフェルの子ツェロフハドには、娘は5人いましたが、息子はいませんでした。父の死後、娘たちがモーセのところに来て、「男の子がないからといって、どうして父の名が氏族の中から削られてよいでしょうか。父の兄弟たちと同じように、わたしたちにも所有地をください」と申し出(27章4節)、了承されました(同7節以下)。
 
 36章ではそのことを取り上げて、神はツェロフハドの嗣業の土地を娘たちに与えるようにされたけれども、娘たちが他の部族の男子と結婚すると、その土地は他部族に移ってしまい、マナセ族の嗣業の地が削られてしまうではないかという訴えが、マナセ族の家長たちによってもたらされたのです(2節以下)。
 
 それに対するモーセの回答は、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる」(6節)というものです。通常、結婚相手を同族の者に限るというのは、劣性遺伝を出現させる確率が高まるので、歓迎されません。だから、そのような制限を設けず、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい」というのが大原則です。
 
 しかしながら、それでは、マナセ族の嗣業の地が損なわれてしまいます。冒頭の言葉(7節)に言うとおり、「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない」のです。
 
 そこで、「嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない」(8節)という制限が設けられるのです。それほどに、嗣業の地を守ることが重要だということです。
 
 イスラエルの民は、約束の地カナンに、まだ一幅の土地も手に入れてはいません。「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」にいるのです。けれども、この規則を通して、必ず嗣業の地を得ることが出来ると確証しているのです。その地に入ったならば、神の御言葉に誠実に聴き従うように、彼らは荒れ野で訓練されて来たのです。
  
 主よ、私は勿論、神の子として生まれた者ではありません。しかしながら、主イエス・キリストにより、天に国籍を持つ者として頂きました。今は、御国に入るために、御言葉に誠実に聴き従うように、この地で訓練を受けています。愛する子として訓練して頂けることを、感謝致します。 アーメン
livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 第32回清水・市民クリスマスコンサート
  • 秋季特別集会「聖書と音楽の集い」
  • 10月22日(日)主日礼拝案内
  • 「野党共闘をバックアップ」しんぶん赤旗インタビュー記事
  • 10月15日(日)主日礼拝案内
  • 10月8日(日)主日礼拝説教
  • 10月8日(日)主日礼拝案内
  • 10月1日(日)主日礼拝説教
  • 10月1日(日)主日礼拝案内
  • 10月の御言葉
  • 福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート
  • 9月24日(日)主日礼拝説教
  • 9月24日(日)主日礼拝案内
  • 9月17日(日)主日礼拝説教
  • 9月17日(日)主日礼拝案内
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ