風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2010年02月

2月28日の御言葉 「聖なる集まり」

「八日目には、聖なる集まりを開く。いかなる仕事もしてはならない。」 民数記29章35節
 
 29章には、年度後半の祝日の献げ物が規定されています。
 
 まず、7月1日に聖なる集会を開きます。それを「角笛を吹き鳴らす日」としています(1節)。ユダヤ教の伝統では、この日を「新年の日」と呼ぶそうです。現在は、春を新年としていますが、春と秋のいずれを新年とするかで綱引きがあったと聞いたことがあります。7月1日を「新年の日」と呼ぶのは、その名残ということでしょう。
 
 10日にも聖なる集会を開きます(7節)。ここには、この祝日の名が記されていませんが、レビ記23章27節に、「贖罪日」と記されています。同16章にこの贖罪日の詳細な規定があり、31節に、「これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である」と記されています。
 
 年に一度、この日に大祭司は至聖所に入って罪の贖いの儀式を行います(出エジプト記30章10節、レビ記16章3節以下、34節)。この日、民は「苦行」(レビ記16章29~31節、23章27,29節)、即ち断食を行います。
 
 贖いの儀式の後、大祭司は生きている雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪を雄山羊の頭に移して荒れ野に追いやります(レビ記16章20~22節)。罪の身代わりとされることを英語でスケープゴート(scapegoat)と言いますが、それは、ここから来ています。
 
 「贖罪」(キプリーム)という言葉は、「覆う」(キッペル)という言葉から派生したものです。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と詩編32編1節に詠われています。雄牛と雄山羊の血で神の目から罪が覆われ、それによって赦しが与えられるということです。
 
 最後の晩餐の席上、主イエスが杯を取って、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われましたが(マルコ福音書14章24節)、主イエスの血によって私たちの罪が覆われ、神と新しい契約が結ばれたわけです。
 
 15日にも、聖なる集会を開き、七日間祝います(12節)。これは、「仮庵祭」です(レビ記23章33節)。13節以下に、8日間にわたって祝われる祭りにささげられる献げ物のリストが詳細に記されています。三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)の中で、仮庵祭が最も盛大に祝われました。それは、いけにえの量にも現れています。
 
 過越祭 牛14頭 羊7匹  小羊49匹  山羊7匹
 七週祭 牛2頭  羊1匹  小羊7匹   山羊1匹
 仮庵祭 牛71頭 羊15匹 小羊105匹 山羊8匹
 
 ユダヤ教の伝統では、「仮庵祭にエルサレム巡礼をしなかった者は、喜びを知らない者だ」という言葉があるそうです。これは、ぶどうの収穫祭ですが、約束の地に入ってぶどうなど豊かな農作物の収穫にあずかったときに、エジプトの奴隷生活から解放され、荒れ野を40年旅したときのことを忘れないようにするためであり(レビ記23章43節)、そのときの苦しみと比べて、約束の地での生活がいかに幸いなものであるかを知って、神に感謝するのです。
 
 ヨハネ福音書7章37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」という言葉があります。これは仮庵祭の最終日のことです。最大の祝祭日の最も盛大な祝日が終わりの日、即ち8日目のことというわけです。冒頭の言葉(35節)では、この日、「聖なる集まりを開く」とあり、そこで神を礼拝します。
 
 そして、前日までと比べると全く控えめな量のいけにえをささげます(36節)。それを「盛大」と表現するのは、人が神の御前に静まるときに、神の御声がさやかに聞こえ、御業を見させていただくことが出来る。それこそが、神の民の最も大きな喜びである、ということではないでしょうか。
 
 「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と主イエスが言われました。命の御言葉を受け、御霊の恵みに与り、主の御業のために働く者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたから離れて、私たちが実のある人生を送ることが出来ません。あなたこそ、恵みの源であり、また希望と平安の源であられるからです。私たちの感謝のしるしとして、賛美のいけにえ、即ち唇の実を絶えずあなたにおささげします。私たちを主に喜ばれるまことの礼拝者として下さい。 アーメン

2月21日の御言葉 「意に反するのでしたら」

「バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します』。」 民数記22章34節
 
 22~24章は、「バラクとバラム」について記されています。モアブ人の王ツィポルの子バラクは(4節)、おびただしい数のイスラエルの民が近づいて来るのを見て恐れをなし(2,3節)、「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラムを招」き(5節)、イスラエルを呪ってもらおうと考えました(6節)。
 
 21章27節以下に、モアブがアモリ人の王シホンに滅ぼされ、捕虜となったという歌が記されています。アモリ人がモアブ人に勝ったという出来事、それを祝う歌がそこに記されているのは、モアブ人に勝ったアモリ人をイスラエル人が打ち破ったからです。モアブに勝ったと歌われているアモリ人を打ち破ったイスラエルが、いかに強いことかということを強調しているわけです。
 
 ということで、自分たちを打ち負かしたアモリ人を返り討ちにしたイスラエルの民をモアブの王バラクが恐れるのは、当然の成り行きだということを示しているのです。
 
 バラクは、長老たちを使者として礼物を持たせ、遠路はるばる預言者バラムのもとに遣わします(7節)。バラムが主の前に伺いを立てると(10,11節)、主は、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と答えられました(12節)。それでバラムは、バラク王の使者に断りを告げます(13節)。
 
 バラク王は、使者が役不足だったかと考えて、政府高官を派遣し(15節)、「あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします」(17節)と、まるで、白紙の小切手を渡して、好きなだけの金額を書き込みなさいといわんばかりの招き方をします。
 
 バラムは、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を送ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」と言い(18節)、もう一度神の前に出ます。すると、先には「彼らと一緒に行ってはならない」と言われた神が、「立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」(20節)と、方針を転換されました。
 
 「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった」と22節に記され、抜き身の剣を手にした主の御使いが、妨げる者となって道に立ちふさがります。23節以下の、「バラムとろば」のやり取りは大変ユーモラスですが、ろばには見えた主の御使いが、預言者には分からなかったというのは、皮肉なことですね。
 
 これは、バラムはバラクの、「あなたを大いに優遇する。言われることは何でもします」という報酬の大きさに目がくらんでいたということでしょう。もともと、「一緒に行ってはならない、呪ってはならない」と言われていたのに、改めて託宣を求めているのは、政府高官の持ち出した報酬に心動かされているためだと思われます。

 使徒ペトロが「バラムは不義のもうけを好み」と記し(第二ペトロ書2章15節)、主イエスの弟ユダも「金もうけのために『バラムの迷い』に陥り」と語っているのは(ユダ書11節)、そのためでしょう。
 
 主によって目が開かれ、すっかり肝を潰したバラムが語ったのが、冒頭の言葉(34節)です。それに対して主の御使いは、「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」と、先の託宣と同じことを告げます(35節)。
 
 ここに神は、バラムをイスラエルを呪う呪(まじな)い師としてでなく、イスラエルを祝福する預言者として召し、モアブの王バラクのもとに遣わそうとされているのです。そのときにバラムが報酬に心惑わされてしまわないように、主の御使いによって、しっかり釘を刺されたわけです。
 
 私たちも、外見などに惑わされず、しっかりと御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みたいと思います。

 主よ、知恵と啓示の霊を賜り、神を深く知ることが出来ますように。心の目が開かれて、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、そして、私たちに対して絶大な働きをなさる神の力だどれほど大きなものであるか、悟らせて下さいますように。 アーメン

HPの更新

大牟田教会のホームページは、IBMのホームページビルダーを使っていますが、今日なぜか「サイトの設定」、「転送の設定」が出来なくなりました。
あれこれやってみますが、全く動きません。

それで、1年ほど前にバックアップしていたデータをコピペしたところ、ビルダー上でサイトを構築することが出来ました。
それから、サーバーに送っていたデータをダウンロードしてファイルをアップデートしました。

そんなこんなで5~6時間、悪戦苦闘して、ようやく今日の分の更新が出来ました。

あらためて、バックアップを取っておく必要性を知らされました。
バックアップはCDに焼いていましたが、つい最近、外付けHDを購入したので、これからは、ここに取っておくことにします。


そんな面倒なことをしなくても、ウインドウズには「システムの復元」という機能があることは知っています。
けれども、ウイルスに汚染されると、この「システムの復元」が狙われて駆除しにくくなるという経験を、以前したことがあるので、これを「無効」にしているのです。

なぜ、サイト設定などが出来なくなったのか、理由はよく分かりませんが、電源が入りにくくなるという症状が出たりしていますから、HDを修復する必要があるということなのかもしれません。
2年前、HDを増設していますので、もう少し大事に使いたいと思います。


平林牧師健在

高知伊勢崎教会の平林先生の名前が、高知高教組のブログにあった。
URL http://kkoukyouso.blog70.fc2.com/blog-entry-569.html
 
写真もある。あの9条Tシャツを身につけ、昨年11月28日、高知市役所前で開かれた「沖縄に連帯する市民集会」の呼びかけ人として、マイクを握っている。
 
高知憲法会議事務局の速報にも、その案内が掲載されていた。
URL http://kochikenroren.littlestar.jp/heiwa/P-news215.pdf

教会のサイトも先生のブログも、最近全く更新されていないので、どうされているのかと思っていたが、ご活躍を知って、嬉しくなった。

沖縄の米軍基地移設問題、確かに目が離せない状況になって来た。
鳩山首相は5月までに結論を出すと言う。
沖縄県民に納得のいく結論を導き出してくれるよう、祈る。


追記
平林先生が参加している「サロン金曜日@高知」のブログもありました。
URL http://saron-kinyoubi.cocolog-nifty.com/blog/

2月14日の御言葉 「会衆は同一の規則に従う」

「会衆は、あなたたちも寄留者も同一の規則に従う。これは代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちも寄留者も主の前に区別はない。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない。」 民数記15章15,16節

 15章には、「献げ物に関する補則」などが記されていますが、11~14章の民の反抗や16章のコラによる反逆という記事に挟まれて、多少違和感を感じさせられる書き方になっています。しかしながら、なぜこの記述がここに入れられているのか、という観点でよく読めば、いくつかのことに気づかされます。

 先ず、「わたしが与える土地にあなたたちが行って住むとき」(2節)、「わたしが導きいれる土地にあなたたちが入り、そこから得た糧を食べるようになるとき」(18,19節)という表現が示すように、この補則が実行されるのは、今ではありません。カナンの地に定住するようになってからのことです。「穀物の献げ物」(4節)や「ぶどう酒の献げ物」(5節)、「輪型のパン」という献納物(20節)など、定住して農耕の生活が出来るようにならなければ、始まらない話です。

 そのように、約束の地に入らなければ実行出来ない規則がここに記されているということは、決して無意味なことではありません。イスラエルの民は、不信仰と不従順によって神を怒らせました。
 
 14章22,23節に、「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない」と言われていました。
 
 けれども、彼らの子孫は約束の地に入り、穀物やぶどうの収穫を得て神に感謝する生活をすることが出来るということを、この規則によって約束しているわけです。
 
 また、牛や羊、山羊などの献げ物と、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物をセットでささげるように規定されていますが(3節以下、9節以下、24節以下)、これは、レビ記23章に記されている三大祝祭日や、民数記6章のナジル人の誓願のときに特別にささげられるものでした。3節の、「特別の誓願を果たすため、・・・または祝日に」というのは、それを示しているものでしょう。
 
 しかし、8節で、「和解の献げ物」として、また、22節以下、過失で律法を守らなかった共同体の献げ物としても、それらをささげるようにと、レビ記3章以下の規定が改定されています。
 
 その上、それをするのは、「土地で生まれた者」(13節)即ち、イスラエルの民は勿論のことですが、「あなたたちのもとに寄留する者や何代にもわたってあなたたちのもとに住んでいる人」(14節)、つまり、異邦人や奴隷という、非ユダヤ人も同様だと言われています。
 
 出エジプト記12章43節以下の過越祭の規定で、寄留者や奴隷も、割礼を受けたなら、過越の犠牲を食べることが出来るとされていました。今回は、献げ物です。献げ物をささげるのは、神の幕屋です。幕屋は、宿営の中心におかれています。つまり、寄留者や奴隷の身分の者が、献げ物において、その中心に招かれているわけです。
 
 そして、冒頭の言葉(15,16節)のとおり、イスラエルの民も寄留者も区別なく、同一の規則に従えと言われています。即ち、主の御言葉に従うことにおいて、主の御前に、イスラエルの民も異邦人寄留者も、同様に見なされるということです。
 
 イザヤ書56章には、「異邦人の救い」が約束されており、そこに、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(同7節、マルコ11章17節)と記されています。すべての民が主を信頼し、主に祈りをささげ、そして、徹底的に主に聴き従うことを、主が求めておられるわけです。
 
 主よ、私たちは先に救いの恵みに与った者として、全家族の救いを祈ります。友の救いを願います。日々の生活を通して、主の証しが出来るよう、聖霊の満たしと導きを求めます。主がこの祈りを聞いて下さることを信じて、感謝します。 アーメン

2月7日の御言葉 「身代わりとして」

「わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。」 民数記8章18節

 8章には、「レビ人の清めの儀式」についての記述がなされています。レビ人は、祭司に仕え、臨在の幕屋での奉仕や神の箱の運搬などの務めに当たります。
 
 レビは、ヤコブ=イスラエルの三男でした(創世記29章34節)。父ヤコブは、レビについて、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす」と祈っています(創世記49章5節以下)。
 
 それは、妹ディナのことでシケムの人々を殺し、町中を略奪するという事件を起こしたからです(同34章参照)。つまり、レビはとりたてて宗教的な人物であったわけではなく、むしろ、それとはほど遠い存在だったのです。
 
 レビの子孫にモーセとアロンがいて、レビ一族が神の幕屋で神に仕える仕事をする者とされたというのは、思いがけないことでした。それは、一方的な神の恵みでしょう。なぜ、ヨセフの一族ではなかったのでしょうか。それは誰にも分かりませんね。
 
 既に引退し帰国されていた一人の米国人女性宣教師が来日された際、当時福岡にいた私のもとを訪ねて下さいました。そのとき、「私が牧師になると思っていたか」と尋ねると、彼女ははっきり、「いいえ」と答えてくれました。誰が牧師になると思っていたかと改めて尋ねると、長男と4男の名前を挙げました。
 
 その見方は、決して奇妙なものではないでしょう。誰もが、そう考えていたのかも知れません。私自身、子どもの頃、牧師になるとは想像もしていませんでした。また、長男と4男は、二人とも牧師ではありません。人の見るところ、外面的な人の能力や資質などと、神の選びとは、必ずしも一致しないという、典型的な例ではないかと思います。
 
 神は17節で、「イスラエルの人々の内に生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした」と語られていました。
 
 過越の時、エジプトの国の初子は、神の使いに打たれて死んだのに対し、イスラエルの長子は、その死を免れました(出エジプト記12章1節以下、29節)。その身代わりとして、小羊が屠られたのです(同3節以下)。つまり、イスラエルの長子は、羊の命をもって贖われ、神のものとなったというわけです(同13章2節、第一コリント書7章22,23節参照)。
 
 そうして神は、イスラエルのすべての初子の身代わりにレビ人を選んでご自分のものとされ、それは、屠られて祭壇にささげられるというのではなく、生きて神に仕える者とされたのです。
 
 しかし、神に選ばれれば、それでよいわけではありません。そのままで役に立つものではないのです。神は、「イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい」(6節)と言われました。そのために先ず、「罪の清めの水をふりかけ、身体全体の毛をそらせ、衣服を水洗いさせ」ます(7節)。それから、雄牛二頭とオリーブ油を混ぜた小麦粉を献げ物としてささげ、贖いの儀式を行います(8節以下、12節)。

 そして、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し(13節)、イスラエルの人々から区別すると、彼らは主のものとなります(14節)。そうして初めて、臨在の幕屋に入って、作業に従事することが出来るのです(15節)。
 
 あらためて、冒頭の言葉で「レビ人」とは、私たちクリスチャンのこと、イスラエルとはすべての人々と読みましょう。それは使徒ペトロが、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っているとおり、そしてそれが、プロテスタントで語られている「万人祭司」ということだからです。
 
 私たちが選ばれたのは、それを誇るためではなく、すべての人々に神の恵みを報せ、またすべての人々に仕えて執り成し、祈りをささげるためです。絶えず主の前に進み、御言葉と祈りをもって主と交わり、その使命に励む者とならせていただきましょう。
 
 主よ、私たちはあなたに選ばれる取り柄など持ち合わせていません。ただ、その恵みに感謝し、喜びをもってお仕えするのみです。私たちは不束な僕、端女にすぎませんが、御用のために用いて下さい。御名が崇められますように。 アーメン

キャンドルマス

初めて知ったことですが、今日2月2日はキャンドルマスと呼ばれるキリスト教の祝日だそうです。ちょうど今日は、クリスマス(12月25日)から数えて40日目で、この日は、イエスの母マリアが、清めの儀式を行うために宮詣をした日にあたります。 受胎告知日という話もあるようですが、どう考えたらよいのか分かりません。

カトリック教会では、この日、ミサを行うはじめにローソクを持って行列を行うため、キャンドルマス(聖燭祭)と呼ばれるようになりました。また、安産を祈願する妊婦が聖壇にろうそくを捧げるという習慣を持つ地域もあるそうです。
また、この日をもってクリスマスシーズンが終わりを迎えるとする国もあり、クリスマスツリーなどをこの日に火にくべると言います。

ただ、最近では、公現日と呼ばれる1月6日にクリスマス飾りを片付けるというところも多いようです。因みに、公現日とは、東方の博士たちが主イエスを拝みにやって来たとされる日のことですが、東方カトリック(ギリシア正教、ロシア正教など)では、この日をクリスマスとして守る習慣を持っており、また、キリストが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられて公生涯が始まった日とも言われます。

プロテスタントでも、英国国教会やルター派などでは、それらの祝日を厳格に守っているのかも知れませんが、それ以外のグループでは、話題になることさえないのではないでしょうか。

それより、この時期は節分に当たり、豆まきをするのか、してもよいのかといったことが議論されることでしょうね。今年は、明日2月3日が節分ですが、2021年以降、2月2日になる可能性があります。何でも、節分は立春の前日で、立春は、太陽黄経が315度となる日ということなのだそうで。

太陽黄経について知りたい方は、Wikipediaの「黄道座標」をご覧下さい。
URL http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E7%B5%8C

1月31日の御言葉 「シナイの荒れ野にいたとき」

「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。」 民数記1章1節
 
 今日から、民数記を読み始めます。民数記は、モーセが書いたと言われている5つの巻物の4番目のものです。「民数記」という書名は、イスラエルの民の数を数える記事が2度出てくるところから、つけられています(1章、26章)。
 
 ヘブライ語原典では、「ベ・ミドゥバル」と呼ばれます。これは、「ベ」が in 「~の中で、~において」、「ミドゥバル」は wilderness 「荒れ野」です。「荒れ野の中で、荒れ野において」というのが、民数記の原題です。これは、冒頭の言葉(1節)で、「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル)が、そのまま書名になったものです。

 荒れ野は、ものが満ちあふれ、生きていくのに困らないというようなところではありません。水がない、食べ物がない。死と隣り合わせといっても過言でない、瞬間瞬間生存が脅かされるという場所です。民数記は、イスラエルの民がその荒れ野において、40年におよぶ生活をしたときの出来事を記しているのです。
 
 何故主なる神は、イスラエルの民を荒れ野に導かれたのでしょうか。これがこの書のテーマです。ここから、いくつかのことを学ぶことが出来ると思います。
 
 まず第一に、頼るものが何もないところで、神に頼るということを学びました。イスラエルの民の宿営の中心に神の臨在の幕屋が置かれ、そこでモーセが神の言葉を聴きます。イスラエルの民にとって、神が共におられる、そば近くにいて下さるということです。
 
 呼べば答える、会おうと望めば、お会い下さる。そんな近くに神がおられるということです。何はなくても、すべてのものを創り、支えておられる神がご一緒におられるのです。私たちに必要なものは何でもお与え下さるお方が、常にそば近くにいて下さるのです。
 
 パウロは、神が味方となって下さるので、私たちは何者に対しても、圧倒的な勝利者でいられると語っています(ローマ8章31節以下)。
 
 第二に、イスラエルを神の民として訓練するためです。神は愛する子を鞭打ち、訓練されます。栄冠を得たければ、だれよりも厳しい訓練を受ける必要があるでしょう。
 
 主イエスも、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられ、聖霊の力を頂いて公生涯にお入りになるとき、聖霊に荒れ野に導かれて、40日の間何も食べずに悪魔の試練を受けられました(マタイ福音書4章1節以下)。それは、何よりも神の御言葉を信頼する試練でした。そして、主はこの訓練において、悪魔に勝利されたのです。
 
 第三に、神の恵みを学び、味わうことです。神は戦に出ることの出来る男性の数を数えるように命じられました。その命令に従って兵士の数を数えてみると、約60万人でした(1章)。
 
 かなりの年数がたち、神が改めて兵士の数を数えさせられます(26章)。それは、最初に数えられた兵士たちのほとんどが死んでしまったからです。2回とも、その数に入ったのは、わずか2名だったのです。すっかり世代が交代してしまいました。
 
 しかし、2度目に数えた兵士の数は、最初に記されている兵士の数とほぼ同数です。40年の荒れ野の放浪生活でも、イスラエルは数を減らすことがなかったのです。
 
 民は、荒れ野の生活で神や指導者モーセに対して、決して忠実、従順ではありませんでした。いつも不平ばかり、不満ばかりを語っていました。けれども、神はその都度、忍耐と寛容をもって彼らの願いに答えられました。嘆き、呻きに神が答えられ、祈りが聞かれるという経験、これは、神の恵み、憐れみです。民は荒れ野で神の恵みを学び、味わったのです。
 
 私たちも、荒れ野を通るとき、真剣に祈ります。そして、荒れ野で本当に頼りになるものは何か、ということを知り、学びます。真の神を畏れ、真の神に頼り、万事を益として下さる神の恵みを味わいましょう。
 
 主よ、突然、人生の荒れ野に迷い込んでしまうことがあります。どうして良いか分からず、途方に暮れるようなこともあります。祈りが祈りにならないようなときもあります。その呻き、嘆きに応えて下さい。平安と慰めをお与え下さい。その荒れ野で主と出会い、その恵みを知ることが出来ますように。そのために、信仰の目が開かれますように。 アーメン
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