風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年11月

11月8日の御言葉

「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか。」 創世記34章30節

 エサウと再会を果たしたヤコブは、スコトへ行き、そこに土地を購入して家を建てました(33章17,19節)。ここに住み着くつもりなのです。ところが、ここで事件が起こりました。
 
 ヤコブには、レアとの間に生まれたディナという名の娘がいました。彼女が「土地の娘たちに会いに出かけた」(1節)のですが、ヒビ人ハモルの息子シケムがディナを見初め、無理やり関係を持ちます(2節)。そして、父ハモルにディナを妻に迎えることを認めてくれるように求めます(4節)。
 
 ハモルは息子の願いを入れてヤコブのもとを訪れ(6節)、ディナを息子シケムの嫁にくれるように願い出ます(8節以下)。シケムも同様に語ります(11節以下)。彼らの申し出は、シケムがどれほどディナのことを思っているかということを示しており、その意味では、ヤコブが叔父ラバンの娘ラケルを妻にするために、7年間ただ働きすると申し出た心情に通ずるものがあります。
 
 しかしながら、ヤコブはこの申し出に対して、何ら反応していません。返答したのは、ヤコブの息子たちです。息子らは、シケムたちが割礼という儀式を行うなら、相互に姻戚関係を結ぼう、と応じます(14節以下)。
 
 ハモルと息子シケムは、ディナのために、ためらわず実行することにし、町の人々にも割礼を受けるようにと提案します(20節以下)。町の人がその「提案をを受け入れた」(24節)というのは、ヤコブたちと関係を持つことが町のプラスにつながるという計算以上に、ハモルが町の首長で、彼らへの信望が厚かったということでしょう。
 
 しかしながら、割礼を受ければ、姻戚関係を結ぶというのは、真実ではありませんでした。ヤコブの息子たちは、ディナが「汚されたことを聞いた」(5節)とあり、ディナが辱められたことを宗教的な「汚れ」と受け止めています。それゆえ、「みな、互いに嘆き、また激しく憤った」(7節)のです。だから、割礼を持ち出したのは、宗教を同じくするならということになるわけですが、それでシケムのしたことを赦すというつもりは全くありません。
 
 町の人々が割礼を受け、まだ傷の痛みに苦しんでいるときに(24,25節)、ディナの兄シメオンとレビは剣を取って町に入り、男たちをことごとく殺して、妹ディナを取り戻しました(25,26節)。そして、残りの息子たちは、町中を略奪しました(27節以下)。
 
 ここまで、全く口を開かなかったヤコブが、ようやく口を開きました。それが冒頭の言葉(30節)です。ヤコブは、息子たちがしたことで、この町におれなくなったことを非難しているのですが、ここにはディナに対する労りも、ディナを取り戻した労いもありません。父親として、娘のことをどう考えていたのでしょうか。
 
 ヤコブがはっきりとしないので、息子たちが行動しただけで、本当ならヤコブがその意思を示すべきだったのです。だから、行動を非難された息子たちが、「妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と反論すると、それに対する言葉がないのです。
 
 ヤコブは利に聡く、そのためには手段を選ばず行動するというところがありますが、そうでないときには受身です。ディナのことを聞いても、何の行動も起こしません。それこそ、神に祈ることすらしないのです。

 その意味で、このような事件が起こり、彼がスコトを出て行かなければならなくなったのは、約束の地から離れてヨルダン川の東に留まることを神がよしとされなかったということではないかとさえ思えます。
 
 だから、神はヤコブをベテルに呼び出されるのです(35章1節)。彼が戻るべき場所は「ベテル」、即ち「神の家」なのです。神のもとに宿り、その御言葉を聞き、その恵みの内を歩むことなのです。

 主よ、私たちは弱い人間です。他人を非難することは出来ますが、ヤコブと同じ立場になったときに、自己保身に走らないとは言えません。だからこそ、あなたに依り頼みます。どうか、試みにあわせないで、絶えず悪しき者からお救い下さい。御言葉に耳を傾けます。真実を教えて下さい。 アーメン

結婚式


結婚式01本日、礼拝堂で結婚式が執り行われました。新郎は、光の子幼稚園の卒園生でした。
そして、なんと結婚式のためにピアノの奏楽をお願いした方と、新郎のお姉様とは、光の子幼稚園の同級生でした。
神様の不思議なお導きを思いました。

教会では、結婚式の依頼を受けると、まず日取りなどの打ち合わせを行います。
続いて、3回程度の結婚セミナーを行います。教会で行う結婚式とはどのようなものなのか、聖書には結婚についてどのように教えているのか、ご一緒に学びます。
そして、前日にリハーサルを行います。

今回は、7月に打ち合わせを行った後、毎月一回のペースで教会においで頂きました。
初めにお姉様を通じて申し込みがあったのは春でしたので、およそ半年、祈りつつ準備を進めて来ました。


結婚式02親戚のお子様などにフラワーガール、リングボーイをお願いしました。

フラワーガールは、右の花籠を手に持ち、花びらをバージンロードに蒔いて、「花道」を造ります。
リングボーイは、真ん中の新郎新婦の指輪がセットされたリングピローを持って、新郎新婦の前を歩きます。

今回は、フラワーガールが小学校5年生、リングボーイが小学校1年生でした。
二人ともしっかり胸を張り、笑顔で役割を果たしてくれました。

今回、新郎新婦入場の直前、新婦のベールをお母様が降ろして整えるところを皆に見せるようにしました。
何でも、結婚式場などではよく行われているそうですが、私は初体験でした。
お母様が最後に新婦の衣装を整え、お父様が新婦をエスコートして入場する。
そして、新婦は途中から新郎と共に歩み出す。
ひとつのストーリーとして、これもありかなと思いました。

教会の方々も準備からお手伝い頂き、心を込めて式を行わせて頂きました。
神の祝福に満ちた、お二人の門出に相応しい式になったのではないでしょうか。
お二人とそのご親族に、神様の恵みと慈しみが常に豊かにあるように、心よりお祈り致します。

11月1日の御言葉 「わたしも祝福してください」

「エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫び声を上げて激しく泣き、父に向かって言った。『わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。』」 創世記27章34節

 父イサクは、自分が年老いたので(1節)、長男エサウに自分の持っている神の祝福を与えたいと言います(4節)。それを聞きつけた母リベカは(5節)、エサウが外出している隙に弟ヤコブをたきつけ(6節以下)、父の祝福をだまし取らせます(18節以下)。
 
 その後、兄エサウが帰宅して弟に出し抜かれたことを知り(30節以下)、密かに弟の抹殺を図るようになります(41節)。それを知った母リベカは、弟息子ヤコブを守るため、自分の故郷ハラン(43節、24章10節ではアラム・ナハライムのナホルの町、25章20節ではパダン・アラム)にヤコブを逃がします。
 
 なぜ、こんなことが聖書に記されているのでしょうか。少し問題を整理して考えて見ましょう。
 
 第一に、父親の祝福は長子に与えられるものです。実は、長男エサウは、長子の特権をパンとレンズ豆の煮物で弟ヤコブに譲っていました(25章27節以下)。そうすると、イサクの祝福がヤコブに与えられるのは、順当なことです。
 
 しかし、イサクとしては、自分を慕う兄エサウを祝福してやりたかったのです。それに対して、母リベカは弟ヤコブを可愛がっており、ヤコブが受けるはずのものを兄エサウに横取りされたくはなかったのです。
 
 第二に、祝福とは何でしょうか。エサウは36節で、「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)、欺いた。あの時はわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった」と言っています。しかし、長子の権利がなければ、最初に祝福を受ける資格はありません。長子の権利は奪われたものではなく、自分で譲り渡したのですから、その意味では、エサウには、ここで腹を立てる理由はありません。
 
 イサクは37節で、「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった」と語っていますが、それはしかし、今既に、すべてのものがヤコブのものになってしまったというわけではありません。まだ、そうなるように祝福の祈りをささげたというだけです。
 
 エサウはかつて、長子の権利で腹を満たすことは出来ないと考えていました(25章32節)。今ここでも、祈りの言葉でエサウの腹を満すことは出来ないでしょう。
 
 しかし、「あの時」(25章)と「今度」(27章)の間に、26章のゲラルでの出来事があります。それは、敵に立ち向かう力はないけれども、イサクには神の祝福がついて来て、どこへ行ってもイサクを助けました。即ち、イサクの祝福とは、この世の繁栄とか成功、勝利というものではなく、祝福をもたらして下さる神が共にいて下さるということでした。その様子を見たエサウは、改めて、父の持っている神の祝福が欲しいと思うようになったわけです。
 
 だから、弟に祝福が奪われたと知ると、冒頭の言葉(34節)の通り、「このわたしも祝福して下さい」と訴え、さらに、「祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福して下さい」(38節)と懇願するのです。それで、イサクはエサウにも祝福を与えます(39,40節)。しかしそれは明らかに、ヤコブに与えた祝福とは相当の格差があります。
 
 最後に考えるべきことは、その祝福をお与えになるのは、どなたか、ということです。この話の主人公は、主なる神なのです。目に見え、耳に聞こえる祝福に差があっても、それをお与えになるのは、主なる神です。他者と比較して、祝福の量が多いとか少ないとかというのは、主の御心に添わないことです。
 
 私たちと共におられる主に信頼して、主がお与え下さるものを一つずつ感謝して受け止めるならば、1タラントンが2タラントン、2タラントンが4タラントン、5タラントンが10タラントンと変えられていく恵みを味わうのです(マタイ福音書25章14節以下)。
 
 主の祝福を求めながら、一日一日精一杯主に向かって感謝と信頼をもって生きること、それこそ、主の祝福の道を歩むことなのです。
 
 主よ、あなたが私たちと共におられ、活ける神の御言葉を賜り、力強い御業を表して、私たちの歩みを祝福して下さることを、心から感謝致します。世にあって恐れと不安に包まれ、道を見失う私たちに、御言葉を通して光を与え、行くべき道、立つべきところをお示し下さるからです。 アーメン
プロフィール

pastabco

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 11月10日(日)主日礼拝案内
  • 11月3日(日)主日礼拝説教
  • 11月3日(日)主日礼拝案内
  • 10月27日(日)秋期特別礼拝説教
  • 10月27日(日)秋期特別礼拝説教
  • 10月27日(日)秋期特別礼拝説教
  • 10月27日(日)秋の特別礼拝案内
  • 秋の特別礼拝ご案内
  • 10月20日(日)主日礼拝説教
  • 10月20日(日)主日礼拝案内
  • 10月13日(日)主日礼拝説教
  • 10月13日(日)主日礼拝案内
  • 10月6日(日)主日礼拝説教
  • 10月6日(日)主日礼拝案内
  • 9月29日(日)主日礼拝説教
livedoor 天気
「J-CASTニュース」は提供を終了しました。
楽天市場
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ