風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年10月

宗教改革記念日

10月31日は、ハロウィンです。
Wikipeddiaによれば、「ハロウィン 、あるいはハロウィーン(Halloween, Hallowe'en) は、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前夜(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになった」そうです。

もともとは、ケルト人の収穫感謝祭でしたが、それをカトリック教会が教会行事として取り入れたのだそうです。

日本では、1990年代から次第に知られるようになったということですが、なんでも今年第13回を数える川崎駅前でのハロウィン・パレードには3000人もの人々が仮装してパレードし、それを見に10万人の人々が繰り出す騒ぎになっているそうで、そのうち全国各地で祝われるようになるのかも知れません。

ただ、日本の場合は、母の日も、バレンタインもハロウィンも、そしてクリスマスまでも商業ベースに乗って行われているので、教会がもう少ししっかりと福音宣教を進めていかなければと思います。



その意味では、むしろ、宗教改革記念日であることを強調していくべきなのでしょう。
1517年と言いますから、今から492年前の今日、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に「95か条の論題」を貼り付けて、ここから宗教改革が始まりました。

ルターは、カトリックに対抗するプロテスタントを起こそうと考えていたわけではありませんでしたが、神が教会を清めるために、宗教改革の業を起こされたわけです。

聖書主義を唱え、誰もが聖書を読めるようにとドイツ語訳新約聖書を出版したことが、キリスト教界にどれほど大きな影響を与えたか分りません。
ラテン語訳だけが聖典とされていたものが、それ以後、各国の言葉で読めるようになっからです。

現在、私たちが御言葉と祈りによる交わりを提唱して、日々聖書日課に励んでいるのは、ルターのお蔭と言ってもよいでしょう。

そして、その背後に神様の導きがあったわけです。
ハレルヤ! アーメン

市川ガンバの会 保健文化賞受賞

NPO法人市川ガンバの会が、地域の保健衛生の向上に貢献した団体や個人に贈られる第61回保健文化賞(第一生命保険相互会社主催、朝日新聞厚生文化事業団、厚生労働省など後援)を受賞されたという報せが、バプテスト連盟情報ネットよりありました。

市川ガンバの会のサイトに、授賞式の様子が紹介されていました。
URL http://ichikawaganba.fc2web.com/event.html
是非ご覧になって下さい。

10月25日の御言葉 「神を畏れる」

「アブラハムは答えた。『この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。』」 創世記20章17節

 ヘブロンにいたアブラハムが、南のネゲブ地方に移り、さらに南西方向の「カデシュとシュルの間」、即ち、エジプトとの国境付近に住みました(1節)。それから、ゲラルの町に滞在していたと言われています。ということは、アブラハムは、ネゲブとカデシュとシュル、そしてゲラルを巡回しながら羊の群れを養う、遊牧民のような生活をしていたのかもしれません。
 
 ゲラル滞在中に、アブラハムの妻サラをゲラルの王アビメレクが王宮に召し入れます(2節)。アビメレクは、サラがアブラハムの妻であることを知りませんでした。それは、アブラハムがサラを「これはわたしの妹です」と言ったからです(2節)。サラが大変美しい女性だったからとはいえ(12章11節)、やがて90歳になろうとするサラを王宮に召し入れるとは、にわかに考えがたいことです(17章17節)。
 
 いずれにせよ、サラがそのままゲラルの王アビメレクの妻となるならば、アブラハムとサラとの間に嫡子が生まれるという神の約束は反故にされてしまいます。この危機に神が介入され、神がアビメレクに対して、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫ある身だ」と告げられます(3節)。
 
 それに対し、アビメレクは自分が無罪であることを主張し(4,5節)、神もそれを認められます(6節以下)。しかしながら、アブラハムの妻を自分のものにしようとしたという事実があり、それは不問にはされません。18節には、「主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである」と記されています。神は、「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう」と言われました(7節)。
 
 そこでアビメレクは、「羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え(14節)、そして、妻サラを返しました。さらに、「この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住まいください」と言います(15節)。
 
 それを受けて、アブラハムが祈ると、アビメレクの妻や侍女たちは再び子どもが産めるようになりました。ここに、預言者の使命が、神の御言葉を聞いてそれを人々に伝えるというだけではなく、人々のために執り成し祈ることも含まれてることが示されています。神はアブラハムの祈りを聞かれました。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコブ書5章16節)。そしてこのことが、アブラハムにも約束の子イサクが授かるという伏線になっているわけです。
 
 一方、アビメレクから、「あなたは我々になんということをしたのか」(9節)と問われたアブラハムは、冒頭の言葉(11節)のとおり「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです」と答えています。ところが、アビメレクとその家来たちは、夢でアビメレクに語りかけられた神を非常に畏れました(8節)。
 
 むしろ、自分の命を守るためと言いつつ、妻をアビメレクに差し出したアブラハムの方が、神を畏れることも、神に信頼することも忘れています。自分の知恵と力で、その難局を乗り越えようとしていたのです。それは、エジプトで行った過ちをここでまた繰り返すことでした。
 
 ところが、それにも拘わらず神は、アブラハムを責めてはおられません。以前、アブラハムが神を信じたとき、神はそれをアブラハムの義と認められました(15章6節)。今ここにアブラハムの信仰を見ることができなくても、その義がアブラハムから取り上げられてはいません。ということは、アブラハムを義とした信仰とは、彼の行いなどに基づくものではなく、主と主の御言葉を信じるように導かれた神の恵みに基づいているものということになります。
 
 つまり、どんなときでも主を信じて、その信仰が揺るがないから、義とされたのではなく、一方的な恵みによって義としていただいたのです。私たちは、この恵みの主に信頼を置き、主の恵みに感謝と喜びの歌をささげるだけです。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源だからです(ネヘミヤ記8章10節)。

 主よ、アブラハムの弱さにも拘わらず、いえ、弱さのゆえに恵みをお与え下さったことを、心から感謝致します。私たちの人生にも、あなたの恵みが満ち溢れています。アブラハムがアビメレクのために執り成したように、私たちも万人祭司として、霊の力を受けて隣人のために執り成し祈る使命を果たすことが出来ますように。 アーメン

甘木山へ

久しぶりに甘木山へ行きました。
甘木山は大牟田市北部に位置する、標高123メートルの小高い山です。


甘木山01山頂には、テレビ塔が立っていて、ここから電波が送られて来ます。






甘木山02大牟田市内を一望する展望台(先に見える赤い屋根)まで、舗装した道もありますが、木立の中を歩くととても気持ちがいいです。






甘木山03展望台から見える風景です。
写真の右奥は、白く霞んでいますが、有明海です。

残念ながら見つけることは出来ませんが、わが大牟田教会もこの風景の中にあるはずです。

時々ここに来て、市内を見渡しながら、大牟田に住む127,400の市民、その周辺におられる方々の平和、生活の祝福、健康の祝福を祈っています。

特に、今週は賛美と福音の集いが開催されますから、一人でも多くの方においで頂いて、生きる喜び、神の平安に与っていただきたいと願いました。

10月18日の御言葉 「目を上げて」

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」 創世記13章14,15節

 エジプトで羊や牛など、多くの贈り物を受けたこともあり(12章16節)、アブラムは多くの財産を持っています。甥のロトもたくさんの家畜を飼っているので(5節)、双方の牧者たちの間に争いが起きました。それは恐らく、水場をめぐってのものであろうと想像されます。そこでアブラハムが提案したのは、争いを止めて、水場を順番に利用しようといったことではなく、「ここで別れようではないか」(9節)ということでした。
 
 「示す地に出て行け」と主から示されたとき、主はアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて」(12章1節)と言われており、それは、アブラムを愛し、養い育て、守り支えてくれるもの、それなしに生きることは出来ないと考えているものから、アブラムを引き離そうとすることでした。アブラムはその言葉に従って旅立ったのですが、甥のロトを連れてきました(同4節)。それは、子のなかったアブラムが、もしも子が授からなかったときのことを考えて、将来の保険にしようとしたのでしょう。
 
 財産が増えたことは神の祝福ですし、ロトを保険とすることで、アブラムの将来は安泰ということになるはずでしたが、その祝福と保険がかえって仇となり、親族間に争いをもたらしています。人生はなかなか思うに任せません。
 
 別れようという提案を聞いたロトは、よく潤っているヨルダン川流域の低地一帯を選び、東に移って行きました(10節)。ロトには、年長者を立てて、先によいところをとってもらおうという考えは無かったようです。あるいは、牧者間の争いの背後に、ロト自身が叔父アブラムとは一緒にやって行けないという思いがあったのかも知れません。エジプト滞在時の、家族よりも自分の命の保全を優先したアブラムの身の処し方に、その一因があるとも思われます(12章10節以下参照)。
 
 そのためか、アブラムはロトに先を譲り、残り物を拾う方に回ります。改めて「父の家」を離れ、よい地を離れることになったアブラムに、主が声をかけられます。それが、冒頭の言葉で始まる14節以下の主の言葉です。
 
 冒頭の言葉(14節)に、「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われていますが、親族と別れ、将来の保険を失うことになり、アブラムはうなだれていたのではないでしょうか。それは、「ロトが目を上げて眺めると」(10節)と言われている甥ロトの希望に満ちた有様と好対照です。
 
 しかし、「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)。「目を上げよ」と呼びかけ、希望を失っていたアブラムに希望を与えます。
 
 そして主は、「あなたのいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(14~16節)と言われます。子のないアブラム、今保険を失ったばかりのアブラムに、土地を与えるという祝福が語られます。
 
 しかし、何よりの祝福は、見渡す限りの土地ではなく、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という言葉でしょう。子がなければ、ここに嗣業の地が与えられたアブラムの存在を記念する者がいなくなってしまいます。与えられた嗣業の地も他人のものになってしまいます。
 
 今はまだ、畳一枚分の土地も持っていません。それを受け継ぐ子もいません。しかし、アブラムは主の言葉に従って目を上げました。彼が見たのは、他人の土地ではなく、主が自分に下さると言われた土地です。そして何よりも、それを下さると約束された主を仰いだのです。そのとき、アブラムは立ち上がることが出来、与えると言われた土地を「縦横に歩き回る」力を授かったのです。
 
 「目を上げよ 王の王に  御前に拝し 歌え
  賛美は 主の前に  聖なる王の王に 栄光あれ」
           (リビングプレイズ 32)
  
 主よ、アブラムは人間的な希望をすべて失ったとき、御言葉に促されてあなたを仰ぎました。そうしてアブラムは、再び立ち上がる力を得、失望の場所から希望をもって出発することが出来ました。私たちも主と主の言葉に信頼し、導きに従って歩みます。耳を開いて御言葉を聞き、目を開いて主の御姿を拝することが出来ますように。 アーメン

10月11日の御言葉 「ノアは神と共に歩んだ」

「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」 創世記6章9節

 主なる神は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になり(5節)、人を造ったことで心を痛められました(6節)。11,12節にも、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なるものはこの地で堕落の道を歩んでいた」と記されています。
 
 そこで神は、人を地上から拭い去ろう、という決意をされました(6,13節)。それは、「地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるもの。天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」(17節)と記されているとおり、地球大規模の大洪水をもって人を根絶やしにするというものでした。
 
 しかしながら、神は実際に滅ぼし尽くされはしませんでした。8節に、「ノアは主の好意を得た」とあり、14節以下には、箱舟を作るように命じられています。この箱舟で、ノアとその家族は洪水を逃れるのです。
 
 箱舟は、長さ300アンマ(約135メートル)、幅50アンマ(約23メートル)、高さ30アンマ(約14メートル)、総排水量が4万トンを越えるという、とてつもなく大きなものです(15節)。船の内部は、3階建てになっており(16節)、そして、各階ごと、小部屋に仕切られます(14節)。これは、どこか一箇所に穴が開き、浸水しても、すぐには舟が沈まない工夫で、現代の船の建造にも通用するものです。
 
 この船の大きさから考えると、神は、ノアとその家族だけを洪水から守りたいと考えておられたのではなく、多くのものを救いたいと考えておられたことが分かります。つまり、冒頭の言葉(9節)のとおり、ノアが主なる神の好意を得られたのは、「神に従う無垢な人」であり、「神と共に歩んだ」からですが、神は、初めから誰かに好意を得させようと決めておられたということです。そして、もっと多くのものを救いたいと考えられていたわけです。ここに、神の愛と憐れみが示されています。
 
 ここには全くその記述はありませんが、あるいは、ノアとその家族は、神に命じられて巨大な箱舟を建造する傍ら、周囲にいる人々に向かって、「主が洪水でこの地上を滅ぼし尽くすことに決められましたた。私たちと一緒にこの箱舟を造って乗り込み、生き延びられるようにしましょう」と訴えていたのではないでしょうか。しかしながら、ノアの言葉に耳を貸し、箱舟造りに協力したり、一緒に舟に乗り込もうという人はいませんでした。だからこそ、滅びを刈り取ることになるわけですね。
 
 ノアたちの行動は、周囲の人々には全く理解出来ないことだったわけです。恐らく、人々はノアの言葉に耳を傾けなかったというだけじゃなく、悪口雑言を浴びせ、嘲笑したのではないでしょうか。そのとき、私がノアの立場であれば、逃げ出したかもしれません。人の嘲りや侮辱に、到底耐えられないからです。
 
 22節に、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」と語られているとおり、ノアは神に徹底的に従いました。ヘブライ書11章でも、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と記されています。
 
 この世に倣わず、むしろ心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにならせていただきましょう(ローマ書12章2節)。

 主よ、あなたのご愛に感謝致します。あなたは救いを御子において成就され、御子を信じる信仰によって、救いの恵みに与ることが出来るようにして下さいました。私たちを聖霊で満たし、いつでもどこでも大胆に福音を宣べ伝えることが出来るようにして下さい。 アーメン

台風18号

昨夜から警戒していた台風18号は、大牟田のわが家付近は、殆ど何の影響もないようなことでした。

しかし、進路に当たったところでは、大変大きな被害に見舞われています。

毎日新聞の本日正午現在のまとめによると、台風による死者は2人、負傷者は愛知8人、静岡7人、兵庫5人、茨城4人など、16都府県で重傷4人を含む44人。避難勧告は7県で3万1705人に出され、自主的に避難した人は、33府県で9426人に上るそうです。

このほか、住宅被害は、全壊が茨城県など4県で19棟、半壊は5県で41棟、一部損壊が24県で201棟、床上・床下浸水が339棟。がけ崩れが26ケ所、道路の通行止めが491ケ所確認されています。

また、停電は33県で最大約66万世帯。休校は集計出来た34都府県で1万3561校に上りました。

夕方のTVニュースで、長野県南部のりんご園で来月収穫を迎える予定の「ふじ」が半数以上落果し、1億を超える被害だと報じていました。

明日夜21時過ぎ、北海道の南東沖を通り過ぎた後、温帯低気圧に変わるということですが、最終的にどれほどの被害になるのか、見当もつきません。

これ以上被害が拡がり、人命に及ぶ災害が発生しないように、主の守り、助け、導きを祈るとともに、被害に遭われた方々に主の慰めと平安をお祈り致します。

盗難防止の日

10月7日は、盗難防止の日です。

(社)日本損害保険協会が2003年に、10月7日を「トーナン(盗難)防止の日」と定め、盗難防止の啓発を進めて来ました。

毎年、全国各都道府県で損保関係者、警察、防犯団体などが参加し、街頭で盗難防止を呼びかけています。

今年は、「防犯診断シート」と「カギか~ケロ~♪特製オリジナルマスク」を配布し、自動車盗、車上ねらい、住宅侵入盗に対する防止啓発を広く訴えることになっていました。

福岡では、天神の西鉄福岡駅周辺で朝8時15分から30分、防犯診断シートとオリジナルマスクが配布されたということです。

因みに、私の出身校は西南学院です。
サウス・イースタンでなくて良かったなと思いました。

10月4日の御言葉 「祝福を呪いに変える」

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」 マラキ書2章2節

 2章には、祭司への警告が語られています。彼らは、主の御前に献げ物を供え、また人々に真理を語り教える務めを担っています。しかし、いつのころからか、それがおざなりになってしまいました(1章12,13節、2章8節)。
 
 民の貧しさを見て、最もよいものでなくても、第二、第三のものでもよいとしたのでしょうか。それで、盗んで来たものや足に傷のあるもの、病気にかかっているものであってもよいとしたのでしょうか。あるいは、自分たちの貧しい状況を変えて下さらないような神に、最もよいものを捧げる必要などない、と人々から言われたのかもしれません。
 
 とはいえ、群れの中に傷のない雄の動物をもっていながら、傷あるものを主に献げるのは、偽りを行うことでしょう(1章14節)。そして、それを許したということは、祭司たち自身の神を畏れる心が鈍くなり、礼拝する姿勢が既に崩れていたということを示しています。
 
 かつて、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選ばれました(出エジプト記19章4節、申命記7章6節)。それは、彼らに祝福を与えるためであり、そしてその祝福がイスラエルを通して異邦の民にも及ぶためでした。
 
 今は冒頭の言葉(2節)のように、イスラエルの背きのゆえに祝福が呪いとなっています。むしろ、異邦の民のほうが、主をあがめ、主の御前に香をたき、清い献げ物を捧げている、と言われます(1章11節)。
 
 勿論、重要なのは、どのようないけにえを献げたかというよりも、どのような心でそれをしたのか、ということです。主は、「潔白な手と清い心をもつ人、むなしいものに魂を奪われることなく、欺く者によって誓うことをしない人」を祝福し、恵みをお与えになります(詩編24編4,5節)。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)という言葉もあります。
 
 主イエスは、貧しいやもめの献金を賞賛されました(ルカ福音書21章1節以下)。この女性の献げたレプトン銅貨2枚は現在の50円硬貨二つというところでしょう。しかしそれは、この女性の生活費全部だったのです。
 
 たとえ傷のあるいけにえであっても、それが、最上のものを惜しんでとか、自分が先にとった残り物とかというのではなく、その人の献げられる最上のものであれば、精一杯の献げ物であれば、人は喜ばなくても、主はそれを喜ばれるでしょう。外面的には傷がなくても、病気でなくても、いとよきものを献げようという心からの献げ物でなければ、主は喜んで下さらないのではないでしょうか。
 
 主イエスの贖いによって救われ、神の民とされた私たちも、いかにして神の道に歩み、その聖なる御名にふさわしい栄光を神に帰するか、ということを学ぶ必要があります。私たちの信じる主は、畏れとおののきこそがふさわしい大いなる王である、ということを知るべきです(5節、1章14節)。
 
 もう一度、主イエスを、全地の大いなる王として崇めましょう。私たちを創り、私たちを贖い、私たちを愛し尽くされる主に、心からの賛美のいけにえを捧げましょう。私たちに御霊を注いで力を与え、主の証人としてお立て下さった主の使命を、喜んで果たしましょう。
 
 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩編47編2,3節)。ハレルヤ!

 主よ、御名を崇めて感謝します。あなたこそまことの主、まことの神。あなたの他に私たちを救うことの出来るお方はありません。あなたにあって、命と平和を得ました。与えられている恵みを呪いに変えてしまわないように、御言葉に聴き、その導きに従って歩みます。いつも目を覚ましていることが出来ますように。 アーメン

賛美と福音の集い 「生きるとは がばいよか!」

10月24日(土)、25日(日)に、賛美と福音の集い 「生きるとは がばいよか!」を開催します。

昨夜、印刷屋さんになって、「賛美と福音の集い」のチラシを作りました。昨年は、上質紙を文房具屋に買いに行きました。クリスマスの時には、関西の紙問屋にネットで注文しました。今回は、アスクルに頼みました。

印刷は、表も裏もすべて、印刷機で行いました。表は赤青黒の三色、裏は黒一色です。フルカラーではありませんが、結構良いものが出来たのではないかと、自画自賛しています。用紙代を含めても、チラシ1枚で10円かかっていないだろうと思います。

下のアドレスをクリックすると、プリンターで作った原稿を見ることが出来ます。
URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/File0004.pdf

宏樹
今回おいで下さる野中宏樹先生は、佐賀は鳥栖教会の牧師ですから、「がばいよか!」という表現になるわけです。

シンガー・ソングライターでもある先生が、オリジナル曲9曲を交えて賛美とメッセージをお届け下さる、究極の集いになると、大変楽しみにしています。

是非お出かけ下さい。25日(日)は礼拝を兼ねていますので、席上自由献金を行いますが、24日(土)・25日(日)両日とも、入場無料です。



ところで、今日は「望遠鏡の日」です。
その謂れは、約400年前の1608年の今日、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが、遠くのものが近くに見える眼鏡、つまり望遠鏡を発明したのです。
特許をオランダの国会に提出したそうですが、原理が単純で、誰にでも作れそうだということから、特許の申請は却下されたといいます。
いかに原理が簡単でも、最初にそれを見出して作った、所謂「コロンブスの卵」なのですから、認めてもよかったのではとも思います。

ただ、「天狗の隠れ蓑」という日本昔話に、望遠鏡が登場します。
彦一という主人公が、天狗からだまし取った隠れ蓑を着て、居酒屋で酒をたらふく飲むという話ですが、隠れ蓑を天狗からだまし取るのに、火吹き竹を「千里鏡(望遠鏡のこと)」と偽り、千里鏡を貸す担保に隠れ蓑をだまし取るというくだりがあります。

この話がいつ頃作られたのか分りませんが、もしかすると、名前や形態を別にして、ハンスが望遠鏡を作る前から、古今東西、色々なところにそのようなものは既に存在していたのかも知れませんね。


それから、今日は「豆腐の日」でもあります。
日本豆腐協会が、1993年に「10(トウ)」「2(フ)」の語呂合わせで制定したそうです。
もっとも、毎月12日も、語呂合わせで「豆腐の日」なのだそうですが。

日本豆腐協会の公式サイトを覗いて見ましたが、「豆腐の日」に関する記事は載っていませんでした。
ただ、豆腐と健康とか、豆腐料理を紹介するページがあり、ご覧になってはいかがでしょうか。
URL http://www.tofu-as.jp/index.html
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