「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。」 ゼカリヤ書9章11節
9章には、まず諸国民に対する裁きが記されます。1~4節にはシリア、フェニキアの町に対する託宣で、それらの町が交易などで集めた富や力を、海に投げ込み、町を火で焼くと言われます(4節)。また5~7節はペリシテの町に対する託宣で、ペリシテ人の高ぶりを絶つと語られます(7節)。
人を高ぶらせ、奢らせるものが取り除かれたとき、驚くべきことに、「その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる」と言われています(7節)。ダビデはエブス人の町エルサレムを陥落させて「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、9節)。けれども、エブス人は滅ぼし尽くされたのではなく、ユダの民の中に吸収されたようです(同24章16節参照)。神は、御自分の支配を、力ではなく平和をもって打ち立てられるということです。
それゆえ、地上から戦乱はなくなり、イスラエルに平和が訪れます。だから、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」と言われ(9節)、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を立つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」と記されるのです(10節)。
ここで、「娘シオン」、「娘エルサレム」と言われているのは、いずれもエルサレムの町のことで、文字通りの「娘」ではありません。町が女性名詞なので、擬人化して「娘」と言っているのです。
冒頭の言葉(11節)で、「捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」というのは、イスラエルの父祖ヤコブの11番目の息子ヨセフの身の上に起こった出来事を思い出させます。ヨセフは父ヤコブの寵愛を一身に受け、ヨセフはそれを鼻にかけているようなところがありましたので、10人の兄たちの妬みを買い(創世記37章1節以下)、空の井戸に投げ込まれて殺されかけます(同12節以下)。空井戸ですから、水がありません(同24節)。食べるものもありません。飢えと渇きで死んでしまうかもしれません。
しかし、長兄ルベンが、弟を殺すのはやめて、イシュマエル人に売ってしまおうと提案したとおり、ヨセフは井戸から出され、イシュマエル人キャラバンに売られ、エジプトで奴隷として働かされることになります(同25節以下28節)。それは大変な道ですが、まずは死を免れました。
エジプトでも困難なところを通りましたが(同39章参照)、神はヨセフを祝福されて、ついにエジプトの宰相に任じられるようになります(同41章参照)。そのことを通して、ヤコブ一族は飢饉から救われ、400年を超える奴隷生活の後、戦いに出ることの出来る成人男子だけで60万を超える大民族となりました。
預言者ゼカリヤが活動していた時代、捕囚から解放されたものの、いまだイスラエルの国に戻って来ていない民も少なくありませんでした。帰国した方が圧倒的に少ないという状況でした。それは、帰国しても困難が待っているだけで、バビロンにいる方がまだましである、と考えられたからです。
そこで、神は彼らのために、ロバに乗る平和の王、勝利を与える者を遣わされます(9節)。神によって繁栄が回復されます。失ったものが2倍になって戻って来ると約束されています(12節)。神は私たちのために恵みを備えて、私たちが神のもとに帰るのを待っておられるのです。「砦に帰れ」(12節)という御言葉に聞き従うことを、神は求めておられるのです。
あらためて、「水のない穴」とは、御言葉を聞くことの出来ないところと考えられます。水は、神の御言葉を指しています(エフェソ書5章26節、ヨハネ福音書4章参照)。私たちは、いつも水のある広い場所、神と共にいて、その御言葉を聴くことの出来るところにいたいと思います。
私はその資格を持っているとか、そこにいるのが当然というのではありません。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」と言われるとおり、主イエスが十字架で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約によって救いの恵みに与り、神の宝の民として頂いたのです(16節、出エジプト記19章5,6節、第一ペトロ書2章9節)。それは私たちの行いによるのではなく、神の恵みです。神が招いて下さるからこそ、神の御前に立つことが出来、主の御声を聴くことが許されるのです。
主よ、いつも共におらせて下さい。御言葉を聞かせて下さい。御言葉に聴き従うことが出来ますように。弱い私たちを助けて、常に信仰によって歩ませて下さい。主の恵みを信じます。 アーメン
9章には、まず諸国民に対する裁きが記されます。1~4節にはシリア、フェニキアの町に対する託宣で、それらの町が交易などで集めた富や力を、海に投げ込み、町を火で焼くと言われます(4節)。また5~7節はペリシテの町に対する託宣で、ペリシテ人の高ぶりを絶つと語られます(7節)。
人を高ぶらせ、奢らせるものが取り除かれたとき、驚くべきことに、「その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる」と言われています(7節)。ダビデはエブス人の町エルサレムを陥落させて「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、9節)。けれども、エブス人は滅ぼし尽くされたのではなく、ユダの民の中に吸収されたようです(同24章16節参照)。神は、御自分の支配を、力ではなく平和をもって打ち立てられるということです。
それゆえ、地上から戦乱はなくなり、イスラエルに平和が訪れます。だから、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」と言われ(9節)、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を立つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」と記されるのです(10節)。
ここで、「娘シオン」、「娘エルサレム」と言われているのは、いずれもエルサレムの町のことで、文字通りの「娘」ではありません。町が女性名詞なので、擬人化して「娘」と言っているのです。
冒頭の言葉(11節)で、「捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」というのは、イスラエルの父祖ヤコブの11番目の息子ヨセフの身の上に起こった出来事を思い出させます。ヨセフは父ヤコブの寵愛を一身に受け、ヨセフはそれを鼻にかけているようなところがありましたので、10人の兄たちの妬みを買い(創世記37章1節以下)、空の井戸に投げ込まれて殺されかけます(同12節以下)。空井戸ですから、水がありません(同24節)。食べるものもありません。飢えと渇きで死んでしまうかもしれません。
しかし、長兄ルベンが、弟を殺すのはやめて、イシュマエル人に売ってしまおうと提案したとおり、ヨセフは井戸から出され、イシュマエル人キャラバンに売られ、エジプトで奴隷として働かされることになります(同25節以下28節)。それは大変な道ですが、まずは死を免れました。
エジプトでも困難なところを通りましたが(同39章参照)、神はヨセフを祝福されて、ついにエジプトの宰相に任じられるようになります(同41章参照)。そのことを通して、ヤコブ一族は飢饉から救われ、400年を超える奴隷生活の後、戦いに出ることの出来る成人男子だけで60万を超える大民族となりました。
預言者ゼカリヤが活動していた時代、捕囚から解放されたものの、いまだイスラエルの国に戻って来ていない民も少なくありませんでした。帰国した方が圧倒的に少ないという状況でした。それは、帰国しても困難が待っているだけで、バビロンにいる方がまだましである、と考えられたからです。
そこで、神は彼らのために、ロバに乗る平和の王、勝利を与える者を遣わされます(9節)。神によって繁栄が回復されます。失ったものが2倍になって戻って来ると約束されています(12節)。神は私たちのために恵みを備えて、私たちが神のもとに帰るのを待っておられるのです。「砦に帰れ」(12節)という御言葉に聞き従うことを、神は求めておられるのです。
あらためて、「水のない穴」とは、御言葉を聞くことの出来ないところと考えられます。水は、神の御言葉を指しています(エフェソ書5章26節、ヨハネ福音書4章参照)。私たちは、いつも水のある広い場所、神と共にいて、その御言葉を聴くことの出来るところにいたいと思います。
私はその資格を持っているとか、そこにいるのが当然というのではありません。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」と言われるとおり、主イエスが十字架で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約によって救いの恵みに与り、神の宝の民として頂いたのです(16節、出エジプト記19章5,6節、第一ペトロ書2章9節)。それは私たちの行いによるのではなく、神の恵みです。神が招いて下さるからこそ、神の御前に立つことが出来、主の御声を聴くことが許されるのです。
主よ、いつも共におらせて下さい。御言葉を聞かせて下さい。御言葉に聴き従うことが出来ますように。弱い私たちを助けて、常に信仰によって歩ませて下さい。主の恵みを信じます。 アーメン