風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年07月

7月26日の御言葉 「聖所はあるべき状態に戻る」

「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」 ダニエル書8章14節
 
 ベルシャツァル王の治世第3年、即ち紀元前551年ごろに、ダニエルは再び幻を見ました(1節)。それは、7章で見た幻を再確認するような内容です。このときに見た一頭の雄羊は、二本の角を持っており(3節)、それは20節で、メディアとペルシアの王のことであると説明されています。つまり、この年、ベルシャツァル王が殺され(5章30節参照)、バビロン帝国がメディアとペルシアの二つに分かれることを示しています。
 
 その後、雄山羊が登場してきて、雄羊を打ち倒します(5~7節)。これは21節で、ギリシアの王のことであると説明されており、これは恐らく、アレキサンダー大王を指していると思われます。そしてその後継者に、非常に強大な王が現れます。「一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり」(9節)とは、そのことです。それは、アンティオコス・エピファネス王を指していると考えられます。
 
 ダニエルは、その角が「麗しの地」へと力を伸ばすのを見ました(9節)。麗しの地とはイスラエル、なかんずくエルサレムをさしています。アンティオコスは日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒しさえしています(11節)。エピファネスとは、神が現れるという意味ですから、彼は自らを神の座に置く称号をつけていたわけです。彼のゆえに、イスラエルの民は苦しめられました。
 
 それはそうと、アンティオコスが王となるのは紀元前175年ですから、ダニエルはずいぶん先のことを幻で見たことになります。今バビロンで宰相に任じられているとはいえ、捕囚の身の上のダニエルにとって、そんな先のギリシアに苦しめられるエルサレムの幻を見るとは、どういうことでしょうか。

 それは先ず、イスラエルには、これからも苦難が続くというメッセージと受け取れます。一難去ってまた一難、ということです。アッシリアの次はバビロン、バビロンの次はペルシア、ペルシアの次はギリシア、ギリシアの次はローマがパレスティナを支配します。
 
 ですから、バビロンに滅ぼされたイスラエルの民は、自らの手で完全な独立、自治を勝ち取りたいと願い続けます。主イエスが登場してきてその奇跡を目の当たりにした群衆が、主イエスを王に推し立てようとしたのも、その現れです(ルカ福音書19章38節、ヨハネ福音書6章15節など)。
 
 しかし、彼らの願いはなかなか実現されません。歴史上、紀元70年にローマ軍によってヘロデによる第三神殿を破壊されてからは、今に至るまで、自らの神殿を持つことも出来ないままでいます。
 
 しかし、もうひとつ大切なメッセージがあります。それは、苦難は永遠のものではないということです。「いつまで続くのか」という問いに対して(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、「日が暮れ、夜が明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る」という答えがありました。
 
 「日が暮れ、夜が明けること」で2回とカウントすると2300回は1150日、つまり三年余ということになり、7章25節の「一時期、二時期、半時期」、すなわち3.5年と符合することになります。
 
 「7」が完全数で、その半分ということですから、文字通り三年半というよりも、苦難はいつまでも続かないという意味と考えればよいでしょう。

 イスラエルの民はこのメッセージを受け止め、今でも神による国と神殿の再建を堅く信じているわけです。どんな状況であっても主に信頼し、その御言葉の成就を待ち望む信仰を、私たちも学びたいと思います。
 
 パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)と言いました。パウロが同書11章23節以下に彼が味わった苦難のリストを上げていますが、それは、とても軽い艱難とは思えません。

 しかしながら、それを「軽い」と言わしめるほどに、彼の心には、神の御国に入る希望が満ち、永遠の栄光に比べれば、艱難は「一時」のことと言い得たのです。

 主よ、どうか私たちの悩みに目を留め、苦しみから解放して下さい。暗闇に真実と愛の光を灯して下さい。わたしたちの主こそ、真実であり、また希望と慰めの源だからです。 アーメン

7月19日の御言葉 「名前を変えて」

「侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。」 ダニエル書1章7節

 今日から、ダニエル書を読み始めます。本書は、「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目」(1節、紀元前605年ごろ)にバビロンの捕虜となったダニエルに名を借りた著者が記しているという構成になっています(特に7章1節以下参照)。
 
 2節で、「ユダの王ヨヤキムと、エルサレムの神殿の祭具の一部を彼(ネブカドネツァル)の手中に落とされた」というのは、列王記下24章1節以下との関連で、ヨヤキムがネブカドネツァルに降伏し、服従のしるしとして神殿の祭具を差し出した、と解釈すればよいでしょうか。ヨヤキム自身は、捕囚となることはありませんでした。
 
 本書の書名であるダニエルについては、「イスラエル人の王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」(3,4節)で、「ユダ族出身」(6節)と紹介されています。
 
 ただし、本書の中心部分はアラム語で書かれ、用いられているアラム語、ヘブライ語の用法は、主に紀元前2世紀ごろに用いられたものであるということから、本書が現在の形に編集されたのは、シリアのアンティオコス・エピファネスによってパレスティナが支配されていた時代と考えられます。そのためなのかどうか分かりませんが、ヘブライ語聖書(マソラ本文)では、ダニエル書は「預言書」ではなく、詩編やエステル記、エズラ記などと並んで「諸書」に区分されています。
 
 さて、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを陥落させ、多くの者を捕囚としてバビロンにつれて来ました。そして、前述のように、捕囚の民の中から優秀な若者を選んで宮廷で仕えさせることにしました(3~5節)。そこに、ユダ族出身の四人の若者がいました。ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤです(6節)。
 
 侍従長は、冒頭の言葉(7節)のとおり、彼らの名前をバビロンの名前に変えました。名前を変えるというのは、それ自体何でもないように見えますが、これは自分たちの文化を相手に強要し、相手の文化を否定するという象徴的な出来事です。古くは、ヤコブの子ヨセフがエジプトの宰相となるとき、ツァフェナト・パネアという名前を与えられたということがありました(創世記41章45節)。近くは、戦時中、日本が併合した国で宗氏改名を行いました。
 
 ダニエルとは「神が裁きたもう」という名前で、神の正義を信じる親が子にその名をつけたわけです。それがベルテシャツァルと変えられました。これはバビロンの言葉で「王の生命をお守り下さい」という意味です。親が祈りを込めてつけた名前が奪われ、別の名前で呼ばれるというのは、経験してみなければ分からない屈辱の世界でしょう。自分が好んでつけるペンネームやニックネームとはわけが違います。
 
 あるいは、自分の人生を左右する出来事に出会い、改名するということもあります。たとえば、主イエスの弟子となった漁師シモンがペトロと呼ばれ(マタイ福音書16章18節)、迫害者であったサウロがパウロと名乗っています(使徒言行録13章9節)。ヤコブはヤボクの渡しで神の使いと争ったとき、神の使いから「イスラエル」の名前を与えられました(創世記32章29節)。アブラムがアブラハムに(創世記17章5節)、サライがサラに(創世記17章15節)、名前を変えています。そこには、新しい人生の神の祝福があります。
 
 ダニエルの改名は、彼が望んでしたものでも、人生を左右する出来事に出会って神の祝福の名前がつけられたというのでもありません。彼自身ではどうすることも出来ない力に押さえつけられるかのような出来事です。
 
 けれども、そのような状況にあって、ダニエルが自分を見失うことはありませんでした。8節の、「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」たというところにそれが表われています。神の御前に、清くあることを願っていたわけです。
 
 私たちも、この地上を主イエスを信じる信仰によって歩み通し、御国に凱旋するとき、主なる神が私たちに、祝福による新しい名を与えて下さることでしょう。

 主よ、御子キリストは肉をとってこの世に来られたとき、イエスと名付けられ、また、インマヌエルと呼ばれました。十字架の死によって贖いの業を成し遂げられて、高く上げられ、あらゆる名にまさる名が授けられました。キリストに倣う者として、御言葉に従い、御霊の力を受けて宣教の使命を果たし、御名を崇めさせて下さい。主の祝福が常に豊かにありますように。 アーメン

7月12日の御言葉 「聖と俗の区別」

「彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。」 エゼキエル書42章20節
 
 エゼキエルは主の使いに連れられて、神殿の外庭に出ます(1節)。そこでエゼキエルは、拝殿の北と南に二つの大きな部屋があるのを見ました。
 
 13節に、「神域に面した北側の部屋と南側の部屋は、いずれも神聖な部屋である」と記されています。この後の数節にも、「神聖」という言葉が繰り返し用いられています。これには、エゼキエルがかつて見たエルサレム神殿の堕落した様子が反映していると思われます(8章参照)。
 
 その部屋は、「主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる」場所であり、また、「穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物を置く」場所です(13節)。この場所で、神に献げられた最も神聖なものを祭司たちが食べて、その神聖な務めにつくようにされていたわけです。
 
 冒頭の言葉(20節)に、この神殿は、聖なるものを俗なるものから区別するために設けられた、とあります(20節)。神は、俗なるものによって汚すことの許されない、聖なる聖なる聖なるお方だということです。
 
 エフェソ書2章11節以下に、「隔ての壁が壊された」(同14節)という記事があります。かつての神殿には、異邦人や女性、子どもとユダヤ人男性を隔てる壁があり、そして祭司だけが入れる聖所(拝殿)、そして、選ばれた大祭司が一年に一度だけ入れる至聖所(奥殿)と、人を区別する壁が幾重にも建てられていました。しかし、キリストが神殿の垂れ幕を真っ二つに裂かれて(マルコ福音書15章38節、ヘブライ書10章20節)、この壁が壊されました。今や、神を信じる者に異邦人とユダヤ人、男と女といった区別はなくなり(ガラテヤ書3章28節)、すべての者が父なる神に近づくことが出来る(エフェソ書2章18節)、と教えられています。
 
 けれども、壁が壊されたからといって、聖と俗の区別はどうでも良いことになった、というわけではありません。神は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ書13章8節、マラキ書3章6節も参照)。パウロは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(第一テサロニケ4章3節)と語り、ヘブライ書10章10節には、「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」と記されています。

 私たちは、「使徒や預言者という土台」(エフェソ2章20節)、つまり、使徒や預言者によって語られた神の御言葉を基盤とする生活をするのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と書いてあるとおりです。祭司たちが神聖なものを食べて主の務めを果たしたように、私たちも、神の御言葉を食べて、主の僕としての務めを果たさせて頂くのです。
  
 14節に、「祭司たちが聖所に入ったときは、聖所からそのまま外庭へ出てはならない。務めのときに身に着けた衣服はそこへ置く。なぜなら、それは神聖だからである」とあります。聖にして聖なる神に近づいて務めを果たすために、神聖な衣服で身を覆う必要があったわけです。

 私たちは主イエスを信じてバプテスマを受けたとき、キリストを着せて頂きました(ガラテヤ書3章27節)。それは、主イエスを信じるすべての者を清めるため、主がご自分の肉を裂き、尊い血潮を流して下さったということであり、主イエスにあって、新しく生きる者とされたということです。先のヘブライ書の引用箇所に言われるとおりです。
 
 また私たちは、生ける神の神殿とされました(第二コリント書6章16節)。私たちの内に聖なる神の霊が宿っています(第一コリント書3章16節、6章19節)。これは、個々人のことではなく、神の教会を指しています。聖霊の働きによって、御言葉を土台とし、主イエスを中心に、主を信じる信仰に導かれた者たちが互いに組み合わされて、聖なる神殿として建て上げられて行きます(エフェソ書2章20,21節)。
 
 聖霊の内住により、キリストの体として立てられた教会の働きを通して、神の栄光を表わすことが出来るように、今日も御言葉を聴き、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、御子の贖いによって神の家族に加えて下さり、感謝します。私たちを日々御言葉によって養い、御霊の働きを通して、神の栄光を表わす神の住まいとして建て上げて下さい。 アーメン

見えるようになった


両親6月26日に書いた記事のコメントに記したように、父は、福岡医療センターで6月30日、7月2日の両日、白内障の手術を受けて来ました。

視力が回復したことで、気力も出て来たようだと書いておりましたが、実際、聖書も新聞も読める、何もかもよく見えるといって、えらく元気そうです。
あらためて、皆様のお祈りを感謝致します。

昨年末、具合が悪くなった父を見て、春を迎えられるだろうかと思っていました。
今も、予断を許さない状態が続いているのでしょうけれども、この笑顔を見ていると、まだ暫くは終りの日は来ないのかなと思ってしまいます。
すべて主の御手の内にあることであり、また、父にもなお果たすべき責任があるのでしょう。

主の御名が崇められますように。
御心がなりますように。 アーメン

7月5日の御言葉 「お前が彼らを憎んで行った怒りと妬みに応じて」

「お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる。」 エゼキエル書35章11節

 35章には、セイル山に対する託宣が記されています。セイル山とはエドムのことです(創世記36章8節)。エドムはイスラエルと国境を接する死海の南東部、セイルの山地に住み、イスラエルとは様々なときに相争ってきました。
 
 既に25章12節以下に、エドムに対する裁きが語られておりましたが、ここに改めて預言がなされています。それは、彼らがバビロン軍の尻馬に乗ってエルサレムを滅ぼすことに加担したからであり(5節)、隙あらばイスラエルをおのが領土にしようと狙って(10節)、略奪を繰り返しているからです。これらの表現から、神は神に背き続けていたイスラエルを裁くために、バビロンを御自分の器として用いられますが、エドムは神に選ばれた器ではなかった、ということが示されます。
 
 神は冒頭の言葉(11節)のとおり、彼らの憎しみと妬みによる悪行に応じ、エドムに対して同じように行うと言われます(11節)。エドムがイスラエルに対して敵意、憎しみを持っていることは理解出来ます。もともとはイサクの双子の兄弟エサウとヤコブの問題でした。
 
 兄エサウ(=エドム)は弟ヤコブ(=イスラエル)によって長子の権を奪われ(創世記25章27節以下)、次いで神の祝福を奪われました(27章)。エサウはヤコブを必ず殺すと決意する事態になりました(27章41節以下)。その後、兄弟は和解したようですが(33章)、イスラエルに対する憎しみが絶えず心の底に宿っていたのではないでしょうか。
 
 そして、ダビデ・ソロモンの時代、イスラエルは銅山と紅海(アカバ湾)に出る港を手に入れるためにエドムを侵略し、支配しました。列王記上9章26節にエツヨン・ゲベルという地名が出て来ますが、ここには銅の精錬所がありました。ここで青銅を作り、神殿や宮殿の建築に用いたのです。また、ソロモンはここに良い港を作りました。
 
 かつて出エジプトの民がエジプトから約束の地カナンに入るためにここを通ったことがあり、陸路でも重要な宿営の町でした(民数記33章35節)。ですから、ここは陸と海の要となる町だったわけです(新共同訳聖書後部の地図「2.出エジプトの道」も参照)。このような侵略と支配に対してさらに憎悪が深まったことでしょう。
 
 ですから、バビロンがイスラエルに攻めてきたとき、エドムはバビロンの側についてエルサレム攻略を行ったわけです。それによって、積年の恨みを晴らしたかったことでしょう。けれども、そのような憎しみや妬みは、良いものを産み出しません。絶えず争いを産み出します。それは結局、自らの滅びとなってしまうのです。
 
 「9.11」同時多発テロ以降のアメリカとアフガン、イラクの戦争、現在にも続く紛争状態が、それを雄弁に物語っています。やられたらやり返せという論理は分かりやすいけれども、そこに真理はありません。報復に報復が繰り返されるだけです。勿論、神がそれを喜ばれるはずがありません。戦争によって神の祝福を勝ち取ることは出来ないのです。
 
 今年4月に北朝鮮が通信衛星打ち上げと称して大陸間弾道ミサイルの発射実験を行い、国際社会の非難を受けるや、六カ国協議をボイコットし、核実験、ミサイル発射実験を強行するなど挑発行為が繰り返されています。それを受けて、国連安保理で制裁を強化しようとしています。ただ、制裁をより強化するというやり方だけでは、北朝鮮を徒に追い詰め、軍が暴走して核兵器を使用するというような最悪のシナリオを選択することにもなりかねません。
 
 北朝鮮が核開発を放棄し、日本が求める拉致被害者を解放するという結論に導かれるため、北朝鮮を六カ国協議のテーブルに着かせ、神がその協議を導いて、よい結論に至るための道筋がつけられることを祈り願いたいと思います。
 
 主よ、どうかキリストにある平和が、全世界にありますように。キリスト教会が全世界の平和の道具として、主に用いられますように。私たちの心の中から、憎しみや妬みなどが追い出され、キリストの愛と平和が心を満たしますように。 アーメン
livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート
  • ペシャワール会・中村哲 講演会
  • 日比恵三・平井陽子 Duo Concert
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 6月25日(日)主日礼拝説教
  • 6月25日(日)主日礼拝案内
  • 6月18日(日)主日礼拝案内
  • 6月11日(日)主日礼拝説教
  • 6月11日(日)主日礼拝案内
  • 6月4日(日)主日礼拝説教
  • 6月4日(日)主日礼拝案内
  • 映画「標的の島 風(かじ)かたか」先行上映
  • 映画「標的の島 風(かじ)かたか」先行上映
  • 5月28日(日)主日礼拝説教
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ