風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年06月

6月28日の御言葉 「ダニエルよりも賢く」

「お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。」 エゼキエル書28章3節

 ティルスに対する託宣(26~28章)の最後の章で、ここには君主に対する託宣が記されています(2節)。冒頭の言葉(3節)では、ティルスの王に対して、「ダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない」、と言われています(3節)。ダニエルについては、ダニエル書1章17節に、「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」と言われています。ある註解書には、「古代世界における伝説的な賢人であり、ツロ(ティルスのこと)より少し北のラス・シャムラで発掘されたウガリット語の文献の中でも言及されている」とありました。
 
 ダニエルよりも賢いと言われるティルスの王は、その知恵を用いて国際貿易で大きな利益を上げ、金銀を宝庫に蓄えることが出来ました(4節)。しかし、彼はその知恵にも拘らず、愚かさを示したと言われます。それは、「わたしは神だ」と思い上がり(2,6節)、自分が人間に過ぎないという真実を認めることが出来なくなっているからです。その意味で、「ダニエルよりも賢く」というのは、思い上がって自分を神であるかのように思っていることを皮肉った表現ではないでしょうか。
 
 13節を見ると、彼はエデンの園にいるとあり、そして14節では、「翼を広げて覆うケルブとして造った」と言われます。創世記3章で蛇が人間に善悪の知識の木の実を食べさせるとき、神のように善悪を知るものとなる、つまり、神のように知恵あるものとなると誘いました。人は知識の実を食べて賢くなったかもしれませんが、しかし愚かでした。それは、神に背いたからです。結局、エデンの園を追放されてしまいます。そして神は、命の木の実を食べて永遠に生きる者となることがないよう、命の木に至る道を、ケルビムときらめく剣の炎に守らせられました(創世記3章24節)。
 
 ということは、神に背いてエデンの園を追い出されたアダムたちから命の木を守るようにという使命を仰せつかったケルビムが、おのが知恵と美しさに心昂ぶり、「わたしは神だ」と言い出して、神に裁かれているという状況が思い浮かびます。
 
 確かに、優れた知恵をもっていれば、この世において、様々な工夫やアイデアで大きな業績を上げ、莫大な富と力を手にすることが出来るでしょう(4,5節)。ただ、そのような工夫や努力、成し遂げた成果に目を奪われていて、その知恵をお与え下さった神を忘れてしまいます。
 
 聖書は、「主を畏れることは知恵の初め」と語ります(箴言1章7節など)。この真の知恵を神から授かった者は、当然、主なる神を畏れることを知っているわけで、その人間が、「わたしは神だ」、「自分の心は神の心のようだ」」などと思うはずがないのです。それなのに、他人と比べて優れた知恵を持っていると、自分が人間に過ぎないことを忘れてしまうのです。
 
 同じ箴言に、「豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている」、という言葉があります(11章22節)。金の輪は美しいものだけれども、それを豚の鼻輪にするのは不釣合いです。ですから、対句の「美しい女性に知性が欠けている」というのは、美しい女性に知性が欠けていて、不釣合いだということになります。豚が鼻に金の輪を飾り、美しい女に知性が欠けているという組み合わせから、自分の美しさを鼻にかけている女性は、豚が金の花輪をしているようで、知性に欠けているという意味に読めばよいのでしょう。そしてこれは、女性の美だけを語っているものではないでしょう。自分の知恵の豊かさを鼻にかけたり、財産の多さを鼻にかけたりと、自分の持ち物を過信する者たちの愚かさを語っているのです。それは、いかにも不釣合いなので、神に取り上げられてしまうのです。豚に真珠を投げ与えるべきではないからです(マタイ福音書7章6節)。
 
 私たちにすべての賜物をお与え下さった主の恵みを忘れず、賜物を生かして用い、主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩ませて頂きましょう。その原点は、主を畏れること、主を愛すること、主を信じることです。

 主よ、私たちが持っているもので、本当に私たちのものといえるものは一つもありません。それらは皆、委ねられた使命のために用いるようにと、あなたから授かったものです。主にあって豊かな実を結ぶ人生を歩むことが出来るように、日々御言葉を賜り、その導きに忠実に従うことが出来ますように。 アーメン

6月21日の御言葉 「主の言葉を聴け」

「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火はお前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす。」 エゼキエル書21章3節(21章1~5節は、口語訳聖書、新改訳聖書では20章45~49節となっています。)

 主の言葉がエゼキエルに臨みました。それは、「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火はお前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす」(3節)という言葉です。これは、イスラエルの人々にとって、どのような意味を持つ言葉だったのでしょうか。
 
 エゼキエルは、これはイスラエルの人々に理解されないだろうと考えたようです。だから、「彼はことわざを語る者にすぎないではないか」と言われたと神に訴えています(5節)。それというのも、ネゲブには「森」と呼べるところはないからです。ネゲブは、イスラエル南部の乾燥した荒れ地です。ですから、そこで、山火事など起こりようがないとイスラエルの人々は考えるでしょう。そして、神がそのようにしてイスラエルを裁くと言われても、それは無意味なことだ、と思うでしょう。だから、エゼキエルはもう少し丁寧な説明が必要だと考えたのです。
 
 そこで、主は6節以下の解説をお与えになりました。ネゲブの森とは、エルサレム、イスラエルの地のことだと。火で焼き尽くすとは、剣で滅ぼすという意味だと。そもそも、ソロモンがエルサレムに建てた王宮は、「レバノンの森の家」と言われていました(列王記上7章2節)。それは、レバノン杉がふんだんに用いられているからです。そうしたことから、「ネゲブの森」という表現が出て来たのかもしれません。
 
 しかし、神はなぜ、最初からエルサレムを剣で滅ぼすと言われないで、ネゲブの森を火で焼くと言われたのでしょうか。それは、もはや神がイスラエルの民に理解されることを求められないということではないでしょうか。けれども一方、神の言われることをきちんと聞けば、解説されなくても分かるはずだ、と考えておられるようにも思います。
 
 神が「ネゲブ」と言われたとき、それは固有名詞としてではなく、一般名詞の「南」という意味で言われていると考えることも出来ます。実は、2節の「テマン」も「ダロム」も南という意味です。口語訳では、どちらも南と訳されています。そして、「ネゲブ」も南という意味なのです。つまり、同じ意味になる言葉を三つ重ねて、「南」を強調しているのです。イスラエル、エルサレムはバビロンの南にあります。神は、北から南に災いを送る、つまり、バビロンからイスラエルに災いが来ると示されているわけです。
  
 そして、ネゲブが荒れ野なのは、雨が少ないからです。そして、水源がないのです。それと同様に、イスラエルが亡国と捕囚の憂き目を見るのは、真の水源である神から離れてしまったからです(エレミヤ書2章13節、17章12節、ヨハネ福音書4章14節も参照)。もしも、神との契約が守られていたなら、イスラエルの民が神との交わりを大切にしていたなら、彼らが枯れ木になることはなかったでしょう。それこそ、豊かな森を形成し、多くの命を育んでいることでしょう。
 
 これは、私たちの信仰生活を反省させられるところです。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者に道にとどまらず、傲慢なものと共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われます(詩篇1編1~3節)。主イエスを信じ、主が語られる言葉に留まり、そこに堅く立たせて頂きましょう。

 主よ、どうか私たちを祝福して下さい。祝福の地境を広げて下さい。あなたの御手であらゆる災いから守り、すべての苦しみを遠ざけて下さい。あなたを信じ、あなたの御言葉にお従いします。 アーメン

6月14日の御言葉 「ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても」

「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。」 エゼキエル書14章14節

 13節で、「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜もたち滅ぼす」、と主が語られました。「ある国」とは、すべての国を指す表現ではありますが、まず第一に、イスラエルのことが考えられていると言うべきでしょう。イスラエルは、神の選びの民でありながら、神の前に不信を重ね、罪を犯し続けているからです。
 
 ダビデ王朝最後の王ゼデキヤも、「主の目に悪とされることをことごとく行った」と言われ(列王記下24章19節)、それゆえ、「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態(第二次バビロン捕囚を招いた)となり、ついにその御前から捨て去られることになった」のです(同30節)。
 
 そしてそのとき、冒頭の言葉(14節)のとおり、たとえそこにノア、ダニエル、ヨブという義人たちがいたとしても、彼らは自分の息子、娘たちも救うことが出来ない。ただ彼らは自分自身を救い得るのみである、などと繰り返し言われます(16,18,20節)。
 
 かつて、ノアは箱舟を造り、それによって家族と動物たちを救いました(創世記6章以下)。ヨブは、家族や財産を一度に失うという経験をしましたが、最終的に、すべてが回復され、財産は倍になりました(ヨブ記1章、42章7節以下)。ダニエルについては、この件に関して、その名が上げられる理由はよく分かりません。
 
 ただ、ダニエル書の「ダニエル」とはつづりが違いますので、紀元前13世紀ごろ記されたと考えられているウガリット文書に出て来る正義の支配者ダニエルのことではないか、という説があります。ノアはイスラエル建国前の人物で、メソポタミアのギルガメシュ叙事詩との関連が無視出来ませんし、ヨブはウツの地(ヨブ記1章1節)、それはエドムのことと考えられています。ということは、ここに名が挙げられた三人はいずれも、いわゆる「ユダヤ人」ではないということになります。それにより、世界中から「義人」を呼び集めたとしても、そして、彼らがイスラエルの救いを執り成し祈ったとしても、イスラエルを救うことは出来ないということが示されるわけです。
 
 もしかすると、偽りの預言者たちが、この三人の名前を上げながら、彼らがイスラエルの平和を回復してくれる、それに期待しようと告げていたのかも知れません。そして、エゼキエルのもとにやって来た長老たちは、そのような人物の登場を待ち望んでいたのではないでしょうか。
 
 けれども、その期待は適いません。その希望は失望に終わります。それは、彼らの信仰が神の御前に真実ではないからです。イスラエルの長老たちは、心に偶像を抱いている、と主に見抜かれています(1節以下)。捕囚という苦難の中で、自分たちを救い、解放してくれるものなら誰でもよい、何でもよいと、あれもこれもに手を出そうとしてしていたのでしょう。
 
 かつて、サウル王が、ペリシテとの闘いに臨み、神の託宣を得ようとして果たせなかったとき(サムエル記上28章1節以下、6節)、口寄せ(霊媒)の女性の所へ赴きました。それはまさに、主に対する不信の表れ以外の何ものでもありませんでした。
 
 神が願っておられるのは、イスラエルの民がおのが罪を認め、悔い改めて神に立ち返ることです。恵みと憐れみの神を思い出すことです。ノア、ダニエル、ヨブが自分自身を救いうるのは、彼らが立派で何の落ち度もない完全無欠の人間だからではなく、神に聴き、神の導きに素直に従う者たちだったからです。神は、イスラエルの民がかの三人のようであることを望んでおられるのです。

 主よ、私は義人ではありません。自分で義人になれません。どうか私を憐れんで下さい。罪を赦し、罪の呪いから解放して下さい。絶えず主の御顔を尋ね求めます。御子イエスの贖いのゆえに、すべての罪を赦し、神の子として下さったことを、心から感謝致します。 アーメン

6月7日の御言葉 「わたしの宝を汚し」

「わたしは彼らから顔をそむける。彼らはわたしの宝を汚し、乱暴な者が襲いかかって汚す。」 エゼキエル書7章22節

 7章には、「終わりが来る」(2,3,6節)、「怒りを送る」(2,8,12,14節)、「災いが来る」(5,26節)、「時は来た」(7,12節)、「その日が来る」(7,10,12節)、などという言葉が、繰り返し語られています。
 
 冒頭の言葉(22節)の中に、「宝」という言葉がありますが、これは、神の民イスラエルのことであり(出エジプト記19章5節、申命記7章6節、14章2節など)、また、神がご自身の名を置くと言われたエルサレムの神殿のことです(22節「宝を汚し」、24節「彼らの聖所は汚される」)。口語訳聖書などは、「宝」を「聖所」と訳していますが、それは大切な場所という意味を考えた翻訳です。
 
 597年にバビロンに連れて来られた捕囚の民にとって、神がエルサレムの都におられ、バビロンの縄目から解放してくれる王をダビデの子孫から立ててくれるということが、最後の望みでした。しかしながら、神は、「外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。野にいる者は、剣にかけられて死に、町にいる者は飢えと疫病が滅ぼす」(15節)と言われます。すなわち、剣や疫病、飢饉によって、彼らが一縷の望みとしていた神の都エルサレムの民、そして神殿が滅ぼされるというわけです。これは、エレミヤ書15章2節にも預言されていたことです。
 
 イスラエルの民は、諸外国の圧力や、飢饉、疫病といった災害が起こると、自分の力で何とか解決しようとしますが、なんともなりません。かつては、苦しみの中から呼ばわると、神が助けて下さいました(列王記下19章14節以下、詩編7節、50編15節など)。けれども、今は神ご自身が敵となられ、彼らは神によって苦しめられているのです(エレミヤ諸21章5節、哀歌2章4,5節)。
 
 彼らは、この事態を何とかしてもらおうと、憎むべき忌まわしい偶像を造り(20節)、礼拝をささげます。イスラエルの民がまことの神に背き、神のもとを離れて異郷の神々を慕う偶像礼拝を行っていることが、この苦しみの原因であるのに、その原因に目を向けようとせず、対処療法的に、「溺れる者は藁をもつかむ」と言われるとおり、手当たり次第、あらゆるものに手を伸ばしているのです。けれども、それでは何の解決にもなりません。むしろ、問題をますます深刻にするだけです。
 
 民の罪により、ご自身の「宝」を汚された主なる神は、彼らの家を奪い取らせ、力ある者の誇りを挫き、そうして、彼らの聖所を汚すと言われています(24節)。これは、イスラエルの民によって汚されたエルサレムの都を、神は荒れるにまかされるということでしょう。けれどもそれは、滅ぼし尽くすことを目的としているのではありません。むしろ、彼らの背きの原因を取り除き、彼らが真に目覚めて主なる神のもとに立ち帰ることを期待しておられるのではないでしょうか(6章8節)。
 
 主の祈りのはじめに、「御名が崇められますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「あなたの名前が聖とされますように」となります。「聖とされるように」と祈るということは、御名が汚されているということです。御名を聖とするということは、御名を汚した者を裁くということでもあります。そして、誰が汚したのかと言えば、それは、この祈りを祈る私自身です。私が罪を犯して主の御名を汚したがゆえに、私を裁いて御名を聖別して下さい、と祈るのです。
 
 このように主の御前に跪き、悔い改めの祈りをささげるとき、主は親しく聞いて、「子よ、安かれ、汝の罪、赦されたり」と仰せ下さるのではないでしょうか。
 
 主よ、私を憐れんで下さい、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。 アーメン
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