風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年05月

5月31日の御言葉 「わたしたちを心に留め」

「主よ、わたしたちにふりかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。」 哀歌5章1節

 神の選びの民イスラエルに神の裁きが臨み、嗣業の地は異邦人の支配を受け(2節)、自分たちのものをお金を払って買わなければならなくなりました(4節)。絶えず、飢えと病と剣の危機が待ち受けています(9,10節)。女性は辱められ(11節)、長老たちは邪魔者にされ(12節)、若者や子どもは重労働に駆り出されています。実態を知っているわけではありませんが、終戦直後の満州は、そういう有様だったのではないかと思います。
 
 18節に、「シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く」とありますが、シオンの山はエルサレムの都が置かれたところで、そこには壮麗な王宮と神殿が建てられていました。それが荒れ果てたまま放置されているので、狐の住処になったということです。
 
 それは、「エジプトに手を出し、パンに飽こうとアッシリアに向かった」(6節)という父祖たちの罪の結果です(7節)。すなわち、バビロンに対抗するためにエジプトやアッシリアを頼りとし、異教の偶像を拝んだので、主なる神の怒りを買ったのです。哀歌の作者はしかし、その罪は一人父祖のものというのではなく、16節に、「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ」と語って、それが現世代の自分たちの罪でもあることを、認めています。
 
 それゆえ、「父祖は罪を犯したが、今はなく、その咎をわたしたちが負わされている」(7節)というのです。
 
 イスラエルの民が被った災い、その辛く悲しい状況を、自分たちの罪の報いであると認めた上で、だからこうなったのは仕方がない、イスラエルの再興を諦めるなどというのではありません。この状況を心に留めて下さい、わたしたちに目を留めて下さいと、作者は願い訴えているのです(1節)。ダビデ王朝は倒れ、国は滅びてしまいました。けれども、イスラエルの神、主こそ、まことの王であり、その支配は永遠に続きます(19節)。そこに、作者をはじめイスラエルの残された者たちの希望があります。その希望の上に、もう一度国を建てたいと願っているのです。
 
 だから、「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」(20節)と訴え、「主よ、御もとに立ち帰らせてください、わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください」(21節)と、その憐れみに縋っているのです。
 
 さて、そのような日は来るでしょうか。神がイスラエルに目を留めて下さるでしょうか。それとも、激しい怒りによって永久に見捨てられてしまうのでしょうか。苦しみの最中にあるとき、「朝の来ない夜はない、トンネルの向こうに明るい光がある」などと言われても、本当にそうだろうか、この夜はわたしの最後ではないか、深い洞窟の迷路に迷い込み、もはや二度と日の光を見ることはないのではないか、と思ってしまいます。
 
 あの十字架の上で主イエスが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と叫ばれた言葉を思い出します。この主イエスの激しい叫びを、神は聞き逃されるでしょうか。もう一度、大声で叫ばれて、そのまま息を引き取られたとき(37節)、誰もが、この叫びに父なる神が答えて下さらなかった、主イエスは見捨てられてしまったのだ、と思ったことでしょう。
 
 けれども、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われた神は、放蕩三昧に身を持ち崩した息子でさえも駆け寄って喜び迎えて下さる憐れみ深き父です(ルカ15章11節以下、20,22節)。必ず私たちの状況に目を留め、そこから救い出して下さると信じます。だからこそ、この苦しみがいつまで続くのか、と尋ね、心を留めてください、立ち帰らせてください、と訴えるのです。主によって、そうすることが許されているのです。

 主よ、ヤベツが祈ったとおり、どうか私たちを祝福して下さい。祝福の地境を広げて下さい。御手を私たちの上に置き、あらゆる災いから護り、すべての苦しみを遠ざけて下さい。そして、一切のことを御心のままに行って下さい。御名が崇められますように。 アーメン

「旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ」

犬と散歩中に、名作映画劇場のポスターを見つけました。

6月7日(日)、名作映画劇場(大牟田市教育委員会後援)が開催されます。
今回、上映されるのは、「旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ」です。

この映画は、現在の旭山動物園園長と副園長が実在のモデルになった、真実のドラマです。「雪の中でこそ、美しくたくましく生きる動物たちの姿を描いた感動作になっています。猛スピードで空へ向かって飛ぶペンギン、雪玉を投げるゾウなど、なかなか見ることのできないイキイキとした動物たちの仕草が、スクリーンで待っています!」と、紹介されています。

上映開始時間は、6月7日(日)朝10時~、午後1時~、午後4時~、午後7時~の4回です。
開場時間は、上映開始のそれぞれ30分前です。

上映会場は、大牟田文化会館小ホールです。

入場料は、
*前売券
 一般 1,000円、高校生以下 700円、親子(一般と高校生以下のペア) 1,500円
*当日券
 一般 1,300円、高校生以下 1,000円、親子 当日券なし
となっています。

チケットは、大牟田文化会館、観光プラザ、コーヒーサロンはら、アオキ楽器店、スズヤ楽器店、ゆめタウン大牟田サービスカウンター、ゆめタウンあらおサービスカウンター、荒尾総合文化センター で取り扱っています。

また、この上映会のチケット半券を大牟田動物園に持参すると、小学生以下に限り半券1枚につき、1人まで、入園料が無料になります!
対象期間は6月7日(日)~8月31日(月)です。

是非、映画をご覧になって下さい。

なお、詳細は、大牟田文化会館(電話:0944-55-3131)、または、大牟田市教育委員会・文化スポーツ課(生涯学習支援センター1階)にお問い合わせ下さい。

メ・タ・ボ?!

今日、病院に行って、血液検査などをして来ました。

問題は、総コレステロール値、中でもLDLコレステロール値が高い、中性脂肪値が高い、血圧が高い。
これでお腹周りが85cm以上だったら、メタボリックシンドローム真っ只中という状況になります。
先日、健康診断で測ったとき、80.5cmでした。
しかし、予備軍であることは間違いない・・・トホホ輦

両親とも血圧が高く、循環器系の病気を持っているので、遺伝ということもあるし、運動不足の上に不規則な生活を送っているという生活習慣に問題が。

血圧の薬、コレステロール値を下げる薬が処方されて、一ヶ月飲んで来ました。血圧は落ち着いて来ていますが、コレステロール値はあまり下がっていないとうことで、薬の量が増えることになりました。

ここ一ケ月余り、ほぼ毎晩、犬と散歩に出かけ、20時過ぎたら極力食べ物を口にしないように心がけて来ました。
これからも、この生活を続け、なんとか、メタボを解消したいと思っています。

5月24日の御言葉 「咎を探しても見当たらず」

「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。」 エレミヤ書50章20節
 
 46章から語られてきた諸国民に対する預言の最後は、バビロンに向かって語られる主の言葉です(1節)。2節に、「バビロンは陥落し、ベルは辱められた。マルドゥクは砕かれ、その像は辱められ、偶像は砕かれた」と言われます。
 
 ここで、「ベル」は「主」という意味で、バビロンの主神マルドゥクのことを指しています。もともと、マルドゥクはバビロンの町の守護神でしたが、この町がバビロニア帝国の首都となったので、帝国の最高位の神として崇められるようになったのです。しかし、バビロンが陥落すると、マルドゥクの威光も地に落ち、全く空しいものとなると言われているわけです。
 
 かつて、イスラエルが約束の地に入るに当たり、神は、「あなたの神、主があなたの前から彼ら(アナクの子孫)を追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである」(申命記9章4節)と言われたことがあります。
 
 その意味で、バビロンがイスラエルをはじめパレスティナ諸国を敗北せしめ、多くの民を捕囚としたのは、バビロンが心正しく神の前を歩んでいたからではありません。イスラエル他の国々が神に背き、異教の神々に仕える生活をして、神の怒りを買ったからです。
 
 そして、70年の時が満ちたとき(25章11,12節、29章10節など)、今度は、「一つの国が北からバビロンに向かって攻め上り、バビロンの国を荒廃させ」(3節)ます。ここに、「一つの国が北から」と言われていますが、実際にバビロンを攻めるのは、バビロンの東方にあるエラムとメディア(イザヤ書21章2節)、即ちペルシャの国のことです。それを「北」というのは、イスラエルから見て北方ということでしょう。主なる神は、ペルシャの王キュロスに油を注いで(イザヤ書44章28節、45章1節など)、神に背く罪を犯しているバビロンを罰するのです。
 
 このことを、17,18節でもう一度取り上げらたのち、「そして、イスラエルを元の牧場に連れ戻す。イスラエルはカルメルとバシャンで草をはみ、エフライムとギレアドの山で心ゆくまで食べる」(19節)と言い、さらに「その日、その時には、・・・イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである」(20節)と語ります。
 
 ここで、「イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない』と言われていることについて、31章34節で、「そのとき・・・わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」、33章8節でも、「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」と言われていました。これは、神とイスラエルの民との間に結ばれる新しい契約のことです。
  
 イスラエルの民がバビロンから解放されて帰国を果たすことが出来、そして、彼らの罪を赦すと言われるのは、イスラエルの民がバビロンで心正しく歩んでいたからではありません。神のイスラエルに対する深い愛と憐れみのゆえです。そしてこの新しい契約は、御子イエス・キリストが十字架にかかって贖いの死を遂げられたことによって、成立しました(ヘブライ書8,9章参照)。
 
 私たちも、主イエスを信じる信仰によって、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。神の一方的な恵みにより、主との契約関係に入れていただいたのです。高ぶってはなりません。いつも主の前に謙り、神の力強い御手の下で自らを低くしましょう。そうすれば、あらゆる恵みの源である神が私たちを高く上げ、完全な者として強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます(第一ペトロ書5章6,10節参照)。
 
 主よ、あなたは私たちの罪を赦すと宣言されました。主イエスの十字架の死と甦りの御業こそ、その確かな徴です。私たちは、神の変わることのない生きた御言葉によって新たに生まれたのです。その御業に心から感謝して主の御名を褒め称え、その福音を力強く証しすることが出来ますように。 アーメン

「教科書に載っていないアフリカ」

表題のことについて、頂いたメールを、ブログ管理者の責任で、ここに転載します。

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「教科書にのっていないアフリカ」のご案内

みなさん、こんにちは。
福岡において、ワールド・ビジョン・ジャパンの主催で、「教科書にのっていないアフリカ」が開催されることになりました。
一人でも多くの方に知っていただきたいと思い、ご案内申し上げます。
福岡周辺にお住まいの友人、知人などにご紹介頂けたらと思っています。
よろしくお願いします。

●「教科書にのっていないアフリカ」とは、臨場感あふれるサウンドとビジュアルを通して、アフリカの厳しい現実を懸命に生き抜く子どもたちの姿を実感できる体験型イベントです。
 ベアトリス、オリビア、エマニエル、スティーブン。
実在する4人の子どもたちの人生を「体験」することを通して、アフリカの子どもたちが置かれた現状を、深く実感をもって理解していただきたいと願っています。

●詳しくは、以下のサイトをご覧ください。
URL http://www.worldvision.jp/news/news_0330.html

●日時:6月3日(水)~7 日(日)  10:00~19:30(最終入場時間19:00)  ※最終日のみ入場は16:30まで
●場所:アクロス福岡の1階円形ホール(福岡県福岡市中央区天神1丁目1番1号)
■ 入場料:無料
■ 主催:財団法人福岡県国際交流センター 特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン
■ 後援:外務省/文部科学省/国連人間居住計画(ハビタット)福岡本部(アジア太平洋担当)/福岡県/福岡市/福岡県教育委員会/福岡市教育委員会
■ お問い合わせ:電話:03-3367-7253 住所:東京都新宿区百人町1-17-8-3F Email:ngo@worldvision.or.jp
(お問い合わせの際には、お名前、ご連絡先、件名に「教科書にのっていないアフリカ」とご明記ください)

■ワールド・ビジョン・ジャパンは、世界の飢餓、貧困、災害、紛争に苦しむ子どもたちを支援する国際NGO団体です。
ラブ・ローフや、チャイルド・スポンサーなどの活動をしています。
URL http://www.worldvision.jp/

*ラブ・ローフ(パンの貯金箱)によって集められた募金は、大きな力となって、食糧・水不足に苦しむ世界の子どもたちのために用いられます。
*チャイルド・スポンサーシップにお申込みいただくと、1人の子どもをご紹介し、スポンサーキットをお送りします。ペットボトル1本分、一日あたり150円、月々4,500円のご支援で、教育、保健衛生、水資源開発、経済開発、農業など継続的な支援活動を行い、地域の過酷な状況を変え、子どもの人生を変えます。ご支援期間は自由です。
個人だけでなく、グループや法人でのご支援も可能です。

ワールド・ビジョンは、チャイルド・スポンサーシップを通して、子どもたちの住む地域の貧困解決を目指して活動し、世界304万人の子どもたちに、希望と変革を届けています。
日本では、現在45,000人以上の方がご支援くださっています。

ブロック教役者会


教役者会01ブロック教役者会が菊池シオン教会で開かれました。
今回は、7月27日(月)~28日(火)に予定されている南九州バプテスト大会の具体的な話し合いをするのが、主な目的です。
大会の会場は、熊本・火の国ハイツです。

3年前も、同じ会場で大会を開催する準備を致しましたが、大雨の影響で開催中止を余儀なくされました。
夢をもう一度というわけです。

教役者会02大会のテーマは、「私たちには夢がある ~賛美はすごい~ 」です。
「夢」に「うた」とルビを振ります。
かなり強引な力業かも知れませんが、賛美の楽しさ、賛美の力、賛美の素晴らしさを味わい、分かち合うことが出来ればと願っています。

主題聖句は、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)を選びました。

特別ゲストには、豊原奏・さやかご夫妻(栗ヶ沢教会員)をお招きします。
奏さんは声楽家(テナー歌手)、さやかさんはチェロ奏者です。
ご夫妻のコラボによる素敵な神賛美に、ご一緒に耳を傾けましょう。

二日目には、分団でお二人にそれぞれ、賛美について、楽器を演奏することについて、ご指導いただきます。

この分団の時に、連盟性差別問題特別委員会と連合教会教育部がタイアップして(連合社会委員会協賛)、「性差別を考える」という分団も設けられることになりました。

さらに、大会講師として、国際ミッションボランティアでタイに派遣された杉山いずみさん(所沢教会員)をお招きし、小羊会の指導をしていただくほか、大会でタイ・レポートをお願いしています。

連合内28教会・伝道所の皆様が一堂に会し、賛美溢れる集いとなるよう、万全の準備が出来るように、特に神様の恵みが豊かに注がれるように、お祈り致します。

5月17日の御言葉 「高慢な人々」

「ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。『あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、「エジプトへ行って寄留してはならない」と言っておられない』。」 エレミヤ書43章2節

 ヨハナンたちは、「わたしたちは必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います」(42章5節)と約束していましたが、エレミヤが主に示された言葉を語り告げたとき、民らはそれを実行するどころか、冒頭の言葉(2節)のとおり、「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」と言い、民全員が、全くその御言葉に聞き従おうとはしませんでした(4節)。
 
 そのような振る舞いが神を喜ばせないだけでなく、怒りを招く愚かな行為であるということが、8節以下の、エジプトにおける預言の言葉に示されています。
 
 ユダヤ人歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』に、「エルサレム陥落後5年、ネブカドネツァルの第23年に、ネブカドネツァルはコイレ・シリヤに進撃し、これを占領した後、モアブ人とアンモン人と戦った。これらの国々を従えてから、彼はエジプトに侵入し、これを屈服させた。位についた王を殺し、新しい王を定め、その地にいたユダヤ人を捕らえてバビロンに連れ去った」と記されているそうですが、残念ながら、この記事を裏付ける証拠が全くありません。
 
 バビロンの資料に、ネブカドネツァルの治世第37年、エジプトのアフメネスⅡ世と戦ったとあるそうですが、その結果は、占領には至りませんでした。エジプトは、ペルシア時代に征服されるまで、独立を保ち続けたのです。このときの戦いは、占領を目的としていたというよりは、バビロンに敵対しても無駄だということを知らしめる、牽制的、あるいは警告的なものだったようです。
 
 その意味で、エレミヤの預言は文字通り実現することはなかったということになりますが、エジプトが滅びるかどうかが問題ではありません。エレミヤが語っているのは、エジプトの神々はイスラエルの民を守ってはくれない、ということなのです(12,13節)。
 
 エレミヤの言葉を「偽り」と断じたアザルヤやヨハナンのことを、聖書は「高慢な人々」と括っています。彼らは、自分たちの決定を神の言葉よりも大事にし、そうして、神の言葉を蔑ろにしているのです。その態度が「高慢」と言われているわけです。
 
 ヤコブ書4章6節以下に、「『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』。だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」、と記されています。「主の前にへりくだる」とは、神を恐れ、その御言葉に聞き従うことです。
 
 私たちは今、日毎に御言葉を聴き、静かに御言葉を瞑想することを教えられています。そこで聴いた言葉を繰り返し口ずさみ、またその導きに従って歩むことを通して、御言葉が確かに神の言葉であることを知り、味わいます。御言葉はまた、教会を清めます。エフェソ書5章26節に、「言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」とあります。ということは、私たちが繰り返し御言葉を口ずさむことによって、私たちの口や心も清められるわけです。

 主よ、あなたの愛と憐れみのゆえに感謝致します。私たちは、キリストの贖いなしに御前に進むことの出来るものではありませんでした。絶えず感謝をもって御前に進み、悔い改めて福音に生きることが出来ますように。ただひたすら、あなたの恵みに依り頼みます。御前に謙る者を高く引き上げて下さると、約束されているからです。 アーメン

5月10日の御言葉 「だれひとり恐れを抱かず」

「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。」 エレミヤ書36章24節

 「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」(1節)、即ち、紀元前605年に、主がエレミヤに語りかけられました。この年は、バビロンの王ネブカドレツァルが即位した年でもあります(25章1節参照)。
 
 主は、「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」と命じられました(2節)。「ヨシヤの時代」とは、1章2節の「その治世の第13年」(紀元前627年)ごろということで、それから20年余りに亘り、エレミヤは預言者としての務めをなしてきたのです。
 
 その預言がすべて書き記されることで、「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(3節)と言われました。
 
 そこで、エレミヤはバルクを呼び、巻物に口述筆記させます(4節以下)。こうして、エレミヤ書のプロトタイプが出来ることになりました。
 
 「ヨヤキムの治世の第5年9月」(9節)、それは紀元前604年12月ごろのことですが、バルクは神殿で、エレミヤの言葉を読みました。それを、「書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々の読み聞かせた」のです。それを聞いたゲマルヤの子ミカヤは、王の高官たちにそれを伝え、そこでバルクはもう一度読みます(13節以下)。高官たちは、「この言葉はすべて王に伝えねばならない」(16節)と言いますが、それによってエレミヤに危害の及ぶのを恐れ、「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい」とバルクに言います(19節)。
 
 そして、宮殿の冬の家にいた王の前で、エレミヤの預言が記された巻物が読み上げられます(21節)。王は、読む端からその巻物を切り裂き、暖炉の火にくべてしまいました(23節)。彼らは、神とその預言の言葉を恐れず、神が期待したような、「悪の道から立ち返ろう」というそぶりも見せなかったのです。
 
 かつて、ヨヤキムの父、ヨシヤ王は、神殿で律法の書が見つかり、書記官シャファンがそれを読み上げたとき、その衣を裂き(列王記下22章8節以下、11節)、そして、ユダとエルサレムのすべての民にそれを読み聞かせて、主の戒めと定めと掟を守り、契約の言葉を実行することを誓いました(同23章1節以下、3節)。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち返った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」と、最上級の賛辞が語られます(同25節)。
 
 ここに、ヨシヤ王と書記官シャファン、ヨシヤの子ヨヤキム王とシャファンの子ゲマルヤという2世代の王と書記官の組み合わせがあります。そして、書記官が伝えた神の言葉に対する王の対応は、全く違いました。ヨシヤ王は、書記官シャファンの朗読する神の言葉で衣を裂いて悔い改めましたが、その子ヨヤキムは、シャファンの子ゲマルヤが巻物を燃やさないようにと懇願するのに、耳を貸しませんでした(25節)。
 
 最上級の賛辞が献げられたヨシヤ王ですが、しかし列王記の記者は、「(ヨシヤの祖父)マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとはなさらなかった」(列王記下23章26節)と報告しています。焼け石に水ということでしょうか。しかし、エレミヤに語りかけられた主の言葉(3節)からすれば、焼け石に水でも、続けていけばその熱を冷まし、炎を消すことが出来るということになるでしょう。けれども、ヨシヤの子ヨヤキムは、主の言葉に耳を傾けようともしません。逆に、火に油を注ぐような振る舞いをします。
 
 これが、31章29節で「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と言われた、旧い契約に基づいて、先祖の罪で子孫が祟られるという、罪の呪いでしょう(出エジプト記20章5節)。
 
 主イエスは、罪の呪いを断ち切り、「新しい契約」(同33節)を結ぶために十字架で血を流し、贖いの業を完成して下さいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる主の御言葉に耳を傾け、救いの恵みに与りましょう。

 主よ、ヨヤキムは神の言葉を暖炉の薪程度にしか考えず、その結果、そこに記されていた罪の呪いを身に受けることになりました。主よしかし、私はヨヤキムを笑えません。時に、御言葉を蔑ろにし、心で思ったとおりに行動出来ないのです。どうかこの愚かな者を憐れんで下さい。聖霊に満たし、御言葉の導きに従って歩むことが出来ますように。 アーメン

結婚式


結婚式01本日、教会で結婚式が挙行されました。
新郎は、光の子幼稚園の卒園生です。
新郎のお兄さんも卒園生で、当教会で挙式されました。
お兄さんのお子さんたちも、現在、幼稚園に通って来ておられ、今日の結婚式でリングボーイ、フラワーガールを務めていただきました。


結婚式02卒園生の結婚式をさせていただけるというのは、本当に光栄なことであり、感謝です。
今回も、心を込めて執り行わせていただきました。

いつも願うことは、お二人の幸せです。
多くの方がお二人のことを思って祝福を祈り願われたからこそ、今日の日があり、また、これからも幸せに歩むことが出来ます。
「お陰様」とは、そのことですよね。
みんながお互いに「お陰様で」と感謝し、「お陰様」になり合えば、世界はもっと幸せになるでしょう。

今日は、ヨハネ福音書2章のカナの婚礼の箇所がとり上げられましたが、キリストが最初の奇跡を婚礼の席でなさったというのも、神の祝福が最もよく現わされるのが、家庭であるということを示しているのでしょう。

別の言い方をすれば、神の助けがなければ、神の恵みがなければ、幸せな家庭を守り続けることは難しいということでもあります。
だからこそ、祝福を願う祈りが大切なのです。
今日、結婚式を挙げられたお二人が、末永くお幸せでありますように。

5月3日の御言葉 「捕囚として送った町の平安を求め」

「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」 エレミヤ書29章7節

 エレミヤは、第一次バビロン捕囚(BC597年)でバビロンに連れて行かれた長老、祭司、預言者たち、及び民のすべてに手紙を書き送りました(1節)。それは、「家を立てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」というものです(5,6節)。
 
 こう書き記しているということは、捕囚の民の間に、バビロンからすぐにエルサレムに戻れると考える立場の者がいたわけです。8節に、「あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」と言われているところから、預言者や占い師が、すぐに戻れると捕囚の民に語っていたのではないかとかんがえられます。あるいは、その預言に基づいて、謀反などを計画する向きがあったのかもしれません。
 
 エレミヤがこの手紙を持たせたのは、ゼデキヤ王がバビロンの王ネブカドネツァルに遣わした二人の使者たちでした(3節)。ゼデキヤがバビロンに遣わした使者がエレミヤの手紙を携えているということは、王がその手紙の内容を了解していることをあらわしていると考えるべきでしょう。それによって、ゼデキヤには、バビロンに弓引く意志のないということを示したわけです。
 
 また、使者として派遣された一人が「シャファンの子エルアサ」と記されています。エレミヤはかつて、ヨヤキム王に命を狙われた際、シャファンの子アヒカムによって保護されたことがありました(26章24節)。エルアサはその兄弟というころになりますから、エレミヤが安心して手紙を託すことが出来たでしょう。そういう人物をゼデキヤが選んで使者としたと考えると、ゼデキヤはそのとき、エレミヤと歩調を合わせていたということになります。
  
 エレミヤは、冒頭の言葉(7節)のとおり、「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちのも平安があるのだから」と告げます。神の御心は、捕囚の民がバビロンで70年のときを過ごすことです(10節参照)。
 
 70年というのは、完全数の「7」と「10」を乗じた年数ですから、神の定めた期間が満ちることを示します。70年は人の一生を示す期間であり、捕囚として連れて行かれた人々がバビロンで一生を終えるまでの間、という表現と考えてよいでしょう。
 
 神はイスラエルの民に、捕囚を「災い」と考えるのではなく、そこで、新しい将来と希望を与える「平和の計画」が実行されていることを学びぶよう求めます(11節)。それゆえ、「町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」と主に命じられるのです(16節)。
 
 これはしかし、驚くべき言葉です。祖国を滅ぼし、自分たちを捕囚として苦難を味わわせているバビロンの人々のためには、その滅亡を願う呪いにも似た祈りをささげるのが普通でしょう。それを、平和を祈れと言われるのは、町に平和が支配することが自分たちの平安につながるからと説明されます(7節後半)。
 
 そして、「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(12~14節)と言われます。即ち、ここでバビロンの平和を祈り求めることこそが、神を尋ね求め、主と出会う道であると言われているわけです。
 
 そうすると、これは主イエスが山上の説教で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)と語られた言葉につながります。主イエスは、その御言葉どおりに生き、私たちに平和の計画を実現して下さいました。私たちが父なる神と出会い、交わることが出来るように、主イエスが道となって下さったのです(ヨハネ福音書14章6節)。
 
 主に倣い、御言葉に従って、すべての人々の平安と祝福を祈りましょう。

 主よ、敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、たやすいことではありません。しかし、主はそれを自ら実践されました。それによって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、永遠の命に与ったのです。祝福を受け継ぐ者として、御言葉に従い、平和と祝福を祈らせて下さい。そのため,聖霊の力と恵みに満たして下さい。 アーメン
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