風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年04月

図書館記念日

日本図書館協会のサイト(URL:http://www.jla.or.jp/)に、「4月30日は図書館記念日です」とあります。
その「図書館記念日」というところをクリックすると、記念日制定の趣旨や経緯が記されていました。

制定の趣旨は、「昭和25年4月30日、画期的な文化立法である図書館法が制定され、それを契機として日本の図書館活動は新しく生まれ変わりました。
サービスとしての公共図書館の機能が明らかにされ、無料原則がうちたてられ、わが国は、真の意味での近代的な公共図書館の時代をむかえたのです。
日本図書館協会は、今日の図書館発展の基盤となった図書館法施行の日を記念して、4月30日を『図書館記念日』とすることにいたしました。

戦前の記念日(4月2日:帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています」ということだそうです。

そして、図書館記念日に続く5月1~31日の一ヶ月を図書館振興の月として、新緑を背景に、図書館員が連帯しながら社会との結びつきを強め、アイデアを出し合い、図書館振興のプログラムを進めようとするのだそうです。

こんな日もあったのかという感じですが、振り返って考えてみると、ボクは、学校の図書館以外を利用したことは殆どありません。
中学時代に一度、名古屋市の図書館で本を借りた記憶がありますが、その時は確か、一行も読めずに返却したと思います。

それ以外は、娘の夏休みの自由学習を手伝うために、福岡、平和台周辺の資料を図書館で調べたり、ある日の出来事を調べるために新聞の縮刷版を見に行ったことくらいかなあ。

こんなボクだから、こんなボクのためにこそ、図書館記念日を設けて、図書館をピーアールし、利用を促進する必要があるのでしょうね。

4月26日の御言葉 「正義と恵みの業を行い」

「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」 エレミヤ書22章3節

 これは、ユダの王の宮殿で語られた預言者エレミヤの言葉です(1節)。ユダの王とは、誰とは特定されていません。すべての王が聞くべき神の言葉と考えてよいのでしょう。同様の言葉は、21章11,12節にも記されていました。
 
 神はユダの王たちに、寄留の外国人、孤児、寡婦という社会的に弱い立場にいる者を守り、賄賂を取って裕福な者に有利に判決を曲げたりしないように、公正、公平な裁判を行うように命じます。そして主なる神は、「もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・この宮殿は必ず廃墟となる」(4,5節)と言われます。
 
 この後、3人の王(ヨシヤの子シャルム[11節、列王記下23章30節以下ではヨアハズと言われる]、ヨシヤの子ヨヤキム[18節、王下23章34節以下参照]、ヨヤキムの子コンヤ[24節、王下24章8節以下ではヨヤキンと言われる]〉に対する言葉が記されますが、それはいずれも、厳しい裁きの言葉です。ということは、彼らが冒頭の言葉(3節)で命じられているところを熱心に守り行わなかったということです。
 
 列王記の記事によれば、3人とも、「先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」と言われています。
 
 シャルムとヨヤキムの父ヨシヤは、エジプトの王ネコとの戦いで戦死しました。そこで、シャルム(=ヨアハズ)が王となりますが、3ヵ月後、ファラオ・ネコによって退位させられ、代わってエルヤキム改めヨヤキムが即位します。シャルムは、エジプトに連れて行かれ、そこで死にました(王下23章34節)。
 
 列王記下23章35節に、「ヨヤキムはファラオに銀と金を差し出したが、ファラオの要求に従って銀を差し出すためには、国に税を課さなければならなかった」とあることから、あるいは、ファラオに金銀を差し出して、それによって王位を手に入れたのではないかと考えられます。
 
 その上、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を立て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない」(13節)と語られています。つまり、自分の王宮を建てるために民を徴用したのですが、預言者はここで、同胞をまるで奴隷のように扱ったと、王を糾弾しているわけです。
 
 その悪事のために、彼の死を悼む者はなく、遺体はエルサレム門外へ投げ捨てられる、と言われます(18,19節)。ただ、列王記下24章6節には、「ヨヤキムは先祖と共に眠りにつき、その子ヨヤキン(=コンヤ)が代わって王となった」とあり、この表現は、ヨヤキムは自然死で、王墓に葬られたということを示します。
 
 エレミヤの預言が文字通り実行されたとすれば、それは恐らく、エルサレムがバビロンの手に落ちたときに、王墓が荒らされ、ヨヤキムの亡骸が投げ捨てられたということでしょう。
 
 その子ヨヤキン(=コンヤ)は、即位3ヶ月でエルサレムを包囲したバビロン軍に投降し、捕囚となります(25節、王下24章10節以下)。
 
 こうして、「もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・・この宮殿は必ず廃墟となる」(5節)と語られた主の言葉が実現していまいます。しかし、憐れみに富む神は、切り倒したダビデの家に、御子イエスを生まれさせられました。その王宮は家畜小屋、揺り籠は飼い葉桶でした。そして、十字架の死によって、新しい契約を結ばれます。この正義と恵みの業により、すべての人が永遠の御国の門から入ることが出来るようになったのです。ハレルヤ!

 主よ、あなたに背く罪を犯したのは、王だけではありません。その家臣も民もそうです。そして私たちも。けれども、計り知れない御愛により、罪赦され、永遠の命に与り、天に国籍を持つ神の子とされました。今、主イエスを心の王座に迎え、その御言葉に従います。御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン

4月19日の御言葉 「あなたが帰ろうとするなら」

「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。」 エレミヤ書15章19節

 1節で、「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」と、災いを下す決定はもはや変更されないことを確言されます。
 
 というのは、モーセやサムエルは、神に背いたイスラエルの民のために執り成しの祈りをし、神はその祈りを聞いて何度も災いを思い返されていたからです。イスラエルを代表する執り成しの祈り手二人の祈りを聞かないということは、もう、神を止め得る者はいないということです。
 
 主は、疫病か、剣か、飢えか、捕囚によって、イスラエルを罰すると言われます(2節)。最初の三つは、14章12節にも挙げられていました。そしてこれらは、民の命を奪うものです。最後に「捕囚」と言われ、それは過酷な運命に違いありませんし、国が滅びることではありますが、しかし、民は捕囚の地で生きることになります。彼らがやがてイスラエルを再建するのですが、今はまだ、そのことが明らかにはされていません。
 
 エレミヤの告げるこの預言はまったく不人気で、「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」(10節)と言われるほどに民の間に物議を醸し、それによって迫害を受けました(15節参照)。

 ここに来てエレミヤは、「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と、あのヨブのように、自分の運命を呪う言葉を口にします(ヨブ記3章1節以下参照)。そう語るのは、1章19節で、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われた主の言葉が履行されていない、とエレミヤが考えたからです。そして、神がこの御言葉の約束を果たされないのは、神に見捨てられたのか、神に欺かれたのかとさえ、考えてしまったのです。
 
 18節に、「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と語っています。「当てにならない流れ」とは、パレスティナに見られる水の流れていない川(「ワーディ」という)のことです。神を「生ける水の源」(2章13節)と呼んでいたのに、ワーディのようだと言わなければならないのは、なんと皮肉なことでしょう。
 
 16節の、「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」という言葉は、恐らく、エレミヤの召命の出来事を指していると思われます。1章6節では、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、預言者就任を拒む姿勢を見せていました。それをここで、「わたしはそれをむさぼり食べました」と語って、預言者として嫌々働いて来たのではない、むしろ喜んで仕えて来たことを、「あなたはご存知のはずです」と言い、だから、「わたしを思い起こして欲しい」と願うのです。つまり、喜び躍っているはずの心に、神に対する不信や不満が燻っているわけです。
 
 神から見捨てられたと考えているエレミヤに、冒頭の言葉(19節)のとおり「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と主は言われます。神は決してエレミヤを見捨ててはいないゆえに、主への信仰とその使命に固く立つように、招いているのです。
 
 御言葉を聴いたとき、心燃やされて立ち上がっても、この世の現実にぶつかってその炎が吹き消され、情熱が冷めてしまうというのは、私たちがよく経験するところです。「あなたが軽率に言葉を履かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と言われているごとく、私たちの心から御霊の火を消さないように、むしろ新たな御霊の油が注がれるように、信仰に固く立ち、信仰の言葉を語りましょう。

 主よ、あなたは私の弱さをよくご存知です。いつも心が聖霊に満たされ、喜び、心躍らせて主にお仕えすることが出来るように、御言葉に基づく信仰の言葉を語らせて下さい。常にあなたが共にいて私を助けて下さることを信じます。 アーメン

スーザン・ボイルの歌声 「歌は心」

福岡の浦氏から、英国のスーザン・ボイル(Susan Boyle)という女性の紹介がありました。
スコットランドのウェストロージアン州の教会のボランティアワーカーをしていて、歌を歌うのも、教会かカラオケのみ、大勢の人前で歌うのは、今回が初めてという女性が、イギリスで一般市民が出演し、歌声を競う人気オーディション番組「ブリテンズ・ガット・タレント(Britain's Got Talent)」に出演して、今や、世界中を席巻しているというのです。

16日木曜のYouTubeで全世界に知られ、翌日には米国のCNNでも取り上げられたのだそうです。

浦氏曰く、天使の歌声で、昨日今日と10回くらい聞いた。感動で涙が出るとのこと。

私も聞きました。
そしてそれは、本当でした。

日本語字幕つきのYouTube
URL http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0&annotation_id=annotation_428566&feature=iv

そのうち、日本のテレビでも取り上げられるかも知れません。

桜レポートその六


桜26今年の桜の花の見納めです。

これは、4月9日(木)、幼稚園の入園式の日に撮影したもの。桜の花と西鉄特急電車のコラボです。


 
桜27それから二日後の4月11日(土)。
8割方は散ってしまいました。
随分、新緑の葉が開いてきています。



 
桜284月16日(木)、花はすっかり散ってしまい、葉の色が濃くなりました。

一月余り、目を楽しませてくれて有り難う。



なお、入園式の日(9日)の桜は、幼稚園のブログにも掲載していますので、そちらもご覧下さい。
URL http://blog.livedoor.jp/hikarinokoyouchien/archives/561683.html

こちらと同様、写真をクリックすると、拡大版を見ることが出来ます。
また、このブログをご覧下さったことのある方の中で、綺麗な桜の写真を御自身のブログに掲載しておられる方々がありますので、紹介します。
良かったら、お寄りになってみて下さい。

「デジカメ写真日記」 URL http://blogs.dion.ne.jp/jun_ko/
「徒然なる日常」 URL http://blogs.dion.ne.jp/amidananoda/
「気ままなひとりごと」 URL http://blogs.dion.ne.jp/kawaguchi/
「散歩みち」 URL http://blogs.dion.ne.jp/31mt92/
「負け豚とんとん人生」 URL http://blogs.dion.ne.jp/algernon19/
「さくらねこのPHOTO散歩」 URL http://blogs.dion.ne.jp/sakuraneko_photoart/

居ながらにして各地の桜が楽しめるのも、よいものだなあと思います。 

リンク集

大牟田教会公式サイトの「リンク集」で、リンク切れなどがないか、時折チェックしています。

南九州連合の「熊本愛泉教会」に「牧師室の窓」のページが加わりました。
URL http://homepage3.nifty.com/k-aisen/mado.htm
「東熊本教会」のサイトで、ギャラリー(写真集)が復活しました。
URL  http://www.ne.jp/asahi/higashikumamoto/church/index.html

神奈川連合の「相模中央教会」のサイトがリニューアルされ、コンテンツが劇的に増えていました。
URL http://www013.upp.so-net.ne.jp/ccsagami/

東北連合の「カルバリー教会」(英語)がサイトを開設されました。
URL http://cbcmisawa.org:80/

 是非ご覧下さい。

4月12日の御言葉 「ぶどうの木にぶどうはなく」

「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた。」 エレミヤ書8章13節

 新共同訳聖書には、4節以下の段落に、「民の背信」という小見出しがつけられています。主なる神がイスラエルの民を断罪する内容です。
 
 先ず、「倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか」(4節)とあります。人はだれでも、失敗することがあります。罪を犯します。けれども、多くの人は後で悔い改めるでしょう。ところが、エルサレムは悔い改めを拒みます(5,6節)。
 
 8節に、「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と」とあります。「主の律法を持っている」とは、ヨシヤ王の宗教改革において見出された律法の書を指しているのでしょう(列王記下22章8節以下)。これは、恐らく申命記の巻物のことと考えられています。
 
 確かにイスラエルには、主の律法が与えられました。しかし、持っていると言えるような持ち方ではありませんでした。ヨシヤ王の改革で見出されるまで、長い間失われていることも分からなくなっていたのです。
 
 続く、「まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」(8節後半)という言葉は、どのような事実に基づいているのか分かりませんが、律法の書を勝手に書いたというのではなく、誤って解釈しているということではないかと思われます。御言葉の語るところに耳を傾け、忠実に聞き従うことを教えなければならないのに、主を侮って、それをしないからです(9節)。
 
 冒頭の言葉(13節)に、「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた」、と言われています。ぶどうもいちじくも、実を結んでこその木でしょう。実を結ばなければ、何の意味もありません。
 
 十字架にかかられる直前の主イエスが、エルサレムに上られた翌日、ベタニアで葉の茂ったいちじくの木を見られ、実を探されましたが、葉しかなかったので(マルコ福音書11章12,13節)、「これから後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われ(同14節)、翌朝、木が根元から枯れていた(同20節)、という出来事がありました。
 
 主イエスはそのことで、「神を信じなさい。・・少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(同22~24節)と教えられました。ここで、「信じるならば、そのとおりになる」と2度言われており、「そのとおりになる」というのが、信仰によって結ぶ「実」と考えられます。つまり、神を信じ、御言葉に従って歩めば、そうして、主を信じて祈り求めれば、実を結ぶことが出来るのです。
 
 さらに、「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(同25節)と言われました。神を信じ、御言葉に従うということで、主イエスは具体的に、他人に対して恨みを抱くような苦しみ、苦難をもたらす人の仕打ちを経験している者に、それを赦してあげなさいと命じます。
 
 出来ますか?難しいです。出来ません。しなくて良いですか?いいえ、赦すことを主が望んでおられるのです。では、どうすればよいのですか。それは、自分の力では出来ないことを神に申し上げ、神の助と導きを祈り求めることです。神には出来ると信じるのです。言い訳や不平不満の言の葉を茂らせるのではなく、御言葉に聞き従って信仰の実を結ぶ者とならせていただきましょう。

 主よ、御子イエス・キリストが私たちを愛し、御自分の命を十字架に捨てて下さったその贖いの御業のゆえに、罪赦されて神の子とされました。神の愛を受けている神の家族、教会に連なるすべての人々が、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合うものとなりますように。 アーメン

GOOD FRIDAY

今日は、キリストの受難日。
全人類の罪をおのが身に背負い、十字架に磔にされ、贖いの死を遂げられたことを記念する日。

マルコ福音書15章25節によれば、キリストが十字架につけられたのは、朝の9時。
それから、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(同15章33節)。

預言者アモスが、「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭を悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス書8章9,10節)と預言していたことがここに実現し、キリストの上に神の呪いが臨んだとき、天地は光を失ってしまった。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15章34節)。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というのはアラム語。キリストはいつも、神を「アッバ、父よ」と呼んでおられたので、「わが神(エロイ)」というのは、きわめて異例。つまり、既に「父と子」の関係でなくなっているということ。

ガラテヤ書3章13節に、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」、とある。
キリストは、私たちの身代わりに神に呪われ、捨てられて、私たちをその呪いから贖い出して下さった。

キリストの受難日を英語では「Good Friday」という。
ここに用いられている「good」というのは、「良い」という意味ではないらしい。本来、「Godes Friday(=God's Friday:神の金曜日)」だったのが、訛って「Good Friday」になったそうな。
しかしながら、キリストの贖いによって私たちは罪赦され、救われたのだから、これを「Good」と言わずして、なんと言おう。

 「ああ主は誰がため 世にくだりて
  かくまでなやみを うけたまえる

  わがため十字架に なやみたもう
  こよなきみめぐみ はかりがたし

  とがなき神の子  とがを負えば
  てる日もかくれて やみとなりぬ

  十字架のみもとに こころせまり
  なみだにむせびて ただひれふす

  なみだもめぐみに むくいがたし
  この身をささぐる ほかはあらじ アーメン」
           (教団讃美歌138番)

桜レポートその五


桜234月7日(火)朝。
下の方から、随分花が少なくなって来ました。
今日は、光の子幼稚園の2009年度(平成21年度)の始業式の日。
少しでも綺麗な花を子どもたちに見て貰うことが出来て良かったなと思います。


桜24でもね、やっぱり散る花を掃除するのは大変。
塀の外に大きく張り出した枝からたくさんの花びらが道路に落ちます。
周辺の皆様にもご迷惑をおかけしていますが、綺麗な花を見てもらって、それで勘弁してもらえると嬉しいです。



桜254月8日(水)。
明日は幼稚園の入園式。
この分だと、高い枝の花は残っていそうだから、いいかな。
明日の予報は晴、気温は24度まで上がる上天気。
素敵な入園式日和になりそう。

神様、明日入園式を迎える子どもたちが、お家の方々と一緒に、元気に登園することが出来ますように。
一年間、子どもたちの素敵な笑顔を見ることが出来ますように。
子どもたちも、お家の方々も、みんなを祝福して下さい。
このお祈りをイエスさまの御名によっておささげ致します。 アーメン

4月5日(日)の御言葉 「わたしの言葉を成し遂げよう」

「主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている』。」エレミヤ書1章12節
 
 エレミヤは、「ベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子」(1節)です。「アナトトの祭司」というのは、ダビデに重く用いられた祭司アビアタルの子孫のことかもしれません(サムエル記上22章20節以下、サム下15章24節以下、17章15節な)。
 
 アビアタルは王位継承を巡ってその行動を誤り、その結果、ソロモンにより退位させられ、アナトトに追放されたからです(列王記上2章26節)。エレミヤ書には、祭司や預言者に対して厳しい裁きの言葉が多く記されていますが、それはエレミヤが、祭司の家系に生まれ育ったからこその視点であると言ってもよいでしょう。
 
 エレミヤは、「アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年」(2節)、即ち紀元前627年ごろから、「ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第11年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで」(3節)、即ち前587年ごろまでのおよそ40年間、エルサレムで預言者として活動しました。
 
 4節以下に、エレミヤの召命の出来事が記されています。神の召しに対してエレミヤは、「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と答えています(6節)。この言葉を根拠として、エレミヤが活動を始めたのは20歳に満たないころと想像されていますが、「若者に過ぎない」とはしかし、年齢よりも、経験不足、未熟さを言い表しているものです。
 
 エレミヤが弟子のバルクを書記として、彼が語ってきた預言を巻物に書き留めさせた、つまり、このエレミヤ書を書かせたのは、「ヨシヤの子ヨヤキムの第4年」(36章1節)、即ち紀元前604年のことです。エレミヤはここに、自分の召された時のことを物語りつつ、今なお自分は未熟者であると考えているのではないでしょうか。
 
 それは、謙遜というよりも、職務に対する畏れであり、神に対する畏れの表れです。つまり、預言者という職務は、経験によって出来るものではなく、常に神の御前に謙り、全身を耳として語るべき言葉を神に聴き、それを畏れの心をもって忠実に民に告げるという務めなのです。
 
 エレミヤは召されてひとつの幻を見ました。それは「アーモンドの枝」です(11節)。神はそれで、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語られます(12節)。「アーモンド」と「見張っている」は、ヘブライ語原典では、シャーケード、ショーケードという語呂合わせになっています。
 
 ここで、神が、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語っておられますが、神が見張っておられるのは、私たちが神の御言葉をどのように受け止め、成し遂げようとするかということです。
 
 ヘブライ書4章2,3節に、「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。信じたわたしたちは、この安息に与ることができるのです」とあるように、神は、私たちが信仰によって御言葉と結びつくかどうか、つまり私たちが神の御言葉を聴いて、信じて従うかどうかを見張っておられるのです。
  
 天使ガブリエルの告げた男子の誕生の知らせを信じられなかった祭司ザカリアに対し、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と告げます(ルカ福音書1章5節以下、20節)。
 
 ザカリアは、そこで神の御言葉が以下に実現するか、無言の内に注目させられました。まさにザカリアは、御言葉が成し遂げられるところを見張っていたわけです。
 
 私たちも、時が来れば実現する神の言葉に日々耳を傾け、信じて従ってまいりましょう。

 主よ、私たちはあなたの僕です。どうかお言葉どおり、この身に実現しますように。正しく御言葉を聴き、信仰をもって忠実に実行させてください。あなたの御言葉は真実だからです。 アーメン

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