「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」 イザヤ書25章7,8節
1,2節に、「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた」と言われています。これは、列王記下19章25節の、「お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを、わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を瓦礫の山とすることになった」という言葉によく似ています。
これは、イザヤがヒゼキヤ王に語った預言の中で、主がアッシリアの王に告げたとされる言葉の一部分です。列王記では、アッシリアが北イスラエルの「砦の町々を瓦礫の山とする」ために用いられました。
4節の、「まことにあなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避けどころ、暑さを避ける陰となられる」という言葉は、弱い者、貧しい者を苦しめる強い国の都が撃たれ、弱い者らが救い出されることを示しています。列王記下19章25節との関連で、これは、アッシリアの首都ニネベが撃たれ、それによって、アッシリアに苦しめられていた南ユダ、エルサレムの町は救いに与ることが出来るということになります。
こうして救いに与った民は、主が真の避けどころであられることを知るでしょう。そして、暴虐の限りを尽くしいていた国々の都は神を畏れ敬うことを学ぶでしょう。
すべての民のための祝宴が、「この山」、即ちシオンで開かれます。そのとき、「主はこの山で、すべての民の顔を覆っていた布を滅ぼす」(7節)と言われます。「顔を覆っていた布」とは、8節の「涙、恥」との関連で、悲しみを意味していると解釈することが出来ます。
あるいはまた、6章10節の「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」という御言葉との関連で、神の御顔を拝させない、御心を悟らせない、御言葉を聞かせないための覆いと考えることも、出来ます。
パウロは、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(第二コリント書3章15,16節)と言い、旧約の律法が主イエスの顔に輝く神の栄光を見えなくしていること、復活の主を仰いだときに目からうろこが落ちるということを、自分の経験に基づいて語っているわけです。
8節にイザヤは、「死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」と言っています。ヨハネの黙示録21章4節に、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われるのは、イザヤと同じ意見であるといってよいでしょう。
歴史は、滅びに向かって動いているのではなく、人を悲しませる死の滅びに向かって、つまり、私たちの救いの完成に向かって動いている、それが主の御計画だということです(9節参照)。
「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(第一コリント書15章54~56節)と言われるとおり、甦られた主イエスを絶えず仰ぎ、神に感謝と賛美をささげつつ歩むことを通して、周囲の人々に主の恵みを証ししましょう。十字架と復活の福音を告げ知らせましょう。
主よ、ここに終わりの日の祝福を示して下さり、心から感謝致します。主イエスは十字架の死と復活を通して、罪の呪いと死の力に勝利されました。その力をもって私たちをも復活の恵みに与らせ、救いを完成して下います。その救いを祝って喜び躍ります。主の御名は誉むべきか、ハレルヤ! アーメン
1,2節に、「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた」と言われています。これは、列王記下19章25節の、「お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを、わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を瓦礫の山とすることになった」という言葉によく似ています。
これは、イザヤがヒゼキヤ王に語った預言の中で、主がアッシリアの王に告げたとされる言葉の一部分です。列王記では、アッシリアが北イスラエルの「砦の町々を瓦礫の山とする」ために用いられました。
4節の、「まことにあなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避けどころ、暑さを避ける陰となられる」という言葉は、弱い者、貧しい者を苦しめる強い国の都が撃たれ、弱い者らが救い出されることを示しています。列王記下19章25節との関連で、これは、アッシリアの首都ニネベが撃たれ、それによって、アッシリアに苦しめられていた南ユダ、エルサレムの町は救いに与ることが出来るということになります。
こうして救いに与った民は、主が真の避けどころであられることを知るでしょう。そして、暴虐の限りを尽くしいていた国々の都は神を畏れ敬うことを学ぶでしょう。
すべての民のための祝宴が、「この山」、即ちシオンで開かれます。そのとき、「主はこの山で、すべての民の顔を覆っていた布を滅ぼす」(7節)と言われます。「顔を覆っていた布」とは、8節の「涙、恥」との関連で、悲しみを意味していると解釈することが出来ます。
あるいはまた、6章10節の「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」という御言葉との関連で、神の御顔を拝させない、御心を悟らせない、御言葉を聞かせないための覆いと考えることも、出来ます。
パウロは、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(第二コリント書3章15,16節)と言い、旧約の律法が主イエスの顔に輝く神の栄光を見えなくしていること、復活の主を仰いだときに目からうろこが落ちるということを、自分の経験に基づいて語っているわけです。
8節にイザヤは、「死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」と言っています。ヨハネの黙示録21章4節に、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われるのは、イザヤと同じ意見であるといってよいでしょう。
歴史は、滅びに向かって動いているのではなく、人を悲しませる死の滅びに向かって、つまり、私たちの救いの完成に向かって動いている、それが主の御計画だということです(9節参照)。
「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(第一コリント書15章54~56節)と言われるとおり、甦られた主イエスを絶えず仰ぎ、神に感謝と賛美をささげつつ歩むことを通して、周囲の人々に主の恵みを証ししましょう。十字架と復活の福音を告げ知らせましょう。
主よ、ここに終わりの日の祝福を示して下さり、心から感謝致します。主イエスは十字架の死と復活を通して、罪の呪いと死の力に勝利されました。その力をもって私たちをも復活の恵みに与らせ、救いを完成して下います。その救いを祝って喜び躍ります。主の御名は誉むべきか、ハレルヤ! アーメン