風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年02月

2月22日の御言葉 「死を永久に滅ぼす」

「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」 イザヤ書25章7,8節

 1,2節に、「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた」と言われています。これは、列王記下19章25節の、「お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを、わたしは今実現させた。お前はこうして砦の町々を瓦礫の山とすることになった」という言葉によく似ています。

 これは、イザヤがヒゼキヤ王に語った預言の中で、主がアッシリアの王に告げたとされる言葉の一部分です。列王記では、アッシリアが北イスラエルの「砦の町々を瓦礫の山とする」ために用いられました。

 4節の、「まことにあなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避けどころ、暑さを避ける陰となられる」という言葉は、弱い者、貧しい者を苦しめる強い国の都が撃たれ、弱い者らが救い出されることを示しています。列王記下19章25節との関連で、これは、アッシリアの首都ニネベが撃たれ、それによって、アッシリアに苦しめられていた南ユダ、エルサレムの町は救いに与ることが出来るということになります。

 こうして救いに与った民は、主が真の避けどころであられることを知るでしょう。そして、暴虐の限りを尽くしいていた国々の都は神を畏れ敬うことを学ぶでしょう。

 すべての民のための祝宴が、「この山」、即ちシオンで開かれます。そのとき、「主はこの山で、すべての民の顔を覆っていた布を滅ぼす」(7節)と言われます。「顔を覆っていた布」とは、8節の「涙、恥」との関連で、悲しみを意味していると解釈することが出来ます。

 あるいはまた、6章10節の「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」という御言葉との関連で、神の御顔を拝させない、御心を悟らせない、御言葉を聞かせないための覆いと考えることも、出来ます。

 パウロは、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(第二コリント書3章15,16節)と言い、旧約の律法が主イエスの顔に輝く神の栄光を見えなくしていること、復活の主を仰いだときに目からうろこが落ちるということを、自分の経験に基づいて語っているわけです。

 8節にイザヤは、「死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」と言っています。ヨハネの黙示録21章4節に、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われるのは、イザヤと同じ意見であるといってよいでしょう。

 歴史は、滅びに向かって動いているのではなく、人を悲しませる死の滅びに向かって、つまり、私たちの救いの完成に向かって動いている、それが主の御計画だということです(9節参照)。

 「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(第一コリント書15章54~56節)と言われるとおり、甦られた主イエスを絶えず仰ぎ、神に感謝と賛美をささげつつ歩むことを通して、周囲の人々に主の恵みを証ししましょう。十字架と復活の福音を告げ知らせましょう。

 主よ、ここに終わりの日の祝福を示して下さり、心から感謝致します。主イエスは十字架の死と復活を通して、罪の呪いと死の力に勝利されました。その力をもって私たちをも復活の恵みに与らせ、救いを完成して下います。その救いを祝って喜び躍ります。主の御名は誉むべきか、ハレルヤ! アーメン

3月10日(火)NHK総合「プロフェッショナル」

頂いたメールをブログ管理者の責任で、ここに掲載致します。

******************************  

NHK総合「プロフェッショナル」に、東八幡教会牧師・北九州ホームレス支援機構の理事長である奥田知志先生がご出演なさいます。
3月10日放送予定

NHKのHPに予告がUPされていますので、ぜひご覧下さい。
URL http://www.nhk.or.jp/professional/schedule/index.html

なお、再放送はNHK総合が17日(火)午前1時~、BS2で18日(水)午後5時15分~です。

2月15日の御言葉 「わたしは黙して」

「主はわたしにこう言われた。『わたしは黙して、わたしの住む所から目を注ごう。太陽よりも激しく輝く熱のように、暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように』。」 イザヤ書18章4節

 18章には、「クシュとの陰謀」という小見出しがつけられています。クシュとはエチオピアのことです。

 紀元前714年、エチオピアはエジプトを征服し、台頭してきたアッシリアに対抗するため、パレスティナ諸国に働きかけて、反アッシリア同盟を結成しようとしました。2節の、「彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ、海を渡って使節を遣わす」とは、そのことを指していると思われます。であれば、1節の「災いだ」という言葉は、イザヤがこの同盟の働きかけに反対していることを示していることになります。

 アッシリアはこの動きを察知、ペリシテに軍を進めてアシドドを落とし、ペリシテに援軍を送ったエチオピア軍も撃破されて、同盟は壊滅しました。紀元前711年ごろのことです。アッシリアがペリシテを攻めたのは、ペリシテが反アッシリア同盟の急先鋒だったからで、3節の、「山に合図の旗が立てられたら、見るがよい。角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい」とは、ペリシテがアッシリアに反旗を翻し、同盟諸国に蜂起を促した事実を指します。

 5,6節を、神によるアッシリアの滅亡と読む立場もありますが、むしろ、アッシリアによる反アッシリア同盟の壊滅と読むべきでしょう。

 7節で、「貢ぎ物が万軍の主にもたらされる」と語った後、その貢ぎ物は、「背高く、肌の滑らかな民から、遠くの地でも恐れられている民から、強い力で踏みにじる国、幾筋もの川で区切られている国から」、即ちエチオピアから、「万軍の主の名が置かれた場所、シオンの山」、即ちエルサレムにもたらされると言われています。これは、エルサレムがエチオピアを支配しているということを示しており、それゆえ、エチオピアは同盟を結ぶべき相手ではない、と語っているわけです。

 この預言の中心に、冒頭の言葉(4節)において語られている主の言葉が響きます。主なる神は、「わたしは黙して、わたしの住む所から、目を注ごう」と言われます。

 ここで、「黙して」と訳されているのは、シャーカトという言葉で、「静まる、落ち着く、安んじる、沈黙する、休む、留まる、平安を与える」といった意味があります。この言葉は、イザヤにとって重要な言葉で、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(7章4節)、「しかし今、全世界は安らかに憩い、喜びの声を放つ」(14章7節)、「お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」(30章14節)、「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(32章17節)などと用いられています。

 これらの箇所は、民が主なる神を信頼する様子を描写する言葉として語られていますが、この箇所では、神ご自身が静まって成り行きをしっかりと見守るという言い方で、ユダに冷静な行動を求めていると言ってよいのでしょう。

 もともと、シャーカトは 「鳥が巣篭もる」という意味だったそうです。卵を抱いた鳥は、むやみに動き回りません。そこから、大切なときにバタバタしない、おどおどしないという意味になったというわけです。

 神を信じる者は、世の中の動きと無縁なわけではありません。様々な世の中の波にもまれます。そして、神もまた、そのような私たちとは無縁の天の高みに独りおられるのではありません。

 4節後半の、「太陽よりも激しく輝く熱のように、暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように」という言葉の意味は、必ずしも明らかではありませんが、神がどんなに熱い思いでイスラエルに目を注いでおられるのかが示されます。その眼差しに支えられて、その御手に守られて、波立つ心が安らかにされるのです。

 主よ、私は自分で自分を支えることが出来ません。あなたが見ていて下さるから、支えていて下さるので、まっすぐに立つことが出来ます。落ち着くことが出来ます。今日も御手の内に守っていて下さることを感謝致します。 アーメン

「平和憲法に学ぶ」


211集会01本日、東熊本教会において、信教の自由を守る日2.11大牟田・熊本ブロック集会が開催されました。
講師は、「9条Tシャツ」係のくずめよし先生です(カメラを持って行くのを忘れ、携帯で撮った写真はピンぼけの上に手ぶれで、申し訳ありません)。

昨年8月15日の「ちくご地区平和を造り出す集い」で教えられたことがもう一度語られ、思いを新たにしました。
URL http://blog.livedoor.jp/pastabco/archives/497293.html

211集会03前回、カンパに参加させていただいて9条Tシャツを手に入れました。
これは、英文で憲法9条が記されているTシャツ後ろ側の写真です。
このTシャツと同じ色、同じサイズのTシャツが、今年1月インドのコルカタで開催されたアジアバプテスト婦人大会に来られた外国のどなたかに手渡されました。
そのうち、その方が書かれたレスポンスカードの写しが私の手元に届くそうです。

憲法9条を通じて、思想、信条、場合によっては宗教の違う海外の誰かと同じTシャツを着合う友となれるというのは、素晴らしいことだと思います。
211集会05先生は、「憲法9条の会」と「9をまく」という本(写真はそれ)に出会い、9条Tシャツをプレゼントする活動を始められました。2005年7月に英国バーミンガムで開催された世界バプテスト大会に100枚の9条Tシャツを作って持って行き、配ったのがその始まりだったそうです。



211集会02写真は、昨年5月に幕張メッセで開催された「9条世界会議」が開催された背景を記したものです。
それは、国連の呼びかけで始まったNGO「世界紛争を予防するためのグローバルネットワーク(GPPAC)」が2005年7月に国連本部で開催した「GPPAC世界会議」で憲法9条の重要性が示され、まとめられた行動提言に基づいて、「9条世界会議」が日本で開催されることになったということです。

GPPAC世界会議の開催時期は、奇しくも、よし先生が9条Tシャツをプレゼントする活動を始めた時期でもあります。
また、2000年はユネスコの提唱で国連が定めた「平和の文化国際年:International Year for Culture of Peace」でした。
この「平和の文化国際年」が、2001年から2010年までの「世界の子供たちのための平和の文化と非暴力の国際10年」に引き継がれ、現在、子どもたちに平和の教育と行動を促していく活動が続けられています。

残念ながら、2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロが発生し、アフガニスタンに報復攻撃が行われ、さらにイラクのフセイン政権を倒すための戦争が行われ、これは今もまだ、終結を見ていません。
米国は第二次世界大戦終了後も、ずっと戦争をし続けて来ました。

だからこそ、憲法9条を世界に知らしめ、世界中の国々の憲法に同様の規定を設けさせるという活動が、今、さまざまな形で行われているわけです。
9条Tシャツを配布する活動を支援すると共に、私たちも自分で出来る9条をまく活動を考え、すぐにも始めるべきではないでしょうか。
そのようなチャレンジを受けて、帰って来ました。 講演をして下さったくずめよし先生、会場を提供して下さった東熊本教会の皆様、会を主催された南九州バプテスト連合社会委員会に、心から感謝致します。

なお、今回の参加者は、おとこ14名+子ども2名、おんな15名でした。
また、会の最後に、平和を造り出す活動のため、連合社会委員会に献金を献げました(献金額14,652円)。
感謝して報告致します。

2月8日の御言葉 「主を畏れ敬う霊」

「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」 イザヤ書11章3節

 1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」とあります。「エッサイ」は、ダビデ王の父親の名です。「ダビデの株」と言わずに「エッサイの株」と言われているということは、ダビデ王朝が切り倒されて、エッサイ家が切り株になるということです。

 「ひとつの芽が萌えいで」とは、切り株から新しい芽が出て来るということで、かつて、エッサイの家の最も小さい子どものダビデが王として選び出されたように(サムエル記上16章11節以下)、その子孫の中から新しいダビデが選び出されるというわけです。

 預言者サムエルがダビデに油を注ぐと、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」とサムエル記上16章13節に記されています。同様に、新しく選ばれる第二のダビデにも、「主の霊がとどまる」と言われます(2節)。主の霊は第二のダビデに「知恵と識別」「思慮と勇気」を与えます。その霊を、「主を知り、畏れ敬う霊」と呼んでいます。

 冒頭の言葉(3節)にも、「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」と記されています。箴言に、「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節、9章10節、15章33節)と言われていました。コヘレトの言葉にも、「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて」(12章13節)と語られていました。

 これは、ダビデ王朝の王たちが、「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされてはいなかった、ということを示しているのです。ということは、王として油を注がれさえすれば、主の霊に満たされるのではなく、王が御心に適う政治を行うためには、聖霊の満たしが必要だという心を持つからこそ、「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされるということではないでしょうか。

 ですから、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」とは、裁きを行うとき、あるいは弁護に立つとき、自分では判断しないと表明しているわけで、それではどのように判断するのかと言えば、神の御心に適う判断をするために「主を知り、畏れ敬う霊」の導きに従って裁き、弁護するということです。彼の目は人ではなく神に向けられており、彼の耳も神の口から出る一つ一つの言葉を注意深く聴こうとしているのです。

 第二のダビデは、弱い人のために正義を行い、貧しい人を公正をもって弁護します。それが、神が王に望んでおられることだからです(4,5節)。

 キリスト教会は、1節以下のこの段落を、メシア=キリスト預言として読んで来ました。パウロはローマ書15章12節で、この箇所(1,10節)を引用しながら、キリストを論証しようとしています。

 主イエス・キリストが公生涯に入られたとき、聖霊が留まりました(マルコ福音書1章10節など)。また、主イエスご自身も、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(ヨハネ福音書5章19節)、「わたしは自分では何も出来ない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(同30節)と言われました。

 ダビデの子孫としてお生まれになられた主イエスこそ、まさに、エッサイの株から萌え出た新しい芽なのです。そして、「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ書2章4~6節)。

 私たちも、聖霊に満たされて主を仰ぎ、御声に聴き従いましょう。

 主よ、私たちの耳を開き、御声をさやかに聴かせて下さい。目を開いて、御業を拝させて下さい。心を開いて、御心を深く悟らせて下さい。御霊に満たし、主を畏れてその使命を全うすることが出来ますように。 アーメン

抹茶の日

今日2月6日は抹茶の日です。
これは、西尾市商工課に属する西尾市茶業振興協議会が、今から16年前、西尾茶業創業120周年を記念して制定しました。

何故2月6日なのかというと、茶道のお手前で釜をかけて湯をわかす道具に風炉(ふろ)があり、現在でも最高の形式では風炉を使用します。
このことから「風炉(ふろ)」に語呂を合わせたということです。

西尾市は、名古屋から南東へ約40㎞、西三河地方南部の人口11万弱の町です。
大学の後輩が通っていた教会が西尾にあり、名鉄電車を乗り継いで訪ねたこともあります。

西尾市は、抹茶の生産が国内シェア20%という、日本有数の抹茶産地です。
また、地場産業として日本三大産地の一つに数えられる鋳物工業、トヨタ関連で自動車関連産業が盛んです。

西尾市では、今年は2月8日(日)に抹茶の日記念行事として市文化会館で市民茶会を開催し、ほかにはてん茶を石臼で挽く抹茶づくり体験、お茶を使った料理教室などを、市内の各地で行うそうです。
さすがは、抹茶の里ならではの催事です。

ところで、茶の湯とキリスト教の関係について、特に、千利休がクリスチャンであったことは、茶の湯を研究している人々の間では、ほぼ常識らしいと聞いたことがあります。

千利休のキリスト教との接点について、三浦綾子氏の『千利休とその妻たち』(新潮文庫)によれば、後妻おりきの影響が大であるようです。
また、三浦綾子氏は、『泉への招待』(光文社文庫)で「狭き門より入れ」の項に、風呂敷大であった帛紗を今の寸法にしたのはおりきである、と伝えられていることを紹介されており、また、宣教師の説教を伝え話すおりきの話から、利休が躙り口を創案した小説のくだりを書いておられます。

そして、それを書かせたのは、裏千家家元・第十六代千宗室氏の言葉であったと言われます。
その言葉とは、「利休が(秀吉に)切腹させられたのは、キリシタンであったためであり、茶室の躙り口も『狭き門より入れ』という聖書の言葉の具体化であった」というものです。

茶の湯を通して日本の文化に影響を与えたキリスト教について研究しておられ、表千家教授となられた春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が、『茶の湯の心で聖書を読めば』、『武将高山右近の信仰と茶の湯』(いずれも、いのちのことば社刊)などの著書を出版されていることを知りました。
是非手に入れたいと思います。

貧困を救え、元牧師の叫び 人間、独りじゃ生きられない

ブログ管理者の責任で、メールを転載します。
ぜひ、下記ホームページにアクセスして下さい。

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元市川八幡の牧師であった副田一朗先生のNPOの仕事が毎日新聞に掲載されました。
下記がそのホームページです。

URL http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090204dde012040003000c.html


青柳 博

「平和憲法に学ぶ」

信教の自由を守る日
2.11大牟田・熊本ブロック集会 「平和憲法に学ぶ」

この度、南九州バプテスト連合社会委員会主催で、「信教の自由を守る日」2.11大牟田・熊本ブロック集会を開催し、平和憲法について共に学び、考えるときが与えられることを、深く感謝致します。
今回は、憲法九条Tシャツをプレゼントする活動で注目されているくずめよし氏に、その活動の紹介を含め、講演をお願いしています。
是非多くの方においでいただき、耳を傾けていただきたいと願っています。

とき:2009年2月11日(水)午後2時~4時
ところ:東熊本キリスト教会
         熊本市水前寺4-322
講師:くずめよし氏
*プロフィール高知県生まれペンシルベニア大学歴史学大学院博士課程修了(東アジア近代史)現在、西南学院大学および福岡大学非常勤講師(中国語)2005年7月より、日本国憲法9条を世界に知らしめるため、「九条Tシャツ」係として、海外の人に「憲法九条Tシャツ」を無料でプレゼントする活動を始める。現在までの約3年半で、世界230カ国・地域に約4千枚のTシャツをプレゼント。受取人の多くは、アジア・太平洋地域の子どもたち。本年(2009年)1月には、インド・コルカタ(カルカッタ)で、アジアの子どもたちに約5百枚をプレゼント。今回の講演の中で、その最新の報告もある予定。

主催:南九州バプテスト連合社会委員会
事務局 大牟田バプテスト教会 原田攝生
TEL & FAX 0944-52-4286

なお、くずめ氏は、昨年8月に久留米で行われた「ちくご地区平和を造り出す集い」の講師で、その時の様子をブログで紹介しています。参考にして下さい。
URL http://blog.livedoor.jp/pastabco/archives/497293.html

2月1日の御言葉 「雲の柱、火の柱」

「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。」 イザヤ書4章5節

 2節に「その日には」とありますが、これは、1節の「その日」とは天地の差があります。というのは、1節のその日は、神の審判がユダとエルサレムに臨んだ日です。

 その日、7人の女性が一人の男性と結婚することを望む、それも、パンや着物は自分で何とかするから、名目だけでも結婚したことにして欲しいという、と言います。この女性たちは、3章25,26節で、「シオンの男らは剣に倒れ、勇士は戦いに倒れる。シオンの城門は嘆き悲しみ、奪い尽くされて彼女は地に座る」と言われているように、その日までに夫を失い、やもめとなった女性たちでしょう。

 イスラエルにはやもめを援助する法や制度がありましたが、一人身となった女性が生きていくには、内縁の妻、妾となるほか術がないという、法や制度が崩壊した状態、即ち神の裁きにより、エルサレムが陥落し、南ユダ王国が崩壊した状態を描いているわけです。

 2節の「その日」は、裁きの日ではありません。「その日には、イスラエルの生き残った者にとって、主の若枝は麗しさとなり、栄光となる」と言われています。この日は、恥が取り去られて栄光となり、誇り、輝きとなる日です。「イスラエルの生き残った者」は、何とか難を逃れたとか、生き残れたという人々ではありません。この日のために、神が選んでエルサレムに残しておられた者たちのことです。

 3節に、「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている」と言われている通りです。つまり、「イスラエルの生き残った者」は、命の書に名が記されていたので、神によって守られ、そこに残ることが出来たわけです。

 4節は、主が罪に満ちたユダに審判を下し、エルサレムの町を焼き尽くすことによって、それを清められる、と言っています。つまり、それまでイスラエルが頼りとしていた、目に見えるすべてのものが滅ぼされ、焼き尽くされることで、もう一度、神のみに頼り、神を仰いで生きる礼拝の民がここに再創造されたわけです。

 それに続いて冒頭の言葉(5節)で、「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を作って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる」と言われるのは、出エジプトの民を荒れ野で導いた「雲の柱、火の柱」の記述を思い出させます(出エジプト記13章21節)。

 その意味で、イザヤは「その日」を、神に背く頑なな者が神に打たれ、神を信じ、御旨に従って歩む者に、救いと解放がもたらされる第二の出エジプトの日として描いていると言ってよいでしょう。

 神のみに頼り、神を仰いで生きる者として再創造されたイスラエルの民のために主なる神は、自ら昼は雲となり、夜は火となって、民を覆われます。雲も火も神の臨在を示すしるしです。もはや、神を礼拝する者、主の御名によって集う者たちから神が離れられることはない、ということです。

 主イエスは十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目に甦られた後、天に登り、神の右の座に着かれました。肉眼では、主イエスを見ることが出来なくなりましたが、神は別の弁護者として真理の霊を遣わして下さり(ヨハネ福音書14章16節)、私たちと共に、私たちの内にいるようにして下さいました(同17節)。

 また、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(同20節)と言われました。「かの日」は、神が御業を行われるために選ばれた日ですが、主が私たちの内におられることが分かる日、主を愛する者が父なる神に愛され、主もその人を愛して、ご自身を啓示して下さる日です(同21節)。

 主を信じる私たちの心に聖霊が住まわれ、私たちに主イエスを啓示して下さり、あらゆる霊的な恵みをもって守り、満たし、導いて下さるのです。

 主よ、御名を崇めます。どうか御霊によって汚れを洗い、すすぎ清めて下さい。御言葉によって命の道に導いて下さい。主を拠り所とし、すべてを委ねて歩みます。私たちを通して御業を行い、御名の栄光を表して下さい。 アーメン
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