風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2009年01月

年始の挨拶


両親0104新しい年を迎え、両親のもとを訪ねました。

昨年末、父の腎臓の具合は随分悪くなっていて、もしも、入院ということになれば、もう退院出来ない状態になるだろうと主治医から言われたと、妹から連絡がありました。

父の心臓は肥大してきており、九州医療センターの医師は、既に入院を勧める事態だと言われたようですが、近くの病院の主治医は、入院すれば早晩寝たきりになってしまうから、むしろ、自宅で過ごす方がリハビリにもなるだろうと言ってくれているそうです。

ちょうど診察日だったので、父を病院に連れて行き、主治医の話を一緒に聞きました。
前回の血液検査の結果、心臓も腎臓も、働きが悪くなっているということですが、特別に悪いということでもないという話でした。

父にとっては、心臓や腎臓の具合よりも、膝の痛みの方が深刻なようで、それで睡眠が妨げられ、体調を悪化させるという悪循環です。
今日は、お年玉ということで、痛み止めの注射を打って貰って来ました。

かなりXデーが近づいてきたと思いますが、そのような状態ながら、父の祈りを聞くにつけ、「死に至るまで忠実であれ」という御言葉を地でいくその信仰には、まだまだかなわないなあと思います。

生かされている間、主の平安で守られ、霊に燃えて主に仕えることが出来るように、少しでも膝の痛みが和らげられるように、お祈りをして帰って来ました。

1月4日の御言葉 「明日のことを誇るな」

「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」 箴言27章1節

 冒頭の言葉(1節)の「誇る」と、2節の「ほめる」は、同じ言葉(ハーラル)が用いられています。「誇る」は、「自分自身をほめる」(ハーラルのヒトパエル形)ということで、自慢する、誇るという訳になっています。

 「一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(1節)という言葉について、ルカ福音書12章16節以下に、豊作で喜んだ金持ちが、蔵を大きく建て替えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自慢げに語るのを、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言われたというたとえ話を主イエスがなさっています。

 ヤコブも、「あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ書4章14,15節)と記しています。

 聖書のほかにも、エジプトの「アメン・エム・オペ」という知恵の書に、「人間は明日何が起こるかを知らない」という言葉がありますし、親鸞聖人の、「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかは」という言葉もあります。

 そうだからといって、明日に計画を持っていてはいけないとか、明日のことを考える必要はない、ということではありません。神が私たちに永遠を思う心をお与えになったわけですし(コヘレト3章11節)、神の霊が注がれると、「老人は夢を見、若者は幻を見る」と言われます(ヨエル書3章1節)。夢や幻は、神が御自分の計画を啓示する手段ですが、それは、未来に関わることでしょう。

 また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)という言葉もあります。神が私たち心に働きかけて望みを抱かせ、実現に向けて働かせられるということです。これらの言葉は、神が明日に計画を持ち、それを私たちに示されると教えています。

 しかしながら、私たちは明日に生きることは出来ません。私たちは過去の思い出を持っていますし、明日に夢幻を持つことは出来ますが、しかし、過去に留まって生きることも、未来に先駆けて生きることも出来ません。私たちは常に今を生きているのです。明日に夢を持ちながら、過去の様々な経験や知識に学びながら、今日を生きるのです。

 主イエスが、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ福音書6章34節)と言われたのは、そのことでしょう。明日のことまで思い悩むのは、明日に計画を持っておられる主なる神を信頼していないからです。明日のことを誇るのは、明日に計画を持ち、啓示して下さった神の栄誉を自分のものにすることです。

 あらためて、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」(3章5~7節)との御言葉に耳を傾け、神の御前に謙り、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ福音書6章33節)て、御前に進みましょう。

 「『誇る者は主を誇れ』。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(第二コリント書10章17,18節)。

 主よ、私のうちに見張りを置き、唇の戸を守って下さい。私の心が悪に傾くのを許さないで下さい。主よ、造られたものがすべてあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたを称え、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。主はすべての者に恵みを与え、造られたすべての者を憐れんで下さるからです。 アーメン

生と死

今日の午前中は、教会員のお父様の召天5周年記念会を執り行いました。

それが終わった直後に携帯電話が鳴り、それは、別の教会員のお母様が元日に召されたという報せでした。

それで夕方、お通夜に参列しました。
浄土真宗大谷派のお寺の住職がお経を称えられた後、感話をされました。

それは、「①弔いというのは、死者の霊を慰めるためと考えられているけれども、実際には、死者が遺族のために慰めを祈ってくれているのだ。

②家族の死は辛く、悲しいものだけれども、日頃、正面から向き合うことのない死について、きちんと向き合って、自分の死を自覚すると共に、やがて死を迎える者として、今をいかに生きるべきか、真剣に考え、行動する機会とするべきだ。

そうするならば、家族の死は、辛く悲しいだけのものではなくなる。その死を無駄にしなかったことになる。」

といったことでした。
これは、本当にそうだなあと思います。

現在、自ら命を絶つ人がここ毎年3万人を下らず、また、人を殺してみたかった、誰でもよかったといって殺人事件を起こす若者がいる我が国で、宗教が果たさなければならない責任は小さくありません。

葬儀のときなど、多くの人々が宗教者の語る言葉に耳を傾ける機会がより多く設けられることを願っています。

死と向き合って生を考える一日でした。

元旦礼拝

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。


元旦礼拝01今日、教会では元旦礼拝が行われ、新年の初詣に、47名の方々がおいで下さいました。

早朝は雪だったのが(私自身は雪を見ていませんが)8時頃には冷たい雨に変わり、礼拝が始まる頃には、暖かな日差しが会堂を照らしていました。

今朝の天候のように、今年の始まりがどんなものであっても、年の終りには、希望の光が輝き、喜びと感謝に満ちているという状況になるようにと願わされます。

皆様に、主の恵みと慈しみが、この年、常に豊かでありますように。
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