「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。」 詩編142編6節
詩編142編の表題に、「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴のいたとき。祈り」とあります(1節)。「ダビデが洞穴にいたとき」とは、サムエル記上22章1節の「アドラムの洞窟」のことを言っているのだろうと思われます。
その洞窟に入る前、ダビデはサウル王の手を逃れて、ペリシテはガトの王アキシュの許に身を寄せようとしました(同21章11節)。ところが、アキシュ王の家臣たちはダビデを迎えるべきではないという判断を示します(同12節)。家臣たちの言葉によって、アキシュ王が自分の命をとるかもしれないと恐れたダビデは、気が狂った真似をして、何とかその場を逃れました(同14節以下)。
5節に、「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もいません」と記されています。これは、神に呼びかけて、自分がいかに孤独であるか、寄る辺なき状態に追い込まれているかということを訴えているわけです。
ベトザタの池の回廊に38年もの長い間病気で苦しんでいた一人の男がいて(ヨハネ福音書5章2,5節)、主イエスが「良くなりたいか」と言われたとき(同節)、その男は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えました(同7節)。
これは、助けてくれる者がいないから、良くなりたくてもなれないということですが、その裏側には、自分のために親身になって助けてくれる友や家族がいないのだから、良くなっても仕方がないという思いが見え隠れしています。これは、ここに詠われているアドラムのダビデと同じような心境でしょう。
表題の「マスキール」とは、「教訓」というような意味ですから、この詩に示されているダビデの祈りや信仰に学びなさい、ということを表しているといって良いでしょう。
ダビデはアドラムの洞窟に一人いて、これからどうしようかと考えたとき、まずその状況を神に訴えました。それが5節です。
さらにダビデは言葉を次いで、冒頭の言葉(6節)の通り、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ。命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と」と語ります。
「わたしの分となってくださる方」とは、かつてイスラエル12部族の中のレビ族に対して、「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てである」と言われたことを示します。つまり、レビ人は主なる神のために神殿で仕え働くことによって養いを受ける者とされたのです。ですから、「わたしの分となってくださる方」とは、自分が信じて仕える神こそ自分の拠り所、命の源であるという表現です。
ダビデが洞窟でその祈りをささげたとき、彼の許に彼の兄弟や親族のほか、困窮している者、負債のある者、サウルに不満を持つ者などが集まりました(サムエル記上22章1,2節)。彼は一人ではなくなったのです。確かに、主は彼の祈りを聞き、必要な助けをお与えになるのです。
38年の長患いの男は主イエスに声をかけられて、自分の問題を打ち明けました。それが出来たとき、実は男の問題は解決されていました。自分に「良くなりたいか」と声をかけ下さった方が、彼の右に立つ真の友、彼の逃れ場となって下さったからです。
ですから、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられたとき(ヨハネ5章8節)、彼はすぐに立ち上がり、床を担いで歩き出したのです(同9節)。
主よ、あなたは私たちが祈る前から、私たちの必要の一切をよく御存知です。ですから、私たちがあなたに祈り求めたとき、その必要を豊かにお与え下さいます。主よ、私たちに与えられた恵みのゆえに御名が崇められ、いよいよ主の恵みの深さ、慈しみの豊かさに信頼して喜び感謝しますように。 アーメン
詩編142編の表題に、「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴のいたとき。祈り」とあります(1節)。「ダビデが洞穴にいたとき」とは、サムエル記上22章1節の「アドラムの洞窟」のことを言っているのだろうと思われます。
その洞窟に入る前、ダビデはサウル王の手を逃れて、ペリシテはガトの王アキシュの許に身を寄せようとしました(同21章11節)。ところが、アキシュ王の家臣たちはダビデを迎えるべきではないという判断を示します(同12節)。家臣たちの言葉によって、アキシュ王が自分の命をとるかもしれないと恐れたダビデは、気が狂った真似をして、何とかその場を逃れました(同14節以下)。
5節に、「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もいません」と記されています。これは、神に呼びかけて、自分がいかに孤独であるか、寄る辺なき状態に追い込まれているかということを訴えているわけです。
ベトザタの池の回廊に38年もの長い間病気で苦しんでいた一人の男がいて(ヨハネ福音書5章2,5節)、主イエスが「良くなりたいか」と言われたとき(同節)、その男は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えました(同7節)。
これは、助けてくれる者がいないから、良くなりたくてもなれないということですが、その裏側には、自分のために親身になって助けてくれる友や家族がいないのだから、良くなっても仕方がないという思いが見え隠れしています。これは、ここに詠われているアドラムのダビデと同じような心境でしょう。
表題の「マスキール」とは、「教訓」というような意味ですから、この詩に示されているダビデの祈りや信仰に学びなさい、ということを表しているといって良いでしょう。
ダビデはアドラムの洞窟に一人いて、これからどうしようかと考えたとき、まずその状況を神に訴えました。それが5節です。
さらにダビデは言葉を次いで、冒頭の言葉(6節)の通り、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ。命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と」と語ります。
「わたしの分となってくださる方」とは、かつてイスラエル12部族の中のレビ族に対して、「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てである」と言われたことを示します。つまり、レビ人は主なる神のために神殿で仕え働くことによって養いを受ける者とされたのです。ですから、「わたしの分となってくださる方」とは、自分が信じて仕える神こそ自分の拠り所、命の源であるという表現です。
ダビデが洞窟でその祈りをささげたとき、彼の許に彼の兄弟や親族のほか、困窮している者、負債のある者、サウルに不満を持つ者などが集まりました(サムエル記上22章1,2節)。彼は一人ではなくなったのです。確かに、主は彼の祈りを聞き、必要な助けをお与えになるのです。
38年の長患いの男は主イエスに声をかけられて、自分の問題を打ち明けました。それが出来たとき、実は男の問題は解決されていました。自分に「良くなりたいか」と声をかけ下さった方が、彼の右に立つ真の友、彼の逃れ場となって下さったからです。
ですから、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられたとき(ヨハネ5章8節)、彼はすぐに立ち上がり、床を担いで歩き出したのです(同9節)。
主よ、あなたは私たちが祈る前から、私たちの必要の一切をよく御存知です。ですから、私たちがあなたに祈り求めたとき、その必要を豊かにお与え下さいます。主よ、私たちに与えられた恵みのゆえに御名が崇められ、いよいよ主の恵みの深さ、慈しみの豊かさに信頼して喜び感謝しますように。 アーメン