風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2008年11月

11月30日の御言葉 「あなたはわたしの分となってくださる方」

「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。」 詩編142編6節

 詩編142編の表題に、「マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴のいたとき。祈り」とあります(1節)。「ダビデが洞穴にいたとき」とは、サムエル記上22章1節の「アドラムの洞窟」のことを言っているのだろうと思われます。

 その洞窟に入る前、ダビデはサウル王の手を逃れて、ペリシテはガトの王アキシュの許に身を寄せようとしました(同21章11節)。ところが、アキシュ王の家臣たちはダビデを迎えるべきではないという判断を示します(同12節)。家臣たちの言葉によって、アキシュ王が自分の命をとるかもしれないと恐れたダビデは、気が狂った真似をして、何とかその場を逃れました(同14節以下)。

 5節に、「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もいません」と記されています。これは、神に呼びかけて、自分がいかに孤独であるか、寄る辺なき状態に追い込まれているかということを訴えているわけです。

 ベトザタの池の回廊に38年もの長い間病気で苦しんでいた一人の男がいて(ヨハネ福音書5章2,5節)、主イエスが「良くなりたいか」と言われたとき(同節)、その男は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えました(同7節)。

 これは、助けてくれる者がいないから、良くなりたくてもなれないということですが、その裏側には、自分のために親身になって助けてくれる友や家族がいないのだから、良くなっても仕方がないという思いが見え隠れしています。これは、ここに詠われているアドラムのダビデと同じような心境でしょう。

 表題の「マスキール」とは、「教訓」というような意味ですから、この詩に示されているダビデの祈りや信仰に学びなさい、ということを表しているといって良いでしょう。

 ダビデはアドラムの洞窟に一人いて、これからどうしようかと考えたとき、まずその状況を神に訴えました。それが5節です。

 さらにダビデは言葉を次いで、冒頭の言葉(6節)の通り、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ。命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と」と語ります。

 「わたしの分となってくださる方」とは、かつてイスラエル12部族の中のレビ族に対して、「あなたはイスラエルの人々の土地の内に嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てである」と言われたことを示します。つまり、レビ人は主なる神のために神殿で仕え働くことによって養いを受ける者とされたのです。ですから、「わたしの分となってくださる方」とは、自分が信じて仕える神こそ自分の拠り所、命の源であるという表現です。

 ダビデが洞窟でその祈りをささげたとき、彼の許に彼の兄弟や親族のほか、困窮している者、負債のある者、サウルに不満を持つ者などが集まりました(サムエル記上22章1,2節)。彼は一人ではなくなったのです。確かに、主は彼の祈りを聞き、必要な助けをお与えになるのです。

 38年の長患いの男は主イエスに声をかけられて、自分の問題を打ち明けました。それが出来たとき、実は男の問題は解決されていました。自分に「良くなりたいか」と声をかけ下さった方が、彼の右に立つ真の友、彼の逃れ場となって下さったからです。

 ですから、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられたとき(ヨハネ5章8節)、彼はすぐに立ち上がり、床を担いで歩き出したのです(同9節)。

 主よ、あなたは私たちが祈る前から、私たちの必要の一切をよく御存知です。ですから、私たちがあなたに祈り求めたとき、その必要を豊かにお与え下さいます。主よ、私たちに与えられた恵みのゆえに御名が崇められ、いよいよ主の恵みの深さ、慈しみの豊かさに信頼して喜び感謝しますように。 アーメン

パレスチナ人民連帯国際デー

11月29日は「パレスチナ人民連帯国際デー」。

「そもそも日本のカレンダーに載せる必要があるのか? いったい何人の日本人がこの日に、『アッ!今日はパレスチナ人民連帯国際デーだ!!みんな!連帯しなくっちゃ!!!』なんて思うんだろう・・。」(あるブログより)

そう考えるのが、普通なのかも知れない。

1947年のこの日、パレスチナ人民の国土が国連によって分割されることになり、イスラエルという国が誕生した。
パレスチナ人民は、それに武力で抵抗しようとした。
残念ながら、イスラエルを後押しする力の方が、大きかった。
以来、イスラエルとパレスチナの間で多くの血が流されて来た。

30年後の1977年に、この日を「パレスチナ人民連帯国際デー」とすることが、国連によって宣言された。
国連加盟国は、その主旨を理解し、守る義務を持っていると思う。

因みに、中国の温家宝首相は、今年、ニューヨークの国連本部で開催された「パレスチナ人民連帯国際デー記念大会」に対し、
「パレスチナ人民連帯国際デー記念大会の開催に際し、中国政府を代表し、熱烈な祝賀を示す。
 パレスチナ問題は中東問題の核心である。中国はパレスチナ人民の法的民族権利の回復、中東平和プロセスを確固不動に支持し、パレスチナとイスラエルが平和交渉の道を堅持、国連関連決議および「Land For Peace」原則をもとになるべく早くパレスチナ独立、双方の平和共存を実現することを期待している。
 なるべく早くパレスチナ問題を解決することは中東地域各国人民の切実な願望であると同時に、国際社会の共通の期待でもある。国連安全保障理事会常任理事国として中国は国連が中東問題において重要な役割を果たすことを引き続き支持し、国際社会と共にパレスチナ問題の解決、中東地域の平和、安定と発展にたゆまず努力する」
(翻訳 孫義)
という祝電を打っている。

軍事力で弱い者を抑えつけるやり方は、アメリカも同じ。
新大統領となるオバマ氏は、イラクから早期撤退するというが、軍を引くことはかまわないとして、国家の秩序、平和を回復する責任は、当然、正当な根拠無く攻め込んだアメリカにある。
また、アフガニスタンに対しては、軍備を増強するという。
平和を回復し、難民が国に戻ってくるために、どのようなプランを持っているのか、明らかにされていない。
その点では、ブッシュ氏と何ら変わりはないではないか。

人権を踏みにじられている人々と連帯するというのは、少なくとも、圧倒的な軍事力を持って他国に攻め込み、そこに住む人の生活を無視して、したい放題にすることではあり得ない。
そのようなことをするアメリカという国は好きになれない。
アメリカには大切な友人が何人もいるというのに。

オバマさん、このねじれを何とかして欲しい。
本当に、「Change!」を期待している。

北朝鮮による日本人拉致問題啓発アニメ「めぐみ」

北朝鮮による日本人拉致問題啓発アニメ「めぐみ」が制作され、ネット配信されています。

URL http://broadband.biglobe.ne.jp/program/index_megumi.html

上記アドレスをクリックして、ご覧下さい。


一日も早く日本人拉致被害者が解放され、帰国することが出来ますように。
必要な手だてが行われますように。 

スワンナプーム国際空港不法占拠

タイの反政府勢力が首相府の不法占拠に続き、今度は、国際空港を占拠しています。

タクシン政権を引き継いだソムチャイ首相の退陣を求めている反政府団体と、退陣するつもりはないとするソムチャイ首相が、今後どう対決していくのか、あるいはまた、どう解決しようとするのか、今のところ、五里霧中というところです。
空港封鎖の混乱がいつ収まるのかも、全く不透明です。
12月5日のプミボン国王の誕生日までには、何らかの動きがあると期待されてはいますが。

ただ、政情不安の状態が拡大して、タイに派遣されている日高宣教師ご一家や、ミッション・ボランティアの杉山いずみさんの宣教活動に支障が出ないように、彼らが危害に遭う事態にならないように、主のご加護を祈ります。

国際ミッションボランティア

今年10月から来年3月までの6ヶ月間、所沢教会の杉山いずみさんが、タイで国際ミッションボランティアとして派遣されています。

国際ミッションボランティアとは、外国での宣教のために日本バプテスト連盟から派遣されるのですが、その働きは、連盟や派遣先から謝礼を受け取らないボランティアだということです。

杉山いずみさんのこと、タイでの活動については、所沢教会のHPにその紹介と、現在の活動報告が掲載されています。
下記をクリックして、是非ご覧頂きたいと思います。
URL http://www9.plala.or.jp/godloves/us/imvtop.html


所沢教会の杉山牧師は、西南神学部で3年間一緒に学んだ仲です。
いずみさんの幼少期を少し知っている者として、この活躍は、なんだか自分のことのように誇らしく嬉しく思います。

列福式

今日、長崎で、江戸幕府の弾圧などで殉教したペトロ岐部はじめ、日本人カトリック教徒188人に「福者」(ふくしゃ)の敬称を与えるローマ法王庁の「列福式」が開かれました。

「福者」は、「聖人」に次ぐ称号で、その称号を受ける儀式のことを列福式といいます。
列福式が日本で開かれるのは、初めてのことです。

今回、福者に列せられた188人の殉教者の中に、レオ税所七右衛門敦朝という人物がいます。
この名前読めますかね。
「さいしょ・しちえもん・あつとも」と読みます。
七右衛門は、宮崎・都城の出身ですが、私の父の郷里、薩摩川内市で殉教しました。

税所七右衛門については、カトリック教会のHPに紹介があります。
URL http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/kibe_187/satsuma.htm

7~8年前、税所七右衛門の殉教をドラマ化した物語の録音テープを、父が持っていました。
「七右衛門」の名が、父を信仰に導いた伊集院教会の麦野七右衛門先生と同じ名前だったし、とても興味深いストーリーだったので、何度も聞きました。

それによると、税所七右衛門が信仰に導かれたのは、友人のジョアン小兵衞の影響を受けたからでした。カトリック教会のホームページにある「パウロ吉右衛門」とは別人なのかどうか、よく分りません。

七右衛門は、領主・北郷加賀守三久からキリシタンの取り締まりを命ぜられていましたが、友人の入信を知って、教会に関わるようになり、やがて自分も信仰を持つようになります。
七右衛門がキリシタンとなったことを知った加賀守は、すぐに信仰を捨てるように命じますが、七右衛門は従いません。
七右衛門は捕らえられ、取り調べを受けた結果、死刑が宣告されます。
七右衛門の友人や親族が棄教するように、あるいは表向きだけでも棄教した振りをし、加賀守に恭順の姿勢を示すようにと訴えても、その信仰が揺らぐことはありませんでした。

武士として切腹を命じられますが、自殺は出来ないと断り、逆に十字架に磔にされることを願いますが、それは許されませんでした。
そこで、屋敷前の十字路に正座し、首を垂れて斬首の刑を受けました。

七右衛門がキリシタンとして生きたのは、わずか4ヶ月ほどということですが、「神の御慈悲がその心に触れた人のようであった」と賞されるような信仰生活を送り、そして殉教されたことが重く評価されたのでしょう。

私たちプロテスタントの信仰者にとって、人がどのように評価をし、どんな称号をつけるかということに関心を持ってはいませんが、しかし、だからといって、評判など、どうでもよいということでもありません。

教会で初めて執事を選び出す際、「霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」と言われています(使徒言行録6章3節)。
また、第一テモテ書3章7節には、「監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません」と記されています。

死後400年経って称号を与えられることにどのような意味があるのかと考えると、称号を与えられた人にとっては、さしたる意味はないと思いますが、しかし、今を生きる私たちに、どのように生きることが良い生き方なのかを指し示すという点で、とても大きな意義ある出来事でしょう。


私がそういえば、家内が大笑いするのではないかと思いますが、税所七右衛門に倣い、「神の御慈悲がその心に触れた人のようであった」と賞されるような信仰生活を送りたいものだと思います。

11月23日の御言葉 「ヤコブの選び」

「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた。」 詩編135編4節

 詩編135編は、初めと終わりに「ハレルヤ」と記されていて、主をたたえる賛美の詩であることを示しています。
 
 まず4~7節で、イスラエルを選ばれた主は、天と地、海とその深淵において御旨を行われる大いなるお方である、と賛美します。続く8~12節では、歴史の中に働いて、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放して、約束の地をお与えになった主をたたえます。そして、13節以下は、異国の偶像は人間の手が造ったものに過ぎないことを語りながら、イスラエルの主は生きておられるお方であると賛美しているのです。
 
 詩人は4節に、「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた」と記しています。主がヤコブを選ばれたのは、なぜでしょうか。
 
 イスラエルの父祖ヤコブは、双子の兄エサウの長子の権利を一杯の豆の煮物と交換して手に入れ(創世記25章22節以下)、そして、兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、父イサクを騙して奪い取りました(同27章1節以下)。

 長子の権利と父の祝福を奪われた兄エサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうと思うようになります(同41節)。それを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家に逃がします(同42節以下)。

 母の実家のあるハランの町に向かうヤコブは、旅の途中、荒れ野で野宿します(同28章10,11節)。そのとき、神がヤコブに天に達する階段の幻を見せ(同12節)、そして、ヤコブに祝福を語ります(同13節以下)。即ち、兄から長子の権利を奪い、父を騙して祝福を奪ったヤコブを、神が祝福されたのです。
 
 その後、ハランに着いて叔父ラバンの娘を娶り、家畜を飼う仕事を手伝ったときには多少の苦労はしましたが(同29章14節以下)、神の助けによって、たくさんの家畜を持つようになりました(同30章43節)。そして、意気揚々故郷に帰ることになります。
 
 家に帰るに先立って使いをやったところ、兄が400人の供を連れて迎えに出るという返事です(同32章4節以下、7節)。それに恐れをなしたヤコブは、群れの中から兄への贈り物を選び、それで、兄の心を和ませようと考えます(同14節以下)。
 
 それでも安心出来なかったヤコブは、家族に先にやって、神の使いと格闘します(同23節以下、25節)。格闘の後、神の使いはヤコブに祝福を二つ与えます。一つは、「イスラエル」すなわち「神と人と闘って勝った」という名前(同29節)、もう一つは、腿のツガイが外されて引きずって歩くようになった足です(同32節)。そのため、もう逃げ出すことが出来ません。
 
 ヤコブは、兄エサウと再開を果たします(同33章1節以下)。そして、兄エサウは、弟の罪を全く話題にしません。既にそれを赦し、忘れてしまったかのようです。ヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言います(同10節)。これは、おべっかというより、神は罪を赦すお方であるという信仰の表明であり、兄エサウがさながら神のように、罪を赦してくれたことに対する感謝を言い表しているわけです。
 
 神がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが優れているからではなく、神の助けと赦しなしには生きられないことをヤコブに学ばせるためでした。イスラエルという名を与えたのは、目的のために手段を選ばないという生き方ではなく、神に信頼し、互いに赦し合い、愛し合って生きる者となること、そのような民を神が御自分の宝とするという祝福なのです。

 主よ、私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の民の一員に加えられました。その恵みに与ったものとして、互いに赦し合い、愛し合って歩むことが出来ますように。それによって私たちがキリストの弟子であることを、多くの人々に証しすることが出来ますように。 アーメン

今日は「いい夫婦」の日

11月22日は「いい夫婦の日」です。
経済産業省の外郭団体、(財)社会経済生産性本部が、夫婦で余暇を楽しむゆとりあるライフスタイルを提案、1988年に11月22日を「いい夫婦の日」と提唱しました。

いい夫婦の日とは、“夫婦で「ありがとう」をする日”なのだそうです。

1998年に「いい夫婦の日」をすすめる会の事務局が設立されました。
名誉会長は、桂文珍さんです。
文珍さんは、「夫婦にとっていちばん大切なのは信頼だと思います。もちろん、それをどう築いていくかはそれぞれの夫婦次第。どちらにしても、ふたりでコツコツ積み上げたものは、なにひとつ無駄にはならないということ。積み上げた時間と数の分だけ、夫婦には「信頼」という高い塔が築けるのですから」と仰っています。

翌1999年から、すすめる会ではパートナー・オブ・ザ・イヤーを発表しています。
今年のパートナー・オブ・ザ・イヤーは、朝原宣治・奥野史子さんご夫妻です。

ご承知の通り、朝原宣治さんは陸上競技の短距離ランナーで、今年の北京オリンピックのリレーで銅メダルを獲得されました。
奥様の奥野史子さんは、シンクロナイズドスイミングの選手で、1992年のバルセロナオリンピックに出場して、銅メダルを獲得しておられます。
夫婦揃ってオリンピックのメダリストというわけで、
選ばれた理由は、そこにあるのでしょうね。

2006年からは「いい夫婦 川柳コンテスト」も始まりました。
今年のいい夫婦大賞に選ばれたのは、「医者よりも 看護婦よりも あなたの手」です。
こんなふうに言ってもらえたら、看病疲れも吹っ飛びますね。

私たちも結婚して27年余り、知り合ってから33年という月日が経ちました。
結婚式の祝辞で、家内が勤めていた会社の社長から、毎日「愛してるよ」と言葉を交わすように言われ、一日三度は言おうと決心したはずですが、月日の経過と共にそう決心したことも、いつしかすっかり忘れていました。
あらためて「愛しているよ」という気持ちを、「いつも有り難う」の言葉に添えて通わせたいと思いました。

ところで、今から95年前(1913年)の今日、NHK大河ドラマに登場する第15代将軍・徳川慶喜公が感冒により、76歳で身罷られました。
また、J.F.ケネディーがテキサス州ダラスで暗殺されたのは、45年前(1963年)の今日のことです。
そのとき、歴史は動いたかな?

両親の近況


父01昨日、福岡に出かけたついでに、両親を見舞って来た。
前回よりも、ずっと元気になっているように見える。
1月に行われる九州リバイバル聖会に行きたいと言う。
歩行が困難なので、車椅子でということなのだが。
それで、車椅子は自動車で運べるというと、もう行くつもりになってくれている。
他の教会員に声をかけるとも。
この調子なら、本当に実現出来そう。
なんでも、膝に痛み止めの注射をしたお蔭だそうで、夜がゆっくりと寝めているようだ。
これから、月に一度それをするという。
注射は体に毒となることもあるそうだが、80歳を超えて生かされている身。
痛みがなく、元気に過ごせた方がよい。
この元気さがあれば、来月、大牟田にも来れるかな?

母01父が元気そうにしているので、母も随分楽になったように見える。
圧迫骨折した背骨は、完治に随分長い時間がかかるようで、当分コルセットの世話になる。
体をかしげると、脇腹が痛いと言っていた。
そのため、長時間同じ姿勢で座っているのは辛いということで、礼拝出席に影響が出ることも。
狭心症の発作のことを言っていなかったので、それは順調なのだろう。
ただ、父方は循環器系の病気で召されているが、母方は圧倒的に癌系。
もしかすると、母の場合には、循環器系の病気を心配していて、その実、癌で召されることになるかも知れない。
こればかりは、自分の人生とはいえ、自分でコントロール出来ることではないから、すべてを主に委ねるほかはない。
神が最善に導いておられることを信じて。

  「わたしは魂を沈黙させます。
   わたしの魂を、幼子のように
   母の胸にいる幼子のようにします。」
           詩編131編2節


11月16日の御言葉 「主を畏れ、主の道に歩む」

「いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。」 詩編128編1,2節

 詩編128編は、文字通り127編の続編のような、主に信頼する者を祝福される主なる神への賛美です。127編では、主の働きなしに労苦する空しさが、その冒頭で語られていました。それに対して、この詩では、冒頭の言葉(1,2節)のように、主を畏れ、主に信頼してその道を歩む者の労苦は豊かに報われ、また家族に恵まれて繁栄すると(3節)、祝福が語られています。

 人は神に背いて罪を犯したため、地は呪われ、生涯、食べ物を得るために苦しむことになりました(創世記3章17~19節)。また、女性は出産のために苦しみを味わわなければならなくなりました(同16節)。労働も出産も、大きな苦痛を伴うものとなったわけですが、しかしながら、それはいずれも、本来は、神の祝福のもとにありました。神は、ご自分にかたどって人を男と女に創造されて(同1章27節)、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福されました(同28節)。また、人に、エデンの園を耕し、守るように、その務めを与えられました。そして、園の木の実を食物とするようにされたのです(同2章15,16節)。

 ですから、出産と子育て、そして勤労は、神の祝福なのです。その祝福なしに生きるのは、神の御旨に添わない不完全なこと、127編の言葉で言えば、「むなしい」ということになります。即ち、主なる神は、私たちの人生を祝福に満ちたよいものとしてお与え下さったわけです。

 「シオンから、主があなたを祝福してくださるように」(5節)と言われるということは、私たちの祝福はシオン、エルサレムの平和と繁栄に関わりがあることになり、それで、「命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように」と祈られるわけです(5,6節)。であれば、122編6節以下と同様の願いが語られていることになります。

 詩人は勿論、神様の祝福がシオンの山、エルサレムの町に来なければ受けられない、エルサレム神殿の礼拝に参加すれば祝福が受けられる、などと言っているわけではありません。バビロン捕囚を経験した人々は、エルサレムの神殿や町の城壁が自分たちを守るわけではないことを、しっかりと学びました。127編で学んだとおり、主が建てて下さるのでなければ、主が守って下さるのでなければ、一切の労苦は空しいのです。ですから、主を畏れ、主の導きに従って歩む者の幸い、祝福が語られているのです。

 この詩では、主の道を歩むこととは、「都に上る」こと、直接的には、エルサレム巡礼をすることですが、その心は、主との交わり、主との結びつきを確認するということです。

 神は、独り子キリストを信じる者に永遠の命をお与え下さいました(同3章16節)。「永遠の命」とは、単に永遠に長生き出来るということではなく、交わりの豊かさが与えられることであり、それは、主イエスのゆえに互いに永遠の絆で結ばれることと教えられます。主にあって、愛する者と永遠の交わりに生きることが出来る、その交わりが死やその他の何ものによっても断ち切られることはない、ということです。

私たちにとって、誰より何より、主が私たちの内におられ、共にいて下さるのが、何よりの恵みです。ここに、祝福の基があります。主から、聖霊を通して神の愛が、平安が、希望が、喜びが、力が注ぎ与えられるのです。絶えず主を拝し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主なる神よ、御子キリストが私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪を担って下さいました。私たちが罪に対して死に、義に生きるようになるためです。どうか、御霊により、御言葉に従って主の御足跡に続いて歩ませて下さい。悪に打ち負かされず、祝福の基として、すべての人のために祝福を祈る者とならせて下さい。 アーメン
livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 4月30日(日)主日礼拝説教
  • 4月30日(日)主日礼拝案内
  • 4月23日(日)主日礼拝説教
  • 4月23日(日)主日礼拝案内
  • 4月16日(日)イースター礼拝 劇・説教
  • ハッピー・イースター案内
  • 4月16日(日)イースター礼拝案内
  • コンテンポラリーダンス公演
  • 花見日和
  • 花見日和
  • 花見日和
  • 4月9日(日)主日礼拝説教
  • 桜がほぼ満開に
  • 桜がほぼ満開に
  • 桜がほぼ満開に
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ