風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2008年10月

朋あり遠方より来たる


友


















論語の初めに、
 子曰く、学んで時に之を習う。
 亦説ばしからずや。
 朋あり遠方より来る、
 亦楽しからずや。
 人知らず、而して慍らず、亦君子ならずや。

という文章があります。
友の大切さが記されていますが、確かに、遠方から友が訪ねてくれたら、嬉しいものです。
写真は、今日、熊本市から教会を訪ねてくれた友です。
デジカメの電池切れで、携帯のカメラを使ったのですが、情けないことに、ピントを合わせることが出来ませんでした。
ゴメンナサイ。
この二人は今年の6月に結婚し、熊本市内で新しい生活をスタートされました。
結婚5ヶ月、まだまだ湯気が立っているような二人です。
彼は、昨年5月に彼女に導かれて初めて教会にやって来て、以来ほぼ毎週礼拝に出席するようになり、そして、今年のイースターにバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになりました。

聖書に、
 「見よ、兄弟が共に座っている。
  なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133編1節)

という言葉がありますが、「兄弟」は、「親類、同胞」の意味もあり、ここは「夫婦」と考えたいと思います。
また、「座っている」は、「住む」とも訳せます。
共に住み、共に座す夫婦の祝福をうたった歌ということになります。
二人とそれぞれの家族に祝福があるように祈ります。

今日は、彼の仕事が休みということで、久しぶりに彼女の実家を訪ねるついでに、教会に寄ってくれたということでした。
その気持ちが嬉しいですね。

栄光の凱旋

昨日、調清子夫人が肺炎のため召天されました。
栄光のうちに天に凱旋されたと申し上げたいと思います。
調夫人は、下瀬加守牧師の三女で、米国・南部バプテスト女子神学校を卒業して、西南保姆学院(現西南学院大学人間科学部児童教育学科)開設に伴い、専任教員となられました。
その後、調正路牧師と結婚され、戦時中は福岡、長崎、下松などで生活されます。
敗戦後、西南女学院女子専門学校(現短期大学部英語学科)に就職された後、調先生に伴って、大牟田バプテスト教会、熊本バプテスト教会で奉仕をされました(調先生は、戦後、松村牧師に次ぐ大牟田教会・二代目牧師として、夫人と共によい働きをなさいました)。
1955年より、調先生ご夫妻は、連盟から米国統治下の沖縄に派遣され、首里バプテスト教会を中心とした宣教活動に従事され、その後、連盟から離れて那覇で自給・開拓伝道に着手されます。
そのときに夫人は、沖縄クリスチャンスクール、沖縄キリスト教短期大学で教鞭をとられました。
1990年、調牧師が発病されて、福岡に帰郷。
1997~2002年、調先生と共に、腹話術「ヨシュア傘従士」(ご夫妻が傘寿を迎えられたことと、ご夫妻と腹話術の人形との三従士とをかけて)による全国行脚伝道を行われます。
2004年7月20日に調先生が召天され、夫人も翌年11月に脳梗塞で入院されて、闘病生活が続けられていました。
個人的に親しくお交わりすることはありませんでしたが、私たちが福岡にいる間、時折、車でご一緒に牧師会などに出かけたり、超教派の朝祷会からの帰りにご自宅にお送りしたりでご一緒する機会がありました。
ご夫妻の仲睦まじい様子、また、奏楽をされるなど奉仕の際の夫人の柔和の中にも凛とした姿が、いつも印象的でした。
92年の生涯を全うされ、主の御許に召された調夫人は、まったき平安のなかにあり、先に召された調先生と共に、栄光に輝く主の御座の前で賛美をささげておられると信じます。
その信仰に倣い、私たちも主から委ねられた使命に邁進し、義の冠をかぶらせていただくときまで、主に従って忠実に歩ませていただきたいと思います。

賛美と福音の集い


福井先生昨日一昨日、福井正躬先生をお迎えして、賛美と福音の集いを開催することが出来ました。
「福井先生の話は長いよ」という噂を聞いて、どれほどなのかなあと思っていましたが(先生スミマセン)、先生のお話はウイットに富み、ところどころドラマ仕立てのような展開もあって興味深く、そして、結論が明確に示されますので、時間を気にする暇もありませんでした。
そして、二度の集会、いずれも予定の時間に終えることが出来ました。

私は40年前、中学1年の時から、教会の礼拝に出席して来ました。
当時の礼拝は2時間、父は90分近い説教をしていました。
聖書知識もあまりなく、言葉遣いで分らないところもあって、初めは退屈していましたが、導かれて中一のクリスマスにバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになり、次第に聖書の話を面白く聞けるようになっていきました。
90分もじっと座って聖書の話を聞くというのは、40年前だから出来たことで、今の時代にはまったくウケない話かも知れませんし、それを聞かせようと思えば、それ相当の準備や話術が必要でしょう。

今回、先生は私たちに対して話したいことが山ほどあって、とても時間が足りないといった有様だったと思います。
時間を差し上げれば、どれだけでも話されたのでしょう。
そのために随分時間をかけて準備されたことでしょう。
愛情こめて語って下さる熱のこもった話しぶりに、それがよく表われていました。

先生が大牟田においでになる前に牧師をしておられた南名古屋教会が、信徒の研修のために先生を毎年招いておられるという話を伺って、それもそのはずと思いました。
福井先生は私にとって、牧師の牧師というような存在です。
そのような先生を近くにおいて、御言葉を聞くことが出来る機会をお与え下さった神様に、心から感謝致します。

賛美と福音の集いのフォトレポートは、大牟田教会のホームページでご覧頂くことが出来ます。
是非覗いてみて下さい。

フォトレポートURL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/wklyphoto1026.html

10月26日の御言葉 「恵み深い主に感謝せよ」

「『恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに』と、主に贖われた人々は唱えよ。」 詩編107編1,2節

 詩編107編は、第五巻(107~150編)の巻頭にふさわしく、第二の出エジプトともいうべきバビロン捕囚からの解放を経験した詩人の、主の慈しみに感謝する賛美の歌です。

 4~32節に、神のなさった4つの贖いの業が記されています。各組には、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」の句が、リフレインとして詠われます。

 第一組(4~9節)は、荒れ野で迷い、飢え渇いた人々のため、良いもので満たすという恵みです。第二組(10~16節)は、牢獄に捕らわれ、闇と死の影に脅かされていた人々のため、牢の戸を破り、解放するという恵みです。第三組は、背きと罪の結果、病いによって死の床にいた人々のため、癒しをなし、立ち上がらせるという恵みです。第四組(23~32節)は、海で嵐に遭って死に飲み込まれそうになっていた人々のため、嵐を静め、港に導かれるという恵みです。

 それぞれの組の人々が恵みを味わうことが出来たのは、彼らが苦難の中から助けを求めて叫んだからであり、そして、その声を主が聞いて、彼らを憐れまれたからでした。詩人が繰り返し、「主に感謝せよ、主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」と詠っているとおり、彼らが救われたのは、実に神の一方的な、驚くべき恵み(Amazing Grace)だったのです。

 そして、新約聖書の信仰に生きる私たちも、主イエスを通して、信仰によってこの恵みに与ることが出来ます。主イエスは、大勢の群集を深く憐れみ、荒れ野においていろいろと教えられた後、彼らに食事を与えられました(マルコ福音書6章30節以下)。彼らは食べて満腹し、残り物で12籠が一杯になりました。また、悪霊に取りつかれ、墓場に縛られていた人を悪霊から解放し、家に帰らせなさいました(同5章1節以下、1章21節以下など)。そしてあらゆる病い、患いをおいやしになりました(同1章29節以下、2章1節以下など)。さらに、突風が起こり、舟が沈みそうになっているときに、風と湖を叱って凪にされました(同4章35節など)。

 私たちがそのような恵みに与ることが出来るのは、私たちにその資格や権利があるからではありません。一方的な神の恵みです。それは、誰も神の御前に誇ることがないためです(エフェソ書2章8,9節)。主が私たちをあらゆる苦しみ、煩いから贖い、救い出して下さったのは、その恵みに感謝し、御名を賛美する民、すなわち、その魂が主の恵みに対する感謝と喜びで満ち溢れ、霊とまことをもって主を礼拝する神の民を集めるためです。

 40~42節に、「主は貴族らの上に辱めを浴びせ、道もない混沌に迷い込ませたが、乏しい人はその貧苦から高く上げ、羊の群れのような大家族とされた。正しい人はこれを見て喜び祝い、不正を行う人は口を閉ざす」と記されていますが、富と力を持ち、あるいは悪をなす者は、神を呼び求めないので、その慈しみに与ることが出来ませんが、彼らも、道に迷い、貧苦に悩むとき、神に助けを祈り求める者となるでしょう。神は、この打ち砕かれ、悔いた心を軽しめられず(詩編51編19節)、彼らを高く上げ、繁栄を回復されるのです(サムエル記上2章7,8節)。

 「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と唱えつつ、今も私たちのために働いておられる主の慈しみに目を注ぎましょう。

  主よ、あなたは渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たして下さいます。私たちを閉じ込めようとする獄屋の青銅の扉を破り、鉄の閂を砕いて下さいます。御言葉を遣わして私たちを癒し、滅びから救い出して下さいます。嵐を静め、望みの港に導かれます。心から感謝のいけにえを献げ、その御業を語り伝え、喜び歌わせて下さい。 アーメン

いよいよ明日は「賛美と福音の集い」

いよいよ、恒例の秋の伝道集会「賛美と福音の集い」が下記のとおり、明日、明後日に迫って参りました。
案内のように今回は、大牟田フレンドシップ教会牧師・恵愛園チャプレンの福井正躬先生をメッセンジャーにお迎え致します。
先生のお語り下さるストレートな聖書のメッセージに、ご一緒に耳を傾けましょう。

賛美と福音の集い
10月25日(土)午後7時~9時
10月26日(日)午前10時半~12時半
講師:福井正躬先生
    大牟田フレンドシップキリスト教会牧師
   キリスト者奉仕会・大牟田恵愛園チャプレン

詳しくは、下記案内を参照して下さい。
URL http://www.h7.dion.ne.jp/~omutabc/File0003.pdf

音楽礼拝


トーンチャイム
昨日は、大牟田フレンドシップキリスト教会の秋の特別伝道集会・音楽礼拝が開かれました。
娘と伴奏者の金子先生と三人で出席し、奉仕をさせて頂きました。

  

聖歌隊
音楽礼拝の名にふさわしく、トーンチャイム演奏あり、聖歌隊合唱あり、ハーモニカ演奏あり、そしてサックス独奏ありと、とても盛りだくさんでした。



ハーモニカ
娘も、その中で独唱する機会が与えられました。
他所の教会に招かれて奉仕をするのは初めてと、緊張しながら、自分のことを色々話していました。



サックス開会の賛美から、よく整えられたプログラムで、賛美を住まいとされる神の臨在を感じました。
これだけのプログラムを用意するために、随分前からしっかりと準備をして来られたのだなあと思います。
私も、話を伺ってから数ヶ月、あれやこれやと思い巡らしながら、主の導きを祈りつつ備えました。
そのすべてを十分に展開することは出来ず、反省しきりではありますが、導きに従って精一杯、務めさせて頂きました。
主が、大牟田フレンドシップ教会に集う皆様にさらに豊かに油を注いで恵みに恵みを増し加えて下さるように、委ねられている賜物が存分に活かし用いられるように、これからも祝福を祈りたいと思います。

10月19日の御言葉 「主はわたしたちを造られた」

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」 詩100編3節

 1551年、ルイ・ブルジョアがこの詩のために作った曲(教団讃美歌4,5番、新生讃美歌7,9番など)は、今も愛されて世界中で用いられています。教団讃美歌5番は、英国讃美歌の父と称えられるアイザック・ウォッツが、詩編100編を基として1719年に作詞した讃美歌です。1853年、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官M.C.ペリー提督が浦賀に来たとき、最初の日曜日に軍艦の上で歌った讃美歌は、教団讃美歌5番(アイザック・ウォッツ作詞、ルイ・ブルジョア作曲)だったと言われています。その意味で、教団讃美歌5番は、日本開国を導く讃美歌となったわけです。 

 この詩は、全世界の民を主の御前に招き(1,2節)、主こそ神であると知れ、と歌います(3節)。「御前」とは、原語は「彼の顔」という言葉です。人間は、その罪深さゆえ、聖なる神の御顔を見ることは赦されないと考えられていますが(出エジプト記3章6節、士師記6章22節など)、この表現は、神の御顔をはっきりと見ることが出来るほどに近づくこと、という意味になるでしょう。

 「主はわたしたちを造られた」方です。私たちは、神にかたどって創造されました。それは、「男と女に創造」されるということでした(創世記1章27節)。これは、外形が神の形に似ているということよりも、「男と女」という言葉に見られるように、二人で一つの単位となるかたちだということです。男と女には違いがありますが、愛によってひとつになることが出来ます。愛し合う男女の間には、新しい命が託されます。命を創造する神の働きに、互いの愛を通して参加させて頂くわけです。

 夫婦は、もともと他人です。様々な違いがあります。違いが対立になることも少なくありません。だからこそ、愛し合わなければならないのです。愛するとは、好きになることではありません。相手をより深く理解することです。勿論、よりよく理解することで、もっと好きになれるでしょう。お互いの理解を深めることで、視点の違い、感覚の違いがより豊かな交わりを生み出します。より深い感情を共有しあうことが出来るようになります。

 キリストは、極みまで私たちを愛して下さいました。それは、御自分の命で私たちの罪を贖うという形で示されました。それが、キリストの十字架です。主イエスが、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章10,11節)と仰ったとおりです。

 主イエスの贖いの死によって罪赦された私たちは、神の子どもとされました。永遠に神と共に住み、神との交わりに入ることが許されたのです(ヨハネ福音書1章12節、17章11,21節以下など)。 私たちは神の恵みを受けて、キリストが神の御子であられること、私たちの贖いのため、十字架で死なれたこと、三日目に甦られたこと、そして今も生きておられることが信じられるようになりました。パウロが、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と記しているのは、そのことです。

 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ福音書14章9節)と言われています。主イエスの御顔に輝く神の栄光をさらに深く悟ることが出来るように、日々主の御言葉に耳を傾け、羊飼いの声に聴き従う羊のように、先立って歩まれる主の御足跡に、賛美しながら喜んで従って行きたいと思います。

  天のお父様、御子キリストの贖いにより、神の家に共に住まう恵みと特権にあずからせて頂きました。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入ります。御口から出る一つ一つの言葉で養われ、喜んで主に仕える者とならせて下さい。アーメン

10月12日の御言葉 「主こそ王」

「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は堅く据えられ、決して揺らぐことはない。」 詩編93編1節

  詩編93編は、主なる神が王として世界を統治されることを宣言する賛歌です。イスラエルには、かつて王がいました。祭司によって油注がれて即位した王は、頭に王冠を戴き、絢爛豪華な衣服、外套を纏っていました。王冠や笏、王衣によって、王としての威厳や力を示していたのです。その王が、王の王、主の主なる神に向かって、「主こそ王」と歌うのです。 

 この詩の他にも、「わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください」(5編3節)、「主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう」(10編16節)、「栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」(24編10節)、「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく」(29編10節)、「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(47編3節)、「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ」(84編4節)など、神を王と呼び、称える言葉を数々見出すことが出来ます。

 冒頭の言葉(1節)のとおり、神は、威厳と力を、衣として纏っておられます。つまり、王冠や王衣によって威厳や力を示されるというのではなく、神はまさにその存在が威厳そのもの、力そのものということであり、それゆえ、王に威厳を与え、力を与えることがお出来になるのです。神はその御力をもって、世界を堅く据えられました。だから、世界が揺らぐことはない、と言われています(2節)。世界を統治される王なる神は、天地を創造された神なのです(創世記1章参照)。

 しかしながら、私たちの目には、「世界が揺らぐことはない」と映っているでしょうか。むしろ、土台から根こそぎ揺らがされているように感じているのではないでしょうか。どこに確かなものがあるのか、と思われてはいないでしょうか。目に見えるすべてのものは、やがて過ぎ去り、失われていきます。

 私たちは、生まれてから死ぬまで、変化の連続の中にいます。「世界が揺らぐことはない」というのは、目に見える現実が変化しないということではなく、何がどのように移り変わっても、神がこの世を守り支えておられるのであり、その神の御手から、この世の支配権を奪うことは出来ない、ということです。

 黙示録では、キリストを「小羊」として描き(黙示録5章)、そして、「小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」(同17章14節)と記しています。つまり、「主こそ王」(1節)とは、黙示録では、主イエス・キリストのことを指しているというわけです。

 以前にも学んだことですが、天を表す線「一」と、地を表す線「一」の間に、十字架「十」を書くと、「王」という漢字になります。つまり、王様とは、天と地をつなぐ架け橋となるために十字架にかかられたお方、十字架に架けられることによって、天と地の仲介者となられた方というのが、この漢字が表現している意味なのです。

 ですから、王様には、民のために神の前に執り成し祈る祭司としての務め、そして、神の言葉を民に語り伝える預言者としての務めもありました。イスラエルでは、祭司に油を注がれた者が王となります。「油を注がれた者」をヘブライ語で言えばメシア、ギリシア語で言えばキリストです。主イエスは、神によって油注がれた王であり、祭司であり、預言者である、まことのメシア、キリストなのです。

 罪と死の力を打ち破って甦られ、今も生きて私たちのために執り成しておられる主イエスを、心の王座に、中心にお迎えし、感謝と賛美を絶えずおささげしましょう。

 天地万物を創造し、すべてを御手の内に統べ治めておられる主なる神様、主イエスが私たちと共に、私たちの内に住み、恵みと平安を満たして下さいますから、私たちは揺るぎません。心から感謝と賛美をおささげ致します。いつも主につながり、御言葉の内に留まらせて下さい。 アーメン

ミステリーの日

今日10月7日は、ミステリーの日だそうな。その理由は、史上最初のミステリー小説「モルグ街の殺人」(1841年発表)を著わしたエドガー・アラン・ポー(米国人)が1849年の今日、亡くなったことから、それに因んで定められたのだそう。

それから45年後の1894年、日本の推理作家の代表者・江戸川乱歩(本名:平井太郎)が、三重県に生を受けた。江戸川乱歩は、早稲田大学卒業後、1923年(大正12年)、雑誌『新青年』に短編推理小説「二銭銅貨」を発表して文壇にデビューし、探偵小説の世界に大きな足跡を残した。少年向けに、明智小五郎と少年探偵団が活躍する少年探偵団シリーズもある。

少年探偵団といえば、今は青山剛昌の描く漫画「名探偵コナン」にも登場して来る(読売TV「名探偵コナン」のサイトは、URL http://www.ytv.co.jp/conan/index.html)(少年サンデー「名探偵コナン」のページは URL http://websunday.net/conan/)。主人公の江戸川コナンと小学校の同級生で構成されている。江戸川コナンは、高校生探偵・工藤新一の仮の姿。黒の組織によって子どもの姿に変えられた工藤新一が、父親の書斎にあった江戸川乱歩とコナン・ドイルの本から、「江戸川コナン」と名乗るようになったもの。

名探偵コナンの劇場公開第3作「名探偵コナン 世紀末の魔術師」は、CSで放送されたものをビデオ録画して、これまで何度見たか分らない。その中に、江戸川コナン=工藤新一と知る人物が4人(阿笠博士、灰原哀、服部平次、怪盗キッド)登場する。工藤新一の恋人役・毛利蘭にその正体がばれそうになるが、その正体を知る者の一人、工藤とは敵役の怪盗キッドによって窮地を救われて、話は終わる。

推理小説は、そのストーリー展開が命。途中でネタがばれてしまっては面白くない。少年サンデーに1994年に初登場してから、今もその連載が続いていることは、驚嘆に値する。2003年に既に、コミックの発売総数が1億冊を超えたとか。アニメファンの私としても、喜ばしい限りである。

連載のきっかけは、少年マガジンの「金田一少年の事件簿」に対抗するためだったそうで、当初は3ヶ月で終わるだろうと、作者自身が考えていたそうであるが、こんなに続くことになるとは、ミステリーなのかな?

10月5日の御言葉 「一筋の心」

10月5日(日) 「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」 詩編86編11節

 詩編86編は、神に救いを求める祈りの詩です。「わたし」(1節以下、多数)が一個人であるのか、集団を代表する王のような存在で、集団の救いを求めているのか、詳細は不明です。詩人が救いを求めているのは、14節に「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあるように、彼を苦しめる敵の存在があるのです。

 1節に「わたしは貧しく、身を屈めています」とありますが、これは前に70編6節に出て来ました。「身を屈める」と訳されているのは、「貧窮している」(エブヨーン)という言葉で、苦しめる敵を前に、自分で自分を守るすべがないこと、それゆえに一切を主の御手に委ねます、という表現です。ですから、2節に「あなたはわたしの神、わたしはあなたに依り頼む者」と語られるわけです。

 詩人は、この祈りを神が聞いて下さることを信じています(5,7節)。それは、主が恵み深く、豊かな慈しみをお与えになる方だからです(5,15節)。そして、主のほかに神はおられません(8,10節)。

 詩人が主の豊かな恵みと慈しみとに目を留めたとき、自分の信仰の有様を省みました。そこで、冒頭の言葉(11節)のとおり、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまことの中を歩みます」と言います。ここで、「まこと」は「真理、真実、忠実さ、堅固」(エメト)という言葉です。「あなたの真実の中を歩きます」とは、あなたの真実な道を歩きますということで、あなたの真実に応えて誠実に、忠実に歩きますという意味といってよいでしょう。

 そのために、「一筋の心をわたしにお与えください」と求めます。この文章の直訳は、「わたしの心を一つにしてください」となります。あれこれと求めて千々に乱れている心を一つに結合して下さいという意味と取るのが一番スムーズだと思いますが、新共同訳のように、あなた一筋の心にして下さい、という意味と考えてもよいでしょう。

 神の真実、その慈しみは計り知れません。というのは、深い陰府から詩人の魂が救い出されたのです(13節)。死の淵から神に引き上げられ、癒された、救われたということでしょう。そういう経験をしながらも、なお様々な出来事、特に自分を苦しめる事態に遭遇すると、神に信頼し切ることが出来ず、思い煩ってしまうのです。そして自分を支える様々な助けが欲しくなり、あちらこちらを見回している自分を見出すのです。そうすると、「深い陰府」とは、必ずしも死の淵などではなく、不信仰な私たちの心の有様を表しているとも考えられます。

 それにも拘らず、神の慈しみに圧倒された、満たされたということでしょう。それは、決して詩人の努力などではなく、まさに神の憐れみだったのです。だから、「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえに御名を尊びます」(12節)というのです。

 そう考えれば、14節の「傲慢な者」、「暴虐な者の一党」は、敵を指すだけでなく、自分の心の深みにあるものとも思えます。私たちの心が傲慢になり、また荒れすさぶ時、神を前に置いていない状態になります。自分で自分の前に神を置いたなどと考えると、すぐにそこに傲慢な思いが首をもたげてきます。私が目の前に神を見ることが出来るのは、神が私を憐れみ、ご自身の御顔を私に向けて下さっているから、主の方から近づいて下さったからです。私が不真実なときでも、主は絶えず真実です(ローマ書3章3,4節)。

 この主の真実に答える誠実さとは、主を信頼する信仰が心に満ちているということです。神様一筋の心にしていただきましょう、絶えず主を畏れ敬うことが出来るように。

  主よ、あなたの道を教えて下さい。私たちはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことが出来ますように、主一筋に求め、信頼する心を私たちにお与え下さい。いつも、御名を崇め、心を尽くして感謝をささげることが出来ますように。 アーメン
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