「ああ、これが不正を行った者の住まい、これが神を知らぬ者のいた所か、と。」 ヨブ記18章21節
 
 18章には、ビルダドの2度目の言葉が記されています。彼は、ヨブのエリファズに対する応答を聞いているうちに黙っていられなくなり、ヨブの言葉を遮るようにして発言しました。それは、ヨブが自分たちの言葉を聞かず、愚かなことを言い続けているように見えるからです。
 
 そこでビルダドは、「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか」と言います(2節)。「人を呪わば穴二つ」という諺ではありませんが、相手の揚げ足を取るようにして非難し合い、そして、自ら言葉の罠に陥り、解決策を見いだせなくなっているというのです。
 
 「なぜわたしたちを獣のように見なすのか」というのは(3節)、獣は、神が天地をされた第六の日に、人と共に創造され(創世記1章24節以下)、また、人を助けるものとして創造されました(同2章18~20節)。
 
 しかし、神のかたちに創造されたのは人だけで(同1章26,27節)、また、人の真の助けとなるのは、人から造られた人だけでした(同2章23節)。つまり、人を獣のように見なすというのは、下に見る、見下すということ、さらには、その人を軽蔑するということです。軽蔑する相手の話は聞かないでしょう。しかし、彼らはもともと親しい友人でした。ヨブの災難を聞いて彼を慰めようと見舞いに来たのです。
 
 だから、ビルダドは勿論、ヨブが災難に遭えばよいと思っているわけではありません。5節以下、神に逆らう者の灯火は暗くなり(5節)、その歩みも弱り(7節)、破滅の罠に陥り(8節)、家族に不幸が及び(12節)、自らも病いに冒されて(14節)、死に絶え(16節)、その記憶も残されない(17節)と語りながら、こんな結末を迎えることがないように、と警告しているのです。そして、ヨブがおのが非を認めて悔い改め、その苦しみから一刻も早く解放されて欲しいと願っているわけです。
 
 数年前、東京秋葉原で無差別殺人を行った被告は現在、東京地裁で裁判を受けていますが、当時、携帯サイトに自分の鬱憤をぶちまけ、殺人予告までしていたとか。思い通りの大学進学が出来なかったことが、容疑者の心に深い影を落としていたようですが、そのようなことをする者の心に、真の希望、真の喜びがあろうはずがありません。失望して破壊的な言葉を書き込む度に、さらに闇が増していったのでしょう。

 短大卒業後、1年ほどで各地を転々として仕事をしていた被告は、至るところで、誰も自分を正当に評価してくれない、いつでも取り替え可能な機械部品のような扱いを受けて来たと感じていたのではないでしょうか。そういう自分がこのままいなくなっても、誰の記憶にも残らないと思い、そんな冷たい世の中に復讐するために、記憶に残る犯行を思い立ったわけで、それこそ、相手は誰でもよかったのです。
 
 私は少年の頃、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだとき、自分が助かるために他の者を蹴落とそうとして蜘蛛の糸が切れ、再び真っ逆様に地獄に堕ちたカンダタとは自分のことだと受け取り、地獄の恐ろしさに震えたのを覚えています。
 
 もし、神を認めない生活をしていれば、「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とパウロが記しているとおり(エフェソ書2章3節)、滅びを刈り取らなければならなかったでしょう。そして、そのことで家族は不幸になり、やがて死に絶え、その記憶も残されなくなという結末を迎えなければならなかったことでしょう。
 
 しかるに、憐れみ豊かな神は、そのような私たちをその深い憐れみの心でとらえ、この上なく愛し、導き、救って下さいました。あらためてここにビルダドの語る言葉を自分のことと考え、そのようなところから救い出されたことを神に感謝しましょう。信仰によって私たちの心の内にキリストを住まわせ、神の愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として頂きましょう。その喜びを、世に向かって証ししましょう。
 
 主よ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。主の恵みと平和が全世界に、特に我が国の同胞の上に常に豊かにありますように。私たちが御業のために用いられる器となりますように。 アーメン