「主はヨシャファトと共におられた。父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかったからである。」 歴代誌下17章3,4節

 冒頭の「主はヨシャファトと共におられた」(3節)という言葉は、短い言葉ですが、とても素晴らしい言葉です。主がわたしと共にいて下さる。主イエスについて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われていました。そして、「インマヌエル」とは、「神は我々と共おられるという意味である」と説明されています(マタイ福音書1章23節)。
 
 どうして、主がヨシャファトとご一緒下さったのでしょうか。それは、「父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のように行わなかったからである」と記されています。
 
 ヨシャファトの父王アサに対し、神が預言者アザルヤを通して、「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいて下さる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示して下さる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」、と告げておられました(15章2節)。そのことを、ヨシャファトは父から聞いていたのではないでしょうか。また、実際にアサが行っていたことを、傍らで見ていたのでしょう。
 
 ただし、アサは生涯その道を歩み通すことが出来ませんでした。最後に道を踏み誤ってしまったのです(16章7節以下)。先見者からそれを指摘されるとかえって怒りを表わし、民の中のある者たちを虐待するという、八つ当たり的な行動を取っています(同10節)。そして、晩年、重い病にかかりましたが、そのときにも主を求めなかった、と批判されています(同12節)。
 
 ただ、そのことで、アサのなした業績がすっかり無駄になったとは思いません。神は、主の人のために汲んだ水一杯の恩を忘れないと言われるお方だからです(マルコ9章41節)。彼は41年という長い治世を全うし、眠りにつきました。アサのもとで、国が長い間、平穏の内にあったのです。だから、特別な葬りがアサのためになされたのでしょう(16章14節)。
 
 そして、主に慰められる以上の慰めはありません。主が共にいて下さるということ以上の平安はありません。アサの心変わりにも拘わらず、神が憐れみのゆえにアサとも共にいて下さったということではないでしょうか。だから、それを見たアサの子ヨシャファトが、さらに熱い心で主を求めたのだと思います。

 彼は、父に倣って聖なる高台やアシェラ像をユダから取り除きました(6節)。また、高官やレビ人、祭司たちが主の律法の書を携えてユダのすべての町々で教育を行うように遣わし、民の教化に努めました(7~9節)。
 
 それゆえ主はヨシャファトを祝福され、多くのものがもたらされました。ユダの民がヨシャファトに貢ぎを贈ります(5節)。主の恐れが近隣の国々を襲い、ユダに戦いを挑む者はなく(10節)、むしろペリシテから貢ぎ物や税が届けられ、アラビア人も雄羊、雄山羊を7700匹ずつ届けました(11節)。ヨシャファトはおおいに富み栄え、勢力を増し、ユダを守る勇士、武装兵の数は百万を越えています(12節以下)。
 
 何よりも先ず主を求める者のためには、その必要のすべてを豊かに与えて下さるという約束の実現を、そこに見ることが出来ます(マタイ6章33節参照)。持っている人は更に与えられて豊かになる、という言葉がありますが(同25章29節)、主との関係が正しくされるときに、主が共にいて下さるという恵みに、すべての必要が満たされるという恵みが加えられるのです。

 私たちもまず主を求め、主が共におられて私たちを祝福していて下さることを感謝する者とならせていただきたいと思います。
 
 主よ、ヨシャファト共におられ恵みを賜ったように、いつも私たちと共にいて下さることを感謝します。あなたを求めることを心に定め、御言葉に耳を傾けます。キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。私たちの歩みを導き、御心を行わせて下さい。 アーメン!