「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」 サムエル記上3章3節
シロの祭司エリは非常に年老いていて(2章22節)、目がかすんで、見えなくなっていました(2節)。当然、後継者が立てられる必要がありますが、彼の二人の息子はならず者で、どうしようもありません(2章12節、23~25節)。
1節に、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(1節)と言われています。祭司が主の御言葉を蔑ろにし、わがまま勝手にしたい放題に振る舞っていたので、主も彼らから遠く離れておられたわけです。しかしながら、それは、イスラエルの民にとって、大変不幸なことでした。
主イエスが故郷のナザレに帰られたとき、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさいませんでした(マタイ13章58節)。期待のないところで、主はその働きを控えられたのです。主を信じましょう。主に期待しましょう。
ある夜、エリは自分の部屋で床に就き(2節)、少年サムエルは、神の箱が安置された主の神殿に寝ていました(3節)。すると、主がサムエルを呼ばれました(4節)。サムエルはそれをエリの声と聞き違えて、その部屋に行きますが、エリは、「わたしは呼んでいない、我が子よ、戻っておやすみ」と言います(5節)。
それが3度繰り返されたとき、エリはサムエルを呼んでいるのは主なる神であると悟り(8節)、「またもし呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」、と指示を与えました(9節)。少年サムエルがまだ主を知らず、主の御言葉が示されることもなかったからです(7節)。
4度目に主がサムエルを呼ばれたとき、サムエルは、エリに教えられたとおりに答えます(10節)。すると、主はサムエルに語り始められます(11節以下)。それは、既に2章で神の人を通して語られていた裁きを、いよいよエリの家に下されるという内容でした(12節)。つまり、主なる神はサムエルを預言者として立てられ、その最初の仕事として、エリの家についての預言をサムエルに託されたわけです。
サムエルは主の語られた内容をエリに告げるのを恐れて黙っていましたが(15節)、エリがサムエルを呼び、神が語られたことを隠さず語れと言いますので(17節)、サムエルはすべてを話しました(18節)。エリは、「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」と言いました。
そのときエリは、息子たちの所業により、神に裁かれて祭司の務めから退けられたこと、代って幼いサムエルが、主の御心、主の望みのままのことを行う忠実な祭司として立てられたことを悟ったのでしょう(2章35節参照)。
その後、、「主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」ので(19節)、「ダンからベエル・シェバに至るまで」(20節)、主の預言者として立てられたことが認められるようになりました。「ダン」は、イスラエル北端の町、「ベエル・シェバ」は南端の町です。つまり、北から南まで、イスラエル全土に亘って、神の人として信頼される者になったわけです。
そして、主は引き続きシロの神殿に顕現されて、サムエルに御言葉をお示しになり(21節)、それが確かに神の言葉だったので、サムエルが語ったとおりに実現しました。ヨシュア記18章1節で、臨在の幕屋が建てられて以来、シロが中心地でした。ここにサムエルをお立てになったということは、イスラエルの民が主を礼拝し、引き続き神の恵みに与ることが出来るようにされたわけです。
冒頭の言葉(3節)で、「神のともし火は消えておらず」というのは、夜明け前を思わせる表現ですが、比喩的に、祭司エリが召される前に、その後継者として預言者サムエルが立てられたということを言い表しています。エリは自分の部屋にいますが、サムエルは主の神殿にいます。このとき既に、主はエリを遠ざけられ、サムエルをご自分の側近くに招いておられたわけです。
ヨハネ福音書8章12節で主イエスが、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。サムエルが「主よ、お話下さい。僕は聞いております」と主の御言葉を求めたように、私たちが主の御前に出て御言葉を求めるとき、主は私たちも光の内を歩ませて下さり、罪の内に死ぬべき私たちをも輝く命に生かして下さるのです(第一ヨハネ1章7節参照)。
主よ、少年サムエルが「主よ、お話しください」と求めたように、聖書を通して語りかけられるあなたの御声に朝ごとに耳を傾け、その導きに従って歩むことを通して、岩の上に家を建てる、真に賢い信仰生活を送る者とならせて下さい。主に大いなることを期待し、その栄光を拝させて頂くことが出来ますように。 アーメン