風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

10月24日(金) ヨシュア記10章

「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」 ヨシュア記10章8節

 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、イスラエルがエリコ、アイを滅ぼし、ギブオンと和を講じたことを知り(1節)、他のアモリ人の4人の王に人を遣わして(3節)、一緒にギブオンを攻めようと提案します(4節)。すると、彼らはすぐに意気投合し、連合軍を組織してギブオンに攻め上ります(5節)。

 ギルガルに宿営しているイスラエル軍が、エリコ、アイを破り、ギブオンと連合することで、イスラエルが南北に分断されつつあり、このまま放置すると、各個撃破されてしまうだろうと恐れたのでしょう。そこで先ず、これまで隣人であって、今や敵となったギブオンから攻略しようということになったわけです。今回の連合軍は、分断されるイスラエルの南方のアモリ人の町の軍隊です。

 戦いを仕掛けられたギブオンは、ギルガルにいたヨシュアに援軍の要請をします(6節)。援軍の要請を受けたヨシュアは、全兵士を率いて出陣しました(7節)。彼らは、夜通し行軍してギブオンにいた5王連合軍に襲い掛かり、大打撃を与えました(9,10節)。さらに、敗走する連合軍を追撃し、わずかの敗残兵を除き、全滅させることが出来ました(20節)。5人の王は捕えられ、殺されて木にかけられました(17,23,26節)。

 それは、主ご自身が戦って下さっての勝利というべきでしょう。冒頭の言葉(8節)に、「彼らを恐れてらない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」とあります。特にヨシュアが主の託宣を求めたという記事もありませんので、主の方から、イスラエルの勝利を約束されたかたちです。エリコ攻略の際、主の軍の将軍が登場して、策を授けてくださった時も、同様でした。

 それは、これらの戦いが主の手の中にあり、その勝利の鍵をヨシュアに授けられるということ、ゆえに、主を信頼することを求めておられ、その勝利を通して、カナンの地をイスラエルに与えるという約束を、主自ら実行しておられるということを、表しているのでしょう。

 イスラエル軍が夜を徹して行軍し、アモリ人連合軍を急襲したとき(9節)、「主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので」(10節)、夜の闇もイスラエルに味方して、それこそ戦いにならなかったのです。その上、敗走する兵士たちに向かって、天から雹が降りました(11節)。イスラエル軍が剣で殺したよりも多くの兵士が、雹に打たれて死にました。

 雹について、はじめは「大石」と表現しています。あとで「雹」と訳されているのも、正確には、「雹の石」という言葉遣いになっています(新改訳、岩波訳など参照)。それは、雹が主の戦いの武器(石投げ)であるということを示そうとしているのではないでしょうか。雹がアモリ人兵士だけを正確に襲い、イスラエル兵に犠牲が出なかったというのであれば(21節からの類推)、それはおよそ自然現象などではありません。

 さらに、ヨシュアが「日よ、とどまれ、ギブオンの上に、月よ、とどまれ、アヤロンの谷に」というと(12節)、まる一日、日も月も動かなかったという(13節)、考えられない記述が続きます。日や月が動かなかったということは、地球の自転がを停止したということでしょう。自転を停止した地球が、一日後に再び自転し始めるなどということは、科学的には、到底あり得ない現象です。

 ここに言い表されているのは、神が自然に働きかけて、日も月もイスラエルが勝利を収めるのに協力した、雹を石投げの石として、正確にアモリ人を打ち倒した、などなど、神があらゆるものを動員して、イスラエルに圧倒的な勝利を収めさせてくださったということです。

 特に、アモリ人らが太陽や月を神として拝む偶像礼拝を行っていたし、その後、イスラエルの民も、そのような偶像礼拝に巻き込まれて行ったので、日や月が動きをとめるようにというヨシュアの宣言、そして、主なる神がご自身への訴えと受け止めて、日と月の動きをとどめられたことを記して、主なる神の権威と力をイスラエルの民に示したものといってよいと思います。 

 14節に、「主がこのように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」と言われており、これが特別な出来事だったということを強調しています。それを、「主はイスラエルのために戦われたのである」と記して、「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」(8節)と仰ったことを、主が自ら戦って実現して下さったと、あらためて感謝の意を込めて言い表しているのです。

 使徒パウロが、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言っています(ローマ書8章31,32節)。私たちが今置かれている状況がどのようであれ、神は主イエスを信じる私たちに味方して下さいます。

 また、ご自分の栄光の冨に応じて、私たちに必要なものすべて満たして下さいます(フィリピ書4章19節)。さらに、万事が益となるように共に働いて下さるのです(ローマ書8章28節)。万事を益とされる主を信じ、暗闇も、雹も、そして太陽や月さえも用いられる主の御前に謙りましょう。主の御心が行われることを求め、その御業のために用いていただきましょう。

 主よ、あなたが御心に留めて下さるとは、なんという幸いでしょう。あなたに顧みられるとは、私たちは何者なのでしょうか。あなたこそ、私の岩、私の支え。私の砦、私の逃れ場、私の盾、避け所です。絶えず新しい歌をもってあなたを褒め歌います。御業のために用いて下さい。豊かな実りを得ることが出来ますように。 アーメン





10月23日(木) ヨシュア記9章

「ご覧ください。わたしたちは今はあなたの手の中にあります。あなたがよいと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」 ヨシュア記9章25節 

 エリコとアイの町がイスラエルによって滅ぼされたというニュースが、「ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ(「低地」の意。口語訳、新改訳参照)、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たち」に伝わり(1節)、彼らは集結してイスラエルと戦うことで一致しました(2節)。

 ところが、ギブオンの町に住む民は、主なる神がこの地をイスラエルにお与えになり、この地の住民をすべて滅ぼせと命じておられることを知り(申命記7章1,2節、ヨシュア記3章10節など)、そして、エリコの町、アイの町になしたことを聞いて(3節)、それに恐れを抱いたギブオンの住民は、賢く立ちまわり、一計を案じて生き残りを計ったのです(4節以下)。

 彼らは、一日でつけるような距離を、あたかも長い月日がかかったように見せかけるため、使い古しのぶどう酒の皮袋をろばに負わせ(4節)、古靴に着古した外套をまとい、干からびたパンを携えて(5節)、ギルガルにヨシュアを訪ねました。それは、イスラエルと協定を結ぶためです(6節)。

 イスラエルはうっかり策略に乗せられ、ギブオンの住民と協定を結んでしまいます(14,15節)。しかし、直にギブオンがアイやベテルからほど近くにある町であることが分かります。22~26節は、騙されたことを知ったヨシュアとギブオンの住民とのやりとりの場面です。

 特に、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちは今はあなたの手の中にあります」というのは、どのようにでもしてくださいと完全に自分を明け渡し、相手のするままに委ねた言葉です。ここにギブオンの住民は、自分たちの運命をヨシュアに託したわけです。

 そもそも、ギブオンの住民は、追い払われる対象でした。7節に、ギルガルにやって来たギブオンの人々を、「ヒビ人」と言っていますが、ヒビ人は3章10節に記されている対象7民族の一つです。もし、ギブオンの住民が策略を用いてイスラエルと協定を結んでいなければ、彼らは滅ぼされるべき運命にあったのです(24節参照)。

 本来、人は神の形に似せて創られ、神と語らい、神のみ声を聞き、神がお与え下さるすべてのものを味わい、楽しみ、喜ぶことが出来る者でした。けれども、自ら神に逆らい、自分勝手に振る舞ってエデンの園を追放され、神の御顔を見ることも、御声を聞くことも出来なくなりました。そうして、苦労して生活し、罪の中に死ぬべき者となったのです。

 しかるに神は、イエス・キリストを通して、私たちと新しい協定、新しい契約を結び、交わりが回復され、永遠の命に与る道を開いて下さいました。イエス・キリストが契約のための贖いの代価を払って下さったのです。その贖いにより、滅ぼされる対象であった私たちが神の恵みを受け、永遠の命を受け継ぐ者と変えられたのです(エフェソ書2章1節以下参照)。

 先に記したとおり、ギブオンの住民は、自分たちの処遇をヨシュアに委ねました。エレミヤ書18章6節に、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」という御言葉があります。陶器師が土で思いのままに器を作り、また作り直すことが出来るように、イスラエルを思いのままにすることが出来ると、主が言われたのです。

 火の中に入れる前であれば、作り直せますが、一度熱を加えてしまえば、その後、再び直すことは出来ません。壊して捨てるほかはないのです。

 主イエスは、私たちを神の子とするために、神と等しい身分であることに固執しようとは思われないで、かえって自分を無にして、私たちと同じ人間になられました。全く謙り、死に至るまで、従順であられました(フィリピ書2章6~8節)。

 主イエスは、神の御旨のままに生きられましたが、それにも拘わらず、人からも神からも捨てられるという罪の呪いをその身に受けられました。私たちの代わりに捨てられてしまい、代わりに私たちが神の子とされたのです。

 主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マルコ15章34節)。常に神を「父」と呼んでおられた主イエスですが、その時、神は「父」と呼ぶことを、主イエスにお許しにはならなかった、既に、神に見捨てられていたのです。

 けれども、主イエスはそれでもなお、父なる神を信じ、一切を神の御手に委ねきっておられたのです。主イエスの十字架上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉でした(ルカ23章46節)。ご自分を陰府に下らせ、律法の呪いを負わせる神を、最後にもう一度、「父」と呼んでおられます。

 こうして、ギブオンの住民はイスラエルの奴隷となり、柴を刈り、水を汲む者となりました。かつて、モーセは燃える柴を見、その中から語りかける神の御声を聞きました(出エジプト記3章)。そのように、柴を刈る者は、神の御声を聞く者となることが出来るということではないでしょうか。

 そしてまた、カナの婚礼において主イエスの命じられて水を汲んだ僕たちは、水がぶどう酒に変えられる奇跡を目の当たりにしました(ヨハネ福音書2章)。水を汲んだ僕たちだけが、主イエスの奇跡の御業の目撃者、体験者となったのです。そのように、水を汲む者は、主の御業を見る者となることが出来るということではないでしょうか。

 私たちも、主の僕としてその御声を聞き、御業を見ることが出来る者とされたのです。あらためて、私たちは神の子とされた者であることを確認し、自覚し、その恵みを無駄にすることなく、すべてを主に委ね、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で主イエスと共に歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの御愛に感謝します。罪の中に死ぬべき者に目をとめ、深く憐れみ、義に生きるように御自分の独り子を犠牲にして、その命の代価で贖って下さいました。その恵みに感謝し、御言葉に耳を傾け、御旨に従って生きる者とならせて下さい。 アーメン 


10月22日(水) ヨシュア記8章

「主はヨシュアに言われた。『恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。』」 ヨシュア記8章1節

 前章に続き、再びアイの町を攻撃することになりますが、今回は、主の命令に従って行動を起こします。主は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「全軍隊を引き連れて攻め上れ」と言われます。そこで先ず、「ヨシュアは、三万の勇士をえりすぐって」(3節)送り出します。

 先の攻撃では、斥候に行った者たちは、全軍が出るまでもなく、二、三千人も行けば十分、とヨシュアに進言していました(7章3節)。けれどもそれは、主の命令を受けてということではありませんでした。そして、その判断が相当に甘かったということ、やはり、この戦いにも主の助けが必要であるということを、徹底的に思い知らされたわけです。

 4節で、選ばれた勇士3万が、裏手から町を伺う伏兵とされ、彼らはベテルとアイの間の待ち伏せ場所で待機しました(9節)。さらに12節で、5千人を伏兵として、同じ場所に配置したとされています。合わせて3万5千の伏兵が置かれたということになります。ヨシュアが率いていた全軍隊というのは、その時戦いに参加することの出来たイスラエルの全軍、モアブで数えられた60万ということでしょう(民数記26章51節)。

 そんな大軍でなければ勝てないということよりも、今回、すべてのものが神の命令に従うよう導かれたと考えたらよいでしょう。しかも、最初の戦いに送り出した兵の10倍以上に及ぶ伏兵を置くということは、アイの町の兵の強さ、城壁の堅固さなどもあって、「ニ、三千人が行けば」攻め落とせる町ではなかったということです。それは、エリコを打ち破ったイスラエルの民が、その時いかに高ぶっていたかということを示すものでもあります。

 ヨシュアの大軍がやって来たという報せがアイの町の王にもたらされ、町の人々も急ぎ迎え撃つため、町を出て進軍します。彼らは、伏兵の存在には、全く気付いていませんでした(14節)。イスラエル全軍が押し寄せて来ていたにも拘らず、籠城ではなく開戦を選んだところに、アイの王の判断の甘さがあります。

 ヨシュア軍は、アイの町の軍隊が町を出たのを見ると、何ほどもしないうちに退却します(15節)。すると、追撃するため、町の中にいた全兵士がおびき出されました(16節)。前の戦いと同じ展開になったのを、イスラエルの策略と見抜くことが出来なかったためです。

 17節には、「イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった」と記されています。ここに「ベテル」の名が記されていますが、アイの北西2kmほどのところにベテルの町があり、そこからの援軍があったということでしょう。しかし、ベテルの援軍に関して、これ以外に何の記述もありません。

 あるいは、ベテルとは「神の家」という意味ですから(創世記28章19節)、ベテルの町ではなく、アイの町にあった神殿のことを指しているのかも知れません。当時の神殿は、町を守る最後の要塞となるよう、堅固な城壁で囲まれていました。神殿を警護する兵士までも、イスラエル追撃に参加したということになれば、町を守る者は、全く残っていなかったということになります。

 そのうえ、「イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった」というのですから、先の勝利に味を占めたアイの王の自信過剰振りが、ここに如実に表されています。そして、それを誰も咎めず、イスラエルの後を追ったというところに、主なる神の御手があったということです。

 アイの全軍がおびき出されたところで、主がヨシュアに、伏兵に合図するようにと言われます(18節)。伏兵は合図を見て町に攻め込み、そこを占領した後、火を放ちます(19節)。その火を合図に、今度はヨシュア軍が退却をやめ、追撃してきたアイの兵士に打ちかかり(21節)、町を出た伏兵も後ろから挟み撃ちにします(22節)。アイの兵士全員が戦死し、王は生け捕りにされました(23節)。

 町に残っていた全住民も一人残らず剣にかけられ、総数1万2千が殺されたと報告されます(25節)。それに対して、神の助けを得たイスラエル軍に、3万5千の伏兵を含む60万の大軍が必要だったのかというところですが、やはり今回の戦いは兵の数ではなく、すべての民が神の命令に全く忠実に聴き従うことを求められたわけです。

 この戦いにおけるヨシュアの役割は、勇敢な兵士、また有能な指揮官というのではなく、「アイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」(26節)ということでした。これは、かつてアマレク軍が戦いを挑んできたときに、モーセが手を上げていたことを思い起こさせます(出エジプト記17章8節以下、11,12節)。

 つまり、ヨシュアはモーセの後継者として、戦いのために背後にあって祈りの手をあげるという役割を担ったわけです。ということは、今回の勝利は、主が彼らのために戦って下さったために得られたものであるということを、あらためてここに示しています。

 この記事について、今日、神の名による戦争を肯定するものとして読むことは出来ません。主イエスが、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と仰ったからです(マタイ26章52節)。パウロは、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と言っています(エフェソ書6章12節)。

 私たちの内外に働きかけて、御言葉に従うことを妨げ、神に従わせまいとする様々な力に対して、まさに御言葉に聴き従うことを通して、神の助けを求めて手を挙げて祈ることにより、完全に勝利すべきであるという神の教えとして、心に銘じましょう。

 主よ、私たちを聖霊の宮としてその内に住み、絶えず共にいて下さることを感謝します。あなたこそ私を守る堅固な岩であり、砦です。御力に依り頼みます。御教えに聴き従います。どうか私の耳を開いて下さい。絶えず御顔を仰がせて下さい。御足跡に従うことが出来ますように。 アーメン



10月21日(火) ヨシュア記7章

「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、さらにゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」 ヨシュア記7章1節

 エリコの町を攻め滅ぼしたイスラエルは、次の標的にアイの町を選びました。ヨシュアが数人の斥候に町を探らせると(2節)、彼らは戻って来て、「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません」と報告しました(3節)。
 
 ヨシュアはそこで、三千人の兵士を向かわせます。全軍をつぎ込むまでないと、三千人で攻め上ったというのは、ギデオンが三百の兵でミディアンの大軍を打ち破った記事を思い起こしますが(士師記7章参照)、期待に反して彼らは打ち破られ(4節)、36名の犠牲者が出ました(5節)。ギデオンの軍は、主への信頼を示していたのに対し、ヨシュアの軍は、3節に見られるようなうぬぼれと、主なる神への「不誠実」(1節)を表すものでした。
 
 アイの兵士の前に敗退したヨシュアは主に、「カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」と訴えます(7節以下、9節)。

 それに対し、主は、「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった」(10節以下、11,12節)とお答えになりました。
 
 それを聞いたヨシュアは、主の言葉に従ってイスラエルの部族を集めます。そして、くじを引かせるとユダ族にあたり(16節)、ユダの諸氏族にくじを引かせるとゼラの氏族に当たり、全家族の代表にくじを引かせるとザブディ家に当たり(17節)、ザブディ家の男子全員にくじを引かせるとカルミの子アカンに当たりました(18節)。
 
 アカンはヨシュアに、「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました」と語り(20節)、盗みを告白します(21節)。アカンが主に罪を犯し、それがイスラエル全家に災いをもたらすことになったのです。そのため、アカンとその家族は石で打ち殺され、全財産は火で焼かれました(25節)。
 
 アカン一人のために、36名の兵士、そしてアカンの家族も犠牲になったわけです。アカンは初め、自分のしたことが、イスラエル全家に災いをもたらすことになるとは、考えても見なかったことでしょう。自分のしたことは、小さなこと、神もお目こぼしになるだろうと思っていたかも知れません。しかし、多くの犠牲者が出て民の心が挫けてしまったとき(5節)、それが自分のした罪の所為だと気づいたのではないでしょうか。

 しかし、それを言い出しませんでした。くじがユダ族に当たり、ゼラの氏族に当たり、ザブディ家に当たり、そして自分に当たったとき、ようやく口を開きました。ここにも、自分さえよければという、人の弱さが示されます。あらゆる場でのモラルの低下、なかなか後を絶たない飲酒運転なども、同じ根っこでしょう。

 そう考えると、これはアカン一人の罪でもないということにならないでしょうか。そもそも、アイの町は「取るに足りぬ相手」と見なし、そのためか、神に問うこともしませんでした。このときイスラエルの民は、全軍が出るまでもないという思いの中で、神の助けが必要とは全く考えていなかったわけです。

 であれば、エリコの町を落とせたのは、主がヨシュアに指示を与え、勝利を賜ったからであるのに、あたかも自分たちの力で打ち破ったかのような思い上がりが兵士たちの間に蔓延していたと考えられます。だからこそ、アカンは、戦利品を私しようとしたわけです。

 冒頭の言葉(1節)に、「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった」と記されていました。「イスラエルの人々」とは、アカン一人のことではありません。御言葉を軽んじ、主を畏れることを疎かにするからこそ、「不誠実」になります。人として同じ弱さを持っている私たちです。

 神に従うことに「不誠実」になることがないよう、主を畏れ、絶えず御言葉に耳を傾けましょう。主に栄光を帰し、主をほめたたえましょう。

 主よ、私の中にも、アカンと同じ、神の栄光を盗んで我が物にしようとする弱さ、罪があることを知っています。褒められるといい気になり、けなされると心挫けて水のようになります。主を畏れることを忘れてしまいます。絶えず御前に謙り、御旨に聴き従うことが出来ますように。主の平安で私の心と考えを守って下さい。 アーメン



10月20日(月) ヨシュア記6章

「彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 ヨシュア記6章5節

 5章13節に登場した「主の軍の将軍」は、天使なのでしょうか。新約聖書において、天使を礼拝することは禁じられていますが(ヨハネ黙示録19章10節、22章8,9節、コロサイ書2章18節)、旧約においては、主の御使いが神と区別出来ない場合が多々あります。

 たとえば、モーセに現れた主の御使いは(出エジプト記3章2節)、次の段落では、主、神と記されています(同4節以下)。それと同じように、ヨシュアの前に抜身の剣を手にしてあらわれた主の軍の将軍は、次の段落に進むと(6章1節以下)、「主」と呼ばれています。そして、ヨシュアが「ひれ伏して拝し」たとき(5章14節)、主の軍の将軍は、それを拒まず、むしろ、履き物を脱ぐように命じています(同15節)。

 そうすると、「主の軍の将軍」いうのは、「万軍の主」の別名と言ってもよいのかも知れませんね。だから、主の御前である。控えおろう。「履き物を脱げ」ということになるわけです。

 そのようにひれ伏しているヨシュアに、主がエリコの町を攻撃するための作戦を授けました。その作戦とは、祭司7人の先導を受けた神の箱を先頭に、兵士たちが町の周りを一巡りし、それを六日間続けます。そして、七日目は町を七周するというものです。そのとき、祭司たちは「雄羊の角笛」を携えます。角笛を吹き鳴らしながら、行進するのです(3,4,8節以下)。

 そして、冒頭の言葉(5節)の通り、七日目に町を7周回って、角笛を長く吹き鳴らした音を合図に、後方に控えているイスラエルの民全員で鬨の声をあげます。そうすると城壁が崩れ落ちるので、そこから町に突入せよというのです。

 町の周りを一日目から六日目まで1周、七日目は7周、合計13周回り、大声を出せば城壁が崩れ落ちるというのは、いつでもどこでも、誰がやっても、必ずそのようになるという作戦ではありません。主が授けてくださった作戦だからこそ、今回それが起こるのです。

 城壁が壊れれば、それで戦いは終わりということではありませんけれども、しかし、エリコの人々は、イスラエルの攻撃に備えて城門を堅く閉ざすという、いわば籠城作戦を採ったわけで、剣を交えることになれば、勝ち目はないと考えていたのです。ということは、城壁が壊れると、勝敗は見えているということになります。

 しかしながら、主が授けた作戦というのは、俄かには信じ難い内容です。実行するのが難しいものではありませんが、それをまともにやってみようと思う人はどれほどいるだろうかと考えてしまいます。ここでしかし、ヨシュアは単純に信じました。だから、先ず祭司たちを呼び集めて、主から授けられた作戦を伝えました(6節)。

 次に、民全体にそれを命じました(7節)。すると、祭司から(8節)、武装兵(9節)、そしてその他の民に至るまで(10,20節)、誰もが素直に聴き、それに従います。そして、七日目、7周回った後、皆で鬨の声をあげると、主が告げたとおり、城壁が崩れ落ちました。そこから城内に入り、町を占領しました(20節)。そして、命あるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くしました(21節)。

 あらためて考えてみると、エリコの城壁が崩れたのは、吹き鳴らされた角笛や鬨の声の大きさの故ではありません。また、何度も町の周りを回ったからということでもありません。城壁を崩したのは、主の御力です。主が御腕を伸ばされたので、城壁が崩れたのです。

 ということは、町の周りを13周回ることも、角笛を吹くこと、鬨の声をあげることなども、城壁を崩落させるための必要な条件ではないのです。つまり、主がなさろうと思われれば、イスラエルの民が何もしなくても、城壁を崩落させ、町を破壊することが出来たはずです。

 しかも、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じています(10節)。城壁が崩れ落ちるまで、エリコの町の周りを回る間、城壁の上からエリコの町の人々に罵詈雑言を浴びせられても、黙っていろ、声を出すなということでしょう。それはしかし、容易いことではありません。

 しかし、主なる神はこのようにして、イスラエルの民が御言葉に聴き従うか否かを御覧になったわけです。

 エレミヤ書1章12節に、「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの御言葉を成し遂げようと見張っている」と記されています。主は、ご自分の御言葉を成就することがお出来になるのですが、しかし、それを「見張っている」と言われるのは、御言葉が信仰をもって聞かれるか、御言葉がそれを聞いた人々と信仰によって結びつけられるか否かを見張られるわけです。

 神はこのとき、イスラエルの罪を裁くため、北にあるバビロニア帝国を「燃えたぎる鍋」として、用いようとしておられました(同13節参照)。もしもイスラエルの民が、エレミヤの預言の言葉を聞いて悔い改め、神に従う信仰を示していたならば、その災いが止められることになったでしょう。

 ヘブライ書4章2節に、「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」と記されています。エジプトを脱出した民が、神の御言葉を信じなかったために荒れ野で神に打たれ、約束の地に入れなかったということです。

 そして、その不信仰、不従順は、シナイの荒れ野でのことに留まらず、ソロモン以後エレミヤの時代に至るまで繰り返されたため、結局、国が南北に分裂した後、北はアッシリアに、南はバビロンによって滅ぼされ、捕囚となる憂き目を見るようになったわけです。

 ヘブライ書の記者は、「信じたわたしたちは、この安息に与ることができるのです」(同3節)と言います。即ち、私たちが神の言葉を信じ、それに聴き従うことを求めているわけです。一度信じさえすれば、それでよいわけではありません。信じ続けること、聴き従い続けることが求められています。

 日々、主の御言葉を信仰をもって聴き、その御心を悟ることが出来るように、その導きに従って歩み出すことが出来るように、祈りつつ御言葉を開きましょう。

 主よ、あなたの御言葉ほど確かなものはありません。昨日も今日も、そして永遠に真実です。ただ、主の御言葉だけが永遠に堅く立つのです。私たちに御言葉を聴く信仰を与えて下さい。謙って御言葉に従うことが出来ますように。 アーメン



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