「王に答えた。『もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。』」 ネヘミヤ記2章5節
ネヘミヤがアルタクセルクセス王の杯にぶどう酒を注いでいるとき(1節)、王から、「暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない」と声をかけられました(2節)。ネヘミヤは、心の内にあることを王に告げることが出来ず、悩みを深めていたのでしょう。それで、故郷の町が荒廃し、城門が焼かれたままであることを告げると(3節)、「何を望んでいるのか」と、王から尋ねられます(4節)。
それは、「アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月のこと」と言われています(1節)。治世第20年は、紀元前445年です。「ニサンの月」とは、バビロンの暦の1月で、捕囚後にユダヤの暦の1月になりました。今日の3~4月を指します。
1章1節に「第二十年のキスレウの月(9月)」とあり、そこで衝撃の報告を受け、その痛みを抱えて王の前に出たのが「第二十年、ニサンの月(1月)」ということは、時間的にあべこべになっています。そこで、1章1節を、治世第20年ではなく、彼の統治が始まった時点(紀元前466年)から数えた「第20年」、つまり紀元前446年の9月と読み変えることを提案したいと思います。
そうすると、ネヘミヤは、ハナニの報告を受けて5か月後に、ようやくそれを王に打ち明けることが出来たということになります。城壁は撃ち破られ、城門は焼け落ちたままになっていると知らされて以来(1章3節)、ネヘミヤは神の前に祈り続けて来ました(同4節以下)。それは、エルサレムの再建のために、アルタクセルクセス王の憐れみを受けることが出来るようにという祈りでした(同11節)。
ネヘミヤがなかなか王に切り出すことが出来ず、思案して来たのは、城壁の破壊と修復工事の禁止が、アルタクセルクセス王の命によってなされたからです(エズラ記4章17節以下、21節)。どう話せば、王の理解と協力を得ることが出来るでしょうか。なかなかよい答えが見つからなかったでしょう。それが、王の方から声がかけられて、思いがけない展開になって来ました。
そこで、すぐに自分の望んでいること、神に祈り求めて来たことを王に話してもよかったのでしょうけれども、ネヘミヤはあらためて天の神に祈りました(4節)。それは、瞬時の祈りだったのでしょうか、しばらく祈りの時間をとったのでしょうか。いずれにせよ、自分の考えや計画に従うのではなく、常に神の御旨に従いたいとネヘミヤは考えている証しです。
ネヘミヤはそのように神の御旨を尋ね求めてから、冒頭の言葉(5節)のとおり、「わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます」と王に答えました。すると、王は傍らの王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねています(6節)。
このとき、王は自分がエルサレムの町と城壁の再建を禁じる命令を出したことを忘れ、再建にかかる時間を尋ねているのです。あまりに長期間になるのは困るということでしょうか。これは、ネヘミヤが王から全幅の信頼を得ているだけでなく、王妃にとっても大切な存在となっているわけで、それほどにネヘミヤが真心込めて、王と王妃に仕えて来たという証拠でしょう。
ネヘミヤは、王と王妃の問いに好意的なものを感じ(6節)、町の再建に必要な期間について説明した後、通行手形となるユーフラテス西方の長官たちに宛てた書状と(7節)、城門や城壁をしゅうふくするためと、自分の家を建てるための木材を提供するようにとの森林管理者に宛てた書状も求めました(8節)。
そこには、自分の決意や勇気、期待以上に、神が導いてくださっているという信仰がありました。「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた」(8節後半)と記しているからです。
王の書状と、王が派遣した将校と騎兵に守られて、ネヘミヤは無事にエルサレムへと旅することが出来ましたが(9節)、それを良く思わない者たちがいました。ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤです(10節)。かつてサマリア人たちが神殿再建を妨害したように(エズラ記4章参照)、サンバラトらは、そのような勢力の代表者と考えられます。
彼らの肩書きはここに記されていませんが、聖書外資料に、紀元前407年にサンバラトがサマリアの総督だったという記述があり、トビヤは、エルサレム神殿に仕える大祭司とも深い関係を築いていた人物で(13章3,4節)、アンモンの知事、サンバラトの部下に当たる者だったと考えられています。
このような反対者のゆえに、城壁と城門が破壊され、工事が妨害されたままになっていたことを悟ったネヘミヤは、密かに城壁を調べた後(11節以下)、工事の計画についてユダの人々に話しました(17節)。それは、神がネヘミヤの心に示されていたことでした(12節)。
私たちは、ことがうまく運ばないときには熱心に祈りますが、思い通りに行っているときは、祈りを忘れていることが少なくありません。どのようなときにもまず神の御旨を求めて祈ったネヘミヤの信仰に学びたいと思います。絶えず、神の御旨を求め、主の御言葉に聴きながら歩みましょう。
主よ、ネヘミヤは主からなすべきことの示しを受けて行動していましたから、どんなときにも確信を持って行動することが出来ました。それは、不断の祈りによって培われた信仰でした。私たちも日々御言葉を求めて御前に進み、祈りをささげます。恵みと導きに与り、御旨に従って歩ませてください。御心が行われますように。その道具として用いていただくことが出来ますように。 アーメン