「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。」 ヨブ記13章15節
ヨブは、自分が話しかけたいのは全能者、神に向かって申し立てたいと言います(3節)。ここにヨブは、神について、友らと話し合いたいわけではない。自分は、全能なる神と話し合いたいと語り、だから、「どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す」(5節)と願います。
神について、友らの語る程度の知識は自分も既に持ち合わせていて、改めて教えてもらう必要はないし(1,2節)、彼らはヨブを慰め癒す医者のつもりなのだろうけれども、彼らの処方する薬は何の役にも立たず、かえって苦しみを増しているだけだから、というわけです(4節)。
これは、出血の止まらない女性が多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったという、マルコ福音書5章25節以下の記事を思い出させます。そのとき、主イエスこそ真の医者であることが示されました。
7節で、「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか」と、ヨブは友らを厳しく糾弾します。ヨブが無実を訴えるということは、それは神の裁きが間違っていると神を攻撃していることになるので、それに対して友らは黙っていられず、神は正しい、間違っているのはヨブだ、と告発して来たわけです。
その行為は、彼らが神の弁護を買って出ていることで、しかもそれは事実に基づく正しい弁論ではない、むしろ、その弁論によって、神が彼らの弁護を必要とする彼らよりも小さな存在になってしまう。それとも、そうすることで神に媚びへつらっているのかと、反論しています(7,8節)。
ヨブがそういうのは、自分がこれほど苦しめられる理由を見いだすことが出来ず、それが彼の苦悩をいっそう深いものにしているのであって、それを神に明らかにして欲しいと願っているわけですが、彼らの偽りの弁護のお陰で、かえって神の姿が見えなくなってしまっているのです。
誰も、神の弁護士になることは出来ません。神は、ご自分のなさっていることについて、ご自分でその御心をお示しになることがお出来になります。だから、弁護士を必要とはされないのです。むしろ、神の御前に立つために弁護士を必要としているのは、私たちの方です。
パウロが、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。・・それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」と言っています(ローマ14章10,12節)。誰が、自分の語ったこと、したことについて、神に申し開きをし、無罪放免を勝ち取ることが出来るでしょうか。
冒頭の言葉(15節)で、「わたしの道を神に申し立てよう」とヨブは言います。ここで、「申し立てよう」というのは、「主張する」(ヤーカー)という言葉ですが、9章33節に、ヤーカーの分詞形で、「仲裁者」(モーキーアハ)という言葉が用いられていました。
仲裁者の登場を待てないので、殺されることになっても、主の前で自分の主張をしようというのでしょうか。口語訳は、待てない、神に期待できないということで、「絶望だ」と意訳しています。そんな絶望的な状況の中で、勇気を振り絞って神の前に進み、自分のことを分かってもらうようにしようという状況でしょう。
実は、「ただ待ってはいられない」という文章について、原文には、「~ない(not)」を示す「ロー」という言葉を、同じ音で、「彼に対して、彼を(in him)」を意味する文字として読むようにというしるし(ケレー)が付けられています。 その読みを採用すると、「神がわたしを殺しても、わたしは神を待ち望む」という、新改訳や欽定訳のような訳文になります。
それだと、神は必ず自分の主張を受け止めてくださるはずだという、神に対する信頼がヨブの内に再びよみがえってきたかのように読めます。どちらの読みが正しいのか、簡単に決められません。古くから、研究者の間で論争されて来たところで、解釈の別れる有名な個所なのです。
ヨブはその登場を待ちきれなかったかも知れませんが、神は、私たちのために仲裁者を用意してくださいました。それが、キリスト・イエスです。第一テモテ書2章5節に、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」とあります。
主イエスについて、第一ヨハネ書2章1節に、「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と記されています。「弁護者」とは、パラクレイトスという言葉ですが、「パラ」は「傍ら」、「クレイトス」は「呼ぶ」という意味で、傍らにおいでくださる方、そこで私たちを慰め、助けてくださる方のことです。それが、主イエス・キリストだというのです。
そして、父はもうお一方、私たちのもとに弁護者を遣わされました。それは、真理の霊と言われるお方です(ヨハネ14章16,17節など)。真理の霊は、私たちに主イエスを証しし(同15章26節)、また、神を「アッバ、父よ」と呼ばせ、私たちが神の子であることを証ししてくださいます(ローマ8章15,16節)。
ヨブは殺されることになっても、主の前に申し立てをしようと言い、「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか」(16節)と訴えていましたが、確かに神は、彼の言葉を受け止め、救うために、救い主なる主イエス、そして別の弁護者として真理の御霊を遣わし、神の子として生きる恵みをお与えくださったのです。
父なる神は求める者に聖霊を与えてくださると約束されています(ルカ福音書11章13節)。日々主なる神を求め、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませていただきましょう。
主よ、絶えず御前に謙り、御言葉の恵みに与らせてください。永遠の命の御言葉を持っておられるのは、主イエスお一人だけだからです。何故ヨブが苦しまなければならないのか、未だ詳らかにされてはいませんが、徒に口を開かず、傍らに座して、共に主の御言葉を待つ姿勢を、私たちにも持たせてください。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン