風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

7月3日(金) ヨブ記13章

「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。」 ヨブ記13章15節

 ヨブは、自分が話しかけたいのは全能者、神に向かって申し立てたいと言います(3節)。ここにヨブは、神について、友らと話し合いたいわけではない。自分は、全能なる神と話し合いたいと語り、だから、「どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す」(5節)と願います。

 神について、友らの語る程度の知識は自分も既に持ち合わせていて、改めて教えてもらう必要はないし(1,2節)、彼らはヨブを慰め癒す医者のつもりなのだろうけれども、彼らの処方する薬は何の役にも立たず、かえって苦しみを増しているだけだから、というわけです(4節)。

 これは、出血の止まらない女性が多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったという、マルコ福音書5章25節以下の記事を思い出させます。そのとき、主イエスこそ真の医者であることが示されました。

 7節で、「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか」と、ヨブは友らを厳しく糾弾します。ヨブが無実を訴えるということは、それは神の裁きが間違っていると神を攻撃していることになるので、それに対して友らは黙っていられず、神は正しい、間違っているのはヨブだ、と告発して来たわけです。

 その行為は、彼らが神の弁護を買って出ていることで、しかもそれは事実に基づく正しい弁論ではない、むしろ、その弁論によって、神が彼らの弁護を必要とする彼らよりも小さな存在になってしまう。それとも、そうすることで神に媚びへつらっているのかと、反論しています(7,8節)。

 ヨブがそういうのは、自分がこれほど苦しめられる理由を見いだすことが出来ず、それが彼の苦悩をいっそう深いものにしているのであって、それを神に明らかにして欲しいと願っているわけですが、彼らの偽りの弁護のお陰で、かえって神の姿が見えなくなってしまっているのです。

 誰も、神の弁護士になることは出来ません。神は、ご自分のなさっていることについて、ご自分でその御心をお示しになることがお出来になります。だから、弁護士を必要とはされないのです。むしろ、神の御前に立つために弁護士を必要としているのは、私たちの方です。

 パウロが、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。・・それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」と言っています(ローマ14章10,12節)。誰が、自分の語ったこと、したことについて、神に申し開きをし、無罪放免を勝ち取ることが出来るでしょうか。

 冒頭の言葉(15節)で、「わたしの道を神に申し立てよう」とヨブは言います。ここで、「申し立てよう」というのは、「主張する」(ヤーカー)という言葉ですが、9章33節に、ヤーカーの分詞形で、「仲裁者」(モーキーアハ)という言葉が用いられていました。 

 仲裁者の登場を待てないので、殺されることになっても、主の前で自分の主張をしようというのでしょうか。口語訳は、待てない、神に期待できないということで、「絶望だ」と意訳しています。そんな絶望的な状況の中で、勇気を振り絞って神の前に進み、自分のことを分かってもらうようにしようという状況でしょう。

 実は、「ただ待ってはいられない」という文章について、原文には、「~ない(not)」を示す「ロー」という言葉を、同じ音で、「彼に対して、彼を(in him)」を意味する文字として読むようにというしるし(ケレー)が付けられています。 その読みを採用すると、「神がわたしを殺しても、わたしは神を待ち望む」という、新改訳や欽定訳のような訳文になります。

 それだと、神は必ず自分の主張を受け止めてくださるはずだという、神に対する信頼がヨブの内に再びよみがえってきたかのように読めます。どちらの読みが正しいのか、簡単に決められません。古くから、研究者の間で論争されて来たところで、解釈の別れる有名な個所なのです。

 ヨブはその登場を待ちきれなかったかも知れませんが、神は、私たちのために仲裁者を用意してくださいました。それが、キリスト・イエスです。第一テモテ書2章5節に、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」とあります。

 主イエスについて、第一ヨハネ書2章1節に、「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と記されています。「弁護者」とは、パラクレイトスという言葉ですが、「パラ」は「傍ら」、「クレイトス」は「呼ぶ」という意味で、傍らにおいでくださる方、そこで私たちを慰め、助けてくださる方のことです。それが、主イエス・キリストだというのです。

 そして、父はもうお一方、私たちのもとに弁護者を遣わされました。それは、真理の霊と言われるお方です(ヨハネ14章16,17節など)。真理の霊は、私たちに主イエスを証しし(同15章26節)、また、神を「アッバ、父よ」と呼ばせ、私たちが神の子であることを証ししてくださいます(ローマ8章15,16節)。

 ヨブは殺されることになっても、主の前に申し立てをしようと言い、「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか」(16節)と訴えていましたが、確かに神は、彼の言葉を受け止め、救うために、救い主なる主イエス、そして別の弁護者として真理の御霊を遣わし、神の子として生きる恵みをお与えくださったのです。 

 父なる神は求める者に聖霊を与えてくださると約束されています(ルカ福音書11章13節)。日々主なる神を求め、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、絶えず御前に謙り、御言葉の恵みに与らせてください。永遠の命の御言葉を持っておられるのは、主イエスお一人だけだからです。何故ヨブが苦しまなければならないのか、未だ詳らかにされてはいませんが、徒に口を開かず、傍らに座して、共に主の御言葉を待つ姿勢を、私たちにも持たせてください。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン




7月2日(木) ヨブ記12章

「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある」 ヨブ記12章13節

 三人目の友ナアマ人ツォファルの発言に対して、12~14章でヨブが答えます。これで、友らとの対話が一段落することになります。3章にわたる応答は、ツォファルだけでなく、ほかの二人にも聞かせる意図があってなされたものといってよいでしょう。2節に、「確かにあなたたちもひとかどの民」と言っていることも、それを示しています。

 ここで、「確かに」(オムナム)は、9章2節と同じアーメンの副詞が用いられ、「本当に」といって、友らの主張を皮肉をもって肯定しています。というのも、友らが語ったことは、ヨブの知らないことではないから(3節)、それをわざわざ語って聞かせたのは、この自分を愚か者と見下し、笑いものにしている証拠だというわけです(4節)。

 ヨブは、「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう」(7節)と語り、続けて「大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らは皆知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命ある者は、肉なる人の霊も、御手の内にあることを」と言います(8~10節)。

 これはツォファルが、高い天、深い陰府、遠い地の果て、広い海原という宇宙の4つの領域を語って(11章8,9節)、それを創造された神の超越性を語ってヨブを非難したことに対し(同6,7節)、野の獣、空の鳥、大地、海の魚という、特別ではないこの地の被造物でさえ、その程度のことは知っていると、ツォファルを非難する言葉で切り返したわけです。

 ただ、ヨブは自分で獣に尋ねたことがあるのでしょうか。空の鳥に耳を傾けたのでしょうか。本当に耳を傾けてみたら、獣や空の鳥たちは何と語るでしょうか。私は、神のなさることはみな素晴らしいと語るのではないかと思います。そしてそれは、ヨブ自身が耳を開いて受け止めなければならない言葉ではないかと思うのです。

 主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」(マタイ福音書6章26節)、「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」(同6章28節)と言われました。野の獣、空の鳥は、必死に生きています。彼らは種蒔きをしませんし、刈入れもしません。そのための土地、不動産などを持っていません。蔵に取り入れたりもしません。いわゆる私たちが持っているような保険、安全保障を何一つ持ってはいません。

 自然環境の変化は、その生活に重大な影響を及ぼします。けれども、明日のことを心配したり、思い煩って、不安と恐れで何も手につかなくなったりはしません。今日を懸命に生きています。懸命に子を養い、花を咲かせ、実をつけます。与えられた境遇で懸命に生きようとする姿が何よりも美しいものである、と主イエスは仰ったのです。

 一方、ソロモン王は美しい宮殿に住み、素晴らしい家具、調度品、美術品などに囲まれ、目もくらむような宝石類、高価な衣装などを数多く持っていたことでしょう。しかしそれはソロモン自身の美しさなどではありません。見た目、人の評価をよくしようとするものです。

 私たちも皆、「ミニ・ソロモン」です。少しでも自分の評価をよくしようとして、磨きをかけます。人の評価、評判というものを、絶えず気にしているのです。そして、ソロモンのようになれないとき、スネたり、ひがんだり、他者を妬んだりします。時には、自分をそのように生み育ててくれなかったと、親を恨みさえするのです。

 どうして私を信じ、あなたの命、あなたの問題を私に委ねないのか、ああ、信仰の薄い者たちよと、主イエスが仰っているようです。主イエスは、そのような私たちの弱さをよくご存知なのです。

 ヨブは、冒頭の言葉(13節)のとおり、知恵と力、思慮分別は神と共にあると語って、主を賛美しています。あるいはこれも、この程度のことは知っていると、いわば反語的に語った言葉だったかもしれません。

 しかしながら、神の知恵、神の力、思慮分別は、人間の思考、能力を超えて働きます。だから、私たち人間は、神の知恵が示されても、それを知恵として認識出来ないことがあり、神の力が表わされても、それを力として理解し得ないこともあります。

 それが如実に示されたのが、主イエスの十字架です。人間は、罪なき神の独り子主イエスを十字架につけて殺してしまうのです。主イエスは、十字架上で何の力も示されませんでした。けれども、十字架の死を通して、主イエスは神の愛を実現し、世界を変え、歴史を変えて来られたのです。

 パウロが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(第一コリント1章18節)、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同1章25節)と記しています。

 キリストと出会い、その恵みに触れたとき、自分にとって愚かとしか思えなかった、弱さの極みとしか見えなかった十字架が、私たちに救いを与える神の知恵、神の力であることを、パウロも悟ったのです(第一コリント1章24節)。コロサイ書2章3節に、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」とあります。

 甦られたキリストとの出会いで、その宝を知らされたパウロは、自分のようなキリスト教会の迫害者が罪赦され、救われたからには、キリストにおいて救われない者は一人もいない、すべての者が救われるのだと、喜びをもって告げ知らせる者となったのです。

 私たちも主の恵みに与った者として、神を畏れ、神を信じ、神に聴き、一切を神に委ねて歩んで参りましょう。

 主よ、愚かで罪深い私のために、御子が身代わりとなって死んでくださいました。それなのに恩を忘れ、不平不満が心に湧いて来ます。恐れや不安にさいなまれることがあります。どうか憐れんでください。私の心の王座においでくださり、私をあなたの望まれるような者にしてください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン




7月1日(水) ヨブ記11章

「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ。」 ヨブ記11章5節

 ヨブがシュア人ビルダドに答える言葉を聞いて、ヨブの三人目の友、ナアマ人ツォファルも黙っていられなくなり、「これだけまくし立てられては、答えないわけにいくまい」といって口を開きます(1節)。

 ナアマ人ツォファルについて、ナアマは、ユダ族の嗣業の地の中で南西部のシェフェラ(低地)にあった町で(ヨシュア記15章33節以下、41節)、ラキシュやエグロンなどと同じ地域にありましたが、正確な位置は不明です。であれば、これまで登場して来た人物の中で、唯一のユダヤ人(ユダ族)ということになります。

 最初に口を開いたエリファズは、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、だれがものを言わずにいられようか」(4章2節)と、少し遠慮がちに応じました。ビルダドは、ヨブの潔白を前提とし、ヨブの子らだけを罪に定めていました(8章4~6節参照)。

 しかし、ツォファルは、「わたしの主張は正しい。あなたの眼にもわたしは潔白なはずだ」とヨブが主張しているといって(4節)、それに反論します。もっとも、ヨブが文字通り、自分が潔白だという主張をしたことはありません。ただ、ヨブが5章9節のエリファズの言葉を抜き出して、その意味を9章5~10節で覆してしまったので、あらためて、エリファズを弁護しようとしています。

 それは、6節の言葉です。「神が隠しておられるその知恵を、その二重の効果をあなたに示されたなら、あなたの罪の一部を見逃していてくださったと、あなたにも分かるだろう」。この箇所は、原文の解釈が難しくて、邦語聖書の訳は一致していません。岩波訳は、「あなたに隠れた知恵を告げるなら、あなたの実りは二倍になろう。知っておくがよい、神はあなたの咎の一部を忘れて下さる」としています。

 いずれにせよ、ツォファルは、神の測り難い隠されている知恵について、ヨブのように、理解不能で(9章10節)、しかも、そこに悪意を隠しているかのような発言(10章13節)に対して、隠されていた知恵が開かれれば、罪の一部を見逃していてくださったと分かるということは、神がすべてを明らかにされれば、さらに重い処罰が下されることになるだろうと、そこに神の善意があるというわけです。

 また、「二重の効果」というのはどういうことか、よく分かりませんが、原文では、「知恵に関する二倍のもの」といった言葉遣いになっていて、新改訳の、「すぐれた知性を倍にしてくださる」というのが、原意に近いのではないかと思われます。この表現で思うのは、最後に主なる神がヨブの境遇を元に戻された際、「財産を二倍にされた」ということで(42章10節)、ツォファルはここで、知らずに結論を先取りしていたのかも知れません。

 しかしながら、冒頭の言葉(5節)のとおり、「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ」といって、神の正しい審判を仰げというのですが、それを尋ねた結果が、6節だというのでしょうか。「神が隠しておられるその知恵」と言いながら、それはヨブにだけ隠されていて、ツォファルには分かるというのでしょうか。

 だから、7,8節で、「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる」とツォファルが言うとき、確かに、出来ない、分からないと答えるほかありませんが、しかし、それは、ツォファルにも出来ないこと、分からないことでしょう。それこそ、このようなツォファルの主張に対して、神が何と言われるのか、聞きたいものだと反論されてしまうことになります。

 そう考えれば、ヨブが言っていたという、「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」という言葉は、ツォファル自身の思いを正確に言い表したもので、11章に語る自分の「正しい」主張を、ヨブに聞き入れさせようとしていることになりそうです。

 といって、ツォファルの語っていることが間違いだということになるかと言えば、そうは言いきれません。38章以下の主なる神御自身の発言を受けて、ヨブがそれに応える42章2節以下の言葉の中で、同3節の言葉には、ツォファルが6節で語った言葉が用いられていて、その結論を先取りしたような形になっているからです。 

 とはいえ、ヨブの友らは、ヨブを慰め、励ましたいと思って、発言しているのですから、何故ヨブが神に苦しめられているのか、自分の頭で考えるのでなくて、ヨブの身になって神に尋ね、訴えてみればよいのです。そうすれば、全く違った思いになるでしょう。ヨブにかける言葉もきっと、全く違ったものになるでしょう。他人に向かって語った言葉を、自分自身に当てはめてみればよいのです。

 人を裁くその裁きで自分も裁かれます(マタイ7章2節)。人を罪に定める者は、自分も罪に定められます。人を祝福すれば祝福されます。人を呪えば自分も呪われます(創世記12章3節)。憐れみ深い人は神の憐れみを受けます(マタイ5章7節)。

 主イエスは、ルカ福音書の「平野の説教」(ルカ6章17節~49節)において、「敵を愛しなさい。人によいことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(同35~36節)と言われました。

 これを、自分の力で実行出来る人がどれだけいるでしょうか。でも、実行したいと思うことは出来ます。実行させてくださいと神に願うことも出来ます。私たちの天の父は、求める者によいものをくださると約束されています(マタイ7章11節)。

 ルカは、マタイの告げた「よいもの」のことを、「聖霊」と規定しています(ルカ11章13節)。聖霊をいただいて、人からしてもらいたいと思うことを、人にして差し上げることの出来る者とならせていただきましょう。

 主よ、姦淫の現場で捕らえられた女性に対し、罪を犯したことのない者が、先ず、石を投げなさいと主イエスに言われて、石を投げることの出来た者は一人もいませんでした。御言葉の光に照らされるとき、自分自身が神の憐れみを必要とする罪人であることが分ります。互いに赦し合い、愛し合うために、聖霊を通して神の愛を満たしてください。御言葉を聞いて行う者とならせてください。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン




6月30日(火) ヨブ記10章

「手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか。」 ヨブ記10章3節

 神と共に裁きの座につき(32節)、神との間を仲裁してくれるものがいて(33節)、神の裁きの杖が取り払われれば(34節)、あれば、自分はその潔白を主張できる(35節)と、夢物語を語ったヨブは、相手を特定しないまま、神に向かって言いたいことを口にします(2節以下)。

 陳述を始める前の、「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう」(1節)という言葉は、3章20節、7章11節の言葉をなぞっており、陳述の最後で、「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に、その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」(21,22節)というのも、3章5,6節のイメージを再提示しています。

 それは、神の創造の御業に思いを馳せて、ヨブがこの世に生まれた意味、目的を、改めて神に問うためです。ヨブは、9章5節以下で、神の創造の御業の意図が、理解不能だと語っていましたが、それで神に問う思いを諦めたのではなく、むしろ、自分の生きる意味や苦しみのわけを、きちんと理解できるようにしてほしいと、必死に訴えているわけです(2節)。 

 そこで、冒頭の言葉(3節)を語ります。神は、創造の御業において、一つ一つを心を込めて造られ、出来たものをご覧になって、「良し」とされました(創世記1章4節など)。神は、御自分がよしと認められた完成品を、邪険に捨て去られるのか。まるで、悪巧みする者たちを輝かせるかのように。それが神のなさることなのか。それを、「良し」と言われるのか、と。

 原文には、「このわたし」という言葉はありませんが、「手ずから造られた」とは「あなたの手の産物」(イェギーア・カペイハー)という言葉で、神が虐げ退けようとしているのはヨブですから、そのように意訳されているわけです。8節の「御手をもってわたしを形づくってくださったのに」という言葉も、この訳を支持してくれるでしょう。

 神がヨブを造られたということについて思いを進め、9節で、「心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、塵に戻されるのだということを」と言います。陶器師は、思いのままに土を選び、こね、成型して器を作ります。意に沿わなければ、何度でもそれを壊して作り直します。このイメージがヨブに新たな思いを示しました。それは、そのようにする陶器師が間違っているわけではない、悪いわけではないということです。

 「乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった」(10,11節)と、性行為から受胎、そして胎内での成長を表現しているのは面白いところですが、ヨブはここに、自分の誕生は、両親による営みなどではなく、「あなた」と呼ぶ神の御業だと言い表しています。

 しかもそれは、「命と恵み(ヘセド)を約束し、あなたの加護によってわたしの霊は保たれていました」(12節)と、ヨブに命を与えた神は、「変わらぬ愛」(ヘセド)をもってヨブを守って来られたのです。「加護」は、「訪問、責任」(ペクダー)という意味の言葉です。繰り返し訪れて、彼の成長と見届けておられたということです。

 ところが、そのようにヨブを心に留め、よいものをもって満たしていてくださった神が、突然豹変してしまわれました。13節の、「しかし、あなたの心に隠しておられたことが、今、わたしに分かりました」という言葉に、その思いが表現されています。

 なぜ、自分の苦しみが去らないのか、それは、神が自分の過ちを見逃されないからだ(14節)。ヨブがその母の胎に形づくられてこのかた、ひと時も休まず見守って来られた方は、保護を与えられるのと同様、どんな細かいことも一つ残らず几帳面に記録し、可能な限り十分な罰をお与えになるのだ。

 数々の苦しみを味わって来たのは、神が彼の悪を一つ一つ告発するために、「次々と証人を繰り出し、いよいよ激しく怒り、新たな苦役をわたしに課せられ」(17節)ているという証拠なのだ。

 ヨブは今、ある程度、自分の過ち、罪、弱さを認め、自分が苦しみを受けているのは間違いだという訴えを取り下げています。ただ、そのように罪を攻めたてられるなら、どんな人も「暗黒の死の闇の国」(21節)に追い遣られてしまうでしょう。そんな苦しみを味わうくらいなら、産まれなければよかった、産まれてもすぐに死んでしまえばよかったという結論に至ってしまうでしょう(18,19節)。

 けれども、ヨブの心にあるのは、そんな絶望的な思いばかりではありません。「わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください」(20節)と言います。もし神がそのように追及する手を緩めてくださればと願います。「立ち直る」と訳されているのは、「明るい顔になる、微笑む、輝く」(バーラグ」という言葉です。

 「光あれ」(創世記1章3節)といって光ある世界を創造された神が、「暗黒の死の闇の国」(21節)、「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほど」(22節)という、創造以前の世界に自分を追い遣ってしまわれないようにと、願うのです。

 ひどい皮膚病に覆われ、灰の中に座して苦しみ呻いていたヨブの心に、長いトンネルの向こうに光が見える兆しが表われ始めたといって良いのかも知れません。

 我が国では、年間の自殺者が1998年に急増して3万人を突破、14年連続で高い水準にありましたが、2年前に3万を下回り、昨年は、27,283人でした。これはしかし、交通事故死者の6倍以上です。最近は、インターネットで自殺指南をするサイトまで出来ています。

 警察庁の自殺白書によると、15歳から39歳の死因のトップが自殺であり、死因に占める割合も大きなものがあります。因みに、40代は、死因の2位が自殺、15歳以下と50代前半は3位となっています。若者の死因のトップが自殺というのは、先進7か国では日本だけで、その死亡率も、他国に比べて高いものになっています。

 様々な悩みを抱える中、それを心開いて相談し、適切な解決の道を見出すことが出来ず、孤独に死を選び取るしかなかった方々の無念さを思います。ヨブは、病と孤独の苦しみの中で、神に訴えました。神が土くれに過ぎない自分を心に留めてくだされば、明るい顔になれると、一縷の望みを抱いています。

 それは、かつて、命と恵みを約束された神が、苦しみ呻いているヨブの霊を、今も守り支えているからでしょう。そして、そのことに彼の眼が開かれるように、彼の心にその思いを与えて、ヨブに神を呼び求めさせておられるということではないでしょうか。

 愛の神は、私たちにも主イエスを信じ、「アバ父よ」と神を呼ぶ霊を授けてくださいました(ローマ書8章15節)。ですから、私たちの希望は失望に終わることはないのです(同5章3~5節)。

 どんなことでも思い煩うことをやめ、何事でも感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ4章6,7節)。

 主よ、私たちはあなたのお創りになった美しい世界に生かされていながら、なんと多くの苦しみに囲まれていることでしょう。多くの人々が周りにいるのに、深い孤独感に苛まれています。そこに私たちの罪があります。主よ、私たちの国を憐れんでください。弱い私たちを助けてください。命の光の世界が開かれますように。すべての人々の上にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン




6月29日(月) ヨブ記9章

「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と。」 ヨブ記9章32~35節

 ヨブは、ビルダドの「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)という言葉の正当性を認め、「それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか」と語ります(2節)。そして、その知識が今ヨブを苦しめているのです。

 神は正しいお方です。その裁きも、正しいものであるにちがいありません。正しい者にはよい報いがあり、悪しき者には悪しき報いがあるはずです。しかし、今、ヨブは悩み苦しんでいます。愛する子らの死は、正しい裁きなのでしょうか。自分が、全身ひどい皮膚病に悩まされているのは、いったいどういう理由があるというのでしょうか。ヨブは、これほど苦しまなければならないような罪、過ちを犯した覚えがないのです。

 神は天地を創造された御手をもって、今も働いておられますが(5節以下、9節)、それはヨブにとって、理解不可能なものになっています。10節は、エリファズの語った言葉(5章9節)を繰り返したものですが、エリファズは神の創造の御業をたたえる表現として、「測り難い」といったものを、ここでヨブは、神の御心を理解することは出来ないと、全く否定的に語っているようです。

 それは、5節以下9節まで、神の創造の御業を告げるヘブライ語の動詞五つが分詞形でつづられ、10節の、「成し遂げる」、「不思議(に見える)」の二つの分詞形と合わせて七つの分詞を連ねることで、神の創造の意図が、全く理解不能(エイン・ケーヘル:cannot understand)であるということを示しているのです。

 「神がそばを通られてもわたしは気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない」(11節)というのは、かつて信頼を寄せていた神が、全く理解することの出来ない苦しみを与える敵となっておられるからです。

 そして、自分の無実を神に訴えたいと思っても、神は知恵に満ちておられ、自分の髪の毛一筋までもご存知の神に何を言えばよいのか分らないし(14,15節参照)、むしろ、自分には殆ど自覚のない髪の毛一筋ほどのことで、これほどまでにひどく傷つけられています(17節)。

 「理由もなくわたしに傷を加えられる」(17節)という言葉は、サタンの「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉、そして、神の「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」という言葉に、「理由もなく」(ヒンナム)という同じ言葉でつながっています。

 また、「無垢なのに、曲った者とされる」(21節)、「無垢かどうかすら、もうわたしは知らない」(22節)、「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」(23節)と、「無垢」(ターム)という言葉を連ねていますが、これは、ヨブ記のテーマであり、神はヨブが誰よりも無垢な正しい人物であることを認めていました(1章8節、2章3節)。 

 神は、このように悩み苦しむヨブを、今、どのように見ておられるのでしょうか。どうすれば、神はヨブと同じテーブルにつくことが出来るのでしょう。今の状況を乗り越えるために、話し合うことが出来るようになるのでしょうか。もしかすると、神御自身がヨブを求めて、彼にこのように激しく求めさせておられるのでしょうか。

 それだからでしょうか。ヨブは、こうした思いの中から、冒頭の言葉(32節)のとおり、「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」と、同じテーブルにつき、互いに論じ合うことが出来るようになることを願います。

 続いて、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(33節)と語ります。相手は人ではなく、神です。対等に語り合える立場ではありません。だから、同じ裁きの座についた神と自分の間に立って執り成し、調停、仲裁してくれる者を求めているのです。

 そして、「わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら」(34節)と、その調停、仲裁が功を奏することを望み、それにより、恐れずに正当に扱われることを求めることが出来ると告げます(35節) 

 ヨブはこの時、そのような場が設けられ、そのような調停者、仲裁者を見出すことが出来、そして、その仲裁が功を奏すると、本気で考えていたかどうか、その存在を信じていたかどうかといえば、それは、全く疑わしいものです。むしろ、そんなことはないけれども、そうだったらよいのにと、叶わぬ夢を見ていたのではないでしょうか。

 先に、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(7章21節)と語り、義なる神は、罪を赦すお方であり、悪を取り除くお方ではないのかという考えを示していました。今受けている苦難によって、自分の罪の償いは終わったのではないか、というような思いが込められた発言です。

 今ここに示されたヨブの願望は、神と人との仲裁者、仲保者としての主イエス・キリストの出現を指し示す、預言的な役割を果たしています(ローマ8章34,35節、第一テモテ2章5節など)。主なる神は、世の罪を取り除く神の小羊として、独り子イエスを世に遣わされました(ヨハネ1章29節)。世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです(同3章17節)。

 ヨブが主イエスと出会ったとき、主イエスが願いの通り、ヨブの上から杖を取ってご自分の上に置き、その苦しみをすべて取り除いてくださったことを知り、そして、自分が神の子どもとして取り扱われているのを見出すでしょう(34,35節参照)。それは神ご自身が、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです(第一テモテ2章4節)。

 そのとき、ヨブはどのように語るのでしょうか。きっと、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは」(詩編144編3節)と、驚くべき神の恵みを讃えることでしょう。

 主よ、あなたの御名はほむべきかな。ヨブは苦しみの中で、赦しを願い、仲裁者を求めました。主は、御子イエスを仲保者として世に遣わされ、その死によって、罪の赦し、救いの恵みをお与えくださいました。ヨブの願いは、神の御心を先取りしたかたちでした。主イエスによる慰めと平和がすべての民の上に豊かにありますように。 アーメン




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