「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」 詩編103編2節
103編は、「憐れみ深く、恵みにとみ、忍耐強く、慈しみは大きい」主を讃える賛歌です。「わたしの魂よ、主をたたえよ」という言葉が1,2節の初行と22節の最後にあり、この言葉で、詩を囲んでいます。これは、詩人のすべての思いを主への賛美としてささげようとしていることを示しているようです。
それはまた、22節(ヘブライ語原典は表題を除いて22行詩)というヘブライ語のアルファベットと同じ数になっているということで、これも詩人があらゆる言葉を尽くして主を賛美しようとしていることを表しているようです。
聖書の言葉で、「魂」(ネフェシュ)というのは、ギリシア哲学のように、霊魂と肉体を区別するような用語ではありません。これは、「命、人間、生きている存在」という意味であり、そこから「息、血」、また「感情、欲求、情熱」と訳されたりもします。
「わたしの内にあるものはこぞって」(1節)とあるように、ただ口だけでなく、目も耳も、また心臓や肝臓、腎臓なども総動員で、それらの内臓諸器官は感情を宿す心の在り処と考えられていたので、実に全身全霊をもって主を賛美しようと言っているわけです。
「すべて」(コール)という言葉が、詩の最初の連1~6節に5回(1節「こぞって」、2節「何一つ」、3節「ことごとく」と訳されているものも含め)、最後の連19~22節に4回(21節「万軍(すべての軍勢)」、22節「どこにあっても(すべてのところで)」も含め)と、用いられて、文字通りすべてのものをもれなく包んでいるという印象を強めています。
この詩が作られた理由が、冒頭の言葉(2節)で、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と記されています。神がイスラエルの民になさった「御計らい」(ゲムール:「取り扱い、報酬、利益」の意)を忘れないための記録として、この詩を朗読するたびに、それを繰り返し思い起こそうというわけです。
特に、この詩の中に「慈しみ」(ヘセド)という言葉が、何度も登場して来ます(4,8,11,17節)。詩人は、イスラエルの民への「主の御計らい」を、神の「慈しみ」と受け止めているわけです。
また、「憐れみ」(ラハミーム)、「憐れむ」(ラーハム)という言葉も、繰り返し出て来ます(4,8,13②節)。この言葉は、子を宿す「胎」という言葉から派生したものと考えられており、同じ母の胎から生れ出た兄弟間における切なる情や、我が子への母の切なる情を表現するものと言われています。
この「慈しみ」と「憐れみ」は、神の本質を示すものとして、聖書中に繰り返し登場してきます。その原点は、出エジプト記34章6,7節で、主が御自分の御名を宣言して、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言われています。それは、戒めの刻まれた石の板を再授与するというところで語られたものです。
この詩においても、主なる神の慈しみと憐れみは、「罪をことごとく赦し」(3節)、「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」(10節)、「東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」(12節)と、罪や背き、過ちを赦すところに表されています。因みに、10節の「罪」(ヘート)は、出エジプト記34章7節では「過ち」、同様に「悪」(アーヴォン)は「罪」と訳されています。
103編が102編に続けておかれているのは、これが、102編の祈りに対する答えをいただいたイスラエルの民の賛美と解釈されているからでしょう。神はイスラエルを怒りによって滅ぼし尽くすことを良しとされず、却ってその罪を赦し、捕囚という苦しみの縄目から解放してくださったのです。
罪が赦され、解放の恵みに与った詩人たちの心を支配したのは、喜びと感謝であったことは言うまでもないことですが、そしてそれゆえに、主をほめたたえよと繰り返し語っているわけですが、もう一つの思いがありました。それは、「主を畏れる」ということです(11,13,17節)。
「主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)とありますが、しかし、イスラエルの民が主を畏れる心を持っていたので、罪が赦されたのではありません。むしろ、罪の赦しを経験したとき、民に主を畏れる心が芽生えたのです。
「主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(13節)とありますが、しかし、イスラエルの民が主を畏れる心を持っていたので、罪が赦されたのではありません。むしろ、罪の赦しを経験したとき、民に主を畏れる心が芽生えたのです。
明示されてはいませんが、それは、罪の赦しには贖いの供え物が必要であることを知っているからでしょう(レビ記4,5章参照)。そして、贖いの供え物を用意したのは、捕囚の民ではなく、神ご自身でした。神の御子キリストが贖いの供え物として血を流されたことにより、神と民との間に新しい契約が結ばれたのです(エレミヤ書31章31~34節、ルカ福音書22章20節、ヘブライ書8,9章参照)。
主の恵みに感謝し、真に主を畏れる者として御前に謙り、その御言葉に聴き従いたいと思います。
主の恵みに感謝し、真に主を畏れる者として御前に謙り、その御言葉に聴き従いたいと思います。
主よ、あなたのは慈しみ深く、その憐れみはとこしえに尽きることがありません。私たちを極みまで愛してくださり、そのために御子をさえ惜しまず、与えてくださいました。あなたのなさった御計らいを、一時でも忘れることがありませんように、絶えず唇の実を御前にささげさせてください。御霊の満たしと導きに与り、主の恵みの証し人とならせてください。 アーメン