風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

8月6日(日)主日礼拝説教

8月6日(日)主日礼拝には、教会員14名、来賓11名(子ども2名を含む)がおいでになりました。
礼拝後の昼食会にも、15名参加されました。感謝です。

主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「使徒を選ぶ」
聖書 ルカ福音書6章12~19節

御覧ください。

 

広島平和宣言

平和宣言

皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。

このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。

それ故、皆さんには是非とも、被爆者の声を聞いてもらいたいと思います。15歳だった被爆者は、「地獄図の中で亡くなっていった知人、友人のことを偲(しの)ぶと、今でも耐えられない気持ちになります。」と言います。そして、「一人一人が生かされていることの有難さを感じ、慈愛の心、尊敬の念を抱いて周りに接していくことが世界平和実現への一歩ではないでしょうか。」と私たちに問い掛けます。

また、17歳だった被爆者は、「地球が破滅しないよう、核保有国の指導者たちは、核抑止という概念にとらわれず、一刻も早く原水爆を廃絶し、後世の人たちにかけがえのない地球を残すよう誠心誠意努力してほしい。」と語っています。

皆さん、このような被爆者の体験に根差した「良心」への問い掛けと為政者に対する「誠実」な対応への要請を我々のものとし、世界の人々に広げ、そして次の世代に受け渡していこうではありませんか。

為政者の皆さんには、特に、互いに相違点を認め合い、その相違点を克服するための努力を「誠実」に行っていただきたい。また、そのためには、核兵器の非人道性についての認識を深めた上で、自国のことのみに専念して他国を無視することなく、共に生きるための世界をつくる責務があるということを自覚しておくことが重要です。

市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。

今や世界中からの訪問者が年間170万人を超える平和記念公園ですが、これからもできるだけ多くの人々が訪れ、被爆の実相を見て、被爆者の証言を聴いていただきたい。そして、きのこ雲の下で何が起こったかを知り、被爆者の核兵器廃絶への願いを受け止めた上で、世界中に「共感」の輪を広げていただきたい。特に、若い人たちには、広島を訪れ、非核大使として友情の輪を広げていただきたい。広島は、世界の人々がそのための交流をし、行動を始める場であり続けます。

その広島が会長都市となって世界の7,400を超える都市で構成する平和首長会議は、市民社会において世界中の為政者が、核兵器廃絶に向け、「良心」に基づき国家の枠を超えた「誠実」な対応を行えるような環境づくりを後押ししていきます。

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。また、平均年齢が81歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々に寄り添い、その支援策を一層充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、世界の人々と共に、「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。 

平成29年(2017年)8月6日

広島市長 松井 一實

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現政権に核軍縮の意志がないことは明白。
戦争反対ですらない。
ただ、オバマ大統領の原爆ドーム、平和記念館来訪を機に、外国人の広島訪問が増えていることは歓迎すべきこと。
今年、トランプ政権も平和式典に使者を送って来た。
外からの声で核軍縮の旗を振ることになるのかな。
それでも良いけど、出来れば自ら平和利用も含めて核廃絶の道を歩み出して欲しい!




8月6日(日)主日礼拝案内

02
8月6日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、創世記から聖書の学びと交わりを行っています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書6章12~19節から「使徒を選ぶ」と題して説教を頂きます。
第一主日(日曜日)ですから、礼拝の中で主の晩餐式を行います。

礼拝後、昼食会(有料/自由参加)を行います。
お気軽にご参加ください。

その後、CSリーダー会があります。



 



 

8月5日(土) 創世記24章

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。」 創世記24章12節

 24章には「イサクとリベカの結婚」という小見出しがつけられています。長く連れ添った妻サラを葬り、さらに年を重ねたアブラハムにとって、一番気にかかっていたのは、一人息子イサクのことでした。それも、嫁を迎えることです。そこで、アブラハムは、自分が最も信頼している僕を呼びました(2節)。

 24章全体にわたって、この僕の名は記されていませんが、アブラハムが全幅の信頼を寄せている僕といえば、「ダマスコのエリエゼル」(15章2節)でしょう。まだイサクが与えられる前で、アブラハムの家には後継ぎがなく、「家の僕が跡を継ぐことになっています」と言っていました(同3節)。

 アブラハムは、この僕を信頼して家の管理を任せていたのです。それは、その僕を跡取りとすると決めるほどのことでした。そして、その僕は、そのような主人の信頼を裏切ろうとは、全く考えていないようです。むしろ、主人に深く感謝し、心から主人に仕えて来たのです。ここに、イスラエルの父祖を取り巻いている美しい人間関係が描かれています。

 アブラハムはこの時、一番心にかかっていたことをこの僕に任せました。ただ、無条件にということではありませんでした。アブラハムが出した嫁取りの条件は、「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく」(3節)、「わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(4節)ということです。

 これは、血筋ということもあったのかも知れませんが、何より、信仰の問題でした。カナンの土着の宗教習俗に染まらず、純粋な信仰を継承し、妥協しないようにということです。それによって、アブラハムに与えられた主の祝福、すべてのものの祝福の源となるという使命を代々受け継ぐのです。これ以外の条件は、ここにはありません。

 僕は、アブラハムに「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地に来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか」(5節)と尋ねます。それに対して、アブラハムが「決して、息子をあちらへ行かせてはならない」(6節)と答えました。

 その理由を続く7節で、「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる」と説明しています。

 つまり、神はカナンの地を約束の地としてお与えくださったのだから、嫁をこちらに連れて来るのであって、故郷の親族の家に婿入りさせるような真似はできないということです。そのために、神が僕の行く手に御使いを遣わしてくださると言います。つまり、このことは神から出ているので、必ず実現させてくださると、アブラハムは信じているのです。

 僕は、主人から預かった高価な贈り物をたくさん携え、アラム・ナハライムのナホルの町へ向かって出発します(10節)。アラム・ナハライムについて、「ナハライム」とは、対になった二つの川という意味で、チグリス、ユーフラテスという大河のこと、その二つの川に挟まれた「アラム」の地を指しています。

 ベエル・シェバからナホルまで、直線でおよそ700㎞というところでしょうか。歩けば、優にひと月はかかるという距離です。ラクダ十頭を選んでと10節に記されていました。ラクダは人の4倍ほどのスピードで歩くというので、およそ1週間ほどでナホルの町に到着することができたのではないかと思われます。

 町はずれの井戸の傍らまでやって来た僕は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください」と祈りをささげます。僕は、主人アブラハムの信任に応えるには、神の助けが必要と考えていたわけです。

 そこでまず、「どうか、今日、わたしを顧みてください」と求めます。「顧みてください」と訳されているのは、「わたしの面前で会ってください」(ヒクレー・ナー・レファーナイ)という言葉です。主人が信頼している神が自分をも顧みてくださるように、そして、御業を起こしてくださるようにと願うのです。

 それは勿論、僕自身のためではありません。主人アブラハムのためであり、その子イサクのためです。だから、続いて「主人アブラハムに慈しみを示してください」(アセー・ヘセド・イム・アドニー・アブラハーム)と祈るのです。こうして、僕は、主人アブラハムのために慈しみを祈りつつ、アブラハムと同様、神を全く信頼に値するお方として、仰いでいるのです。

 続く13,14節に「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください」と言います。

 僕は、神の御心を確認するため、しるしを与えて欲しいと願っているのです。それは、井戸に水を汲みに来た女性に「水を飲ませてください」と頼んで、その願いに応えるだけでなく、「らくだにも飲ませてあげましょう」と積極的に応じてくれる女性がその人物ということにして欲しいというのです。それは、見知らぬ旅人を受け入れ、その動物にも思い遣る優しい心を持っている女性ということです。

 すると、まだ祈り終わらない内に一人の娘がやって来て(15節)、彼が願ったとおりに応えました。それも「らくだにも水を汲んで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」(19節)と言い、すぐに水を汲みに井戸に走り、すべてのらくだに水を飲ませたのです(20節)。

 そこで、僕は金の花輪と金の腕輪二つを取り出して贈り物としつつ(22節)、「あなたは、どなたの娘さんですか」(23節)と尋ねると、「ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」(24節)という答えが返ってきました。

 ナホルはアブラハムの兄弟、ベトエルはアブラハムの甥、イサクにとって従弟になる間柄、その娘というのですから、確かに神は、アブラハムの僕を彼の親族の家に導かれ、その家の娘に出会わせ、それが神の決められたイサクの嫁であるということを、これほどまでにはっきりとお示しになったのです。

 それを聞いた僕は、ひざまずいて主を伏し拝み(26節)、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」(27節)と、賛美と感謝の祈りを捧げます。

 28節以下、僕はベトエルの家に招かれ、これまでのいきさつを説明し、娘リベカをアブラハムの息子イサクの嫁として迎えたいと申し出ました(48,49節)。それに対してラバンとベトエルは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください」(50,51節)と答えます。

 つまり、僕の話を聞いたベトエルとラバンは、この結婚が主から出たことだと信じたのです。そして、リベカ自身も、それが主の導きと信じて、この僕と共に、翌朝すぐに旅立ちます(54節以下、58節)。

 ここに登場してくる人々にとって、神の慈しみ、神の導きは、極めて具体的です。勿論、神の導きの手が実際に見えているわけではありません。しかし、信仰の目をもって振り返ってみると、確かにその「御手」が見えて来ます。主の御意志が分かって来ます。神の御業は、超自然的な出来事によってだけでなく、人の心を通して、その思いを動かすというかたちで働くのです。

 恵みの主に信頼し、日々御言葉に耳を傾け、その御心を行う者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたは私たちにも目を留め、恵みと憐れみを溢れるほど豊かに注ぎ与えてくださいます。私たちに進むべき道を示し、信仰によって歩み通すことができるよう、守り導いてください。主世、あなたの富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。誰が、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょう。すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。 アーメン






8月4日(金) 創世記23章

「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。」 創世記23章1節

 23章には、「サラの死と埋葬」という小見出しがつけられています。イサクを神に献げるという試練の後(22章)、アブラハムは終局に向けて進むことになります。23章は伴侶の死、24章は息子の嫁取り、そして、25章にアブラハムの死が報告されています。

 冒頭の言葉(1節)に「サラの生涯は百二十七年であった」と記されています。女性の年齢が記録されるというのは、聖書では特異なことです。それだけ、サラが特別な存在だということのようです。サラは、長い人生を生き抜きました。それは、神の祝福といってもよいでしょう。

 しかしながら、人生がいかに長く、どんなに祝福に満ちたものであっても、私たちの人生は、死をもって閉じられます。コヘレトは「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(同3章1節)と言い、続けて「生まれるとき、死ぬとき、植えるとき、植えたものを抜くとき」(同2節)と記しています。誰にも、死のときが訪れます。人の死亡率は100%です。

 サラの死は、ここに非常に簡潔に語られています。イサクを産み、イシュマエルを追い出した後のサラが、どのように子育てし、その後、どのように過ごしてきたのかなど、何も分かりません。ただ、どんなに言葉を費やしてその人生を物語っても、それによって死の現実を軽くしたり、覆い隠したりすることは出来ません。人はただ、その現実を受け入れるほかはないのです。

 サラは夫に仕え、時に夫の影になり、いわば脇役として生きました。ヘブライ書11章11,12節に「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」と記されています。

 とはいえ、主の御使いから子が授けられると聞いてそれを笑ったこと(18章12節)、またハガルやイシュマエルに対してなした言動(16章5,6節、21章9,10節)などを考えると、ヘブライ書に「信仰の人」として名を上げられることに、反論したい気にもなります。

 けれどもサラは、恵みによってアブラハムと共に歩み、神の約束に従って90歳という高年齢で子イサクを授かりました。そうして、127年の生涯を全うしたのです。

 人は誰も、自分で自分を救うことは出来ません。不義なる者をあえて選び、その罪を赦し、救い、召し、さらに義とし、栄光から栄光へと主の同じ姿に変えて下さる、恵みと憐れみに富む主なる神に依り頼むだけです(ローマ5章6節以下、8章30節、第一コリント1章26節以下、第二コリント3章18節)。

 亡くなったサラのために、アブラハムは墓地を整えようとします。サラは「カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロン」(2節)で亡くなりました。「キルヤト・アルバ」とは、「アルバの町」という意味です。

 「アルバ」は、カナンの地に住んでいたアナク人の父祖アナクの父であり(ヨシュア記15章13節、21章11節)、アナク人の中の最も偉大な人物でした(同14章15節)。それが、ヘブロンという名前になったのは、イスラエルの民がヨシュアに率いられて約束の地カナンにやってきた後のことと言われています。


 アブラハムの時代、ここには「ヘトの人々(ベネー・ヘート=「ヘトの子ら」の意)」が住んでいました(3節)。そこでアブラハムは、ヘトの人に「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」(4節)と申し出ます。

 アブラハムはここで自分のことを、「一時滞在する寄留者」(4節)と言います。アブラハムは、甥のロトと別れて以来、ヘブロンのマムレの樫の木のところに来て住むようになったと、13章18節に記されていました。

 それから、少なくとも50年近く経過しているのですが、このときアブラハムは、未だ約束の地カナンに、自分の所有と呼べる土地を持ってはいなかったのです。その必要がなかったかどうかは分かりませんが、ここでは、妻サラを葬るために、どうしても、墓地を確保したいと願うのです。

 5節以下に、ヘトの人々とアブラハムとの、墓地取得のための交渉の様子が描かれています。言葉遣いから見えるのは、ヘトの人々のアブラハムに対する好意です。先ず6節では、「御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません」と言います。

 「神に選ばれた方」とは、「ネシー・エロヒーム」という言葉で、「ネシー(ナーシーの短縮形)」とは、「君主、上に立つ者、族長」といった意味があります。口語訳は「神のような主君」、新改訳は「神のつかさ」と訳しています。長年のアブラハムとのつきあいで、その意に反するのは得策ではない、上手に取り入ろうと考えて、最高級の呼び名でアブラハムを迎えようとしているようです。

 そこでアブラハムは、希望の墓地の場所を指定します。それが8,9節にあるアブラハムの言葉で、「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください」と言います。

 「マクペラの洞窟」を墓地にと願ったわけですが、「マクペラ」とは、「一部分(portion)」という意味があります。畑の一部分だからということでしょうか。また、「二重(double)」という意味もあります。この墓地には、サラだけでなく、アブラハム自身、そして、イサクとリベカ、ヤコブとレアもここに葬られました。「二つの墓穴」という意味で「二重の洞穴」と呼んだのかも知れません。

 それを聞いたヘト人エフロンは11節で「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください」と答えています。「十分な銀をお支払いする」というアブラハムに、「洞穴だけでなく、畑も差し上げる」というのです。

 「差し上げる」と訳された「ナータン」という言葉は、4,9節でアブラハムによって「譲っていただきたい」と訳されており、それは勿論、無償ということではないでしょう。つまり、「与える(ナータン)」という言葉で、相手の腹の探り合いをしているわけです。

 そこでアブラハムはエフロンに「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」(13節)と言います。

 エフロンの「あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます」(11節)という言葉を受けて、「マクペラの洞窟」だけでなく、その洞穴と一緒に「畑」も譲ってくれるようにと、その願いを拡大しました。

 するとエフロンは「どうか、御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください」(14,15節)と答えます。土地代金は400シェケルですが、どうです、安いでしょうといっているわけです。

 このような取引は、現在でも中近東で行われているそうで、金銭づくの関係をはばかって「差し上げる」と言った上で、相手が「買い取る」と言い張るので、断り切れずに相手に売値を言うというかたちをとるわけです。

 そして、そこから具体的な売値交渉が始まるわけですが、エフロンがアブラハムに告げた墓地用の土地代金400シェケルについて、たとえばサムエル記下24章18節以下に、ダビデ王がエブス人アラウナ所有の麦打ち場を買うやり取りが記されています。そこでも、ここと同じようなやり取りがなされた後、ダビデは、麦打ち場と牛のために、銀50シェケルを支払ったと記されています(同24節)。

 また、エレミヤ書32章6節以下には、エレミヤが「叔父シャルムの子ハナムエル」というのですから、エレミヤの従兄弟ということになりますね。エレミヤが従兄弟のハナムエルから畑を買い取るという記事が記されています。その時、エレミヤが畑の代金としてハナムエルに支払ったのは、銀17シェケルであったと記されていました(同9節)。

 どうでしょう。ダビデ王が麦打ち場に支払った銀50シェケル、預言者エレミヤが畑を買うのに支払った17シェケル、この金額を見ると、アブラハムが求められた銀400シェケルというのは、法外というべき値段です。通常ならば、このような土地売買はまずまず成立しないでしょう。

 けれども、この墓地用の土地売買契約が成立して初めて、アブラハムは、神が示されたこのカナンの地に、自分の所有の土地を持つことが出来るのです。自分が住むためではなく、妻サラを葬るためにカナン人の墓地を求めたのは、それが故人の生涯の記念碑であり、特に、この地でサラは生きたという証しです。そして、畑を所有することで、彼はここに住むことになります。

 百年あまりも連れ添った妻サラの死は、アブラハムにとってどれほど深い悲しみになったことかと思いますが、サラの葬りのための場所を確保することが、住むための場所を獲得することにもなりました。それは、この地がアブラハムとその子孫によって永遠に所有されるところとなると、神が約束されたことを信じている証しなのです。

 私たちは、人の命は死で終わらないことを知っています。死は、新しい命、永遠の命の門です。私たちは、天の御国に国籍を持ち(フィリピ書3章20節)、そこに私たちの住まいがあります。用意が整えられると、主が私たちを迎えにおいでになります。わたしたちは、神と共に永遠に天の御国に住むことができるのです。それが、ヨハネ福音書14章2,3節に記されていることです。

 どんな生涯も、それは、神の恵みによって支えられています。そして、天の御国目指して進んで行きます。そこで、あらゆることが益となるのです。マイナスが大きければ大きいほど、神から与えられる恵みは大きなものとなるのです。

 サラの127年の生涯がことごとく神の恵みであったとされるように、私たちの生涯もまた、ことごとく主の恵みです。たとい今がマイナスとしか見えないような状況にあるとしても、すべてを益に変えてくださる主によって、主の恵みへと導かれていることを信じ、感謝しましょう。

 主よ、私たちはキリスト・イエスによって命の書に名を記され、天の御国に国籍を持つ者とされたことを、心から感謝します。この信仰のゆえに、この地上を希望と平安をもって歩むことが出来ます。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





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