風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

6月13日(火) 第一ヨハネ書1章

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」 ヨハネの手紙一1章3節

 宛名も差出人の名もなく、終わりの挨拶や祈りもない手紙ですが、それは、著者と宛先教会の間に、形式的な挨拶を必要としない関係を考えればよいのでしょう。かえって、ヨハネ福音書と同じような始まり方をして、この手紙が福音書の続編であることを示しているかのようです。著者は福音書とほぼ同一、1世紀の終わり頃、福音書が記された後に記述されたものと考えられています。

 著者は、福音書と同様、伝統的に12使徒の一人、ゼベダイの子ヨハネであると考えられて来ましたが、本書にも福音書にも、使徒ヨハネの署名はありませんし、それをほのめかすような記述もありません。最近の主だった学者は、使徒ヨハネの可能性は先ずないと言います。第二書、第三書に「長老のわたし」とあり、それが著者の職名で、教会の重要な指導者の一人と言えます。

 本書の冒頭(1節)に「初めからあったもの」と記されておりますが、この「初め」は、ヨハネ福音書1章1節の「初め」と同様、天地が創造される前の「命の言」(1節)なるキリストの先在性を示す表現でしょう。

 初めから聞いている神の言葉、この世に現れた「命の言」について、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1節)という言い方をしています。命の言は何よりも先ず、聞かれるものですが、単に聞くというだけではなく、それを目で見、よく見て、手で触れたと言います。

 「命の言」を目で見るとはどういうことでしょうか。よく見て、手で触れるとは、どういうことでしょうか。神の言葉というのは、決して、単なるお話などではない、語られておしまい、聞いておしまいというただの言葉ではない、それは私たちに見られるものとなる、つまり、出来事になる、具体的な生活の中に経験され、味わわれるものとなるということです。

 あると思えばある、ないと思えばないというような、そんな曖昧なものではない。私たちが信じようが信じまいが、神は初めから存在され、私たちを生かす「命の言」を語っておられるのです。それは出来事となり、目で見、手で触れることが出来るものとなるのです。まさにそれが、主イエスによって実現したのです。

 今、肉眼で主イエスを見、この手で主イエスの体に触れることは出来ません。しかしながら、主イエスの御言葉は、2000年前という大昔の話ではなく、今も私たちがその御言葉を聞き、御言葉を信じ、受け入れて歩ませて頂くことの出来るものです。

 そして、確かにそれが「命の言」、私たちに命を与え、恵みを与える神の言葉であることを知ることが出来ます。今も主が生きておられ、私たちのために恵みの御業をなしてくださっていることを味わわせて頂くことが出来るのです。

 1章は10節までという短いものですが、ここに「交わり」(コイノニア)という言葉が、冒頭の言葉(3節)に2回、6,7節に1回ずつの合計4回出て来ます。それだけ、「交わりを持つ」重要性がここで強調されています。

 この交わりの特徴について、4節に「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と記されています。交わりを通して喜びがもたらされる、喜びが満ち溢れて来る。神の恵みに満たされ、聖霊の力に満たされる喜び、罪が赦され、清められ、新しくされる喜び、そのような喜びであるということが出来ます。

 あらためて、冒頭の言葉(3節)に、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と言われております。私たちは、御父がお遣わしくださった御子イエス・キリストによって救われ、御父と御子の交わりの中で新しくされ、豊かにされ、喜び満ち溢れる人生を歩ませていただくことが出来るわけです。

 著者は、自分たちが御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きていて、喜び満ちあふれる人生を歩ませていただいているように、この言葉を聴く者たちが同じようにその交わりによってその恵みを知り、味わい、体験して喜びに満ち溢れる歩みを自分のものとして欲しいと願っているのです。

 ここから示されるのは、命の言を聴き、その恵みを味わうためには、「わたしたち」という交わりの中で神の御言葉を聴き、学ぶことが大切ということです。

 ただ、著者が完璧な指導をしているから、その交わりが神との交わりになるというのではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と主イエスが言われたとおり、主の御言葉を聴くために集う中に、主がおられ、主との交わりが豊かに開かれるのです。

 つまりそこに、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」というような福音の体験が起こるというのです。教会でなくても聖書を学ぶことが出来るし、一人で聖書に聴くことも出来るでしょう。しかし、それを「命の言」として味わうためには、主の名によって集い合う交わりが必要だということです。

 知的な深さ、高さが問題ではなく、神が生かし、導いておられる教会の交わりの中にいて、共に御言葉をいただきながら、その真理に共に触れることが一番大事だと思います。それが、「わたしたちの交わり」と、著者が呼んでいるものなのです。

 そのような交わりに与るために、何をすればよいのでしょうか。7節に「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とあります。光の中を歩みなさいということです。5節に「神は光であり」と記されていますから、神の光に照らされて歩むということです。

 「あらゆる罪から清められる」ということについて、9節で「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言われています。光の中を歩むとは、神の光に照らされ、そこで示される罪を公に言い表すということになります。

 私たちが光になるとか、光を作り出すということではありません。神様の方に向き直る、主イエスの十字架を仰ぐ、血潮によって清めていただく、御言葉のお恵みに与る、御言葉の光に照らされて、光を頂きながら歩むということです。

 この交わりを妨げるのが、罪です。どんなに太陽の光がさんさんと降り注いでいても、窓に分厚いカーテンをかけると、部屋に光が差し込んで来ません。私たちの生活の中で神の光が輝かないのは、罪というカーテンが心の窓にかかって、御言葉の光が閉ざされているからではないでしょうか。

 神が私たちに語りかけておられる御言葉に真剣に耳を傾け、互いに心を開き、主に従い、互いに仕え合うこと、これが「交わりを持つようになる」というメッセージです。朝毎に主の御言葉を聴き、その恵みを分かち合い、共に祈りを合わせましょう。

 主よ、私たちのために、御父と御子イエスとの交わりを開き、教会の福音宣教を通してその交わりに私たちを招いてくださって、有難うございます。私たちもこの交わりによって生かされ、喜びをもって命の言、命に与る恵みを宣べ伝えさせてください。 アーメン




6月12日(月) 第二ペトロ書3章

「神の日の来るのを待ち望み、またそれが来るのを早めるようにすべきです。」 ペトロの手紙二3章12節

 3章では、主イエスの再臨と世の終わりの到来がテーマになっています。しかしながら、当時の人々は、それが遅いこと、あるいは、ないかも知れないと考え始めていたようです(4節参照)。そのことについて、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(8節)と言って、神と人間の時間の感覚が違うことを示します。

 また、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と語り、神が世の終わりを待望しておられること、それはすべての人々の悔い改めのときとなることを期待しておられると言います。

 そして、「主の日は盗人のようにやってくる」(10節)という言葉で、そのときは神が定めておられること、また、到来が次第に明らかになるというのではなく、突然訪れるということを教えます。

 そして、キリスト者として終末に臨む態度について、11節以下に記しています。その中で、冒頭の言葉(12節)に言われている「神の国の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべき」ということについて、考えてみましょう。まず、「早めるようにすべき」というのですから、著者はそうすることが出来ると考えていることが分かります。

 主イエスは、「神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)という言葉で宣教を始められ、そして、「御国が来ますように」(マタイ福音書6章10節)と祈るように教えられました。それは、「主の祈り」といわれる祈りの一部です。

 キリスト者は、食前を始め、起床・就寝のおり、その他様々なときに、神に祈るという習慣を持っています。その中で、一日に一度は「主の祈り」を祈りましょう。「御国を来たらせたまえ」と祈りましょう。

 主の祈りは主イエスが祈っておられた祈りで、それを私たちに教えてくださったという意味で、「主の祈り」と言われているわけです。だから、私たちが主の祈りを祈ることはとても大切で、私たちの祈りの姿勢、信仰の姿勢を正しくしてくださいます。それによって、御国の到来を早めるようにすべきだという神の御心に応えることが出来るでしょう。

 「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と言われました(マタイ福音書24章14節)。つまり、神の国がやってくるためには、全世界に福音が宣べ伝えられなくてはならないということになります。

 聖書を読んだことがない、イエス様のことを聞いたことがないという人がいなくなるように、私たちには、主イエスの福音を伝える責任があるのです。神様は、私たちがすべての人に福音を宣べ伝え終わるのを待っておられるわけです。福音が伝えられれば、終わりの日が来る、神の御国を完成してくださるというのです。

 私たちには二つのこと、「御国が来ますように」という祈りと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と周りの人、家族や友達に伝えて行く責任があるのです。そうして終末の到来を待望し、その到来を早めるようにせよと語られている命令に応えることが出来るでしょう。

 主イエスがこれらのことを語られ、宣教の命令を与えられてから2000年、全世界にこの教えが広められて来ました。それは、神が私たち人間を愛しておられるからです。一人も滅びないようにと忍耐しておられる姿は、放蕩息子の帰りをひたすら待っている父親の姿です(ルカ福音書15章11節以下)。

 ヨハネ福音書3章16節では、神を信じる者が一人も滅びないように、独り子を遣わされた、と神様の御愛を表現しています。神は確かに、すべての人が救われることを望んでおられます(第一テモテ書2章4節)。

 聖書が書かれた時代、キリスト者たちはこの世では全く少数派でした。ローマ皇帝による迫害の前に、風前の灯といった有様でした。けれども、主の御旨を悟り、聖霊の力を受けた弟子たちは、福音宣教に邁進しました。迫害者であったパウロも復活の主と出会って伝道者となり、世界宣教の働きが開始されました(使徒言行録13章以下)。

 私たちにも宣教命令が与えられています(マタイ福音書28章18節以下)。主が再臨される日まで、主に委ねられた賜物を用いて、働かなければなりません(ルカ福音書19章11節以下、特に13節)。今は、主に命じられた福音宣教、世界伝道のときなのです。

 主よ、私たちもあなたを信じて救いの恵みに与りました。それは、あなたが私たちを愛して下さったからこそです。そして、私たちが救われるように祈っておられる方がおられたからであり、また主の御心を悟り、私たちに福音を伝えてくださる方があったからです。どうか私たちも、御言葉に従って生きることができますように。主の御旨を悟り、隣り人の救いのために祈り、また、福音を証しさせてください。 アーメン








6月11日(日) 第二ペトロ書2章

「ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。」 ペトロの手紙二2章16節

 2章には「偽教師についての警告」が記されていますが、その用語と内容、思想は、ユダの手紙3~13節の論述と一致しています。学者たちは、ユダの手紙の方が先に書かれたと見るべき十分な根拠があると言います。

 「偽教師」(1節)と言われているのは、放縦なグノーシス主義者と見做されています。「彼らは、滅びをもたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖ってくださる主を拒否しました」(1節)、「しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています」(2節)、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」(3節)などと記されています。

 そして、「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗やみが用意されているのです」(17節)と、ユダ書12,13節を援用しつつ偽教師を描写します。彼らは水のない泉や嵐に吹き払われる霧に等しく(箴言25章14節参照)、本質は見せかけと異なって人を欺き、実を結ぶ働きをもたらせないので、深い闇が彼らに対する罰として迫ってくるのです(4節)。

 15節から、ユダの手紙11節に列挙されている旧約聖書の三つの例の中から「バラム」の例だけを取り上げています。バラムという人物が偽教師を特徴づけるのにうってつけと、著者が考えたのでしょう。それは、偽教師が神に示された正しい道を捨て、迷いの道に入って行ったという点で、バラムと同じだと考えたということです。

 冒頭の言葉(16節)は、民数記22章22節以下の物語を指しています。バラムという預言者が、モアブ人のバラクという王様にイスラエルに呪いをかけるように要請されました。最初は断りますが、二度目には神の承認を受けて行くことにしました。

 ところが、行く途中で主の使いが抜き身の剣をかざして道に立ちふさがっているのをろばが見つけ、道をそれようとします。バラムには主の使いが見えないので、ろばを叩いて道に戻そうとするのです。そのとき、ろばが口を開いて、バラムを諌めるという話です。

 「預言者の常軌を逸した行い」というのは、民数記を読む限り、何を指しているのか分かり難いところがあります。15節の「不義のもうけを好み」という表現から、バラクがバラムを厚遇し、あなたが言われることは何でもするという(民数記22章17節)、白紙の小切手に好きな金額を書けというような条件に心動かされたことを指しているのでしょう。

 バラムはそれに対して、確かに神に承認を求めたものの(18節以下、20節)、その心は神の前に白紙ではなかったということでしょう。それが、神の御言葉を取り次ぐべき預言者にとって、「常軌を逸した行い」になってしまうのです。それで、ろばには見えた主の使いが、預言者バラムには見えなかったわけです。

 ろばに諌められて心が落ち着いたとき、神がバラムの目を開かれ、彼も主の使いを見ることが出来ました。そして、この出来事を通して、バラムは預言者としてもう一度、ただ神を仰ぎ、神が語らせるまま、その御言葉を語るということを学んだのです。

 しかし、バラムは馬鹿だなあと笑えばすむという話ではありません。士師記18章に、エフライム族のミカの家に寄宿していたレビ人が、待遇面でダン族の祭司に乗り換えるという話があります。同18章30節に「モーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日まで、ダンの部族の祭司を勤めた」と記されています。

 このダンの町には、後にイスラエルが分裂して北イスラエル王国となったとき、初代の王ヤロブアムによって金の子牛の神像が置かれました(列王記上12章29節)。そして、やがてその罪が、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡と捕囚というかたちで裁かれるのです。

 この「ダン」という名前が、「裁き」という意味であるというのは、偶然で済ませるわけにはいかないものを感じます。神の祭司たる者が御言葉に立ってしっかり行動しなければ、民も神の裁きを免れない結果を生んでしまうのです。

 主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ福音書18章3節)と、(大人の)弟子たちに教えておられます。子供には見えて、大人に見えない世界があるのです。見えないものを見えると言い張るところに罪があるとも言われます(ヨハネ福音書9章41節:口語訳)。

 神ならぬものに目が眩まされていないか、心と思いを点検する必要がありそうです。1章9節に「これら(5節以下の八つの徳目)を備えていない者は、視力を失っています」と記されていました。

 神の御前に謙り、謙遜に従順にキリストの御言葉を聴きましょう。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から始まるからです(ローマ書10章17節)。

 主よ、どうか、御言葉によって心を清めてください。信仰の視力を与えてください。いつも主の御顔を仰ぐことが出来ますように。主の御言葉を慕い求めて御前に進ませてください。耳を開いて主の御声を聴かせてください。御心を悟り、喜んで従うことが出来ますように。 アーメン



6月11日(日)主日礼拝説教

6月11日(日)主日礼拝に、教会員15名、来賓18名(バーチ先生ご夫妻、野村義雄先生ご夫妻、子ども2名を含む)がおいでになりました。

礼拝後、皆で園庭の草刈りをしました。感謝!


礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「主イエスの権威」
聖書 ルカ福音書4章31~44節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に6月11日(日)主日礼拝のプログラム、説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


ご覧ください。


6月11日(日)主日礼拝案内

02
6月11日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、ローマ書から聖書の学びと交わりをしています。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書4章31~44節から「主イエスの権威」と題して説教を頂きます。


礼拝後、園庭の草取りを行います。
その後、午後1時より定例執事会を行います。

 







 
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