風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

10月8日(日)主日礼拝説教

10月8日(日)主日礼拝には、教会員11名、来賓11名(初来会者2名、子ども3名を含む)がおいでになりました。感謝です。

主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「黄金律」
聖書 ルカ福音書6章27~36節
説教者 原田攝生 日本バプテスト静岡キリスト教会牧師

御覧ください。




 

10月8日(日)主日礼拝案内

02
10月8日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・ヨブ記から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、ルカ福音書6章27~36節より「黄金律」と題して説教を頂きます。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。



午後、定例執事会を行います。





 

10月7日(土) 出エジプト記37章

「ベツァルエルはアカシヤ材で箱を作った。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ。」 出エジプト記37章1節

 37章には、掟の箱(1節以下)、贖いの座(6節以下)、机(10節以下)、燭台(17節以下)、そして香をたく祭壇(25節以下)を造ったという記事が記されています。

 ここで、香をたく祭壇については30章1~5節、それ以外のものは25章10~39節の記事の、「作りなさい」という言葉を「作った」と書き換えただけで、後は丸写しといった書き方になっています。たとえば、冒頭の言葉(1節)は25章10節において、「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ」と命じられていました。

 つまり、作業を命じられた25~30章と、それを実行した36~39章は、作るものの順序に多少の前後移動はあるものの、命令されたことをそのまま忠実に実行したという表現になっています。その意味では、同じ言葉がほぼ文字通り繰り返されるという、少々あくびの出るような表現の仕方になっているわけです。

 それならば、36~39章全体を、39章42節の「イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った」という一文で済ませたてもよかったのではないかとさえ思ってしまいます。

 ただ、このような書き方で明らかになるのは、イスラエルの人々が、神の命令に対していかに細部に至るまで注意深く聞き、その言葉に忠実に従ったか、従順であったかということでしょう。それが繰り返し語られることで、御言葉を朗読する者、それを聞く者たちに、神の言葉を注意深く聞き、忠実に従うように教えているわけです。

 面白いことにと言えば語弊がありますが、25章以下の幕屋作りの命令と36章以下の幕屋作りの実行の記事の間に、民が律法に背き、金の子牛を造って神を怒らせ(32章)、モーセも契約の板を砕いてしまいますが(同19節)、民が悔い改めて(33章)、掟の板が再授与される(34章)という物語が記されています。

 神が民に聖なる所を造らせ、民の間に宿られるという御心は、民の背きにも拘らず、実行されるということでしょう。そして、それに続いて幕屋作りが語られるということで、民が神の御前にどれほど真剣に悔い改めたのか、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(24章7節)と約束したことを、言葉だけでなく徹底的に従う態度で示すという表現になっているわけです。

 つまり、ここに示されるような従順こそ、神がイスラエルの民の中に住まうための「聖なる所」造りに欠かせない信仰の姿勢なのです。そうした主への信仰の姿勢が、心動かされた人々の進んで携えてきた献納物となり、あるいは奉仕となってすべての必要を満たし、そして、幕屋作りを完成させます。

 そう考えれば、民が今ここで掟の箱、贖いの座、机などを造っているのですが、彼らは今、神に自分たちの信仰を示しているのであり、それによって神を礼拝しているのです。そして、その礼拝を可能にしたのは、神の憐れみです。

 そのことを言い表すためだと思いますが、幕屋作りを指示した後の31章12節以下と、幕屋作りを実行する直前の35章1節以下に、「安息日を守れ」という命令があります。神に背いた記事(32,33章)が「安息日を守れ」という命令で囲い込まれているという言い方も出来ます。

 主と共に安息せよという命令を受けながら、それに背いた民に、神はあらためて安息を命じ、そして以前と何も変化がなかったかのように幕屋作りが始まっていくのです。ここに、神の赦しと憐れみが表わされ、それによって、民が神の命令に忠実に従うという信仰の表明が出来たわけです。

 このことは、パウロが「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ書12章1節)と語っている言葉にも通じます。

 「自分の体」という言葉に示される自分の生活そのままを神に献げよと命じ、それが私たちのなすべき礼拝だというのは、私たちが常に主を仰ぎ、御言葉を信じてその導きに従うことを求めているということです。そして、「神の憐れみによって勧める」という言葉で、私たちの礼拝は、神の憐れみによって成り立っていると明示するのです。

 主よ、あなたを讃えます。あなたは私たちを励まし、夜ごと私たちを諭してくださいます。私たちは絶えずあなたに相対し、揺らぐことがありません。主の恵みと憐れみによって私たちの心は喜び、魂は躍ります。身体は安心して憩います。私たちは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを頂きます。ただ感謝あるのみです。 アーメン





10月6日(金) 出エジプト記36章

「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます。」 出エジプト記36章5節

 主なる神は、ユダ族のフルの子ベツァルエルを呼び出して、神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、あらゆる細工に意匠を凝らし、すべての細かい工芸に従事させ、さらに、人を教える力をお与えになりました(31章2節以下、35章30節以下)。

 また、ダン族のアヒサマクの子オホリアブに、知恵の心を満たし、すべての工芸に従事させ、彫刻し、衣装を考案する者、あらゆる種類の工芸に従事する者とされました(31章6節以下、35章34節以下)。

 ベツァルエルとオホリアブ、二人の指示で「聖所」(1節:ハ・コーデシュ)即ち「幕屋」(25章9節:ハ・ミシュカン)作りが始まります。「ミシュカン」は住まいという言葉で、後代のヘブライ語で人々の間に共に宿られる神の栄光を表すのに用いられた「シェキーナー」と同じ語根に由来します。

 モーセはさらに、主から心に知恵を授けられたすべての人を召集します(2節)。彼らも「心動かされた」者と言われていますから、招集がかかったとき、いやいやではなく、神の召しだからと、進んでその呼び出しに応えたのです。

 モーセは、イスラエルの民が幕屋建設の仕事を行うために携えて来たすべての献納物を、幕屋作りに従事する人々に手渡しました(3節)。いよいよ、仕事の始まりです。

 しかしながら、問題が起こりました。仕事に携わっていた人々が仕事場を離れて(4節)、モーセに訴えます。しかしそれは、不平ではありませんでした。嬉しい悲鳴です。

 というのは、イスラエルの民が次から次へと献納物を携えて来るので、その対応に追われますし、何より、冒頭の言葉(5節)にあるとおり、既に必要以上の量が集まって来ているのです(5,7節)。それを聞いて、モーセは早速、「聖所の献納物のためにこれ以上努める必要はない」(6節)と、民に伝えました。

 思えば、この幕屋作りは、主なる神がイスラエルの民の中に住まわれるというご自身の御心によって始められたことです(25章8節)。ことの実現に向けて、ある人には知恵を、ある人には技術を、またある人には労働力、またある人は資材といったかたちで、必要なものが分け与えられました。

 19節に「雄羊の皮で天幕の覆いを作り、更にその上をじゅごんの皮の覆いでおおった」とあります。イスラエルの民が羊の皮を手に入れるのは、それほど困難なことではなかっただろうと思うのですが、しかし、天幕全体を覆うためのじゅごんの皮を手に入れるというのは、決して容易いことではなかったでしょう。

 430年間エジプトで奴隷生活をし、そして今、シナイの荒れ野を旅しているイスラエルの民が、いつどのようにしてそれらのものを手に入れたのでしょうか。エジプト脱出の折にエジプト人から貰い受けたのでしょうか(12章35,36節)。そうかも知れません。詳細は全く不明ですが、その必要のために神がお与えになった賜物であることに違いはありません。

 あらためて、天幕作りのために必要なすべてのものを、一人で持っている人はいません。一人の力でこの働きを完成することも出来ません。つまり、皆が力を合わせ、思いを一つにしなければ出来ないことです。

 パウロが「賜物にはいろいろありますがそれをお与えになるのは同じ霊です」(第一コリント書12章4節)と言い、そして「一人一人の霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(同7節)と語っています。つまり主の集められた集いに奉仕するために、賜物が各自に分け与えられているというのです。その賜物が用いられて「全体の益となる」わけです。

 それは、一人一人が主の方を向いているということです。主の御言葉に聴き従うということです。主に心動かされて、民が自ら進んで行うときに、必要が満たされて更に余るということになるのです。ここに、主の業、主の導きを見ることが出来ます。

 あるいは、私がささげることが出来るのは、五つのパンと二匹の魚かもしれません。それでは、男だけでも五千人いるという大群衆の前に、焼け石に水といいますか、子どもだましといいますか、何の役にも立たたないだろうと思うかも知れません(ヨハネ福音書6章9,10節)。

 けれども、主イエスはその献げ物を必要としておられたのです。主イエスはパンをとって神に感謝の祈りをささげ、人々に分け与えられました(同11節)。すると、すべての人々が満腹し(同12節)、残ったパン屑を集めると、12の籠を満たしました(同13節)。

 主に心を向けましょう。御言葉を聴きましょう。御霊の導きを祈り求めましょう。主にあって心動かされ、進んで御旨を行うことの出来る者としていただきましょう。

 主よ、イスラエルの民の内にお住まいくださるために、必要の一切が備えられたことを知りました。そして、民はそれを喜んで、進んで献げました。御旨に従って行ったとき、すべてが満たされました。私たちの内におられる聖霊を通して、私たちにも、従う喜び、献げる喜び、そして、御業に与る恵みを味わわせてください。 アーメン









10月5日(木) 出エジプト記35章

「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。」 出エジプト記35章21節

 主が、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」と言われ(25章8節)、その造り方が28章10節以下に記されていましたが、いよいよ具体的に建設に取りかかるときが来ました。そこでまず行われるのが、建築に必要な資材を集めることです。

 資材のリストの中で、「エフォドや胸当てにはめ込む縞めのうの石やその他の宝石類」(9節)について、「縞めのう」と訳された「ショーハム」は、25章7節では「ラピス・ラズリ」、岩波訳では「紅玉髄」と訳されています。このように違って訳されるということは、「ショーハム」がどのような宝石であるのか、明確ではないということです。

 モーセが民全体に、主の命じられた言葉として、各自、持ち物のうちから主のもとに献納物を持って来るようにと語りますが(5節以下)、そこに一言、非常に重要な言葉を添えています。それは、「すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」(5節、25章2節も参照)という言葉です。自発的な献納を願っているわけです。

 35章中、「進んで」(ナーディーブ:副詞)という言葉が2回(5,22節)、「進んでする」(ナーダブ:動詞)という言葉が2回(21,29節)、「随意の献げ物」(ネディーバー:名詞)という言葉が1回(29節)、そして「心動かされて」という言葉も2回(21,26節)出て来ます。民は当に自発的に応答したわけです。

 これは、モーセの告げる主の言葉を聞いた者たちが、金の雄牛の鋳像を造り、祭りを行ったことを悔いて心を主に向け、主からの促しに喜んで従ったということでしょう。主と語らい、神の御言葉を聞いたモーセの顔が光り輝いたように、主の御言葉を聞いた者たちの心が、主のために働こう、献げようと動かされたということでしょう。

 第二コリント書4章6節に、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と記されています。

 イスラエルの民がモーセの顔の肌が光を放っているのを見、そして、それが神の栄光であると畏れ、ひれ伏す思いになったというのは(34章29節以下)、神がイスラエルの民に働きかけて、モーセの顔に輝く神の栄光を悟る光をお与えになったからということでしょう。そして、神の栄光を悟る光を授けたのは、「主の霊の働き」ということになります(第二コリント書3章18節)。

 だからこそ、「あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」(5節)とモーセが語ったとき、「これは主が命じられた言葉である」(4節)と言われなくても、確かにこれは、他の誰でもない、自分たちに向かって主が語られた言葉だとイスラエルの民は悟った、そう悟る光を授かったということです。

 それゆえ彼らは、冒頭の言葉(21節)のとおり、その主の召しに応えて立ち上がり、進んで献納物を携えて来ました。また、進んで奉仕の仕事に従事したのです(25,26節)。

 主のために聖なる所を造るという働き、キリストの体なる教会を立て上げる働きのためには、どうしても、神の御言葉に促されて、心動かされてするという、御言葉への応答、信仰による自発的な献げ物が必要なのです。

 そしてまた、その働きは、一人では出来ません。一人の献げ物で聖なる所を造り上げることなど、出来はしません。モーセという偉大な宗教指導者が献身しさえすれば出来るというものではないのです。だからこそ、御言葉が共同体全体に向かって告げられたのです(4節)。

 即ち、神は、私たちひとりひとりの持ち物、賜物、才能、能力に期待しておられます。だから、共同体全体、共同体を形成する民のひとりひとりに語りかけておられるのです。

 各自が神の御言葉に促されるため、そこで心動かされるために、聖霊の助けが必要です。聖霊が私たちにすべてのことを教え、主の語られたことを思い起こさせてくださるからです(ヨハネ14章26節)。また聖霊は、真理の霊とも呼ばれ、私たちを導いて、真理をことごとく悟らせるという働きをするからです(同16章13節)。

 このことは、神を礼拝する器、建物のことだけでなく、主によって教会に集められた私たちが、キリストの体をしっかり建て上げるためにも、重要な内容です。私たちが主を礼拝するまことの礼拝者として整えられ、主イエスの証人として全世界に福音を宣べ伝え、主の栄光を表わすものとなるよう、共に主の御言葉を聞き、御霊の導きを求めて祈り、示される主の御業に励みましょう。

 主よ、私たちは取るに足りない土の器ですが、恵みにより、主を信じ、主に従う者とされました。御子キリストが私たちの頭です。聖霊によって全体に調和を与え、キリストの体なる教会を建て上げさせてください。喜びと感謝をもって主を仰ぎ、主の業に励むものとなれますように。 アーメン




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