「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」 箴言21章2節
16節に、「目覚めへの道から迷い出た者は、死霊の集いに入る」という言葉があります。箴言が説いている「目覚めへの道」、即ち、知恵の道、悟りの道から離れる者は、「死霊の集いに入る」ことになると言います。
「死霊」(レファイーム)は、死者の霊、また、死人のことです。2章19節に、「彼女の家は死に落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている」とあり、また9章18節に、「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」とありました。つまり、「死霊の国」とは、死者の集まる陰府のことを指しています。
「死霊の集いに入る」とは、死ぬという意味になりますが、誰もが死を迎えることを考えれば、ここでは、神との交わりが断たれ、「霊的に死んでいるようなもの」ということを表わしていると思われます。
「死霊」(レファイーム)は、死者の霊、また、死人のことです。2章19節に、「彼女の家は死に落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている」とあり、また9章18節に、「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」とありました。つまり、「死霊の国」とは、死者の集まる陰府のことを指しています。
「死霊の集いに入る」とは、死ぬという意味になりますが、誰もが死を迎えることを考えれば、ここでは、神との交わりが断たれ、「霊的に死んでいるようなもの」ということを表わしていると思われます。
ルカ11章24節に、「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う」、という言葉があります。ここで、汚れた霊は、休む場所を探して、砂漠をうろつくと言われています。砂漠は、水のないところです(口語訳聖書参照)。
水は、生きるために必要不可欠なもの、まさに命の水です。水がないところは、命が脅かされる場所です。汚れた霊は、そのように命が脅かされる、死が支配しているようなところを休む場所とするというわけです。
私たちにとって、命の水とは、神の口から出る一つ一つの言葉のことです(マタイ4章4節、ヨハネ4章14節参照)。私たちの内にキリストの言葉が豊かに宿っているならば、その心には神への賛美が湧き上がり(コロサイ3章16節)、主にある平安と喜びに溢れていることでしょう。主にある平安と喜びに満たされている心には、汚れた霊の入る余地はありません。
けれども、心に喜びも平安もなく、不平不満が支配し、潤いのない渇いた砂漠のような状態になっていれば、汚れた霊が他の七つの霊を連れてきて住み着くとあるように、悪循環に陥る結果を招くでしょう。それはまさに、死霊の集いに入ったという状況です。
1節に、「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」と言います。聖書で理想とされる王は、主の御旨に従う者だということでしょう。それは、ダビデ王朝の王たちに対する批判でもあります。この格言を集めたとされるソロモンも、二度までも主が彼に現れ、戒めを与えられましたが、それを守らず、神の怒りを招きました(列王記上11章9,10節)。
冒頭の言葉(2節)に、「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」、とあります。これは、人が自分の行動を正しいと判断しても、主は心の中を測られるということ、即ち、どのような動機で行動したのかを見られるということです。私たちの一日の行動を振り返ってみて、主への信頼や感謝、喜びを表わす行動を取ったでしょうか。
主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアのラザロのいる家で食事の席に着かれました(ヨハネ福音書12章1節以下)。そのとき、マリアが高価なナルドの香油を主イエスの足に塗りました(同3節)。
イスカリオテのユダがそれを咎めて、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言っていますが(同5節)、それは、貧しい人々のことを思ってのことではなかったと、ヨハネは記しています(同6節)。ユダの心を支配していたのは、惜しげもなく主イエスに献げ物をしたマリアに対する嫉妬なのでしょう。
そのとき、主イエスがユダに、「するままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言われました(同12章7節)。
ただ、マリアがそれをしたのは、主イエスを葬る準備をするというつもりではなかったと思います。そのために香油を取っておいたとは、思えません。兄弟ラザロを死者の中から甦らせて下さった(同11章1節以下)主イエスへの感謝と喜びの行動だったと思います。
そのとき、家が香油の香りで一杯になったように(同12章3節)、主イエスをマリアの喜びと感謝の思いが包んだのです。そのとき、マリア以上に喜びと感謝を主イエスに示した者はいなかったのです。
主イエスが十字架につけられたとき、上着が取られ、また下着も取られました(同19章23節)。神から捨てられ、人からも捨てられて、裸で、空し手で死に赴かれる主イエスですが、そのときも、香油の香りが主イエスを包んでいたことでしょう。
マリアの喜びと感謝に送られて、贖いの御業を完成する道を進まれたと考えると、主イエスが言われたとおり、確かにマリアは、葬りの備えとして最高の餞を主イエスに贈ったのです。
主よ、わたしの心を探ってください。わたしの心に主を喜ぶ思いがあるか、はたまた、背く思いがないか、確かめてください。弱いわたしを憐れみ、助けてください。いつも主を喜び、絶えず主に祈り、どんなことも主に感謝出来ますように。 アーメン