風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

3月23日(金)の御言葉 「主が何を求めておられるか」

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」 ミカ書6章8節
 
 6章には、裁判所での裁判の様子が描かれているようです。原告は神、その代理人・弁護士は預言者ミカ、山々、峰々が裁判官・証人、そして被告はイスラエルです。

 3節に、「わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか」という神の訴えがあります。この言葉から、イスラエルの民が、神にはついて行けない、もう疲れたと不平を言っているということが想像されます。この背景には、度重なるアッシリアの攻撃があり、神がアッシリアの脅威を取り除いて下さらないことに対する不信、不満があるのではないかと思われます。

 それに対して、「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを、お前の前に遣わした」(4節)と、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の苦しみから解放されたこと、「わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」(5節)と、シナイの荒れ野から約束の地に導き入れるまでの間、神が与えた恵みを思い起こせ、と訴えています。

 6,7節は被告の反問で、ではどんな犠牲をささげればよいのか、と問いかけます。当歳の子牛をささげればよいのか(6節)と問うた後、幾千の雄羊、幾万の油の流れ(7節)と量を増やし、最後に、長子、胎の実をささげるべきかと言います。北イスラエルが滅亡する直前、子どもを火で焼いて犠牲にすることが流行りました(列王記下16章3節、17章16節)。

 最も高い犠牲を払って、国難を去らせようとしたと考えられます。しかしながら、それは神の忌み嫌われる、モレクという異教の神に対して行う儀式でした(レビ記18章21節、20章2~5節、エレミヤ書7章31節など)。そうしたことをどうして神が喜ばれるでしょうか。

 それに対して、冒頭の言葉(8節)が述べられました。神の求めは、いけにえをささげることではありません。「義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。

 これは、申命記で、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(10章12,13節)と語られている言葉と同様です。

 また、預言者サムエルがサウル王に告げた、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15章22節)という言葉を思い出します。

 9節以下は神による告発で、「正義」と「慈しみ」と「へりくだり」がいかに欠如しているかが述べられ、それゆえに滅びを刈り取らなければならないと告げられます。

 こうしてみると、イスラエルがエジプトの奴隷の苦しみから解放されて以来、神は一貫して同じことを民に求めておられ、それに対してイスラエルの民は、神を畏れず、不正を行い、偽りを語り、異教の神に心迷わされ続けて来たわけです。

 この言葉を聞いて、私たちはどうしたらよいのでしょうか。それはまず、神の恵みを数え、感謝をささげることです。また、神を愛し、隣人を愛することです。そして、怠惰と不従順を悔い改めることです。思い上がらず、主に従って歩み、顔を上げ、胸を張り、誠心誠意働かせていただきたいと思います。


 主の、御名が崇められますように。主を信じ、主に仕える者たちによって、御心が地の上に行われますように。御言葉が聖であること、御言葉の内に命があることを、たえず悟らせて下さい。日々主と共に歩む喜びと平安を味わうことが出来ますように。 アーメン




3月22日(木)の御言葉 「ユダの氏族の中でいと小さき者」 

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者、お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」 ミカ書5章1節(口語訳・新改訳では2節)


 4章14節(口語訳・新改訳は5章1節)に、「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵はわれわれを包囲した」とあります。これは、アッシリアの大軍がエルサレムの城壁を取り囲んだときのことでしょうか。

 ヒゼキヤ王がエジプトなどと組んでアッシリアに反旗を翻し、それが一時期は功を奏して、アッシリアからの独立を果たせたかに見えましたが(列王記下18章7,8節)、再びアッシリアが体勢を立て直してイスラエルに進軍してきたときには、それに対抗することが出来ませんでした(同18章13節)。そして、高い賠償金を払わなければなりませんでした(同18章14~16節)。

 その上、大軍がエルサレムを包囲してイスラエルの神を冒涜し、無条件降伏を求めたのです(同18章17節以下、27節以下、19章10節以下)。それは、再び背くことがないように、ヒゼキヤ王を退位させ、アッシリアの言いなりになる別の王を立てるためだったのでしょう。

 そのとき、ヒゼキヤは預言者イザヤに託宣を求めました。イザヤは、アッシリアの王が都に入場することはおろか、戦いを仕掛けることもないと、神の言葉を告げました(同19章20節以下)。そして、神は御使いを遣わして一夜のうちにアッシリア軍を撃ち、アッシリアの王はひとり、ニネベに逃げ帰ったと、列王記の記事には記されています。

 今日の箇所は、イザヤの預言とその成就を見る前なのかどうか、よく分かりませんが、冒頭の言葉(1節)にあるように、ミカは、イスラエルを治める新しい王がベツレヘムから登場することを語ります。

 ベツレヘムは、語られているようにイスラエルの中で小さな町ですが、しかし、ここはダビデ王の出身地です。ですから、ダビデのように、主なる神への堅い信仰をもって国を治める王の登場を期待したものと言えます(3節)。小さい町ですが、そうであればこそ、町を守るのに自分の力などではなく、神に信頼するほかはなかったでしょう。そして、神はその信頼に応えて下さるのです。

 そして、クリスチャンにとって、冒頭の言葉は、特別な意味を持つものとなりました。それは、救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉となったからです(マタイ福音書2章6節)。主イエスは、暗闇に閉ざされている人々に希望の光、愛の光、命の光を与えて下さいます。これが、クリスマスのメッセージです。

 ここで目を留めていただきたいのは、マタイがミカの預言を引用している中で、一箇所不正確なところがあるのです。それは、「いと小さき者」というところが、「決して一番小さいものではない」と変えてあるのです。このような変更が加えられたのは、マタイ自身の体験に基づいているのかもしれません。

 彼は人々に蔑まれながら占領国ローマのために税金を徴収する徴税人でした(マタイ福音書9章9節)。しかし、キリストと出会い、その弟子となり、12使徒の一人に選ばれました。マタイにとって、自分は実際には小さい者ではあっても、キリストが生まれたということ、キリストと出会うことが出来たということは、決して小さいものではない、否むしろ、それは大きなことだということでしょう。

 だから、主イエスの生まれたエフラタのベツレヘムは、かつては「いと小さき者」だったかもしれませんが、今は、「決して一番小さいものではない」と言えるものに変えられた。誰でも、主イエスと出会うならば、同じように、「決して小さい者ではない」といわれる恵みに与ることが出来るというわけです。

 マタイの書いた福音書が、今日も、全世界で読まれています。それこそ、決して小さいことではありません。神は私たちを、能力や知恵、財産などによって選ばれたのではありません。それらのものを持たない、無学で普通の人だからこそ選ばれました。それは、ただ神に信頼するためです。主に信頼するとき、決して小さくない働きが神によってなされていくのです。

 「ミカ」とは、「誰が主のようなお方か」という意味の名前です。この問いの答えは、主のようなお方は他にはいない、主なる神だけが私たちの信頼に足るただひとりのお方だということです。


 主よ、あなたはいと小さい者を選び、主の力、御名の威厳をもって平和を打ち立てられます。それが、主イエスの十字架と復活を通して明らかにされました。どうか、世界中にキリストの平和を与えて下さい。すべての人々の心にキリストの平和がありますように。 アーメン



3月21日(水)の御言葉 「バビロンで救われる」

「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」 ミカ書4章10節


 1~3節には、イザヤ書2章2~4節とほぼ同じ言葉が記されています。ミカとイザヤは、ヒゼキヤ王の代に活動が重なる部分もありますので、どちらかが相手の預言を引用したのではないか、と考えられています。勿論、共通の預言が神から与えられたと考えることも出来ます。

 1節冒頭に、「終わりの日に」とあります。この世が終わりを迎えるとき、と考えたらよいでしょうか。そのとき、あらゆる国民が高くそびえる主の神殿のある山に来て、どのように生きるべきかを教える神の言葉を学ぶと言います(2節)。つまり、エルサレムが世界の中心になるということです。

 そして、彼らは戦争をやめ、剣や槍という武器を、鋤や鎌などの農具に打ち直すのです(3節)。人類は、いつの日か、この預言が実現するのを見ることが出来るでしょう。しかしそれは、ぼんやり待っていれば、そうなるということではありません。

 主イエスが、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語られたように(マタイ福音書5章9節)、平和の実現に向けて行動することが求められており、そのための祝福がなされているのです。平和の実現のための行動とは、剣や槍などをを用いない、隣人を愛し、その祝福を祈ることです。それこそ、主イエスが十字架を通して、私たちに手本を示されたものです。

 このような預言がここに記されているのは、これからイスラエルの民の上に起こるであろう過酷な運命の中でも、希望を失わないように、主を信じるようにということではなかったかと思います。ミカは、冒頭の言葉(10節)で、「お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる」と語っています。

 アッシリアがサマリアを滅ぼし、いよいよエルサレムに迫ってくるという状況にあります。そのとき、ミカがこの預言を語ったわけです。バビロン捕囚というのは、これから100年以上も後のことで、バビロンはまだ国を形成してなかったのに、どうしてそれが分かったのでしょうか。

 ただ、サマリアが陥落したとき、アッシリアの王はイスラエルの民を捕囚として連行し、バビロンから人々を連れて来て、サマリアに住まわせました(列王記下17章24節)。ですから、エルサレムが陥落すれば、その民をバビロンに連れて行き、エルサレムにまた別の民を住まわせるというのは、考えられないことではありませんでした。

 しかし、ここで見逃せないのは、「バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」という言葉です。なぜ、バビロンに連行されることが救いなのでしょう。その地で、敵の手から贖われるとはどういうことでしょうか。

 イスラエルが滅亡し、バビロンで奴隷として働かされるのは、悲劇です。それが救いとなり、贖いとなるということは、この背後に神の御計画、神の御業があるわけです。つまり、単にイスラエルがアッシリアやバビロンとの戦いに敗れたから、亡国、捕囚という憂き目を見るのではないということです。

 イスラエルは、その罪のゆえに神に裁かれなければなりませんでした。しかしながら、神はイスラエルを攻め滅ぼしてしまいたいのではありません。救いたいのです。その罪を贖いたいのです。そこに神の愛があります。憐れみがあります。亡国・捕囚という苦しみを通らなければ学ぶことの出来ない恵みが、そこにあるのです。

 「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ」と語られているように、その苦しみは、出産前の陣痛、産みの苦しみということなのです。後にエレミヤがバビロン捕囚について預言したときも、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と記しています(エレミヤ書29章11節)。

 万事を益として下さる主を信じましょう(ローマ書8章28節)。


 主よ、あなたの恵みと憐れみのゆえに感謝します。私たちの国には様々な問題があります。しかし、その問題のかなたにあなたの導きの御手があると信じます。御心がこの地に実現しますように。御国が来ますように。 アーメン



3月20日(火)の御言葉 「夜が臨んでも幻はなく」

「それゆえ、お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。」 ミカ書3章6節


 イスラエルの不正を糾弾する預言者ミカの言葉は、次第に激しさを増して来ます。神に立てられて、正義を行うことが期待されている「ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たち」(1節)が、善を憎み、悪を愛する者となっているからです(2節)。これは、アモスが「悪を憎み、善を愛せよ」(アモス書5章15節)と語っていることに通じます。北王国にも南王国にも、その指導者たちに正義が見られないのです。

 「人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように、釜の中の肉を砕く」(2,3節)というのは、彼らがおのが腹の満足のみを追い求めて、その権力を笠に、いかに民を食い物にしているかということを、比喩的に表現したものです。

 そのため、「今や、彼らが主に助けを叫び求めても、主は答えられない」と言われます(4節)。アモス書でも、「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8章11節)と告げられていました。

 預言者たちについて、「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」(5節)と言い、また、「預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない』と」(11節)と記して、食物を供し、袖の下を握らせるか否かで語る言葉を選ぶという彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。

 だから、冒頭の言葉(6節)のとおり、「お前たちには夜が臨んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」と言われるのです。災いに際して主に叫び求めても、主は何も答えて下さらないのです。サムエル記上4章のエリの子らの裁きや、同28章でサウルの求めに主が何もお答えにならなかったことを思い出します。

 ただしかし、これは昔のイスラエルのことで、自分とは関係ないとは思えませんでした。むしろ、これが私たちの現実ではないでしょうか。善を憎み、悪を愛するという自覚はありませんが、生活の忙しさにかまけて、神の御言葉を聴くことが疎かになります。祈りの生活が疎かになります。

 なかなか、聖書を自分に向かって語りかけられている神の御言葉として、真剣に読むことが出来ません。祈りを通して神の御前に進み、神と交わりをするという静かな時間をとることが出来ません。私の事情が神の御言葉よりも優先するのです。そしてそれを、やむを得ないこととして来ました。

 故榎本保郎先生が、「壊れやすいのは、祈りの祭壇です。あなたの祈りの祭壇は壊れていませんか。あなたの祈りの祭壇から、芳しい香りが主の前に絶えず立ち上っていますか」と語っておられた言葉を思い出します。人の顔色を伺い、人の事情が優先するような聖書の読み方、祈り方をしていて、どうして、生ける神の御言葉を聴くことが出来るでしょうか。

 私たちに対して語りかけられる神の御言葉をはっきり聴くことなしに、その御心を悟ることは出来ません。どんなに教理的に正しく教えることが出来ても、それは、どこまでも人間の知恵、知識による言葉であって、それで人の魂を揺さぶり、真の悔い改めに導くことは出来ません。それで、まことの神の愛が伝わるはずがありません。

 信仰に入って以来、私たちはどれほど成長してきたでしょうか。いえ、むしろ後退しているのではないでしょうか。神から断罪されれば、言い逃れることは出来ません。ただ素直に、「あなたの仰るとおりです」と認めるのみです。しかし今、この裁きの言葉を自分に語りかけられている神の御言葉として真剣に聴くならば、神は私たちの歩むべき道、私たちがなすべきことをも語って下さるでしょう。主の御前に謙りましょう。

 「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章5,6節)と言われているとおりです。


 主よ、あなたこそ真の羊飼いです。あなたの他に良い羊飼いはいません。あなたが私のことを心にかけ、必要のすべてを豊かに満たして下さるからです。主よ、私の耳を開いて下さい。あなたの御声に聴き従います。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなただけなのです。 アーメン




3月19日(月)の御言葉 「イスラエルの残りの者を呼び寄せる」

「ヤコブよ、わたしはお前たちをすべて集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。」 ミカ書2章12節


 ユダの国に悪がはびこり、貪欲が国を支配しています(1,2節)。それを神が裁かれます(3節)。それは、彼らが不正に手に入れた土地、畑は取り上げられて他者のものになり、嘆きの歌を歌う羽目になるということです(4節)。

 このミカの預言を、権力者、裕福な者たちは「たわごと」と決めつけ、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言って、真剣に耳を傾けようとはしません(6,7節)。

 「たわごとを言うな」と訳されている原語は、「流れる、滴り落ちる」という意味の言葉で、あまり意味のない言葉を口から溢れさせる、たわごとを言うという表現に用いられます。神の霊的な導きを受けて語る預言者の言葉を「たわごと」というのは、それこそ、神に向かってたわごとを語っていることになるでしょう。だから、滅びを刈り取らなければならないのです。

 神は、「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」(10節)と言われました。けれども、すべての者が撃たれるわけではありません。冒頭の言葉(12節)にあるように、「イスラエルの残りの者」がいます。神は彼らを呼び寄せると言われます。

 「彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」は、口語訳では、「これをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく」、新改訳は、「彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める」と訳されています。

 いずれにせよ、「残りの者」とは、今は囲いの中にいない、群れとならず追い散らされている弱い羊のような存在、それは即ち、貪欲な権力者によって畑が奪われ、家を取り上げられ、虐げられてきた人々のことと考えられます。あるいはまた、神がイスラエルの家を打たれ、裁かれて、遠く散らされる人々のことを語っていると考えることも出来ます。

 神は、「わたしはお前たちをすべて集め」、「わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」と言われています。エレミヤ書31章10節にも、「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と記されていましたが、神ご自身がイスラエルの牧者となられ、あらためて彼らをご自身の宝の民とされるのです(出エジプト記19章5,6節)。

 主イエスが、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました(ヨハネ福音書10章11節)。そして、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と語られました(同10章16節)。つまるところ、旧約の預言者たちが語っていた羊飼いとは、主イエスのことだったのです。

 囲いに入っている羊とはユダヤ人のこと、囲いに入っていない他の羊とは異邦人のことと言ってよいでしょう。主イエスの前にはユダヤ人も異邦人もなく、皆その救いの恵みに招かれているのです。

 今日、主イエスの贖いにより、主イエスを信じる信仰を通して、誰でも神の民となることが出来るようになったのは、感謝この上もないことです。これは、まったく一方的な神の憐れみです。羊を奪い、追い散らす狼から(同10章12節)、主イエスが御自分の命をはって守って下さるのです。

 主は、私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるために来られました(同10章11節)。その豊かさは、物質的なものではなく、私たちと神との交わりの豊かさであり、そしてまた、私たちと隣人との交わりの豊かさを示しています。「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」という親密な交わりのことです。

 この神の深い愛と計画に従い、いつも、主イエスと共に歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みを感謝します。深い憐れみのゆえに、私をあなたの群れに加えて下さいました。主に名を呼ばれた者として、その声を聞き分け、ただ主にのみ聴き従わせて下さい。 アーメン




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