風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

4月11日の御言葉 「強く、大いに雄々しく」

「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」 ヨシュア記1章7節
 
 今日から、ヨシュア記を読み始めます。ヘブライ語聖書(マソラ本文)では、ヨシュア記は、続く士師記、サムエル記、列王記と共に、「預言者」(ネビーム)の中に分類されています。聖書における預言の役割は、これから起こる出来事を予め語るというよりも、「律法の書」(トーラー)に記されている教えを解説し、それを実行するように命じるものです。
 
 1章には、モーセの後継者としてヨシュアが任命されたことについて、記されています。ヨシュアは、「モーセの従者」(1節)と紹介されているように、レフィディムでのアマレクとの戦いを指揮する者として選出されて以来(出エジプト記17章9節)、忠実なモーセの僕として歩みました(同24章13節、32章17節、33章11節など)。
 
 メリバの水の一件でモーセが約束の地に入れないことになって(民数記20章1節以下、12節)、神はヨシュアを後継者に任命されました(同27章12節以下、18節)。申命記でも、1章38節、3章28節、31章にそのことが記されていました。
 
 ここにあらためて、ヨシュアがモーセの後継者として立てられたのですが、ヨシュアは勿論、モーセではありません。モーセは神に聴き、神に従う「主の僕」でした(申命記34章5節)。ヨシュアも勿論神に従う僕ですが、しかし、冒頭の言葉(7節)で、神がヨシュアに対して、「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」と命じられています。つまり、ここではモーセの命じた律法に従うことが求められているのです。その意味でも、実にヨシュアは「モーセの従者」なのです。
 
 モーセは、モアブのピスガの頂から約束の地カナンの全域を見渡しました(申命記34章1,2節)。モーセの従者ヌンの子ヨシュアは、ヨルダン川を渡ってその地を領土とします(4節)。これは、アブラハムと契約を結ばれたことが成就することを意味します(創世記12章7節、15章18節以下)。
 
 主はヨシュアと共にいて、見放すことも、見捨てることもしないので(5節)、「強く、雄々しくあれ」(6節)と命じられます。それは、主が与えると誓われた土地を、民に継がせるためです。
 
 幼稚園では、運動会の練習の際に、「雄々しくあれ」(こどもせいか30番:中田羽後作詞)の讃美歌が歌われます。それはこの箇所からとられた歌です。「雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ」と歌い出しますから、その勇ましさがお互いを鼓舞するのに相応しいということで、いつも選ばれているようです。確かに、子どもたちが声をそろえ、力一杯歌うその歌声を聴いていると、そこから力を頂き、自分も頑張ろうという思いが湧いて来ます。
 
 6節では、外敵との戦いにおいて「強く、雄々しく」あることが求められているようですが、冒頭の言葉(7節)では、律法を守り行うことに、強さ、雄々しさが求められています。御言葉から右や左へそらさせようとする様々な力が働くからです。
 
 イスラエルにとって、飢えや渇きが、御言葉からそらさせる力になることがありました。また、彼らの前に立ちはだかる敵が、神に背かせる力となりました。
 
 主は、「律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(7節、申命記5章32,33節)と言われ、続けて、「この律法の書をあなたの口から放すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」と約束されます(8節、詩編1編2,3節)。

 何事にもまず御言葉に聴き、そこから力を得て、まっすぐに歩む者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたの教えを愛し、その導きに従って歩むことの出来る者は幸いです。主を信じ、御言葉に従って歩む者に、豊かな実を結ぶ人生をお与え下さるからです。常に主を畏れ、御言葉を愛する者とならせて下さい。御言葉に従い、右にも左にも曲がらず、まっすぐに歩ませて下さい。御名が崇められますように。 アーメン

4月4日の御言葉 「すべてに豊かでありながら」

「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せにあふれてあなたの神、主に仕えないので」 申命記28章47節

 28章には、「神の祝福」(1節以下)と「神の呪い」(15節以下)が記されています。神の祝福には、理想的な姿、こうであればよいなあいう、希望溢れる表現が並んでいます。
 
 一方、神の呪いは、まず分量的に、神の祝福の4倍の長さで語られています。内容は、15~18節に神の祝福を裏返したき術があり、、20節以下は、疫病や天変地異、そして異国の支配など、これは悲観的なものというよりも、実際にイスラエルが味わった災難、悲劇の描写というものになっています。
 
 疫病や天変地異などは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、エジプトに下された災いでした。イスラエルの民は、神の恵みを得てエジプトを脱出したのです。エジプトに下された災いでイスラエルの民が打たれ、そして、「エジプトに送り返される」というのは、文字通りエジプトの奴隷となるということでもありましょうけれども、神の一切の恵みを失い、呪われた結果であるということが明示される形なのです。
 
 イスラエルの民は、ダビデ王の時代に、神の祝福を得ました。それこそ神は、町にいても祝福され、野にいても祝福され、入るときも祝福され、出て行くときも祝福され、立ち向かう敵を目の前で打ち破られたのです。
 
 ダビデから王朝を引き継いだその子ソロモンも、神から受けた知恵をもって、これ以上ないというほどの祝福を受けました(列王記上3章)。壮麗な神殿を建て、贅を尽くした王宮を完成することも出来ました(同6~8章)。ソロモンの名声を聴き、知恵を聞くために世界中の人々が拝謁を求め、貢ぎ物を携えてやって来たと言います(同10章1節以下、23~25節)。
 
 ところが、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいて、この妻たちがソロモンを惑わしました(同11章1節以下)。外国から王妃や側室のために異教の神々を祀る場所が築かれ、その礼拝が行われるようになり、ソロモンは主の戒めに背いたのです。ソロモンはいったい何のために千人もの妻たちを抱えたのでしょうか。
 
 その結果、ソロモンの存命中に既に敵対する者が起こり、死後、イスラエルは南北に分裂します(同12章)。そうして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアに(列王記下15章27節以下)、南ユダは紀元前587年にバビロンに滅ぼされ、民は捕囚として連れ去られるという結果を刈り取ることになりました(同25章)。
 
 民を正しく裁き、善と悪を判断するために聞き分ける心をお与え下さいと神に求め、知恵に満ちた賢明な心を授かったソロモンが(王上3章6節以下、9節)、なぜ、愚かにも神に背く道を歩んでしまったのでしょうか。その理由は定かではありませんし、理解に苦しむところです。

 冒頭の言葉(47節)で、「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので」と言われていることから、ソロモンがあらゆる面で豊かになったときに、初めは謙遜に神に感謝していたのでしょう。けれども、シェバの女王を初め多くの来訪者たちが賛辞を口にするのをおのが誉れとし、いつしか心高ぶって感謝を忘れ、一つ一つ神に知恵を求めずとも自分の知恵で判断し、裁決出来ると思い始めて、歯車を狂わせてしまったのではないでしょうか。
 
 主を畏れることが知恵の初めであり(箴言1章7節)、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイ書2章3節)。神の御前に謙ればこそ知恵が明らかにされるのいであり、神を畏れる心を忘れて、懸命に生きることはできないのです。神の恵みが仇となることがないように、恩知らずにならないように、絶えず御前に謙り、日々御言葉に耳を傾け、「今日」主が命じられるところをことごとく忠実に守り、主と共に歩みましょう。

 主よ、与えられている恵みに心から感謝致します。その恵みを主の御業の前進のために生かして用いることの出来るために、聞き分ける心、実践する力を授けて下さい。御心が行われますように。 アーメン

3月28日の御言葉 「木にかけられた死体」

「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日の内に埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」 申命記21章23節

 冒頭の言葉(23節)の直前、22節に「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば」と記されています。ところで、イスラエルには、人を木にかけて処刑するという規則はありません。
 
 レビ記20章に「死刑に関する規定」がありますが、死罪にあたるのは、子をモレク神にささげたり(同2節以下)、口寄せ・霊媒をするなど(同6,27節)、神ならぬものに依り頼むこと、また父母を呪うこと(同9節)、そして、姦淫することです(同10節以下)。
 
 死刑の方法として、同2節と同27節、すなわち初めと終わりに、「石で打ち殺す」と言われています。すなわち、死罪にあたる罪を犯した者は、石で打ち殺されるということです。ただ、祭司の娘が姦淫の罪を犯したときには、「焼き殺さねばならない」と、同21章9節に記されています。
 
 「木にかけられた死体」という言葉は、処刑後に木につるして晒しものにする表現と読めます。しかし、どのような場合、処刑した後、死体を木にかけるのかを定めた規則というのも見当たりません。
 
 創世記40章でエジプトのファラオが料理役の長を木にかけたこと、ヨシュア記8章でヨシュアがアイの王を木にかけ、同10章で、同じくヨシュアがエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの5人の王を木にかけたこと、サムエル記下4章でサウルの子イシュ・ボシェトを殺した従者二人を木につるしたこと、それから、エステル記7章でペルシャのクセルクセス王が大臣のハマンを木にかけたことが、旧約聖書中で木にかけるという実例のすべてです。
 
 このように実践例があまり多くないのは、刑の惨たらしさに原因があるのではないかと思われます。また、冒頭の言葉(23節)の中に、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という一句があります。木にかけることが、人々に対する見せしめというだけでなく、神の呪いを受けることだというのです。死刑に処せられた後、神に呪われるということは、死んだ後、裁かれて地獄に落とされることと言えばよいでしょうか。
 
 ヘブライ書9章27節に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」と言われています。死後、祝福の天国か呪いの地獄か、神の裁きが下るわけです。勿論、祝福を受けて天国に行きたいですよね。
 
 ところで、私たちは祝福を受けられる資格を有しているでしょうか。胸に手を当てて考えるまでもなく、私は祝福を受けたいけれども、祝福が受けられるような生活をしてきたと、神の前に胸を張ることが出来ません。むしろ、呪いを覚悟しなければならないような歩みをしていると言わざるを得ないのです。
 
 そのような私を救い、祝福を与えるために主イエスが来て下さいました。ガラテヤ書3章13節に、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と書いてあるとおりです。
 
 罪のない神の御子キリストが木にかけられたのは、御自分が神に呪われて、私たち人類を罪の呪いから解放するためでした。イエス・キリストの命によって私たちは贖い出され、もはや呪いを受けなくてもよいようにして頂いたのです。
 
 同14節には、「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるためでした」とあります。律法を行い得ないという点で、ユダヤ人も異邦人もありません。皆同じです。主が律法の呪いを引き受けられたということは、すべての民に救いが及ぼされたということです。
 
 ということは、主イエスの受難によって私たちを罪の呪いから贖い出し、救いの恵みに与らせるために、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という掟を予めお与え下さっていたわけです。

 主よ、私たちは、生まれながら神の怒りを受けるべき者でしたが、憐れみ豊かな神は私たちをこの上なく愛され、その愛によって、罪に死んでいた私をキリストと共に活かし、共に復活させ、共に天の王座に就かせて下さいます。これは、実に一方的な神の恵みです。その感謝と喜びを一人でも多くの方々と分かち合わせて下さい。 アーメン

3月21日の御言葉 「主の子ら」

「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。」 申命記14章1節

 冒頭の言葉(1節)に、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」とあります。「主の子ら」というのは、聖書中ここだけにしか出て来ない、とても珍しい表現です。

 ただ、32章5節の「もはや神の子らではない」は、原文を直訳すると、「もはや彼の子らではない」で、「彼」は前節の「主」を受けていますから、意味をはっきりさせるなら、「主の子ら」となるところです。口語訳、新改訳はそのように訳しています。
 
 イスラエルの民を「神の子」と呼んでいるのは、旧約聖書中、詩編29編1節とホセア書2章1節だけです。それ以外に4回、「神の子」が出て来ますが、創世記6章2,4節、ヨブ記38章7節とダニエル書3章25節では、天使というべき存在をそのように呼んでいると考えられます。
 
 もう一箇所、申命記32章8節にも「神の子らの数に従い」とありますが、原文には「イスラエルの子らの数に従い」と記されていて、口語訳、新改訳は正しく訳していますので、そのように訳すべきだと思いますが、同5節との関連で、「神の子ら」という訳語を選んだのでしょう。
 
 また、主なる神がイスラエルの民を、「わたしの子」と4回呼んでいます(出エジプト記4章23節、詩編2編7節、イザヤ書45章11節、エゼキエル16章21節)。そして、ダビデを指して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(サムエル記下7章14節、歴代誌上17章13節)、ソロモンのことをダビデに対して「わたしの子」と呼ぶ例が2回(歴代誌上22章10節、28章6節)あります。
 
 かくて、イスラエルの人々が自ら積極的に「わたしは神の子です」と告白する信仰は、旧約の時代には出て来ていません。
 
 その意味で、イスラエルの民一人一人を指す言葉として、「あなたたちは、主の子らである」と言われているところ、そして、個人を指して「わたしの子」と呼ぶ例は、新約聖書の信仰につながってくるところです。
 
 新約聖書では、「神の子」、あるいは「御子」が120回ほど出て来ます。大半、神の御子イエス・キリストを指して用いられますが(マルコ1章1節など)、20回ほど、主イエスを信じる者を指して用いられます(ヨハネ1章12節など)。また、平和を実現する人々が神の子と呼ばれ(マタイ5章9節)、使徒言行録17章29節は、アテネの人々を含め全人類を神の子孫としています。
 
 勿論、私たちは人間から生まれた人間の子であって、イエス・キリストと同じ神様の子どもではありません。神の子だから主イエスを信じることが出来たというわけでもありません。イエス・キリストが私たちの罪の贖いの供え物として十字架に死んで下さり、私たちに命を授けて下さるという一方的な恵みによって、神の子としていただいたのです。神の深い憐れみなしには、私がどんなに逆立ちしても、神の子になれるはずがないからです。
 
 ですから、冒頭の言葉で「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と言われているのは、憐れみ深い神の一方的な恵みの宣言なのです。そして、イスラエルの民が神の子とされたのは、すべての者に神の恵みが証しされるためでした。アブラハムが祝福の源とされ、アブラハムによって地上のすべてが祝福に入ると言われているからです(創世記12章2,3節)。
 
 主イエスを信じる信仰によって、神の子として頂いた私たちも、「主の聖なる民」であり、「地の面のすべての民の中から」、神の「宝の民」とされた者です(2節、一ペトロ2章9節)。
 
 私たちは土の器に過ぎませんが、内側には永遠の宝を宿しています(二コリント4章7節)。主イエスが内にいて下さるからこそ、宝の民なのです。主のものとされたのですから、主の恵みに感謝して、その愛の御業をあまねく宣べ伝えましょう。

 主よ、欠けだらけの土の器である私をも憐れみ、神の選びの民に加えて下さったことを感謝致します。私の内に宝なる主がおられます。主に愛されている僕として、いつでもキリストの福音を宣べ伝える者とならせて下さい。そして、多くの人々が豊かに恵みを受けられますように。 アーメン

3月14日の御言葉 「主の聖なる宝の民」

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」 申命記7章6節
 
 主なる神は、約束の地に入った時、七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を自分たちの前から追い払えと命じられます(1節)。それは、容易いことではありません。ユダヤの民よりも数と力において勝っている民だと言われます。追い払えと言われる主を信じ、その命令に従うとき、主の助けによってそれが可能になります。私たちは無力でも、主なる神は全能のお方だからです。
 
 神はイスラエルの民を、ご自身のものとしてお選びになりました。主は彼らを、冒頭の言葉(6節)のとおり、「主の聖なる民」と呼ばれ、また、「ご自分の宝の民」と言われます。勿論、主なる神はイスラエルだけを作られたのではなく、全世界のあらゆる種族、部族、民族を作られたのです。
 
 けれども、主はその中からイスラエルを選び出して、ご自身の「宝」(セグッラー)とされました。注解書によれば、この言葉は経済用語で、金や銀といった非常に高価な財産、宝を指すものだそうです。また、「主の聖なる民」とは、主がご自分のために他から区別した、とっておきの民ということです。

 そう言うと、さぞ優れた民族なのだろうと思われますが、その特別さというのは、イスラエルの民の特質などによるものではありません。聖書は彼らが選ばれた理由について、「主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と記しています(7,8節)。
 
 つまり、神がイスラエルを選び、その力ある御手をもって救い出して下さるのでなければ、民の数が多くはなく、むしろ貧弱と評されたイスラエルにとって、自力でエジプトを脱出することなど、到底適わないことだったわけです。
 
 ということは、初めに述べたように、約束の地から、彼らより数も多く、力も強い七つの民を自力で追い出すことは出来ないでしょう。けれども、エジプトの手からイスラエルを救い出された神は、七つの民を打ち破り、イスラエルの前から追い出すことがお出来になるのです。
 
 そのように、数も少なく貧弱な民が、どうして「主の聖なる民」、また「宝の民」と言われるのでしょう。そのことについて、出エジプト記19章5,6節の、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という御言葉に答えを見いだすことが出来ると思います。
 
 つまり、主に従い、契約を守ることによって「宝の民」とされ、「祭司」の務めを果たすために区別された民だということです。
 
 宝石などが「宝」であるのは、その希少性と純粋な美しさにあるでしょう。我が国において、純度99.99パーセント以上の金を純金と言います。現段階で、不純物を一切含まない純度100パーセントの純金を作ることは、未だ出来てはいないようです。
 
 七つの民を追い払うというのは、文字通りそれを実行するというより、イスラエルの民がその心の内より一切の不純物を取り除き、純度100パーセントの全き心で主の御言葉に耳を傾け、その契約を守るということでしょう。そのとき、彼らは主にとって、まさに宝の民となるわけです。
 
 言い換えれば、イスラエルの民が主によって与えられた戒め、また祭司としての使命を「宝」として受け止め、大切に守ることが求められているのです。そしてそれは、人が独りでよく行うことの出来るものではありませんから、常に主の御声に耳を傾け、導きと助けを願って祈り求めることです。

 そのとき、主は私たちの心を聖霊で満たし(ルカ11章13節)、聖霊を通して神の愛を豊かに注いで下さいます(ローマ書5章5節参照)。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存じです。しかし、神の力はその弱さの中で十分に働くということを知っています。主よ、あなたに御心を行う知恵と力、信仰を与えて下さい。私たちの心からあらゆる不純物を取り除きを聖霊で満たし、愛と平和に溢れさせて下さい。 アーメン
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