風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

6月8日(金)の御言葉 「両手を交差して置いた」

「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」 創世記48章14節


 ヤコブは、息子ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子としたいと願い(5節)、そして、二人を祝福しようと言います(9節)。ヨセフは父の前にひれ伏し(12節)、二人の子をヤコブの前に進ませます(13節)。するとヤコブは、右手をエフライムの頭に、左手をマナセの頭に、両手を交差させて置きました(14節)。つまり、右側のマナセに左手を、左側のエフライムに右手を、交差させるかたちで手を置いたのです。

語訳は、「ことさらそのように手を置いた」と訳しています。つまりこれは、不注意や気まぐれではなく、注意深く慎重に相手を選び、そうすべきだと考えて行われたということを示しているのです。

 イスラエルの伝統では、右手の祝福は長子に与えられるもので、遺産の配分において、他の兄弟の2倍を受ける特権を有効にする祝福と言われています。ヨセフは、長男マナセが右手の祝福を受けるように右前に、次男エフライムを左前に進ませたのです。

 ところが、父ヤコブの右手が次男の頭に置かれているので、ヨセフは父の手を置き換えようとします(17節)。そこでヤコブはきっぱりと、「わたしの子よ、わたしには分かっている」と言い(19節)、弟エフライムを兄に勝って祝福しようと、神が選ばれたというわけです(19節以下)。

 なぜそうなのか、理由は説明されていませんし、ヨセフも父に対してそれ以上抗議をしていません。ここに、祝福というものは、人の考えに左右されない、神の自由な選びによって与えられるものということが語られているのです。そしてこの自由な選びは、神の憐れみに基づいています。

 祝福の言葉に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子どもたちの上に祝福をお与えください」という言葉があります((15,16節)。ヤコブは勿論、祝福の祈りを空しい言葉だとは考えていません。ヤコブは父イサクを騙し、兄を出し抜いてまで、この祝福を受けたいと考え、行動しました。父イサクの祝福を受けないで生きることは出来ないと考えていたわけです。

 生きていく上で、神の祝福が不可欠という考えは間違っていませんが、手段を選ばないというやり方を神は喜ばれはしません。結局ヤコブは、兄エサウを恐れ、その前から逃げ出さなければなりませんでした。逃亡の地ハランにおいて苦しみを味わい、後悔の日々を過ごしたでしょう。

 ところが、神はヤコブの罪を赦し、苦しみから救い出して下さったのです。ヤコブはここに、本当に大切なのは、祝福をお与え下さる神との交わりであることを知ったのです。特に、死んだと思っていたヨセフが生きていると知らされたとき、それこそおのが罪の結果と諦めていたのに、罪赦される喜びが湧き上がり、あらためて神の祝福の力を味わったのです。

 長子の受けるべき祝福が次男に与えられたというのは、新約の福音の光を通してみると、神の独り子イエス・キリストの受くべき分が、御子を信じる私たちに与えられたということを示しています。

 ヤコブは祝福をお与え下さる神を、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ」と(15,16節)と呼んでいますが、これは、ヤコブが自ら知らずして、主イエスを証しているかのようです。

 使徒ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語していましたが(マルコ14章29,31節)、結局、3度も主イエスなど知らないと公言してしまいます(同66節以下)。しかるに、主イエスはペトロを十字架の死によって贖い、御自分の証人として用いるべく聖霊の力を注ぎ与え、使徒として立てられました。

 主は私たち一人一人にそれぞれ違った賜物を与え、違った仕方で主の祝福を体験し、主に従うように招かれています。「あなたは、わたしに従いなさい」と(ヨハネ福音書21章23節)。主の恵みに感謝しつつ、招きの言葉に応答して参りましょう。


 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちをお選びになりました。それは、私たちが出て行って実を結ぶ者となるため、その実が豊かに残るためであり、また、御名による祈りが聞き届けられるためでした。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン





6月7日(木)の御言葉 「ヤコブがファラオを祝福する」

「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。」 創世記47章7節


 ヤコブは、息子ヨセフがエジプトで生きており、自分を招いていると知って、喜び勇んでエジプトに下り(46章1節以下)、ゴシェンの地でヨセフに会いました(同28節以下)。これは、どんなに嬉しい出来事だったことでしょう。「わたしはもう死んでもよい」(同30節)という言葉に、この感激の大きさを見ることが出来ます。

 ヨセフは兄たち5人を連れてファラオのところへ行き(1,2節)、家族がゴシェンの地に住む許可を取り付けます(3節以下、6節)。ゴシェンは、ナイル川河口のデルタ地帯にあります。そこは、居住や牧畜に適していました。ファラオは、「エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい」と言いました(6節)。11節に、「そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった」と記されています。

 続いて、冒頭の言葉(7節)の通り、父ヤコブをファラオのところへ連れて来ます。そのとき、ヤコブがファラオに祝福の言葉を述べた、と記されています。このときヤコブは、どのような言葉でファラオを祝福したのでしょうか。

 相手はエジプトの王です。富と権力をその手に握っています。そして、ヤコブとその家族に対して非常に親切にしてくれています。それに引き換え、ヤコブは飢饉でカナンから出て来た者、住む場所も食べるものもなく、ただヨセフのゆえに王の好意に甘えるしかないような者です。

 ヘブライ書7章7節には、「さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです」と記されています。この基準を当てはめると、エジプトのファラオを祝福したヤコブの方が、上なる者,大いなる者であるということになります。しかしながら、ここで、ヤコブの何がファラオに勝っているというのでしょうか。

 ファラオはヤコブに年齢を尋ねます(8節)。それは、老人に対する敬意の表明だと言われます。老人を大切にするという時には、その人格を敬い、尊ぶことが大切です。聖書では、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」(レビ記19章32節)と命じられています。ヤコブは130歳でした。確かに長命です。

 けれどもヤコブは、「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」と言います(9節)。「苦しみ多く」は、「悪」(ラーイーム)という言葉です。これは、自分の若き日々の罪を思っているところから語られた言葉と考えられます。父を騙し、兄を押しのけるような真似をして、その結果、こんなに苦しみ多い生活を送っているというわけです。

 あるいはまた、最愛の息子ヨセフを失い、また次男シメオンに末っ子ベニヤミンまでも失うことを覚悟した日々のことを言っているのかも知れません。

 そのようなヤコブが持っていて、ファラオが欲しいと思うものとは何でしょうか。ファラオは権力を持ち、富を持っています。住む家も食べる物も、その他ありとあらゆるものを豊かにもっています。それらは、ヤコブにはありません。しかしながら、ヤコブの目は、エジプト中のすべてのものよりもさらに豊かな神の祝福を見ています。神はヤコブの想像を超えて、祝福をお与え下さるお方であることを、何度も経験してきました。

 父イサクの祈りを通して与えられた神の祝福の確かさを味わって来たからこそ、臆することなくファラオの前に立ち、ファラオに祝福の言葉を語ることが出来たのです。そしてそれは単なる言葉ではなく、本当にファラオを富ませる力となっていくのです。

 ペトロとヨハネが、「美しい門」の傍らで物乞いをしていた、生まれつき足の不自由な男に対して、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました(使徒言行録3章1節以下、6節)。すると、男は躍り上がって立ち、歩き出しました(同8節)。

 これは、イエス・キリストを通して私たちに与えられている祝福の力の大きさ、強さを示しています。私たち自身が主イエスの御名によって立ち上がり、信仰によって歩き出すように、と命じているのです。人々が聞きたいのは、理屈ではなく、この力をもって働く主イエスの救いの福音なのです。

 主よ、私たちには、聖霊を通して神の愛が与えられています。主イエスの十字架の死によって罪赦され、今本当に自由にされて、喜んでいます。この信仰の喜びと平安を、多くの方に語り伝え、日々の生活で証しすることが出来ますように。アーメン





6月6日(水)の御言葉 「エジプトへ下ることを恐れてはならない」

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民とする。」 創世記46章3節


 エジプトで宰相となっていたヨセフが、兄弟たちに自分の身を明かし(45章1節以下)、まだ5年は飢饉が続くので(同6節)、全家がエジプトに下って来るようにと、父ヤコブに告げさせます(同9節以下)。さらにヨセフは、ファラオの命に従って馬車に、道中の食糧(同21節)、晴れ着を与え(22節)、更に、父ヤコブに多くの贈り物を持たせました(23節)。

 それは、父ヤコブにとって、にわかに信じることの出来ないニュースでした(同26節)。獣に殺されたと思っていたヨセフが生きており(37章33節)、しかも、「エジプト全国を治める者になっている」というのです(45章26節)。しかし、ヨセフが与えた数々の品を示されて、父ヤコブは元気を取り戻します(同27節)。きっと、抑え切れない喜びが湧き上がって来たことでしょう。

 46章は、物語の主人公の座が、もう一度ヨセフから父ヤコブに移ります。ヤコブ=イスラエルは、かくして一家を挙げて、エジプトに向けて旅立ちます。その途中、ベエル・シェバに立ち寄り、神にいけにえをささげました(1節)。ここはかつて、ヤコブが兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、祝福の祈りを受けたところです(27章18節以下、28章10節参照)。

 その夜、幻の中に神が現れて、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」と言われました(3節)。ここに、「エジプトへ降ることを恐れてはならない」と言われていますが、ヤコブはエジプト行きを恐れているのでしょうか。それはしかし、何故でしょうか。

 エジプト行きは、第一に死んだと思っていた息子ヨセフと再会するためであり、第二に、なお5年は続く飢饉から逃れるためです。むしろ、ヘブロンやベエル・シェバに留まるほうが恐れを伴うことでしょう。ここにヤコブがエジプト行きをためらい、恐れる理由を見出すことは出来ません。

 ここでヤコブが恐れているのは、エジプトに下ることではなく、神のこと、神がエジプト行きを許されるのか、ということでしょう。これまで、利益を得るためには手段を選ばないヤコブでしたが、あらためて神の祝福を受け、「イスラエル」という名を与えられていながら、またもや神の御旨を尋ね求めないで、見える物に心動かされ、利益に飛びつこうとしているのではないかと、神を畏れていけにえを献げ、御旨を祈り尋ねたわけです。

 それは、本当に神によって生きていこうとしているのか、本当にパンよりも神の御言葉が大切なのかということでしょう(マタイ福音書4章4節)。今ヤコブはここに、神を畏れ、神の御言葉を求めて礼拝をささげました。それを神が祝福されて、「安心してエジプトに下れ、そこで大いなる国民とする」という約束を下さったわけです。そこで、ヤコブは、息子や孫、娘や孫娘など、子孫を皆連れてエジプトへ行きました(7節)。

 かつて、父イサクの祝福を受けた後、ハランに旅立つとき、ヤコブは独りでした。ところが、今再び祝福を受けてエジプトに旅立つヤコブには、レアから生まれた子らが33名(15節)、ジルパの子らが16名(18節)、ラケルの子らが14名(22節)、ビルハの子らが7名(25節)と、嫁たちを除いて合計70名の子らが与えられており、既に、大家族になっています(27節)。その上、「大いなる国民」となる祝福を受けたのです。

 実際に、神はイスラエルを祝福され、430年後にエジプトを脱出したとき、イスラエルの民は、兵役に就くことの出来る20歳以上の男子だけで60万3550人になりました(民数記1章45,46節)。ただ、その祝福は、苦難と無縁ではありませんでした。ハランでは20年のただ働きがありましたし、エジプトでは430年の奴隷生活が待っていたからです。

 ヤコブ=イスラエルが神の御前に砕かれ謙ったように、主イエスの弟子たちも御前に砕かれる経験をしました。それは、ゲッセマネの園で主イエスを見捨てて逃げ去ったこと、大祭司カイアファの官邸で主イエスを知らないと三度も否定したことです。自分の力で信仰に堅く立つことは出来ない、神に頼り、聖霊の力を受けなければ、主イエスの証人となることは出来ないと思い知らされたのです(使徒言行録1章8節)。

 だからこそ、弟子たちは主の召天後、心を込めて一つになって真剣に聖霊を祈り求めたのです(同14節)。主なる神は、弟子たちの祈りに応え、彼らを聖霊に満たしました(同2章1節以下)。そこから、キリスト教会の働きが始まったのです。徹底的に自らの貧しさ、罪深さを知り、謙って主に従いましょう。

 主よ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを慕い求めます。主の愛と恵み、聖霊の力と導きを祈り求めます。どうか私たちを祝福して下さい。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン




6月5日(火)の御言葉 「命を救うためにわたしを先に遣わされた」

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」 創世記45章5節


 いよいよ45章は、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスです。「何とぞ、この子(ベニヤミン)の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください」(44章33節)という兄ユダの言葉を聞いたヨセフは、もう自分を抑えることが出来なくなり、兄弟たちを残して側にいる他の者たちを外に出し、自分の正体を明かします(1節)。

 ユダは、ヨセフが父親の愛を一身に受けていることを妬み、夢の話に恨みを抱いて、ヨセフをイシュマエル人に売ろうと提案した張本人です(37章26節以下)。そのユダが、上記の通り、父の愛を一身に受けているベニヤミンをかばい、自分が代わって奴隷になると言ったのです。

 考えてみると、兄たちがエジプトに穀物を買いに来てから、ヨセフはずっと、エジプトの司政者ツァフェナト・パネア(41章45節)として彼らに接して来ました。そしてそれは、ヨセフが最初に見た、「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(37章7節)という夢の実現でした。

 恐らく、ヨセフの心には、自分を苦しめた兄たちへの憎悪があったでしょう。それゆえ、かつての夢が実現したということで、勝ち誇る思いを持っていたのかもしれません。そして、弟ベニヤミンを呼び寄せることにも成功しました。その気になれば、これからずっと側近くに置いておくことも出来ます。

 けれども、こうしたヨセフの企みを、ユダの父ヤコブや弟ベニヤミンに対する思いが粉砕、溶解してしまったのです。そこで、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と名乗ります(3節)。

 それを聞いた兄弟たちは、答えることが出来ませんでした。ヨセフを空井戸に投げ込み、食事しながら相談している間に、ミディアン人がヨセフを引き上げ、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまって、その姿を見ることが出来なくなって以来(37章12節以下)、死んだことになっていたヨセフが、今、自分たちの生殺与奪の権を手にした支配者として、目の前に立っているのです。どう考えればよいのでしょうか。

 これは、主イエスの復活のニュースを受けた弟子たちと同じ反応ではないでしょうか。弟子たちは、死んだ主イエスの復活を信じられませんでした。その上、主イエスがゲッセマネの園で身柄を拘束されたとき、皆主イエスを捨てて逃げ出したのです。ただ一人ついて行ったペトロは、カイアファの官邸で、3度も主イエスを否定してしまったのです。どの面下げて主イエスに会えるか、といった状況と同じでしょう。

 恐れて口を開くことが出来ない兄弟たちを側に近寄らせ、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と確認させます(4節)。決して死者ではないし、化け物でもないということです。甦られた主イエスが、弟子たちに手足を見せ、焼き魚を食べて見せられたときのような(ルカ24章36節以下)、疑うトマスに手の釘跡を見せられたときのような(ヨハネ20章24節以下)振る舞いです。

 そして、冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と語ります。これは、完全な赦しの宣言です。

 確かにヨセフはエジプトに売られました。「悔やんだり、責め合ったりする必要はない」という言葉は、ある意味で、兄たちに報復しようという悪意があったこと、しかし、今はそれが消滅してしまったこと、ゆえに、罪の償いなどは全く必要がないというを表明しているのです。

 「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」という言葉は、あるいは、この時初めて、ヨセフの心に浮かんだ思いだったのではないでしょうか。今初めて本当のことが分かった、ということです。それは、ヨセフの見た夢は、ヨセフを勝ち誇らせるためではなく、神が家族に将来を与えるためのものだったということです。

 主よ、ベニヤミンのために身を投げ出すユダの言葉を聞いて、ヨセフは心溶かされ、兄弟たちの罪をすべて赦しました。神の御心を悟ったからです。ヨセフが父の愛を受け、特別な夢を見たのは、家族の救いに奉仕するためであり、苦しみを味わったのは、ヨセフのエゴが砕かれるためだったのです。主の御名が崇められますように。 アーメン





6月3日(日)礼拝説教

6月3日(日)礼拝説教動画をアップしました。

URL http://www.youtube.com/watch?v=1vYkcOyXsEM&feature=youtu.be


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