風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

4月17日の御言葉 「わたしの民よ、聞け」

「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 4節に、「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの第七月一日、新月の安息日で、その日は、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く十日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる十五日の安息日から一週間、仮庵祭(かりいおさい)が行われます(同34節)。ということで、この詩は仮庵祭のたびに朗読されるように作られたものと思われます。

 仮庵祭は、葡萄の収穫祭で、秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 そのことに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、長い間荒れ野を旅して、テントで生活したことを重ね合わせ、その苦労を忘れないため、そして、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです。

 角笛を吹き鳴らして呼び集めた民に、この詩が、神のメッセージとして朗読されます。その中心メッセージは、詩の中心にある、「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え」(9節)という言葉です。そして、神に聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」という約束が与えられます(11節)。

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」と言われます(12節)。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 神は、「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています(14,15節)。このメッセージは、「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれたら、守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」と言おうとしているわけではありません。

 このようなメッセージを聞かせつつ、今このメッセージを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますか、と問いかけているのです。そして、もし聞き従うなら、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」と、主が再び、約束されているのです(17節)。

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせて下さいという祈りの儀式です。

 ヨハネ福音書7章で、主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、生きた水と言われているのは、聖霊のことです。

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」ということで、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られた、と記しているのです。

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われているのです。

 主よ、御名を崇めます。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。 アーメン

 

4月10日の御言葉 「夜もあなたのもの」

「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 詩編74編16,17節

 74編は、神がイスラエルを顧み、敵の手から救い出して下さるように願い求める「祈りの詩」です。「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃墟となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」(2,3節)などという言葉から、バビロンによってエルサレムの都が破壊され、神殿が焼かれた情景を思い浮かべることが出来ます。

 「どうか、御心にとめて下さい。・・このシオンの山を」ということは、詩人は今、廃墟となった神殿の丘で、神の救いを祈り求めているわけです。「永遠」(ネーツァー)という言葉が、1,10,19節にも用いられていて、一つのキーワードになっています。神殿が廃墟となってから、ずいぶん長い時間が経過しているわけです。

 詩人を取り巻いている現実は、厳しいものがあります。神が永遠に守られると信じた都が破壊され、神殿が廃墟とされたのです。また、王をはじめ、主だった者はすべて、捕囚として連れ去られました。彼らを指導する預言者も、執り成し祈る祭司もいません(9節)。エルサレム周辺に残されている人々は、敵の嘲りにさらされて生活しています(10節)。

 詩人は、見えるものすべてが破壊され、焼き払われてしまったエルサレム神殿の廃墟で、目に見えない神に、「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」と、嘆きの祈りをささげます(1節)。詩人は、この最悪の状況の中で、まさにすべての拠り所が失われた状況の中で、必死にその拠り所を求めているのです。

 詩人にとって神は、「いにしえよりの王」であり、「この地に救いの御業を果たされる方」なのです(12節)。「御力をもって海を分け」(13節)というのは出エジプト記14章の出来事を指しています。その後に出てくる「竜」は海の象徴、「レビヤタン」(14節)というのは、イザヤ書27章1節などの記述から、川を象徴しているものと考えられます。川も海も、人を死に追いやり、飲み込んでしまう悪しき獣が住む場所と考えられていたわけです。

 ですから、竜の頭を砕き、レビヤタンの頭を打ち砕いて、砂漠の民の食糧とされたというのは、海や川、砂漠という、人の命を脅かすところが、神の養いを受け、その恵みを味わうところに変えられたということです。具体的には、イスラエルの民の前に紅海が分けられ、また、ヨルダン川がせき止められたことや、岩から水が出たこと(出エジプト記17章、民数記20章)、あるいはまた、天からマナが降ったこと(出エジプト記16章)などを指しています。

 冒頭の言葉(16,17節)のとおり、神は昼には太陽、夜には月や星という光を放つものを備えられました(創世記1章14節以下)。確かにそれは、昼も夜も神が支配しておられるというしるしです。詩人は、古の出来事にその拠り所を見出し、順風も逆風も神の御手の業であること、地の境を定められるのも神であられることを悟りました。

 だからこそ、この最悪と思われる状況も神の御手に中にあり、この逆境をむしろ神の民がひとつになって神を求めるべき時とし、神の助けを頂いてその恵みを味わうべき時としようと、声をあげているのです。ここに、イスラエルの人々が持つ信仰を見ることが出来ます。

 私たちも、昼も夜も支配され、夏も冬も造られた主を信じ、逆境のときこそ主を求める時として、絶えず賛美と祈りに導かれる、この信仰にあやかりたいと思います。

 主よ、あなたは確かにイスラエルの主です。その罪によって永遠に捨てられたように見えたイスラエルの民の祈りを聞き、再び光を備えられました。その民の中に、すべてのものを救うメシアをお遣わしになりました。主よ、今未曾有の苦難の中にいる人々を顧み、その心に、生活に、光を備えて下さい。そして、共に賛美と祈りに導いて下さい。 アーメン

 

東日本大震災の被災者支援募金のお願い

頂いたメールを、管理人の責任において、ここに転載します。

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11日午後に発生した東北関東大地震は、現在も全容が判らないほど、大規模で甚大な被害が出ています。
私たちは、家なき人々、路上の困窮者の支援を長年行ってまいりました。
現在、東北一帯で数十万という人々が家を失い、避難所で、また路上で過ごされています。
この家なき人々の叫びにどう応えるかを全国ネットして模索しています。
また、この震災の中でホームレスがさらなる災害弱者にされないように、支援したいと思います。
全国ネットワークとしては、現地の団体と協力しつつ、被災者支援を開始しました。
現在、仙台地区におきましてワンファミリー仙台と仙台夜まわりグループが被災者に向けて炊き出しを開始しています。
どうぞ、皆さまのご協力をよろしくお願い申し上げます。

NPO法人 ホームレス支援全国ネットワーク 理事長 奥田知志
(この情報を、各自メール、ツイッター等でお広めくだされば幸いです)



◇被災者支援募金お振込口座 Donation Account

● ゆうちょ銀行からのお振込の場合
 銀行名称:ゆうちょ銀行総合口座
 口座名称:記号17480 番号32293661
 口座名称:特定非営利活動法人ホームレス支援全国ネットワーク
 (トクテイヒエイリカツドウホウジンホームレスシエンゼンコクネットワーク)

● その他金融機関からのお振込みの場合
 銀行名:ゆうちょ銀行
 店名:748店(ナナヨンハチ店)
 預金種目:普通
 口座番号:3229366
 カナ氏名(受取人名):トクテイヒエイリカツドウホウジンホームレスシエンゼンコクネットワーク

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同じ内容が、ホームレス支援全国ネットワークのサイトにも記されています。
http://www.homeless-net.org/index.html

また、北九州ホームレス支援機構のサイトもご覧下さい。
http://www.h3.dion.ne.jp/~ettou/npo/top.htm


日本バプテスト連盟も、災害対策本部を設置し、ブログで情報を発信しています。
http://baptist.exblog.jp/

4月3日の御言葉 「御顔の輝き」

「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。」 詩編67編2節

 67編は、神の祝福を祈る歌で、7節の「大地は作物を実らせました」という言葉から、秋の収穫祭のために詠まれたものではないか、と考えられています。

 冒頭の、「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉(2節)は、民数記6章24~26節の、「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」というアロンの祝福の祈りに似ています。

あるいは、この祈りを援用して作詞されたのかもしれません。そして、アロンの祝福はイスラエルの民のためでしたが、この詩では、「すべての民」(3節)がその恵みに与って感謝をささげることを願っています。

 ここに、「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉があります。原文を直訳すると、「彼(神)が御顔を私たちの傍で(私たちと共に)輝かせられますように」となり、岩波訳ではそれを、「われらのもとでかれの顔を輝かせますように」と訳しています。神の御顔の輝きが私たちの傍らに、私たちと共にあるということは、神が私たちに味方していて下さるということ、それによって、私たちも共に神の栄光に輝くことを願っていることになります。
 
 新共同訳が、「傍で、共に」という言葉を「に向けて(unto)」と訳しているのは、民数記の「主が御顔を向けて」という言葉を参考にしたからでしょう。神の御顔が自分たちに対して向けられることは神の愛の表れであり、それが自分たちを祝福する光に照らされることと考えての訳です。

 どちらをとっても内容的にはそんなに違わないことでしょうが、しかし、3節で、「あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」と語っていることから、詩人は、神の御顔の光が自分たちを通してすべての民に向かうことを願っていると考えられるため、岩波訳のように訳す方が原意にかなっているのではないか、と思います。
 
 このことについて、パウロが「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」と語っている言葉が、第二コリント書4章6節にあります。パウロは、はじめ、キリストが神の御子であることを認めること、信じることが出来ませんでした。しかし、神はパウロの心を照らして、御子の栄光を悟らせられたのです。

 その光は、しかし、彼を祝福する光であっただけでなく、「闇から光が輝き出よ」という言葉に示されるとおり、パウロという闇から福音の光が輝き出よと神が命じられて、今や、パウロの内から福音の光が周りを照らすようになったわけです。パウロの福音メッセージが手紙に記されたことによって、どれほどの人がその光の恵みに与ったことでしょうか。

 けれども、それはパウロに限ったことではありません。私たちも、「自分の体で神の栄光を現しなさい」と言われているのです(第一コリント書6章20節)。桜は桜の花を咲かせ、タンポポはタンポポの花を咲かせるように、私は私の、神に委ねられた使命があり、その使命を果たすことで現される神の栄光があるのです。

 イスラエルが主の聖なる民として選ばれ、宝の民とされたのは、ほかのどの民よりも貧弱だったから、それゆえ、神を信頼し、その御言葉を守るよりほか、生きる術なき民だったからです(申命記7章6節以下)。主を仰ぎ、その手足として主に用いていただくことが出来るように、祝福と導きを祈りましょう。

 主よ、私たちを憐れみ祝し、私たちと共に、私たちの内にあって、御顔の光を輝かせて下さい。御言葉を聴き、主の御心に従って歩み、恵みと愛を家族に、隣人に、証しすることが出来ますように。そして、多くの人々に神の恵みが届きますように。 アーメン

3月27日の御言葉 「警告を受け入れるように」

「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた。」 詩編60編6節

 詩編60編は、3節に、「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた」と記されてあり、12節にも、「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたはわれらと共に出陣してくださらないのか」と訴える言葉があることなどから、外国との戦争に敗れたイスラエルの民が、神の助力を求めた「祈りの詩」ということが出来ます。

 ところが表題に、「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰ってきて塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)とあります。これは、サムエル記下8章1節以下の出来事を指していますが、それは、ダビデがイスラエルの王となり、エルサレムを都とし神の箱を都に迎え、近隣諸国と戦えば連戦連勝といった、最高潮の時期にあたります。

 8節以下の主の宣言には9つの地名が出て来ますが、10節のモアブ、エドム、ペリシテは、まさに表題に語られている時期に、ダビデによって屈服させられ、イスラエルに隷属するようになったところです。神がその宣言どおりにして下さったということで、2節の表題がつけられたのでしょうけれども、そのときに、ダビデがここに詠われているような心境であったとは、およそ考えられません。

 もしかして、やることなすこと皆うまくいったので、それがダビデの自惚れや傲慢となって、神を怒らせたとでもいうのでしょうか。サムエル記下24章の「ダビデの人口調査」はそれを思わせるものですが、しかしながら、それは、表題の時期ではありませんし、神の憤りは、「三日間の疫病」をもたらすという形で示されたのであって、敵との戦いなどではありませんでした。

 5,6節で詩人は、神がご自分の民に辛苦の酒を飲ませ、それを、神を畏れる人に対する警告として受け入れるようにされた、と記しています。それは、苦難のときこそ、神を畏れ、謙って御言葉に従いなさい、ということでしょう。

 冒頭の言葉(6節)で、「警告」(ネーム)というのは、「旗、印、基準」という意味の言葉です。原文を直訳すると、「あなたは、あなたを畏れる者に、旗を与えられた」、となります。戦いに敗れて散り散りにされた者たちを、もう一度、その旗印の下に集め、皆でこの戦場を離脱しようとしている、といった状況を思い浮かべればよいのではないでしょうか。

 また「真理」(コーシェス)と訳されている言葉は、「弓」(コーシェト)とは母音の着け方が違うだけですから、「弓」という読みを採用して、「弓の前に掲げるための」と訳すことも出来るでしょう。そうすれば、弓に示される敵の攻撃による裁きが行われる前に、警告を受け入れよ、といった意味になるでしょうか。

 いずれにせよ、イスラエルは、自分たちの兵力、軍事力に頼るのではなく、神の導きのもとに謙り、その旗印に従って歩むところに、自分たちの生きる道があるということです。神はその旗印を、神を畏れる者たちにお与えになりました。神を畏れる者たちは、自分たちの辛苦を通しても、神の真理を悟らせていただくのでしょう。神がお与え下さる旗印は「錦の御旗」などではなく、神の前に奢り高ぶっている者への「警告」と解釈されるわけです。

 その意味で考えるならば、この詩は、何かの史実に基づいて詠われているのではなく、敵との戦いに臨むにあたり、王として、神の助けなしにその闘いに勝利することは出来ないこと、全地を「わたしのもの」と言われる主の御手に頼り、その導きに従って歩むべきことを教えるという目的を持って造られたものということが出来るでしょう。

 キリストの救いに与っている私たちは、真理とは主イエスのことを指していると教えられています(ヨハネ福音書14章6節など)。私たちの旗印は、主イエスの十字架です。主イエスは私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)、と命じられました。

 これは、主イエスから愛され、罪赦されて神の子とされた私たちが、十字架を旗印として互いに赦し合い、愛し合い、助け合う道を、主と共に歩むようにと、主イエスに招かれているのです。主を愛し、日々十字架の主を仰ぎながら、御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、絶えずあなたの慈しみをもって、深い御憐れみをもって、私たちを導いてください。主の御言葉に従って歩むことが出来るように、私の内に清い心、新しく確かな霊を授けて下さい。救いの喜びを褒め詠うように、自由の霊によって支えてください。 アーメン


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