風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2月1日(水)の御言葉 「その水はきれいになる」

「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」 エゼキエル書47章8節


 預言者エゼキエルは、また神殿の入り口に立っています。そして、神殿の敷居の下から湧き上がり、流れ出した水が、祭壇の南側から神殿の南壁の下を東に向かって流れて行きます(1節)。

 神の使いが手に持っている測り縄で1千アンマ(約450メートル)を測り、水の中を渡ると、水はくるぶしまででした(3節)。次に1千アンマを測って渡ると、膝の深さです。次の1千アンマを測るところでは、腰に達しました(4節)。さらに1千アンマを測ると、歩いては渡ることの出来ない深い川となっていました(5節)。

 この川が東の地域を流れて方向を変え、アラバの低地、つまり、死海に注ぎ込むヨルダン川の流れになってということです(8節)。他の支流などから合流して水量が増したというわけではないから、くるぶしまでのものが泳がなければ渡れない川になるということは通常あり得ず、これはまったくの幻です。神殿から始まった神の御業が次第に大きく豊かになる様子が描かれている、と考えられます。

 死海は、海抜マイナス392mの低地にあり、ここからはどこにも水が流れていきません。ヨルダン川から流れ込む水の量と、蒸発する水の量がほぼ等しいので、水が溢れることも干上がることもありません。そのために、塩分が濃縮されて、普通の海の6倍の塩分を含んでおり、どんな人でも沈むのは困難です。その塩分のために生物が生息できないので、「死海」と言われます。

 ナトリウムをはじめ、カリウムやマグネシウムを多く含み、鉱物資源は豊かなのですが、それゆえに生物が生きられないというのは、私たちの生活が物質的にどんなに豊かであっても、その豊かさが私たちの幸せな生活を保障するわけではない、ということに通じるような気がします。むしろ、財産が多いために争いも多くなるというのが、世間の常識というようなことではないでしょうか。

 けれども、神殿からの水の流れる川の岸辺には、多くの木が生い茂っています(7節)。そして、その水がアラバの「汚れた海」に入って行くと、その海は清まり(8節)、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなると言います(9節)。それゆえ、漁師たちが死海の岸部に立ち、「エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする」と記されています(10節)。

 「エン・ゲディ」(「小山羊の泉」の意)は、死海の西岸で南北のほぼ中央に位置するオアシスです。「エン・エグライム」(「2頭の小牛の泉」の意)の位置は不明ですが、文脈から、ヨルダン川河口付近にある泉のことではないかと推測されます。沢山の漁師たちの生計が立つほどの漁が出来る海となったという表現です。

 「この水が流れるところはきれいになり、すべてのものが生き返る」(9節)というので、新共同訳聖書は、この段落に、「命の水」という小見出しをつけています。神殿の下から流れ出した川の流れが神の御業を表していると記しましたが、命の水の流れによってすべてのものが清められ、すべてのものが生き返るということが、聖なる神の愛の御心、愛の御業なのです。

 モノは豊かに持っているけれども心に平安なく、恐れや不安に押し潰されそうになっている私たち、へこまされ、思い通りにならず、腐って死にそうになっている私たちが、神の愛の御業に与って、生きる者とされるのです。神が触れて下されば、神の御言葉を頂けば、主の御霊が私たちの内に注がれれば、そこに神の御業が起こされるのです。

 主イエスは、復活であり、命であられます(ヨハネ11章25節)。主イエスの下さる水を飲む者は決して渇かず、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ます(同4章14節)。命とは、交わりのことだと示されています。主が下さるのは豊かな命です(同10章10節)。主との交わり、家族、隣人との交わりが豊かになるのです。持ち物や財産などによってではなく、神によって生かされるからです。


 命の主を信じてその幹につながり、内側から清められ、豊かな実を結ぶその枝とならせて頂きましょう。

 主よ、清い命の流れ、御言葉の水、聖霊の水を与えて下さい。私の心を満たして下さい。豊かな清い流れの中で自由に泳がせて下さい。主との交わりをとおして、その愛の恵みにより、隣人との交わりがますます豊かになりますように。 アーメン



1月31日(火)の御言葉

「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く。」 エゼキエル書46章2節


 45章13節から、献げ物の規定が述べられています。民が規定に従って献げたそれらの献げ物を(同13~15節)、君主が代表して神の御前にささげるのです(同16,17節)。同18節以下には元日の献げ物、同21節以下には過越祭の献げ物について、記されていました。

 46章には、安息日の献げ物(4,5節)、新月の日の献げ物(6,7節)、巡礼の祭りと定められた祝日の献げ物(11,12節)などが定められています。

 そして、最後に、「あなたは、朝ごとに無傷の一歳の小羊一匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。あなたは、朝ごとにそれに添えて穀物の献げ物をささげねばならない。すなわち、朝ごとに上等の小麦粉六分の一エファと、それに振りかける油三分の一ヒンである。これは、主にささげる穀物の献げ物であり、変わることのない永遠の掟である」(13,14節)と、朝ごとの献げ物について規定しています。このような毎日の献げ物については、出エジプト記29章38節以下などにもその規定があります。

 冒頭の言葉(2節)のとおり、「君主は外から門の牢を通って中に入り、祭司たちが焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげている間、門柱の傍らに立っていなければならない。そして、門の敷居のところで礼拝した後、出て行く」と記されてあり、君主の務めとして、内庭の祭壇で行われる礼拝、いけにえの奉献に立ち会うことが定められています。

 ですから、君主は、一般の人々の参加が求められている安息日と新月の日、国の定められた祝日(過越祭、五旬祭、仮庵祭など)のほか、毎朝行われる礼拝にも、参加が要請されていることになります。君主が国民の代表だということは、イスラエルの民は、その礼拝に君主の出席をもって共に参加しているのであり、現実には日々の労働に勤しんでいるのですが、国民の日々の生活、労働が、神殿でなされる朝ごとの礼拝によって、守り祝されているというわけです。

 私たちにとって、現在、神の御前に贖いの供え物としていけにえを献げることはなくなりました。それは、贖いの代価をすべて、十字架で主イエスが払って下さったからです。そのことに感謝して、毎日曜日になされる主日礼拝を守り、また、週日半ばに行われる祈り会に出席し、賛美と祈りをささげるのです。

 しかし、それだけでなく、朝ごとに神の御前に進み、自ら御言葉に耳を傾け、静かに神に祈ることは、どんなに大切なことでしょうか。そのために払う犠牲は、決して小さいとは申しません。ときには戦いです。苦しみです。しかし、主が払って下さった尊い犠牲のゆえに、それを行うことが出来ることは、大変感謝なことです。

 パウロが、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」、と語っています(コロサイ書1章24節)。

 ここで、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、主イエスの苦しみには「欠けたところ」、不足している部分がある、というのではありません。キリストが罪の呪いをすべて引き受けて下さったからといって、私たちが苦しむ必要がなくなったというわけではない、キリストに委ねられた使命を果たしていくためには、自分も負わなければならない苦難があるということです。

 けれども、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)。

 主の恵みに感謝し、朝ごとに神の御言葉を聴き、示された御言葉に従って歩ませていただき、それによって他とは比べることの出来ない、信仰による栄光の世界を仰がせて頂きましょう。


 主よ、絶えず弱い私たちを助け、励まして下さり、有難うございました。感謝をもって毎週の礼拝、祈り会を守り、朝ごとに主の御前で御言葉を聴き、祈りをささげることを喜びとします。そして、主の恵みの招きに、信仰をもって応答することが出来ますように。 アーメン




1月30日(月)の御言葉 「最も聖なる聖所を設け」

「あなたは、この地域から長さ二万五千アンマ、幅一万アンマを測り、そこに最も聖なる聖所を設けねばならない。」 エゼキエル書45章3節


 45章で、エゼキエルの見ている幻は、神殿の境内から新しい都へと広がります。

 嗣業の地を分配するときに、先ず、長さ2万5千アンマ(約11.3km)、幅2万アンマ(約9km)の聖なる区域を設けます。そして、その聖域の南半分が祭司たちの住む場所で(3節)、その中心に縦横5百アンマ(225m)の神殿が設けられ(2,3節)、神殿の場所の周囲に幅50アンマ(22.5m)の放牧地が設けられます(2節)。また、聖域の北半分が神殿に仕えるレビ人の住む場所となります(5節)。

 さらに、その南に幅5千アンマ(約2.3km)、長さ2万5千アンマ(約11.3km)を都の所有地とします(6節)。その所有地の中央に4千5百アンマ(約2km)四方の都が置かれ、その周囲に幅250アンマ(約113m)の牧草地が設けられます(48章15節以下)。それから、聖域と都の所有地の東西に君主の所有地が設けられます(7節)。

 君主の土地を除いて、聖域と都の所有地の面積は、縦横2万5千アンマの正方形です。そのほぼ中央に神殿が置かれ、その南に都が置かれており、そして、この神殿と都を挟み、それを守るように君主の所有地が置かれることになります。

 ここに挙げられている以外の土地は、イスラエルの家とその部族に委ねられています(8節)。ヨシュアのときの土地割譲に従い(ヨシュア記15章以下)、エルサレムがその聖域の置かれる場所と考えれば、聖域の北側にベニヤミン族、都の所有地の南側にユダ族が置かれるということになります。

 土地分配が各部族に委ねられたということは、君主の権限が国全体に及んでいるわけではない、ということを表わしているといってよいでしょう。この土地の配分のされ方から、その役割は絶対専制君主ではなく、封建時代の征夷大将軍のような、神殿と都の守護職といったところでしょう。

 この幻がイスラエルの歴史の中で、文字通りに実現したことはありません。けれども、ここに言い表されているのは、新しいイスラエルは、国の中心に神殿を据え、主なる神を礼拝する民として立てられるということです。

 これは、11章17~20節に、「わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と記されていたとおりです。即ち、神御自身が新しいイスラエルの王となられるのです。

 そして、イスラエルの民は、ペルシア王キュロスによって バビロン捕囚から解放され、帰国を果たした後、ゼルバベルとイエシュアに導かれて、まず神殿を建て、神を礼拝することに取り組みました。これを、エゼキエルの預言に従って実現されたこと、と見ることも出来るでしょう。

 これらのことで、私たちは信仰生活の基本を学ぶことが出来ます。それは、主なる神を信じる信仰が私たちの生活の中心であり、信仰が全生活を支えているということです。主の日(日曜日)に教会に集い、1時間余りの礼拝を守ります。

 また水曜日の朝と夜1時間ずつ、聖書の学びと祈りの集いがあります。この礼拝と祈りの集いが、私たちの一週間の生活を支え、またこの礼拝と祈りの集いが、1週間の務め、生活にリズムとアクセントを与えます。

 そして、私たちは日ごとに聖書を開いて神の御言葉に耳を傾けます。私たちは、神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされているからです。そして祈ります。私たちの生活の中心に神を迎え、その導きに従って歩み、主の恵みと平安に与りましょう。

 主よ、特別に聖なる時間というものは存在しませんが、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として、私たちの時間をささげることも、求められていると思います。導きに従い、今日も主の御言葉と祈りの恵みに与る時間を主に献げます。主との交わりがいよいよ豊かになりますように。御心が行われ、御名が崇められますように。 アーメン



1月29日(日)の御言葉 「門は閉じられたままに」

「この門は閉じられたままにしておく。誰もここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、閉じられたままにしておく。」 エゼキエル書44章2節


 エゼキエルが祭壇の前から神殿の東門のところに連れ戻されると、神の栄光が入ってきたその門が閉ざされていました(1節)。そして、冒頭の言葉(2節)のとおり、「この門は閉じられたままにしておく。開いてはならない。だれもここを通ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである」という主の御言葉を聴きました。東門に封印をして出入りを禁ずるというこの言葉から、二つのことが示されます。

 第一に、主のほかに神殿を住まいとするものがあってはならない、後から神々を持ち込むことを許さないということです。かつてイスラエルのひとびとは、異教の神々を祀ってエルサレムの神殿を汚しました(8章)。神殿に仕える祭司たちが、「主の聖所を背にし、顔を東に向けて板。彼らは東に向かって太陽を拝んでいる」(8章16節)という報告もあります。それゆえ、主なる神は神殿を離れられたのでした(10,11章)。そのようなことは、二度とあってはならないということです。

 神殿はただ主なる神のみがお住まいになるところであり、主のみが礼拝されるべき、最も神聖な場所なのです。これは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という十戒の規定をあらためて思い出させられることです(出エジプト記20章3節以下)。

 第二に、主は二度と神殿を離れられることはない、決してここから出て行かれることはないということです。エゼキエルは上に述べたとおり、神の栄光が東の門から去るという幻を見ました(10,11章)。40章以下に新しい神殿の幻を見せられ、43章7節で、「ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と語っておられました。

 そして、一度離れ去った主の栄光が、再び入って来たその門を、閉じられたままにするということは、何があっても、主の栄光はこの神殿を去らない、常に主がご自分の選ばれた民と共におられるという決意をなさって下さったということです。門を閉じられて、主なる神ご自身が、自らの退路を断たれたわけです。

 今日、主イエスを神として信じ受け入れた者たちは、神の子とされ、永遠の命を受け、そして、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿とされました。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい、と教えられています(第一コリント書6章19,20節)。人間が自分で神の栄光を作ることは出来ません。神が聖霊として宿っておられるからこそ、神ご自身の栄光が現されるわけです。

 主なる神が共におられ、私たちの内におられるということは、私たちが常に覚えておかなければならない重要な事柄です。聖霊なる神を悲しませ、その存在を消してしまいたくなるような生活をしていては、神の栄光を表すことは出来ないからです(イザヤ書63章10節、エフェソ書4章30節など)。

 神は、「わたしは、決してあなたを離れず、決してあなたを置き去りにはしない」、と言われます(ヘブライ書13章5節、申命記31章6,8節)。主イエスも、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」、と言われました(ヨハネ福音書14章18節)。そもそも主イエスは、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ福音書1章23節、イザヤ書7章14節)と言われていました。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。

 ヨハネ福音書14章17節には、「この霊(真理の霊)があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」、と記されています。このように、三位一体の神が、いつも共にいて下さると約束しておられるのです。その交わりの豊かさを想像することが出来るでしょうか。主はその恵みを私たちに教え、また味わわせて下さろうとしているのです。

 絶えず主の御顔を拝し、その御言葉に聴き従いましょう。主を愛し、喜んで主に仕えましょう。

 主よ、あなたの憐れみにより、私たちの体を生けるいけにえとして献げます。御言葉と御霊により私たちを清め、あなたに喜ばれるものとならせて下さい。心の一新により、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえることが出来ますように。 アーメン


1月28日(土)の御言葉 「祭壇を贖い、清めて」

「七日の間、彼らは祭壇を贖い、清めて、奉献しなければならない。」 エゼキエル書43章26節


 エゼキエルは、新しく建てられる神殿に、東の方から主なる神の栄光が到来し(2節)、東を向いている門から神殿の中に入り(4節)、そして、神殿を主の栄光が満たしている(5節)という幻を見ました。そして、「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と言われる神の御声を聴きました(7節)。

 エゼキエルは以前、神の栄光がケルビムに乗って、エルサレム神殿を離れるという幻を見ていました(10,11章参照)。イスラエルの背きの罪により、神がエルサレムを裁くため、神殿を離れられたのです。私たちの希望は、神殿やエルサレムの都という場所にあるのではなく、神のご臨在、神が共にいて下さるというところにあるのです。

 「二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない」(7節)という言葉に、かつてのイスラエルの民の、神ならぬものを信仰する偶像礼拝、あるいは、真の神よりもエジプトの力を頼りとしたという背きの罪が示されています。そのために、エルサレムは陥落、神殿は破壊され、町が火で焼かれてしまいました。

 エルサレムを離れた神の栄光が、再び神殿に満ちる様を見たということは、神がもう一度ご自身の都として、エルサレムを選ばれたということです。そして、「わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」と言われて、イスラエルの民のエルサレム帰還の夢が適うことを示されたわけです。それは、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民にとって、どんなに希望と励ましを与える幻でしょうか。

 ただし、この幻が実現するには、一つの条件が示されます。9節に、「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」、と言われています。それは、背きの罪を悔い改めなさい、ということです。

 神は、エゼキエルに祭壇の寸法を示されました(13節以下)。祭祭は、拝殿の前に置かれています。それは、罪深い人間がそのままで、聖なる神に近づくことは出来ないこと、贖いの献げ物によって清められた後、神を礼拝するため、拝殿に入ることが許されるということです。

 そうして主は、冒頭の言葉(26節)のとおり、その祭壇を清めるため、7日の間、毎日、贖罪の献げ物の雄山羊と、若い雄牛と無傷の雄羊をいけにえとして献げるように命じられました(18節以下)。私たちの罪を贖ういけにえをささげる祭壇を贖い清めるということは、神に近づくために、いかに徹底的に自らを清めなければならないかということでしょう。

 今あらためて、神の愛と憐れみに感謝致します。神は、神に背いて罪を犯す私のために、神ご自身が贖いの献げ物をささげて下さいました。その献げ物は、聖なる聖なる聖なる万軍の主なる神の独り子イエス・キリストで、その祭壇はキリストの架けられた十字架です。

 そのゆえに、私たちは自分で献げ物をする必要がなくなったのです。私たちは、イエス・キリストのささげられた十字架という祭壇を通って、子どもも大人も、女も男も、ユダヤ人も異邦人もみな、はばかることなく神に近づくことが出来るようになりました(ヘブライ書10章19節以下、22節)。いつでも親しく神と交わることが出来るようになったのです。

 この恵みを無駄にすることがないように、畏れの心をもって絶えず主の御前に進み、感謝と賛美のいけにえをおささげしましょう(同13章15節)。日毎に新しく、主の御言葉を聴かせて頂きましょう。絶えず、聖霊に満たされ続けましょう(エフェソ書5章18節)。


 主よ、どうか私たちの心においで下さい。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御救いの喜びを絶えず私たちに味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。主のご愛で満たして下さい。そして主よ、この口を開いて下さい。あなたへの賛美を歌います。 アーメン



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