風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

2月10日(土) 士師記2章

「主の御使いがすべてのイスラエルの人々にこれらのことを告げると、民は声を上げて泣いた。こうしてこの場所の名をボキム(泣く者)と呼び、彼らはここで主にいけにえをささげた。」 士師記2章4,5節

 「主の御使いが、ギルガルからボキムにやって上って来て」と、1節に記されています。ギルガルは、イスラエルの民がヨルダン川を渡って、それを記念する石碑を立て、宿営したところであり(ヨシュア記4章19,20節)、シロに聖所を移すまで(同18章1節)、イスラエルの拠点が置かれていた町でした。

 一方、ボキムについては、1節と5節に出て来るだけで、他には全く出て来ないので、どこにある、どのような町なのか不明です。70人訳聖書(セプチュアギンタ:ギリシア語訳旧約聖書)は、「ボキム」を「ベテル」と訳しています。ベテルの町が「ボキム」になったということでしょうか。 

 ベテルは「神の家」という意味で、以前は「ルズ」と呼ばれていました(1章26節)。ルズとは「アーモンド」という意味です。イスラエルの父祖ヤコブが兄エソウの手を逃れ、母リベカの故郷ナホルの町に向かう途中、野宿していたところで神と出会い、祝福を受けました。それがルズで、ヤコブはその地を「ベテル=神の家」と呼んだのです(創世記28章10節以下、18節)。 

 かつて神は、この地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならないと言われました(2節、出エジプト記34章12,13節、申命記7章1,2節)。ところが、民はそれに従わなかったと言われます(2節)。

 具体的に、イスラエルの民がカナンの住民と契約を結び、その神々を礼拝したというような記述は、ヨシュア記からここまで、見い出されません。ただ、追い払うべき民を追い出すことが出来なかったと、1章に述べられているだけです。

 想像をたくましくして考えれば、ただ先住民が強くて追い出せなかったというだけでなく、むしろ彼らの習俗に倣ってカナンの神々を礼拝し、また互いに婚姻関係を結ぶことで、何とかイスラエルの民がカナンの地で生きることが許されるようになったということだったのではないでしょうか。けれどもそれは、まさしく御言葉に聴き従わないことであり、主を信じないことでした。

 そう考えると、主の御使いがギルガルからボキムに上って来たというのは、エジプトの恥をすすいでくださった主の御業を記念する場所から離れて、偶像礼拝に走ったイスラエルの民を探しに来たということなのでしょうか。それで、ヤコブ=イスラエルが祝福を受けた「ベテル」に来てみたら、そこが、異教の神が祭られる町になっていたというのでしょうか。

 それはちょうど、アダムとエバが禁断の善悪の知識の木の実を食べ、神の顔を避けて隠れているのを、「どこにいるのか」と呼ばれたという出来事の再現のようです(創世記3章9節)。神に背いたアダムとエバは、エデンの園を追い出され、自ら額に汗し、労苦して糧を得なければならなくなりました(同17節以下、23節)。

 「ボキム」に上って来た主の御使いは、神は先住民を追い払われない、異教の神々がイスラエルの民の罠となると告げました(3節)。イスラエルの民が神に従わないので、神もイスラエルの民を離れられたため、もはやその庇護を受けることが出来なくなったというわけです。

 それを聞いたイスラエルの民は、冒頭の言葉(4節)のとおり、声を上げて泣きました。おのが罪の深さを思い知らされ、それゆえ、いかに神を悲しませ、あるいは憤らせたのかを悟ったのです。その悔い改めの涙のゆえに、その場所は「ボキム」と呼ばれるようになったと説明されています(5節)。

 「ボキム」は、「泣く」という意味の「バーカー」という動詞の分詞で、「泣く人」という言葉です。かくて、「ベテル」が「ボキム」となったわけです。その意味で、かつてどのような神の御業が示され、いかなる恵みを味わった場所であっても、私たちがそれを忘れ、主の御言葉に背いて歩むとき、そこを「ボキム」とするのです。

 しかるに、イスラエルの民は「ボキム」で主の御使いに出会いました。もう一度、神の言葉を聴きました。彼らが御言葉を信じて歩むことが出来るなら、確かにそこは、誰も知らない、どこだか分からない「ボキム」ではなく、もう一度、彼らの涙をぬぐってくださる神のおられる「ベテル=神の家」となるのです。民はそこで、主にいけにえを献げました(5節)。

 私は1968年のクリスマスに、信仰を公に言い表してバプテスマを受け、キリスト者としての歩みを始めました。そこが私の「ギルガル」です。それから今日まで、様々な「ボキム」を通過して来ました。その度に、ギルガルから御使いがやって来て、正しい道へ導き返してくださいました。それゆえ「ボキム」が「ベテル」となりました。今日あるのはすべて主の深い憐れみのゆえです。

 主はいつも私たちと共におられ、御手をもって私たちを守り支え、御言葉をもって導いてくださいます。もう一度、あなたのギルガルを思い起こしましょう。そして今、どこにいるのか、確認してみましょう。絶えず主を仰ぎ、その御声を聴き、導きに従うことが出来るよう、日々祈りつつ歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたこそ、私たちのよい牧者です。私たちには乏しいことがありません。御名によって私たちを正しい道に導いてくださいます。あなたが共におられるので、災いを恐れません。御言葉と御霊によって、いつも励まされ、勇気が与えられます。常に恵みと慈しみが私たちを追いかけて来ます。ベテルに帰り、生涯そこに留まらせてください。 アーメン



2月9日(金) 士師記1章

「主は、『ユダが上れ。見よ、わたしはその地をユダの手に渡す』と言われた。」 士師記1章2節

 今日から、士師記を読み始めます。表題の「士師記」というのは、2章16節の「士師たち」(ショフティーム)という言葉から来ています。「ショフティーム」は「裁く」という意味の動詞「シャーファト」の分詞・複数形です。

 「士師」という訳語は、中国語聖書に由来するものです。口語訳、新改訳聖書は、「さばきつかさ」と訳しています。因みに、新共同訳聖書で2章以外に出て来る「士師」(3章10節、4章4節、10章2節など)という言葉は、原文にはありません。

 士師記の中で、士師とはどのような存在なのか、何の説明もされていません。「ショフティーム」は、申命記16章18節で「裁判人」と訳され、正しい裁判を行うために、部族ごとすべての町に「裁判人」を置くように定められています。

 士師記における士師は、裁判官、仲裁者としての役割を果たす者もいますが、主に軍事的な指導者として、イスラエルを守る働きをします。その中には、預言者と呼ばれる女性もいます(4章4節)。

 士師は、ヨシュアの死後、預言者サムエルが登場して来るまでの間、イスラエルの民を守り導く者として、歴史の舞台に登場して来ます。モーセやヨシュアは全イスラエルの指導者でしたが、士師は、イスラエル各部族のリーダーとして、主に選ばれて12名登場して来ます。

 ということは、ヨシュアの死後、しばらくの間、イスラエルの民全体を導く強力なリーダーが立たなかったということです。また、ある意味では、各部族の嗣業の地で同時に起こっていたような出来事を、あたかも時系列に並べたかのように編集して記述しているといってもよいのではないでしょうか。

 最近の聖書学者たちにより、士師記は、申命記、ヨシュア記、サムエル記、列王記と共に、出エジプト以後、王制誕生までの間に起こった出来事、物語の資料を、紀元前721年の北イスラエル王国滅亡後程なくして、申命記史家(申命記に示される教えの薫陶を受けた人々)の手によって編集起草されたものと考えられるようになっています。

 新共同訳聖書は1章に「カナンの征服」という見出しをつけています。このことに関して、ヨシュア記に土地の占領が終了し、それを各部族にくじで割り当てたことが、既に語られていました(ヨシュア記11章23節、21章43節)。

 1節で「わたしたちのうち、誰が最初に上っていって、カナン人を攻撃すべきでしょうか」と主に尋ねていますが、これは、ヨシュア記とは別の出来事というより、割り当てられた嗣業の地において、各部族がいかに先住民と戦い、その地を征服しようとしたのかということを、ここに改めて記していると考えてよいでしょう。

 カナン攻撃の先陣を誰が務めたらよいのかという問いかけに対して、主なる神は冒頭の言葉(2節)の通、「ユダが上れ」と言われました。他の部族については、殆ど数節なのに、ユダ族だけで1章の半分以上が割かれていることと合わせると、士師記は、あらためてイスラエルにおけるユダ族の優位を示そうとしているように見えます。

 やがて、ユダ族から全イスラエルを治める王が登場し、数百年に及ぶ王朝の幕が開かれようとしているのです。冒頭の言葉(2節)で主はユダに、「見よ、わたしはその地をユダの手に渡す」と言われました。ユダの人々はそれを聞いて立ち上がります。主は、ユダが御言葉に従ってカナンの地を獲得し、他の部族の模範となることを期待しておられるわけです。

 そのとき、ユダはシメオンに「わたしに割り当てられた領土に一緒に上って、カナン人と戦ってください」(3節)と要請し、同行することになりました。そして、主はユダの手にベゼクを渡され(4,5節)、一万の敵を打ち破り、捕らえたアドニ・ベゼク(ベゼクの王という意味か)の手足の親指を切断しました(6節)。

 続いてエルサレム(8節)、山地、ネゲブ、シェフェラ(9節)、ヘブロン=キルヤト・アルバ(10節)、デビル=キルヤト・セフェル(11節)、ツェファト=ホルマ(17節)、ガザ、アシュケロン、エクロン(18節)などを占領することが出来ました。

 ヨシュア記19章1~9節で、シメオンはユダ族の嗣業の地から17の町々を分け与えられたようになっていましたが、士師記では、町が分け与えられる根拠として、シメオンがユダの人々と共に戦ったからと説明していることになります(3節)。

 ところで、19節に「主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった」と言われます。ヨシュア記17章16節では、そのようなことをヨセフの子らがヨシュアに訴えていました。

 主が共におられたのに、なぜ平野の住民を追い出せなかったのでしょう。確かに、「鉄の戦車」に代表される近代化された兵器の前に、鉄の武器を持たないイスラエルの民が立ち向かうことは、殆ど不可能だったのかもしれません。けれども、主が共におられれば、きっと追い出すことができたはずです(ヨシュア記17章18節)。

 それと明言されてはいませんが、ここでの問題は、もしかするとユダの人々が主に頼るのではなく、兄弟シメオンを頼りとして助力を求めたというところにあるのではないでしょうか。確かに、二人が心を合わせ、力を合わせて事に当たるならば、大事を為すことが出来るでしょう(創世記11章6節、コヘレト4章9節など)。

 けれども、力と数、技術に勝る敵の前に、どうすることも出来なかったのです。先陣を任され、イスラエルの模範となることを期待されたユダ族がそのような有様だったので(21節)、後に続く部族も、カナン人をその地から追い出すことが出来ませんでした(28節以下)。先を歩む者の責任は小さくないと言わざるを得ません。

 「言うは易し、行うは難し」と言わざるを得ない状況ですが、先立って私たちを招いておられる主に頼り、絶えず主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。

 主よ、先陣のユダが強い先住民を追い出せなかったので、続くすべての部族も、先住民を追い出すことが出来ませんでした。改めて、先に召された者の責任を思わされます。主よ、どうか私の内を探り、御前に相応しくないものを追い出してください。主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えることが出来ますように。 アーメン

 

2月8日(木) ヨシュア記24章

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。」 ヨシュア記24章14節

 本日は、ヨシュア記最後の学びです。24章には、ヨシュアがイスラエル全部族に、主なる神との契約を結ばせるという出来事が記されています。ヨシュアは、この契約のために全イスラエルをシケムに集めました(1節)。シケムは、エフライム族の嗣業の地で、逃れの町として定められ、レビ人が住む町になっていました(20章7節、21章21節)。

 なぜヨシュアは、神の幕屋を設置したシロや、初めの宿営地ギルガルではなく、シケムに民を集めたのでしょうか。はっきりとその理由は、ここに語られてはいません。

 イスラエルの父祖アブラハムが主の御言葉に従って父の家を離れ(創世記12章1節以下)、カナン地方に入ってシケムの聖所、モレの樫の木までやって来たとき(同5,6節)、主がアブラハムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」(同7節)と約束されました。その約束が実現したので、その契約を更新するために集ったというのが、その理由ではないかと考えられます。

 そのことについて、2節以下で歴史を振り返っています。そして13節で「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」と、イスラエルの民が約束の地を獲得出来たのは、すべて主が働かれ、イスラエルにお与えになったからこそだと、主が語っておられます。

 ここで、「自分で労せずに得た土地」、「自分で建てたのではない町」、そして「自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実」と、少しずつ言葉を換えながら、それが人の業に依らない、イスラエルの民に対する主なる神の恵みであることを、明確に言い表しています。

 ヨシュアは、冒頭の言葉(14節)のとおり、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」と命じます。ここで「川の向こう側」とは、2,3節との関連で「ユーフラテス川の向こう側、すなわちハランの地ないしカルデヤのウルを指していることが分かります。

 民を約束の地に導き入れられたのは主なる神であって、「川の向こう側」、即ちかつて先祖が住んでいたメソポタミアの神々や「エジプトで仕えていた神々」ではないということですが、主がイスラエルの民をエジプトから導き出されなければ、さらには、アブラハムを川の向こうから連れ出されなければ、今でもイスラエルの民は、異教の神々に仕えさせられていたということです。

 そのことを民に確認させて、「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(15節)と言います。主なる神に仕える者が、同時に川向こうの神々やアモリ人に代表されるカナン地方の神々にも仕えるということは出来ないのです。

 イスラエルは、神の選びの民でした。アブラハムが川向こうの地から連れ出されたのも、イスラエルの民がエジプトから導き出されたのも、アモリ人の国を得、そしてカナンの地を占領したのも、神が彼らを選ばれたからです。信仰とは、その神の選び、神の召し出しに応答することです。

 自分の仕える神を選べということは、「主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕え」(14節)ない者は、アブラハム以来の主の恵みを忘れ、他の神々を選んだということだと語っていることになります。

 勿論、どの神を選んでも同じ結果が得られるわけではありません。どこから登っても山頂に到達出来る、どの宗教でも同じだという議論がありますが、それは間違いです。たとえば、念仏や修行によって自ら悟りを開くことを本願とする仏教と、神の恵みに基づくキリストの救済を説くキリスト教が、同じ山頂を目指しているはずがないからです。

 また、人としてとるべき行動、所謂、倫理道徳という点では、宗教間の差違はそれほどないかもしれません。ということでは、同じ山頂に立つかもしれません。問題は、そこから人間が自分の力で天にまで昇ることは出来ないということです。私たちは、私たちを天に国籍を持つ者としてそこに迎え入れてくださる神がおられることを信じています。 

 23章16節に「もし、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられたよい土地から、速やかに滅び去る」と告げられていました。即ち、主に従わない者に対する裁きの言葉です。

 そうするとこれは、申命記30章19,20節で「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」と告げたモーセの言葉と同じことになります。

 シナイ山で契約を結んだ民は、シナイの荒れ野で神に背き、撃たれました。モアブの地で契約を結んだ民は、約束の地を踏むことが許されました。年を重ねて老人となったヨシュアは、ここシケムにおいて、あらためて民に主との契約を結ばせ、「右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守」(23章6節)るよう示したのです。

 裁きを恐れてではなく、神に従うことを喜びとして、御言葉に耳を傾けるようになりたいと思います。そのために、御霊の導きと満たしを求めて祈りましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではなく、あなたが私たちを選ばれました。それゆえ、救いの恵みに与ることが出来たのです。いつも主の恵みを忘れず、招きに忠実に答えることが出来ますように。絶えず主を畏れること、感謝を込めて心から主に仕えることを学ばせてください。聖霊の満たしと導きが豊かにありますように。 アーメン

 

2月7日(水) ヨシュア記23章

「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。」 ヨシュア記23章11節

 23章は、小見出しに「ヨシュアの告別の言葉」という通り、まさにヨシュアの遺言ともいうべきものです。1節に「イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった」とあります。ヨシュアの生涯は、110年でした(24章29節)。

 3節でヨシュアは「あなたたちの神、主があなたたちのためにこれらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた」と言い、民が見たのは、「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」ことと示します。

 そして4節で「わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた」と、約束の地カナンの土地の分配を行ったことを告げます。

 そして5節で「あなたたちの神、主は、神自ら彼らをあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために追い出される。あなたたちの神、主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう」と語り、未征服の地を主が完全に占領することになることが予告されます。

 主はかつてヨシュアに、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」(13章1節)と言われていました。老人には無理だから、もう諦めなさいと言われたのではありません。老齢になっても、取らなければならないもの、望むべきもの、進むべき地があったのです。

 今その役割を終えて、歴史の舞台から降りようとしているヨシュアの心に満ちているのは、主なる神を信じ、御言葉に従う歩みの確かさ、それ故の感謝の念でした。だから6節で「右にも左にも逸れることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい」と言い、8節で「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」と命じています。

 モーセからバトンを受け継ぎ、「強く、雄々しくあれ」(1章6,7,9,18節など)と励まされながら、ヨシュアが心がけたのは、主を固く信頼すること、モーセの教えの書に記されている主の御言葉に聴き従うことだったのです。

 そこで、「占領すべき土地はまだたくさん残っている」と主が語られた御言葉は、必ず実現出来ると信じ、「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことが出来る」(17章18節)と告げることも出来ました。

  そして冒頭の言葉(11節)で「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」と言います。イスラエルの民にとって最も重要なことは、神様を愛することだというのです。「あなたたちも」に示されているのは、ヨシュアがそうして来たとおりとにいうことです。

 これは、主イエスが最も重要な掟として示した、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ福音書22章37節、申命記6章5節)という命令とも通じます。

 私たちは、山を眺めて美しいと思います。しかし、実際に高い山に登り、深い森に分け入ってみると、見ただけでは決して味わえない、そこに行かなければ分からない世界があります。また、海の青さに感動することもありますが、深い海の底は光も届かない闇の世界です。やはり、そこに行かなければ味わい見ることの出来ない光や音、命の営みがあるのです。

 信仰的なこと、霊的なことも同様です。さらに深く神を知ることが出来ます。さらに深く神を信じることが出来ます。さらに深く神を愛することが出来ます。毎日、忙しくあわただしく過ごしていると、つい見過ごし、見逃しているものが少なくありません。心静かに神の御言葉に耳を傾けることが出来るでしょうか。神は私たちをさらに深い恵みの世界へ導こうとしておられるのです。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。誰が神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ書11章33節)とパウロは言いました。神の知恵、神の知識、神の道を完全に理解し、把握出来るという人はいないでしょう。

 けれども、聖書は、それならば理解しなくてよいなどとは言いません。「『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」(第一コリント書2章9~10節)と告げています。

 また、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ2章3節)とも語られていて、パウロは、主イエスとの親密な交わりを通して、その内に隠されている知恵と知識の宝を、神から頂くことが出来ると教えているのです。

 主イエスも、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(ルカ福音書6章47,48節)と言われています。 

 ヨシュアは、神の御声を聞きました。神の御業を見ました。神の御心を悟る心が与えられました。私たちはどうでしょうか。もっと深く神を知り、もっと深く恵みを味わい、霊の深みから真心込めて神に礼拝をささげたいと思います。深く御言葉を味わい、御霊の泉の中に身を置きたいと思います。

 心を込めて主を愛し、その御言葉を慕い求めましょう。御声に耳を傾け、御霊の導きに従いましょう。

 主よ、あなたは御子をさえ惜しまず、私たちにお与えくださいました。その御愛は、御子が御自分の命を私たちのためにささげてくださった、まさに命そのものです。その御心を悟らず、御手に委ねることが出来ず、自分勝手に歩んでいる自分を悔い改めます。日々神を信じる信仰の深みを教えてください。その広さを悟らせてください。 アーメン

 

静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。

①「礼拝説教」に2月4日主日礼拝の礼拝プログラムと説教動画(YouTube)を掲載しました。

②「今週の報告」、「今月の御言葉」を更新しました。

③「お知らせ」は随時更新しています。

④「今日の御言葉」は毎日更新しています。



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