風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

10月11日(水) レビ記1章

「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。」 レビ記1章3,4節

 今日からレビ記を読み始めます。レビ記には、神の民が守るべきいけにえの献げ方や儀式の様々な規定などが記されています。それが正しく行われるように指導する責任が祭司・レビ人にあったということで、「レビ記」と命名されたのです。

 元来、ヘブライ語聖書では、冒頭の言葉を書名とします。レビ記冒頭には、「ヴァ・イクラ」と記されています。「ヴァ・イクラ」とは、「そして(主がモーセを)呼ばれた」という意味です。神の言葉を聞くべき場所に呼び出して、そこで御言葉を告げられたのです。つまり、この書は、主なる神がモーセを呼んで告げられた、神の御言葉を記したものなのです。

 「教会」の原語(ギリシア語)は「エクレシア」、ヘブライ語でいえば「カーハール」で、いずれも、「呼び出された者の集い」という意味の言葉です。私たちは神に呼び出されて集まり、神の御言葉を聞きます。それこそまさに、レビ記1章1節に語られている状況です。

 新約聖書の中に、レビ記からの引用が約30回なされているそうです。その中の代表選手は二つあります。まず「あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(11章44節)です。これは、レビ記で繰り返し語られる中心的なメッセージです(45節、19章2節、20章7,8,26節、22章32節)。

 「聖なる者」とは、神のために特別に区別された者、分かりやすく言えば、神に選ばれた者という意味です。神が私たちを選ばれました。めいめいの分に応じ、賜物に応じ、目的に従って神に選ばれたのです。神に選ばれた者として、神の御心に従って参りましょう。

 もう一つは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19章18節)です。主イエスが最も大切な戒めとして教えられたこの言葉は(マタイ22章34節以下、38節)、レビ記に記されていたのです。

 マタイは、神を愛せよという命令と隣人を自分のように愛せよという命令は、旧約聖書全体を支える車の両輪、コインの表と裏のようなものと教えた主イエスの言葉を伝えています。神を愛する者は、自分を愛するように隣人を愛するのだと言ってもよいでしょう。聖なる者になれと、様々な規定を通して語られている教えの中で、最も大切なのが「隣人を愛しなさい」という愛の教えだということです。

 こうしてみると、レビ記は「聖」と「愛」を語るものであることが分かります。聖と愛が語られているのは、主が聖なる方であり、また愛のお方であられるからです。このことを念頭に置いて、レビ記を読んでいきましょう。

 1章から7章まで、献げ物の規定が語られます。神が私たちに求めておられるのは、献げ物をささげて神を礼拝することです。エジプトからイスラエルを救い出されたのは、イスラエルをご自分の民とされるためです。

 そこで神が、先ず献げ物について命じておられるということは、神がイスラエルとの正しい関係を求めておられるのです。この正しい関係を聖書では「義」と言います。神との関係が正しくなったところから、すべてが始まるというわけです。

 献げ物のリストの筆頭は、「焼き尽くす献げ物」です(1章)。この献げ物は文字通り、献げ物のすべてを祭壇の上で焼いて神に献げるのです。これは、私たちの信仰生活の基本を教えています。クリスチャンは、教会にいるときだけ、信仰生活をしているのではありません。私たちの生活のすべてに神様が関わっておられます。私たちはその神様の御前で生活をしているのです。

 かつて、イスラエルの宿営の中に幕屋を設けて民と共に歩まれた神は、今、私たちの心に聖霊として宿っておられます。私たちは聖霊の宮だと、パウロは言いました(第一コリント6章19節など)。いつも共におられ、共に歩んでくださる主の御前に、すべてのものを献げる。すべてのものを主に献げてお従いするのだということが、焼き尽くす献げ物を通して、私たちに教えられているわけです。

 焼き尽くす献げ物として、牛や羊、山羊などの家畜や鳩が献げられます。家畜は大切なものです。百匹の羊のうち一匹でもいなくなれば、羊飼いは一匹を見つけるまで野山を捜し回ると、主イエスはたとえ話の中で語られました(ルカ福音書15章4節以下)。そんな大切な家畜の、それも冒頭の言葉(3節)のとおり、傷のない雄の家畜を献げるのです。

 奉納者は、その献げ物を臨在の幕屋の入り口に引いて行きます。そこに、いけにえを神に献げるための祭壇が置かれていたのです(5節)。

 そして「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(4節)と記されています。これは、焼き尽くす献げ物として献げた牛が、その人の罪を担って死ぬということであり、その行為は、まさに自分自身を犠牲にするのに等しいものだということを表しているのです。

 献げ物の血が祭壇の四隅に流されて祭壇が清められ、献げ物が神に受け入れられます。神はこの献げ物を受けて、私たちのあらゆる背きの罪を赦し、義としてくださるのです。ここに神の愛があります。まことの愛のあるところに義が表されるのです。

 神は、私たちの背きの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れるために、ご自分の独り子を贖いの供え物とされました。かけがえのない御子イエスの血が、十字架という祭壇で流されました。この贖いの血によって汚れが取り除かれ、私たちは神に受け入れられる者となりました。これが、神によって与えられた新しい約束、新約の恵みです。

 主よ、私たちを神の民とするために、ご自身の独り子を贖いの供え物として十字架につけられました。その御愛のゆえに、御名を崇め、感謝を致します。主に愛され、生かされた者として、主を愛し、主に従います。日々、恵みの光のうちを歩ませてください。 アーメン



10月10日(火) 出エジプト記40章

「モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」 出エジプト記40章35節

 主はモーセに、「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」と言われました(2節)。イスラエルの民がエジプトを脱出したのが、正月14日の夜中でした(12章6,18節、29節以下)。それから三ケ月目にシナイの荒れ野に到着し、シナイ山に向かって宿営しました(19章1,2節)。その山で十戒を受け(20章)、主と契約を結びました(24章)。

 それから、神が民と共に住むための聖なる所、即ち幕屋作りが命じられ(25章以下)、その実行のために必要なものが集められ(35章)、そして、すべての準備が完了しました(39章32節)。

 こうして、エジプト脱出からおよそ一年、シナイの荒れ野にやって来て9ヶ月が経過しました。これから、絶えず神が臨在の幕屋にあって民の内に住まわれ、常に共に歩んでくださるという新しい生活が始められるわけです。

 幕屋を建て(2節)、掟の箱を置き、垂れ幕を掛け(3節)、机とその付属品、燭台、香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口に幕を掛けます(4,5節)。幕屋の入り口の前に祭壇を据え(6節)、祭壇と入り口の間に洗盤を据えます(7節)。周囲に庭を設け、入り口に幕を掛けます(8節)。幕屋とその中のすべての祭具、祭壇と祭具、洗盤と台に油を注いで聖別します(9~11節)。

 次に、アロンと子らを水で清め(12節)、アロンに祭服を着せ、油を注いで聖別し(13節)、子らにも衣服を着せ(14節)、油を注いで主に仕える祭司とせよと命ぜられます(15節)。

 モーセはこれらのことを、主に命じられた通りに行いました(16節)。17節以下、仕事の様子が記録され、都度、「主がモーセに命じられたとおりであった」(19,21,23,25,27,29,32節)と計7回、記されます。「7」という完全数をもって、その仕事が主の命令に忠実に、完全に従っていることを示しています。

 主がモーセに命じられたとおりであるのかどうか、モーセ自身で確かめたことでしょう。アロンとその子らが祭司として任職されるのは、レビ記8章になってからのことでした。ゆえに、灯火を主の前にともすのも(25節)、香草の香を金の祭壇でたくのも(26節)、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇の上で主にささげたのも(29節)、モーセの仕事だったということになります。

 臨在の幕屋が完成したとき、「雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」(34節)と記されています。宿営の外に設けられた仮設の臨在の幕屋では、降って来られた主と「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」(33章17節)語り合ったのですが、幕屋が完成したこの日、冒頭の言葉(35節)のとおり、栄光が幕屋に満ちていたため、モーセは幕屋に入ることが出来ませんでした。

 ここに示されるのは、勿論、神の権威です。神の権威の前に、モーセであってもそのまま近づくことは出来ません。主の許しなしに、近づくことは出来ないのです(19章13節、24章12節参照)。

 それはまた、臨在の幕屋は、何よりも神が臨在されるために設けられたものであって、民のために造られたものではないということも示しています。願い事があり、あるいは解決困難な問題があるとき、幕屋に来ればよいということではないのです。

 しかしながら、モーセがそこに入ることが出来ないほど、主の臨在によって神の栄光が満ち溢れているとき、神は何かをして人に仕えてもらう必要など、何もないのです。主はその御力をもって幕屋を満たしておられるのであり、その力によって、イスラエルの民を祝福してくださっているのです。

 神の栄光が表されるというのは、神が神として崇められ、人が神の民としてその恵みに与り、栄光を拝することが出来るということです。その意味では、アロンやモーセの働きというのは、そこに神が臨在され、主の栄光が満ちるためのものであるということ、また、主の栄光の故に何も出来なくなり、神がご自身の栄光を現されるための奉仕であるということと言ってよいでしょう。

 勿論、神は機械仕掛けではないので、何かをすれば必ず幕屋に臨在が満ちるというものではありません。主の臨在を仰ぎ臨み、御言葉に従順に歩めばこそです。絶えず主の御名を賛美し、主を仰ぎ望みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、御子の十字架によって贖いを成し遂げ、罪の呪いから解放し、救いの恵みに与らせ、神の子としてくださったことを心から感謝し、御名をほめたたえます。どうか私たちの心にあなたの臨在を表わしてください。そのために、私たちの心を清め、御言葉と御霊によって満たしてください。 アーメン



静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/

御覧ください。


10月10日は「目の愛護デー」です。
中央盲人福祉協会が1931年に「視力保存デー」として制定し、戦後、厚生省(現在の厚生労働省)が「目の愛護デー」と改称したものです。
その由来は、「10 10」を横に倒すと、眉と目のかたちになるからだそうです。
なるほど。

また、1963年のこの日、アイバンク(Eye bank) が開設されました。
アイバンク とは、角膜移植によってしか視力を回復できない患者のために、死後、眼球を提供することに本人または遺族の同意を得て、移植を待つ患者に斡旋する公的機関のことです。
日本でのアイバンクは、厚生労働大臣の許可を受けて運営される「眼球あっせん業」で、眼球銀行ともいいます。
眼球を提供するのですが、使用されるのは角膜です。
そのため、近眼、老眼など、視力は問題ではありません。
また、眼球摘出後に義眼をはめるので、外見上の変化もないそうです。
提供された眼球の角膜は、疾患の有無や角膜の細胞の異常などが調べられた後、利用施設に連絡され、角膜移植等に利用されます。

現在、北海道から沖縄まで54箇所のアイバンクが登録されています。
因みに、静岡県は浜松医科大学医学部付属病院内に設置されています。
献眼の方法を含め、アイバンクについての詳細は、「日本アイバンク協会」のサイトを御覧ください。


10月9日(月) 出エジプト記39章

「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った。」 出エジプト記39章32節

 39章には、アロンの祭服、即ちエフォド(2節以下)、胸当て(8節以下)、上着(22節以下)、その他の衣服(27節以下)が主に命じられたとおりに造られたと報じられ、ここにいよいよ、神がイスラエルの民の内に住まわれるための聖なる所、幕屋建設の準備作業が完了しました(32節)。

 冒頭の言葉(32節)で、この幕屋のことを、「臨在の幕屋」(オーヘル・モーエード)と呼んでいます。「モーエード」を「臨在」と訳すのは新共同訳聖書だけで、口語訳、新改訳は「会見」と訳しています。「定める」(ヤーアド)から「会合、例祭、定めのとき、季節」という意味で用いられ、神と会う場所ということから、神顕現の場、臨在の幕屋という訳語が選ばれたのでしょう。

 「臨在の幕屋」という言葉は、27章21節に最初に出て、以後、時々用いられていました(28章43節、29章10,11,30,32,42,44節、30章16,18,20,26,36節、31章7節、35章21節、38章8,30,32節、39章40節、40章2,6,7,12,22,24,26,29,30,32,34,35節)。

 ただ、33章7節以下の段落に「臨在の幕屋」という小見出しが付けられ、モーセが張った天幕を「臨在の幕屋」と名付けたと7節に記されています。けれどもこれは、25章以下で建設が命じられた本来の幕屋のことではありません。本来の幕屋は、宿営の中央に置かれ、この幕屋を中心に、東西南北にそれぞれ3部族ずつ分かれて宿営します(民数記2章参照)。

 一方33章では、既存の天幕の一つがとられて宿営の外の、宿営から遠く離れたところに張られました(同7節)。これは、主に命じられた幕屋が完成するまでの仮設の幕屋というべきものであり、また、イスラエルの民が金の子牛像を造ってその地を汚し、神の怒りを買っているので、宿営の中にその天幕を設置することが出来なかったのでしょう。

 しかしながら、この天幕が設けられ、そこにモーセが入ると、入り口に雲の柱が降りて来て、幕屋の前に立ちました(同9節)。即ち、見える形で神が幕屋に降臨されたわけです。それは、神が民の罪を赦されたことを示していると受け取ってもよいでしょう。だからこそ、この後、本来の幕屋作りが実行に移されたわけです。

 違いもあります。本来の幕屋で奉仕するのは、アロンの家系の者ですが、33章ではモーセと並んでヨシュアも奉仕しています。ヨシュアはエフライム族です(民数記13章8,16節)。

 また、アロンは年に一度、贖罪日に香の祭壇で香をたいてから至聖所に入りますが(レビ記16章、ヘブライ書9章7節)、33章では、民の必要が生じたときはいつでも、モーセは幕屋に向かいました。そして何より、モーセは主と、友と語り合うがごとく顔と顔を合わせて、親密に語り合いました。それは、モーセが神と民の仲保者として、特別な任務を担っていたからです。

 主イエスが十字架で息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が、上から下まで真二つに裂けました(同15章38節)。それによって、聖所で働く祭司たちは皆、そして、聖所の入り口に立った人々も、至聖所の中を見ることが出来るようになりました。憚ることなく、神に近づくことが出来るようになったのです。

 ヘブライ書の著者は、「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ書10章20~22節)と記しています。

 ヨハネ福音書15章15節に「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。

 更に主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(同16節)と言われました。

 私たちは、主イエスから「友」と呼んでいただける親密な関係に招き入れられました。主イエスは父から聞いたことをすべて知らせたからと仰います。私たちは主イエスに選ばれた者です。私たちが選ばれたのは、遣わされて行って実を結ぶため、その実が何時までも残るため、そして、主イエスの名で父に願うことは何でもかなえられるためだというのです。

 「何でも願いなさい、与えられます」と言われたのは、おのが欲求を満たすためではありません。主イエスの名で願うとは、主イエスが父なる神に願うということです。主イエスが願われるように願い、主イエスが祈られるように祈りたい、主の御心をわきまえ、御心がなされるように祈るのです。

 特に、モーセが民の必要のため、主と親しく語ろうとして臨在の幕屋に入りました。私たちも、主に選ばれた者として神の御前に大胆に進み、隣人の必要を覚えて執り成し祈るものとなりましょう。

 主よ、御子イエスは私たちを「友」という親しい関係に導き入れてくださいました。それは、私たちに主の御心を悟らせ、主の御業に励み、実を結ぶものとならせるためです。心の一新によって造りかえられ、御旨を悟り、何が神に喜ばれ、完全なことであるか、わきまえることが出来ますように。 アーメン




10月8日(日) 出エジプト記38章

「仕事、すなわち聖所のあらゆる仕事に用いられた金の総額は、奉納物の金が聖所のシェケルで29キカル730シェケル」 出エジプト記38章24節

 「祭壇」(1節以下)、「幕屋を囲む庭」(9節以下)の作業で幕屋建設の準備が整いました。それは、27章に命じられているとおりのものでした。そこでモーセは、祭司アロンの子イタマルを監督として、レビ人に幕屋建設の記録を作るよう命じます(21節)。

 そして24節以下に、聖所の仕事に用いられた金属材料の総額が記されています。木材のほか種々の糸、布、毛皮なども用いられているのに(35章4節以下)、なぜ金属材料の総額だけなのか、その理由は不明です。

 冒頭の言葉(24節)に、「金が聖所のシェケルで29キカル730シェケル」とあります。「聖所のシェケル」の重量は詳しく分かりません。通常のシェケルは約11.4グラム、キカルは約34.2キロです。聖所のシェケルは、それを上回るものではないかと思いますが、通常の度量衡で計算すると、金の総量はおよそ1トン、同様の計算で銀は3.4トン、青銅は2.4トンになります。

 現在の価格で、金は1キロ約500万円、銀は6.6万円、青銅は900円程度ですから、金の総額は約50億円、銀は約2億2千4百万円、銅は約216万円となります。総計52億2千6百万円ほどということになります。

 ソロモンが神殿を建てたとき、ダビデが蓄えていた金が3000キカル、即ち約102.6トン、家系の長が寄贈したのが、金5000キカル1万ダリク、即ち171.1トンでした。合わせて273.7トンとなり、金額にして1兆3685億円にも上ります。あまりにも高額なので、それがどれほどの価値なのか、想像を超えてしまっています。

 臨在の幕屋に用いられた貴金属の総額は、ソロモンが建てた神殿のおよそ3百分の一の金額とはいうものの、1年前まで奴隷の生活をしていたイスラエルの民が、幕屋建設のために50億円余もの献げ物をしたのです。手持ちの資金、貴金属類があったとは思えません。

 これは民がエジプトを脱出する際、エジプトの民から好意を得て、金銀の装飾品や衣類を手に入れたものでしょう(12章35,36節)。ということは、幕屋を建てるために、神がエジプトの民にイスラエルに対する好意を持たせられたということになります。つまり、神のなさることに手抜かりも、無駄なこともないということでしょう。

 そういえば、主イエス誕生の折、ヘロデの難を避けるため、ヨセフは幼子とその母を連れてエジプトに逃げました(マタイ2章13節以下)。そのとき、東方の学者たちが贈り物として献げた黄金、乳香、没薬が役立ったことでしょう。

 そしてまた、五つのパンと二匹の魚で5000人の腹を満たすことが出来たように(マルコ6章30節以下など)、神が民の献げ物を祝されたので、幕屋建設の必要が満たされ、その総額を計算すると、貴金属だけでも52億円という、大変大きな金額になっていたということかも知れません。

 35章で見たとおり、民は神の言葉によって心動かされ、進んで献げ物をささげました。そして、献げ物が必要以上の量になったので、それ以上献げ物をしなくて良いという命令まで出されました。

 また、幕屋建設の現場指揮官ベツァルエルはユダ族出身、補佐官オホリアブはダン族出身と、22,23節に記されています。ユダは約束の地の最南部、ダンは最北部を嗣業の地とした部族です。つまり、北から南までのあらゆる人々が、幕屋建築に従事し、その賜物をささげて奉仕したのです。

 このようにして幕屋建設を進めたイスラエルの民の真心を考えると、栄耀栄華を極めたソロモンが建てた神殿よりも、臨在の幕屋のほうが、はるかに美しく着飾っているということにもなりそうです(マタイ6章29節参照)。 

 主を畏れ、御言葉に真実に耳を傾け、徹底的にそれに従おうとする心こそ、神がおのが民に求めておられるもの、神に喜ばれるいけにえです。そのようないけにえをささげることこそ、霊と真理をもって神を礼拝することなのです(ヨハネ4章24節)。

 主よ、私たちの心を探ってください。御前に相応しくない思いを取り除いてください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御救いの喜びを再び私たちに味わわせ、自由の霊によって支えてください。私たちを、霊と真理をもって礼拝するまことの礼拝者とならせてください。日々主の御言葉を受けて、主の証人となることができますように。 アーメン




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