風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

8月8日(火) 創世記27章

「エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫び声を上げて激しく泣き、父に向かって言った。『わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。』」 創世記27章34節

 父イサクは、自分が年老いたので(1節)、長男エサウに自分の持っている神の祝福を与えたいと言います(4節)。それを聞きつけた母リベカは(5節)、エサウが外出している隙に弟ヤコブをたきつけ(6節以下)、父の祝福をだまし取らせます(18節以下)。

 その後、兄エサウが帰宅して弟に出し抜かれたことを知って(30節以下)、弟ヤコブを憎み、密かに弟の抹殺を図るようになります(41節)。それを知った母リベカは、弟息子ヤコブを守るため、故郷ハラン(43節、24章10節ではアラム・ナハライムのナホルの町、25章20節ではパダン・アラム)にヤコブを逃がします。

 なぜ、こんなことが聖書に記されているのでしょうか。少し問題を整理して考えて見ましょう。

 第一に、父親の祝福は長子に与えられるものです。実は、長男エサウは、長子の特権をパンとレンズ豆の煮物で弟ヤコブに譲っていました(25章27節以下)。そうすると、イサクの祝福がヤコブに与えられるのは、順当なことです。

 しかし、イサクはエサウが狩りで獲ってくる獲物が好物で、長男のエサウを愛していました(25章28節)。だから、エサウを祝福してやりたかったのです。それに対して、母リベカは次男のヤコブを愛しており(同28節)、ヤコブが受けるはずのものを長男エサウに横取りされたくはなかったのです。

 この両親の偏愛が、兄弟間の恨み、殺意を生み出しました。母親が弟息子をたきつけて父親の祝福をだまし取らせる、それは勿論、完全犯罪とはなりません。兄エサウが狩りから帰ってきて父親の前に出れば、弟ヤコブがイサクをだましたことがすぐに露呈するからです(33節)。となれば、兄弟間、夫婦間に大きな亀裂が入ることは、想像に難くありません。

 リベカは、そのツケを払わなければならなくなります。兄エサウの殺意から守るためにヤコブを兄ラバンのいるハランに送りますが、すぐに戻って来ることなど出来ません。およそ「しばらく」(ヤーミーム・アハディーム:数日の意)では終わらず、20年以上に及ぶからです。そのため、リベカはヤコブと、二度と再び顔を合わせることが出来なくなったのです。

 第二に、祝福とは何でしょうか。エサウは36節で「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)、欺いた。あの時はわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった」と言っています。

 しかし、長子の権利がなければ、最初に祝福を受ける資格はありません。長子の権利は奪われたものではなく、自分で譲り渡したのですから、その意味では、エサウには、ここで腹を立てる理由はありません。

 イサクは37節で「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった」と語っていますが、それはしかし、今既に、すべてのものがヤコブのものになってしまったというわけではありません。まだ、そうなるように祝福の祈りをささげたというだけです。

 エサウはかつて、長子の権利で腹を満たすことは出来ないと考えていました(25章32節)。今ここでも、祈りの言葉でエサウの腹を満すことは出来ないでしょう。

 しかし、「レンズ豆の一件」(25章)と今回の「祝福の祈り」(27章)の間に、26章のゲラルでの出来事があります。それは、敵に立ち向かう力はないけれども、イサクには神が共におられ、いつでもどこでも、イサクを助けました。即ち、イサクの祝福とは、この世の繁栄とか成功、勝利などではなく、助けの手を伸べられる神がイサクと共におられるということです(同3,24,28節)。

 その様子を見たエサウは、改めて、父の持っている神の祝福が欲しいと思うようになったわけです。だから、弟に祝福が奪われたと知ると、冒頭の言葉(34節)の通り「このわたしも祝福してください」と訴え、さらに「祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください」(38節)と懇願するのです。

 それで、イサクはエサウにも祝福を与えます(39,40節)。しかしそれは明らかに、ヤコブに与えた祝福とは相当の格差があります。

 最後に考えるべきことは、その祝福をお与えになるのは、どなたかということです。この話の主人公は、主なる神なのです。目に見え、耳に聞こえる祝福に差があっても、それをお与えになるのは、主なる神です。他者と比較して、祝福の量が多いとか少ないとかというのは、主の御心に添わないことです。

 私たちと共におられる主に信頼して、主がお与えくださるものを一つずつ感謝して受け止めるならば、1タラントンが2タラントン、2タラントンが4タラントン、5タラントンが10タラントンと変えられていく恵みを味わうのです(マタイ福音書25章14節以下)。

 主の祝福を求めながら、一日一日精一杯主に向かって感謝と信頼をもって生きること、それこそ、主の祝福の道を歩むことなのです。
 
 主よ、あなたが私たちと共におられ、活ける神の御言葉を賜り、力強い御業を表して、私たちの歩みを祝福してくださることを、心から感謝します。世にあって恐れと不安に包まれ、道を見失う私たちに、御言葉を通して光を与え、行くべき道、立つべきところをお示しくださるからです。 アーメン






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8月7日(月) 創世記26章

「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに。」 創世記26章24節

 アブラハムの子イサクは、リベカを妻に迎える頃はネゲブに住んでいましたが(24章62節)、父アブラハムの死後、ネゲブの砂漠のベエル・ラハイ・ロイの近くに移り住みました(25章11節)。その地方に飢饉があったので、ゲラルの地に身を寄せます。そこは、ペリシテの王アビメレクが支配しているところでした(1節、20章2節参照)。

 ただし、ゲラルの王を「ペリシテ人」というのは時代錯誤です。ペリシテ人がパレスティナに移住してくるのは族長時代ではなく、出エジプト(紀元前1300年頃)より後の紀元前1200年ごろと言われます。エレミヤ書47章4節に「主がペリシテ人を滅ぼされる、カフトルの島の残りの者まで」とありますが、ペリシテ人がカフトルの島、即ちクレタ島の出身であることを示しています。

 イサクがゲラルに寄留することにしたのは、主に「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい」(2節)と命じられたからです。そして、その土地をイサクとその子孫に賜ること、子孫が星の数のように増えること、アブラハムに対して誓ったことを成就すると約束されました(3,4節)。

 それで、ゲラルに住むことにしたイサクですが(6節)、その地で、かつて父アブラハムがしたように、イサクも妻リベカの美しさのゆえに殺されることを恐れ、妹と偽ります(7節、20章2,11節)。それでイサクは守られるでしょうが、リベカはどうなるのでしょうか。まったく「あの親にしてこの子あり」状態です。

 しかるに、神はイサクとリベカを守られ、誰かがリベカを娶ろうとする前に、アビメレク王にリベカがイサクの妻であると気づかせます(8,9節)。「戯れる」(8節)は「イサク」(イツハーク)の名の由来となった「笑い」(ツァーハク)という言葉ですが、39章14節の「いたずらをされる」という訳語と同様、性的な意味があります。新改訳は「妻のリベカを愛撫している」と訳しています。

 リベカがイサクの妻だと気づいたアビメレクは、それでイサクを殺そうとするどころか、かえって王はゲラルのすべての民に、イサクとリベカ夫婦に危害を加えないよう命じます(11節)。それは、ゲラル滞在を命じられ(2節)、「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福」(3節)すると約束された主の守りがあったからです。
 
 ネゲブは飢饉の最中でしょうけれども、イサクはゲラルの地で、種を蒔けば百倍の収穫を得(12節)、富み栄えて(13節)多くの羊や牛の群れ、多くの召使を持つようになりました。あまり豊かになったので、その地の人々から羨まれ、妬みを買うところとなりました(14節)。

 ゲラルの人々は、かつてアブラハムが掘らせた井戸をみな塞ぎ、土で埋めて(15節)、「ここから出て行っていただきたい」(16節)とイサクを追い出します。そこで、イサクはゲラルの谷に天幕を張り(17節)、そこに井戸を掘りました(18,19節)。

  ゲラルの羊飼いとの間に水場争いが起こると(20節)、それを譲ってイサクは別の井戸を掘り、そこで争いが起こると(21節)、また別の井戸を掘ります(22節)。種を蒔けば大収穫、井戸を掘れば豊かな水が出る、これは、周囲の人々には驚異でした。あるいは、脅威だったことでしょう。

 ペリシテ人はイサクに対して力で立ち向かいました。イサクには、ペリシテ人に対抗する力はありませんでした。その都度、追いやられ、妨げられ、取り上げられました。しかしまた、ペリシテ人はイサクを無視出来ませんでした。自分たちにないものがイサクにはあると考えざるを得なかったわけです。

 そこで、ペリシテの王アビメレクが、参謀アフザトと軍隊の長ピコルを伴って、イサクのもとを訪ねて来ました(26節)。イサクが、「わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか」(27節)と尋ねると、彼らは、「我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、契約を結びたい」(28節、21章23節も参照)と言い出します。

 彼らは、イサクを妬み、ゲラルから追い出した人々です。なのになぜ、今、仲良くしようということになったのでしょうか。それは、「主があなたと共におられることがよく分かったからです」(28節、21章22節も参照)、「あなたは確かに、主に祝福された方です」(29節)と語っているところに示されます。

 つまり、イサクには神が共におられて、祝福を与えておられるから、イサクに対抗出来ない。むしろ、イサクとよい関係を保ち、その祝福のおこぼれに与ろうと考えて、和睦を申し出たわけです。

 イサクは彼らと食卓を囲み(30節)、誓約を交わし(31節)、そして、新しい井戸から水を得ました(32節)。イサクはその井戸を「シブア(誓い)」と名付けました。その町は「ベエル・シェバ」(誓いの井戸)と呼ばれています(33節、21章27節以下、31節参照)。

 その誓いに先立って、主がイサクに現れて与えた祝福が、冒頭の言葉(24節)です。ここで神は御自分を自己紹介して、「あなたの父アブラハムの神」と言われました。アブラハムは、その信仰が常に賞賛に値する人物というわけではありません。神が恵みによってアブラハムを選んで故郷ハランから呼び出し、彼を祝福してカナンの地を与えると約束されました。

 今ここに、アブラハムに与えた祝福がイサクに引き継がれたのです。祝福は、人間の努力で獲得するものではありません。それは神様からのプレゼントなのです。大切なのは、井戸を持っているか、住む土地があるかなどということではありません。主なる神が私たちと共におられ、本当に私たちを祝福していてくださるのかということです。

 イサクは、夫婦の関係が守られ(7節以下)、種を蒔けば豊かな収穫を得(12節)、井戸を掘れば水が出る(19,21,22節)という祝福を受けました。「レホボト(広い場所)」(22節)という名の井戸は、繁栄のために広い場所が与えられるというしるしでした。

 主の祝福の言葉を聞いたイサクは「そこに祭壇を築き、主の名を呼んで礼拝」(25節)しました。そして、イサクの僕たちがそこに井戸を掘りました。イサクとアビメレクの契約がなされた日の翌日、その井戸から「水が出ました」(32節)。イサクの礼拝に、主が「水」という祝福をもって応えてくださいました。

 水と礼拝と言えば、ヨハネ福音書4章の主イエスとサマリアの女性との会話を思い出します。主イエスが女性に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(同4章14節)と言われました。主イエスがくださる水は、永遠の命、即ち父なる神との永遠の交わりに入ることと読むことが出来ます。

 さらに、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(同23節)と言われました。「今」女性が、主イエスと語らい、交わり、そうして主イエスを信じることを(同21節)、「霊と真理をもって父を礼拝する時」と仰っているわけです。

 人を救い得るのは生ける神だけです。聖書は、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです」と言います(使徒言行録4章12節、10節も参照)。昨日も今日も、そしてとこしえに変わらない主イエスを信頼し、常に御顔を仰ぎ、その御言葉に従って御業に励みましょう。

 主よ、あなたは絶えず私たちと共におられ、祝福を与え続けてくださっています。それがどんなに大きな喜びであり、平安であるか、分かりません。感謝と賛美のいけにえをささげます。いよいよ御名が崇められますように。御国が来ますように。そうして、御心がこの地になされますように。 アーメン








8月6日(日) 創世記25章

「ヤコブは言った。『まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。』」 創世記25章31節

 1節に、アブラハムが再婚したと記されています。相手の名はケトラといい、彼女は、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産みました。「♪アブラハムには7人の子、一人はのっぽで後はちび、皆仲良く暮らしてる、さあ躍りましょう。右手、左手、右足、左足、頭、お尻、回って、おしまい♪」という歌があります。原作詞者、作曲者は不明です。

 アブラハムには、正妻サラとの間にイサク、側女ハガルとの間にイシュマエルがおり、そして、再婚した妻ケトラとの間に6人の子ですから、合計8人の息子を持っていることになります。また、背の高さについては、どこにも記述されていませんから、誰がのっぽで誰がちびなのか、検証は出来ません。

 そして、アブラハムは175年の生涯の幕を閉じます(7節)。そして、息子イサクとイシュマエルにより、妻サラと同じ、マクペラの洞穴に葬られました(9,10節)。

 イサクが生まれたのは、アブラハムが100歳の時であり(21章5節)、妻サラが127歳で息を引き取ったとき(23章1節)、アブラハムは137歳でした。その後、再婚して6人の子を持ったわけです。アブラハムが神の御言葉に従って生まれ故郷を後にした後、確かに神は、アブラハムを祝福されたのです。

 アブラハムの息子イサクが、アラム・ナハライムのナホルの町からリベカを迎え、妻としたのは(24章67節)、40歳の時でした(20節)。しかし、彼らには子が授かりませんでした(21節)。父アブラハムと同様です。

 そこで、イサクが祈り求めたところ、主が祈りを聞かれ、待望の子どもが与えられます。しかも、双子の赤ちゃんでした(22節以下)。26節に「リベカが二人を産んだとき、イサクは60歳であった」と記されています。つまり、イサクは、結婚して20年、子の授かるのを祈り待ち望んだわけです。

 イサクが祈リ、神が答えられたということは、命は神の賜物であるということです。また、祈りこそ、神を信頼し、御前に鎮まって約束の成就を待つことの出来る力です。私たちに力はなくとも、神にはその力があります。

 主イエスが、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ福音書11章25,26節)と言われました。

 また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」(同14章6節)と言われています。私たちの家族、親族に永遠の命が授けられるよう、信じて祈り続けましょう。

 リベカの胎内に双子が宿ったことが分かったとき、主に御心を尋ねたところ、主は23節で「二つの国民があなたに胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とお答えになりました。つまり、神は生まれる前に弟を選ばれ、より重要な役割をお与えになっていたのです。

 27節に「二人の子どもは成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。兄エサウは長じて狩猟者となりました。「巧みな」というのは「ヤーダー」という言葉で、「知識を持っている」という意味です。

 弟ヤコブは「天幕の周りで働く野を常とした」というのですから、田畑を耕して生活するお百姓になったということでしょう。「穏やかな人」は「ターム」という言葉で、「完全な、汚れのない」という意味の形容詞です。その意味では「物静かな」という意味合いではなく、健康面、体力面で問題がない、また、道徳的で健全といった意味合いと考えられます。

 ただ、「ヤコブ」の名の由来となった「アーケーブ」という言葉は、「かかと」という意意味の名詞だけでなく、「だます、蹴飛ばす」という動詞でもあります。ヤコブの生涯には、欺し、欺されるということがついて回るのです。

 ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来ました(29節)。エサウは巧みな狩猟者でしたが、しかし、いつも獲物を獲得できるという保証はありません。野山を駆け回って獲物を追いますが、獲物が得られないということもあるわけです。空腹を抱え、疲労困憊して家に戻って来たときに、ヤコブが煮物をしていたのです。

 そこで、エサウがヤコブに「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ」(30節)と願います。

 エサウは、ヤコブが何を作っていたのか、その料理の名を知らなかったのかも知れません。だから、「その赤いもの」と呼んでいます。それが、彼の別名「エドム」の語源となったと説明しています。「赤いものをむさぼり食べる男」ということでしょうか。それは、嘲りを含んだ表現と言わざるを得ません。

 エサウの願いに対してヤコブは冒頭の言葉(31節)のとおり、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。ここに、「長子の権利」と言われているのは、父親が亡くなったときに、他の兄弟の2倍の資産を受け取る権利のことです(申命記21章17節)。長子は、神に属するものとされ、特別な価値があると考えられていたのです。

 煮物を食べさせろという要求に対して、長子の権利を譲れというのは、釣り合わない無理難題のように思われます。到底、聞ける話ではありません。ここは、「馬鹿にするな」と怒って立ち上がるところでしょう。ところが、驚くべきことに、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」(32節)とエサウは答えるのです。

 それを聞いたヤコブが「では、今すぐ誓ってください」(33節)というと、エサウは誓いの言葉を口にし、長子の権利を譲ってしまいました。長子の権利を一杯の料理で売り渡したわけです。

 このときエサウは、飢えて死んでしまえば、長子の権利もへったくれもない、父の亡くなるときまで、この空腹を我慢し続けることなど出来ない、今のこの空腹を満たす料理の方が、長子の権利よりも大切だと考えたのです。目先のことで、大切な将来の保証を売り渡してしまうとは、なんと愚かなことでしょうか。

 ところで、ヤコブは、そんなに簡単に長子の権利が手に入ると考えてはいなかったと思います。兄が、この料理と長子の権利を交換すると本気で考えていたとは思えません。ただ、仮に、ここでこの料理を兄エサウに譲って、自分は食べないまま空腹でいることになっても、「長子の権利」を手にすれば、それは将来の保証となると考えたのです。

 ところで、父イサクが持っていた遺産とは、どれほどのものでしょうか。それは、アブラハムから受け継いだ「非常に多くの家畜や金銀」(13章2節)、そして、サラを葬るために購入した、ヘト人エフロン所有のヘブロンのマクペラの畑とそこの洞穴です(23章17節以下)。

 しかし、それだけではありません。イサクの父アブラハムは、「祝福の源」とされた人物です(12章2,3節)。アブラハムが「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ように(7節)、主なる神が共にいて、祝福を与えてくださるという、目には見えない財産、宝物がありました。その祝福をどうしても手に入れたいと、弟ヤコブは考えていたのです。

 このような父イサクの持つ財産、祝福の力に対する見解の相違が、二人の対応を分けました。

 私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ、キリストと共同の相続人とされています(ローマ書8章17節)。この権利をあってもなくても同じなどと考えて、サタンに欺き取られてはなりません。また、既に恵みによって与えられているのに、精進、努力によって獲得すべきものと思い違いさせられてはなりません。主の恵みにより、命の光の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、イサクが命のために祈り、ヤコブがイサクが持っていた神の祝福を求めたように、私たちも神の恵みを慕い求めます。それによって信仰に生きる者となるためです。パウロが、神の恵みによって今日のわたしがあると言い、わたしに与えられた恵みは無駄にならなかったと告げているように、私たちも動かされないようにしっかりたち、主の業に常に励む者としてください。 アーメン



8月の御言葉

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 使徒言行録の書き出しは、主イエスが甦られて使徒たちに姿を現されたことから始っています。3節に、二つの事実が明らかになっています。

 一つは、主イエスが40日にわたって姿を現されたことです。ここには「現れる」という動詞の現在分詞形が用いられており、それは文法上、動作が継続していることを示しているので、時々現れたというのではなく、ずっと一緒におられたという表現になっています。

 もう一つは、主イエスが「神の国について話された」ということです。「神の国」とは、神の支配、神が王として国を支配されていることを指す場合と、神が支配している地域、場所を指す場合があります。二者択一というより、いつも両方の意味を含んでいると考える方がよいでしょう。

 主イエスは生前、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と語られ、また、「神の国」についてたとえ話を用いて度々使徒たちに教えておられました(同4章26節以下、30節以下など)。

 それは、終わりのときに神によって完成される神の国、完全な救いを表していると同時に(同9章47節、10章15節、23節以下など)、主イエスの宣教と働きによって既にこの世にもたらされていることを示しています(ルカ福音書11章20節、17章20,21節)。

 主イエスが40日に渡って現れ、神の国について話されたというのは、さながら神がモーセと40日にわたってシナイ山で語り合い、契約のしるしとして十戒を授けられたようなものです(出エジプト記24章18節、34章28節)。

 主イエスは「父の約束されたもの」(4節)、即ち聖霊が授けられることを待つようにと言われ、続けて5節で、かつて洗礼者ヨハネが「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが・・・その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(ルカ福音書3章16節)と語っていたことを受けて、「あなたたちは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と告げられています。

 洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受けて、主イエスのメシアとしての働きが始められたように、父なる神から聖霊のバプテスマを受けて、主の弟子たち、即ちキリスト教会による働きが始められるのです。

 使徒言行録を通して、神の国の教えを彼らがいかに実践したかを学び、主の証人として神の国の福音を生きるために、聖霊の力に与りましょう。そのために一つところに集まり、皆で「心を合わせて熱心に祈」(14節)り合いましょう。
 
 主よ、キリストによって罪が贖われ、神の子とされました。私たちの信仰の目を開き、さらに深く主を知らせてください。聖霊に満たされ、その力を受けて、主の証人としての使命を果たし、神の国として主キリストの教会を建て上げてくださいますように。 アーメン


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