風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

12月7日(木) 民数記31章

「わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を献げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身の贖いの儀式をしたいのです。」 民数記31章50節

 31章には「ミディアンに対する復讐」についての物語が記されています。主がモーセに「イスラエルの人々がミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい」と言われました(2節)。それは「ミディアン人から受けた仕打ち」とは、ミディアン人がモアブ人と共にイスラエルの人々を唆して、ペオルのバアルという偶像を拝むようにさせたことを指しています(25章1節以下、18節)。

 そのことについては、既に25章17節で「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい」と言われていました。それをここで、実行するようにと言われたわけです。26章に、出エジプトの第一世代亡き後、新しい世代の人々が数えられました。古い世代が果たせなかったことを、ここで新しい世代が実行するように命じられたかたちです。

 このミディアンに対する報復が、モーセに率いられての最後の軍事行動になりました。そして、「その後、あなたは先祖の列に加えられるであろう」(2節)と言われていて、モーセは、その働きを終えると天に召されるということです。つまり、これがモーセの最後のミッションなのです。

 メリバの水の一件で、モーセはイスラエルの会衆を約束の土地に導き入れることは出来ないと言われていました(20章12節)。先に姉ミリアムが召され(20章1節)、次いで兄アロンが召され(20章28節)、いよいよモーセも、最期の時が近づいて来たわけです。

 殺された王たちの名と共に、「ペオルの子バラムをも剣にかけて殺した」(8節)と記されています。モアブの王バラクの招きでイスラエルを呪うためにやって来た預言者バラムが、主の御告げを受けて、王バラクの意向に反して、繰返しイスラエルを祝福しました(22~24章)。そのバラムが、なぜここで殺されたのでしょうか。

 その理由が16節に「ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか」と記されています。モアブではイスラエルを祝福したバラムが、25章のペオルの事件の首謀者とされているのです。

 主の御旨に従ってイスラエルを祝福した預言者が、なぜ、民を誘惑させて異教の偶像を拝み、主に背かせるようなことをしたのでしょうか。ある旧約学者が、ペオルの事件(25章)とイスラエルを祝福した出来事(22~24章)とで、順序が逆になっているのではないかと言います。

 即ち、ミディアンの女性を用いてイスラエルの民を主に背くよう唆させる事件があり、イスラエルの民がペオルのバアルを慕ったので主が民に対して憤られ、2万4千もの人々が災害で倒れました(25章。それを知ったモアブの王バラクがバラムを自国に招き、イスラエルを呪ってもらおうとしたのではないかというわけです。それが、妥当かも知れません。

 そう思えば、22章4節でバラクが「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている」と言ってミディアン人の長老たちを巻き込んだのも、バラムをモアブに招くためだったということになるのではないでしょうか。

 このとき、各部族から1000人ずつ総勢1万2千の兵が集められました(4,5節)。1000は、完全数10の3乗、12000は10の3乗の12倍、12も完全数ですから、完全数を4回掛け合わせる完全な数ということで、集められる最大数を表現したものでしょう。実際にはもっとずっと少ない数だったのではないでしょうか。

 ミディアン軍の兵士の数は不明ですが、「男と寝ず、男を知らない娘」(18節)3万2千人を捕虜にしたということで(35節)、そこから類推すると、ミディアンの兵はイスラエルの兵士よりもずっと数が多かったということでしょう。

 ところが、戦いが終わって調べてみると、ミディアン軍は全滅(7節)、後方の王たちも皆殺しで(8節)、対するイスラエル兵には一人の犠牲者も出なかったそうです(49節)。この戦いは、後のギデオンのミディアンとの戦いを思い起こさせます(士師記6,7章)。

 それを知った兵士たちは、冒頭の言葉(50節)のとおり、分捕り品の金の飾り物を主への献げ物としてモーセのところに持って来ました。それらは恐らく、ミディアンで分捕った戦利品のうち、会衆と分け合う必要がなかった、即ち兵士の個人所有とすることが許された品だったのでしょう。

 献げられた金は、合計16,750シェケルでした。1シェケルは11.4gということですから、16,750シェケルは190.95kgになります。これを、今日の金価格(1g:4950円)に換算すると、9億4千5百万円ほどになります。

 それを主の御前に献げることにしたのは、一人も犠牲者が出なかったということ、そして、そういう結果になったのは、万軍の主ご自身がイスラエルの民を率いて戦われ、完全な勝利をお与えくださったからということで、それらに対する感謝の意を表しているわけです。

 部隊の指揮官たちは、「主の御前に、わたしたち自身の贖いの儀式をしたいのです」(50節)といって献げ物を主にささげました。「わたしたち自身」(ナフショーテーヌー)は「私たちの命」、「贖いの儀式」(レ・カッペール)は「贖うため」という言葉で、岩波訳は「私たちの命の贖いをするため」と訳しています。

 そして、「贖いをするため」に「動詞『キッペール』の動名詞形。抽象的に『贖う』、祭儀的に『贖いの儀式』とも訳せるが、『戦士たちの頭数を調べた』(48節)ことに対する『贖い代』(コーフェール)という意味であろう」という注を付けています(出エジプト記30章11~16節参照)。

 主イエスは私たちの身代わりとなって一切の罪の呪いを身に受け、十字架に死なれました。神が主イエスを私たちの贖い代とされたわけです。そして、三日目に死の力を打ち破って甦られました。私たちは、ただ主イエスを信じるだけで、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命に与ることができます。

 その恵みを知った私たちは、主の御前に何を献げましょうか。「ただ身と魂とを献げてぬかずく」(新生讃美歌235番5節)のみです。

 主よ、あなたは愛する者を失う痛みをよくよくご存じでしょう。私たちを神の子とするために、その独り子を犠牲にされました。どれほど感謝しても、それでもう十分ということはありません。だからこそ、いつも喜び、どんな時にも感謝が出来ます。そこに常に留まり、感謝と喜びをもって過ごすことが出来るよう、祈ります。弱い私たちを絶えず助け支えてください。 アーメン



12月6日(水) 民数記30章

「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」 民数記30章3節

 30章には、「誓願の規定」について記されています。これは、前章39節の「満願の献げ物や随意の献げ物」という言葉との関連で、ここに置かれたものと思われます。「満願の献げ物」は、誓願の際に、その願いが成就すれば献げ物をするという約束をして、実行されるというものだからです。

 「誓願の規定」の基本は、冒頭の言葉(3節)のとおり、「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない」ということです。

 士師記11章にその例があります。士師エフタがアンモン人との戦いに臨んで、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と誓いました(士師11章30,31節)。

 その願いがかなえられ、凱旋して戻って来たとき、一人娘が彼を出迎えました(同34節)。エフタは「わたしは主の御前に口を開いてしまった。取り返しがつかない」(同35節)と語り、娘も「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください」(36節)と応じています。人が主の前に立てて誓いを破ってはならないということです。

 4節以下には、女性が誓願を立てるときの規定が記されています。まず、結婚前で、女性が家にいるときには、父親の許可によってその誓願は有効となります(5節)。許可が下りなければ、無効です(6節)。

 結婚することになって、それが誓願期間中である場合、夫が許可すれば、それは有効ですが(8節)、許可しなければ、破棄されます(9節)。結婚後に誓願を立てる場合も、夫が許可すれば有効ですが(12節)、許可しなければ無効です(13節)。最初何も言わず、後からそれを禁止する場合、夫が誓願破棄の罪を負うことになります(14節)。

 今日では、これは女性を半人前扱いする差別的な規定ということになるかも知れません。ただ、この規定は、誓願の責任者を定めているわけで、誓願が必ず実行されることを求めているのです。

 というのは、当時の女性は、経済的にも極めて弱い立場にありました。誓願を立てても、自身では満願の献げ物をする能力がなかったと考えられます。だから、誓いがきちんと果たされるために、最初に家長の許可を求めて、神の前にその誓願を実行する責任者としておくわけです。

 ところで、山上の説教の中で主イエスは「わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(マタイ福音書5章34節)と言われました。それは、誓いが果たせないくらいなら、最初から誓うなという意味ではありません。誓いなど必要としない真実な生活をせよと言われるのです。というのは、偽りを誓いで誤魔化すことさえするからです。

 主イエスの12弟子の一人、シモン・ペトロがカイアファの家の中庭で、イエスを知らないと三度否みます(マルコ14章66節以下)。それは、主イエスが予めペトロに告げていたとおりでした(同30,72節)。三度目には呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」(同71節)と誓って言ってしまいます。

 ペトロ自身、自分が主イエスを否定するようになるなど、考えもしなかったことでしょう(31節参照)。けれども、状況次第でそれが起こってしまう、それが私たちの弱さです。主イエスは、このペトロに見る私たちの弱さ、不真実な誓いの罪をもご自分の身に負われます。

 エフェソ書5章21節以下では、夫婦の関係を、キリストと教会の関係で教えています。つまり、教会はキリストの花嫁なのです。だから、妻なる教会のために主イエスが夫として責任をおとりくださるのです。その主イエスの真実に、教会は、そして教会を形作る私たち一人一人は、常に支えられているのです。

 命をかけて私たちを愛してくださる主を心の中心に迎え、誓いを必要としないほどに真実な生活を作らせて頂きましょう。

 主よ、あなたは常に真実をもって語り、御業を行われます。生まれながらの怒りの子であった私たちを神の子とされたのは、神の愛と真実の賜物です。主から離れて、私の内に真実はありません。主の真実に支えられて、今の私があります。すべて主に委ね、その導きに従って歩みます。御名が崇められますように。 アーメン




静岡教会公式サイト更新

静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」、「今月の御言葉」を更新しました。
③「お知らせ」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


御覧ください。





12月5日(火) 民数記29章

「八日目には、聖なる集まりを開く。いかなる仕事もしてはならない。」 民数記29章35節

 29章には、年度後半の祝日の献げ物が規定されています。

 まず、7月1日に「角笛を吹き鳴らす日」として、聖なる集会を開きます(1節)。ユダヤ教では、この日を「新年の日」と呼ぶそうです。現在は、春を新年としていますが、春と秋のいずれを新年とするかで綱引きがあったと聞いたことがあります。7月1日を「新年の日」と呼ぶのは、その名残ということでしょう。

 アメリカで9月が入学式になるという理由をきちんと聞いたことはありませんが、その背景にユダヤの暦の名残があるという話があります。となると、日本の4月~3月の学年度という年度のとらえ方はどこから始まったのか、興味のあるところです。

 10日にも、聖なる集会を開きます(7節)。ここには、この祝日の名が記されていませんが、レビ記23章27節に「贖罪日」と記されています。同16章に「贖罪日」の詳細な規定があり、同31節に「これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である」と記されています。

 年に一度、この日に大祭司は至聖所に入って罪の贖いの儀式を行います(出エジプト記30章10節、レビ記16章3節以下、34節)。この日、民は「苦行」(レビ記16章29~31節、23章27,29節)、即ち断食を行います。

 贖いの儀式の後、大祭司は生きている雄山羊の頭に両手を置き、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪を雄山羊の頭に移して荒れ野に追いやります(レビ記16章20~22節)。罪の身代わりとされることを英語でスケープゴート(scapegoat)と言いますが、それは、ここから来ています。

 「贖罪」(キプリーム)という言葉は、「覆う」(キッペル)という言葉から派生したものです。「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と詩編32編1節に詠われています。雄牛と雄山羊の血で神の目から罪が覆われ、それによって赦しが与えられるということです。

 最後の晩餐の席上、主イエスが杯を取って、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ福音書14章24節)と言われましたが、神の独り子なる主イエスの血によって私たちの罪が覆われ、神との新しい契約が締結されたわけです。

 15日にも聖なる集会を開き、その後七日間祝祭が続きます(12節)。これは「仮庵祭」です(レビ記23章33節)。13節以下に、8日間にわたって祝われる祭りにささげられる献げ物のリストが詳細に記されています。

 三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)の中で、仮庵祭が最も盛大に祝われました。ユダヤには「仮庵祭にエルサレム巡礼をしなかった者は、喜びとは何かを知らない者だ」という言葉があるそうです。そのことは、いけにえの量にも現れています。

   過越祭 牛14頭 羊7匹  小羊49匹  山羊7匹
   七週祭 牛2頭  羊1匹  小羊7匹   山羊1匹
   仮庵祭 牛71頭 羊15匹 小羊105匹 山羊8匹

 仮庵祭はぶどうの収穫祭ですが、約束の地に入ってぶどうなどの豊かな収穫にあずかったとき、エジプトの奴隷生活から解放され、荒れ野を40年旅したときのことを忘れないようにするためであり(レビ記23章43節)、そのときの苦しみと比べて、約束の地での生活がいかに幸いなものであるかを知って、神に感謝するのです。

 ヨハネ福音書7章37節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」という言葉があります。これは仮庵祭の最終日のことです。最大の祝祭日の最も盛大な祝日が終わりの日、即ち8日目のことというわけです。冒頭の言葉(35節)では、この日「聖なる集まりを開く」とあり、そこで神を礼拝します。

 そして、前日までと比べると全く控えめな量のいけにえをささげます(36節)。雄牛は初日13頭から始まって七日目7頭、それが八日目は1頭になります。雄羊は毎日2匹づつでしたが八日目は1匹、小羊14匹ずつが八日目は7匹となりました。

 にもかかわらず、ヨハネがそれを「盛大」と表現しているのは、人が神の御前に静まるときに、神の御声がさやかに聞こえたり、大いなる御業を見させていただくことが出来る。それこそが、神の民の最も大きな喜びであるということではないでしょうか。

 「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と、そのとき主イエスが言われました。

 命の御言葉を受け、御霊の恵みに与り、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」と言われているように、主の御業のために働く者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたから離れて、私たちが実のある人生を送ることが出来ません。あなたこそ、恵みの源であり、また希望と平安の源であられるからです。私たちの感謝のしるしとして、賛美のいけにえ、即ち唇の実を絶えずあなたにおささげします。私たちを主に喜ばれるまことの礼拝者としてください。 アーメン




12月4日(月) 民数記28章

「安息日には、無傷の一歳の羊二匹をささげ、上等の小麦粉十分の二エファにオリーブ油を混ぜて作った穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を添える。」 民数記28章9節

 28,29章には、出エジプト記29章38節以下、レビ記23章以下などにも記されていた「献げ物の規定」がまとめられています。28章には、毎日、毎週、毎月ささげる献げ物と(1~15節)、年度前半の祭の規定があり(16節以下)、29章には年度後半の祭の規定があります。

 第一世代の民が数えられた後(1章)、全軍の配置(2章)とレビ人の務め(3,4章)が規定されました。それは、主なる神を中心として空間的な秩序を定めるものでした。第二世代の民が数えられて(26章)、献げ物の規定(28,29章)がなされたのは、それによって時間的な秩序を創り出すためです。

 神は、初めに光を創造され、光を昼、闇を夜と呼ばれて一日が形成されました(創世記1章3~5節)。昼が夜に変わる夕と、夜が昼に変わる朝、「日ごとの献げ物」として、一歳の羊一匹ずつをささげます(3節)。

 また、神は6日間で天地万物を完成され、第七の日に安息されたので、この日を祝福して聖別されました(創世記2章1~3節)。一週間の務めを終えて安息するとき、冒頭の言葉(9節)のとおり、「安息日の献げ物」として一歳の羊二匹をささげます。

 天の大空に光る物として、太陽と月、星が作られました(創世記1章14~19節)。天体の運行により、季節が設けられ、一年が定められます。ユダヤでは、新月がその月の一日です。一ヶ月が経過して新月を迎えるとき、「一日(ついたち)の献げ物」として、雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の羊七匹をささげ(11節)、それに贖罪の献げ物として、雄山羊一匹をささげます(15節)。

 第一の月の14日は主の過越(16節)、15日は除酵祭という祭りの日です(17節)。主の過越から50日目に七週祭を祝います(16節以下)。因みに、半年後の第七の月には、大贖罪日(29章7節以下)と仮庵祭(同12節以下)があります。

 かくて、日毎、週毎、月毎、そして年毎に献げ物をささげ、神を礼拝するリズムが創られました。イスラエルの民は、主なる神を中心に空間的時間的に秩序づけられ、それをもって主のために聖別された民であることを示しています。

 イスラエルの民は、主の形作られた秩序を混沌に戻そうとする誘惑に耐えずさらされました。そして、その誘惑に打ち負かされた結果、主の恵みを失い、アッシリアやバビロニア、ローマによって打ち破られ、神殿を破壊され、国土を失うことになったのです。

 あらためてこの「献げ物の規定」の中で、安息日の献げ物について具体的な指示がなされているのは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の中ではこの箇所だけです。他には、エゼキエル書46章4節以下にもう一度言及されています。

 十戒には、主を礼拝する祝祭日について、過越祭や仮庵祭などの規定はありません。ただ安息日だけが、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト20章8節)と規定されています。

 十戒に規定されるほどに重要な日なのですが、安息日の献げ物についての具体的な指示が、出エジプト記にもレビ記にもないというのは、少々驚きの発見です。勿論、ここに規定されているのですから、行われなかったということではありませんし、いい加減になされていたということでもないでしょう。

 ただ、安息日について、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(同9~11節)という安息の定めは、神殿がなくても実行可能なので、特に捕囚期に大きな意味を持つようになりました。

 イザヤ書58章13,14節に「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたいことをするのをやめ、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取引を慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」(イザヤ書58章13,14節)と語られているのも、そのことを示しています。

 今日、私たちは神にいけにえをささげてはいません。それは、キリストが、罪のための唯一のいけにえとしてご自身をささげられ、罪と不法の赦しをお与えくださったので、罪を贖う供え物が必要でなくなったのです(ヘブライ書7章27節、9章23節以下、10章12,14,18節)。

 だからといって、献げ物は一切不要ということでもありません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編19節)と言われます。謙って主なる神を礼拝する私たちの心、思いこそ、主が求められるものだというのです。主を畏れ、謙って心から主を礼拝することこそ、主の日に相応しい献げ物ということです。

 日毎に主の御前に進み、御言葉に耳を傾けましょう。主の御心をわきまえ、委ねられた務めに励みましょう。主の恵みに感謝し、心から主をほめたたえましょう。主は、そのような礼拝者を求めておられるのです(ヨハネ福音書4章23,24節)。

 主よ、あなたは私たちに、謙って御言葉を聴き、御言葉に従うように教えてくださっています。それは、私たちが御言葉を守らなければならないからではなく、御言葉によって私たちが守られ、祝福されるためです。変わらない愛をもって常に守り導いてくださる主の御名がいよいよ崇められますように。 アーメン



livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 2017年クリスマス案内
  • 第32回清水・市民クリスマスコンサート
  • 12月17日(日)主日礼拝案内
  • 市民連合しずおか記念講演会
  • 12月10日(日)主日礼拝説教
  • 12月10日(日)主日礼拝案内
  • 12月3日(日)主日礼拝説教
  • 12月3日(日)主日礼拝案内
  • 11月26日(日)主日礼拝説教
  • 11月26日(日)主日礼拝案内
  • 11月19日(日)子ども祝福礼拝説教
  • 11月19日(日)主日礼拝案内
  • 秋のフルートコンサート
  • 11月12日(日)主日礼拝説教
  • 11月12日(日)主日礼拝案内
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ