風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

6月21日(水) ヨハネ黙示録1章

「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、さらに、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 ヨハネの黙示録1章4~5節

 今日からヨハネの黙示録を読み始めます。本書は、旧約聖書のダニエル書と同様、黙示文学と呼ばれる文学形式や思想的内容を持っています。「黙示」とは、「啓示」(アポカリュプシス)という言葉で、神の力によって隠されていたものが露わにされることです。本書は「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」(1節)です。

 著者は「僕ヨハネ」と自己紹介しています。ヨハネ福音書にも第一から第三のヨハネの手紙にも、署名はありませんでした。福音書や手紙は誤りのないギリシア語で記されているのに対し、黙示録は文章が粗野で文法違反が多々あること、およそ同一人物の著述では有り得ないと言わざるを得ません。

 本書の著者は、小アジアにある七つの教会で指導的な立場にいる預言者です(4節)。その言葉遣いから、ユダヤ人キリスト者でパレスティナ出身の人物でしょう。聖書学者の佐竹明先生は「ヨハネ」は本名だろうと言われました。

 本書が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの統治時代(紀元81~95年)の終わり頃であったと、イレナエウスの著書『異端者たちへの反論』に記しています。帝国中のすべての民に皇帝礼拝を要求したのはドミティアヌスが最初でしたが、ヨハネは激しく圧迫されている小アジアの諸教会に宛てて、慰めと警告の言葉としてのメッセージを書き送ったのです。

 黙示録の中に「幸い」(マカリオス)という言葉が7回出て来ます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7,14節)。それは、神の祝福は完全だという表現でしょう。

 言い換えれば、私たちはこの神の宣言される「幸いなるかな」という祝福の宣言を聞くために、本書を朗読し、その中に書かれていることを守り行うのです。不従順によって「災い」(黙示録中に16回)を刈り取るのではなく、真理に従って祝福と力を頂きましょう。

 あらためて1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されています。

 本書は、この表題にも拘らず、ずっと誤解されてきました。最大の誤解は、これが遠い未来の終末を見通して預言した書物であるという誤解です。ヨハネは非常に近い未来、「すぐにも起こるはずのこと」というキリストの啓示を天使から受けたと言っているのです。

 上述のとおり、本書の執筆当時、ローマ皇帝ドミティアヌスが帝国中で皇帝礼拝を強制していました。キリスト教徒は皇帝を神として礼拝することを拒否して、大変厳しい迫害を受けていました。男性は処刑され、女性はアフロディテの神殿で娼婦として売春を強要され、子どもは奴隷に売られるという酷い目に遭わされたようです。

 そのような時代に、最後に神が勝利を取られるという信仰のメッセージを伝えて、迫害下にある信徒たちを励まそうとしているのです。

 2節に「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とあります。「神の言葉とイエス・キリストの証し」とは、ヨハネに伝えられた啓示の内容を示しているとも考えられますが、神の語られた言葉がイエス・キリストにおいて実現した、神の言葉をキリストが証明されたとも解釈出来ます(ルカ福音書1章20,45節、イザヤ書55章11節)。

 主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ福音書18章37節)と言われましたが、その証しをこの世は受け入れず(同1章1節)、十字架につけられました(同19章17節)。けれども、三日目に死を打ち破って甦られたのです(同20章9節など)。

 十字架にかかられる前、主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と仰っていました。世に勝ち、罪と死に打ち勝たれたこの主イエスをあらためて思い起こし、信仰を最後まで固く守ろうと励ましているわけです。

 冒頭の言葉(4,5節)のギリシア語原文は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と言ったあとに「恵みと平和があなたがたにあるように」と語られ、それから「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、その御座の前の七つの霊から」と記されています。ここまでが4節です。

 そして5節に「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」となっています。このままではあまりに直訳的なので、4節と5節をあわせて、新共同訳にあるような訳文になっているわけです。

 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4節)とは、黙示録において父なる神のことを言い表したものです(8節、4章8節など参照)。これは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という言葉を展開したもので、神が過去、現在、未来に存在されるということと共に、不動不変というのではなく、働き続けておられるお方であるという宣言です。

 「七つの霊」とは、「7」が完全数であることから、完全な神の霊、つまり聖霊を指しているものと考えられます(4章5節参照)。また、7という数字で、聖霊の働きの多様さ、あるいは教会に与えられた聖霊の賜物の完全さ、また教会に聖霊が満ちている有様を示しているとも考えられます(5章6節も参照)。

 そして、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」として、イエス・キリストを紹介します。主イエスは、再臨によって、神が「やがて来られる方」であることを見える形で具現されます。

 また、「(小羊の)七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」という5章6節の表現で、完全な神の霊とはキリストの霊であることを示します。こうして、ヨハネは絵心たっぷりに三位一体の神を描き出しています。

 ヨハネは黙示録が私たちに祝福を告げる書であることを、その初めから示しているわけです。これらのことを心に留めて冒頭の言葉を言い換えてみれば、「ヨハネから、全世界の主にある教会へ。父なる神と、玉座の前におられる聖霊と、真実な預言者、祭司、王として君臨されるイエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という祝祷になります。

 あらためて、三位一体なる神の恵みをいつもどのように感じているだろう、味わっているだろうと思いました。神はありとあらゆる方法を通して、私を祝福しようとしてくださっています。

 それは、楽しいこと、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし、どんなときにも主を仰ぎ、主の祝福を信じたいと思います。今の苦しみも主の恵みに変えられる、いえ、苦しみも主の恵みのうちと信じることが出来れば、本当に幸いです。

 主よ、私たちに真実な助け主として主イエスをお遣わしくださり、さらに、聖霊をお遣わしくださって、私たちの信仰を導き助けていてくださることを感謝します。すぐに御言葉に背いてあなたの愛から離れようとする私たちです。日々御言葉を聴き、御旨に従う幸いを絶えず味わわせてください。 アーメン










6月20日(火) ユダ書

「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」 ユダの手紙20,21節

 本書は、著者の「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」から、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たち」に宛てて差し出された書簡です。この宛名から見ると、全キリスト教会に向けて書かれたものという印象を受けます。

 著者について、「ヤコブの兄弟であるユダ」と自己紹介しています。ここに言う「ヤコブ」とは、主イエスの兄弟ヤコブを指していると考えられます。すると、ヤコブの兄弟であるユダも、主イエスの兄弟ということになるでしょう(マルコ福音書6章3節)。

 しかしこの著者は、主イエスの「兄弟」とは名乗らず、「僕(ドゥーロス:奴隷の意)」と言います。本書が見事なギリシア語で書かれていること、ユダヤ教の黙示文学に由来する表現が用いられている(6,7,14,15節『エノク書』、9節『モーセの昇天』)ことから、主イエスの兄弟ユダの名を借りた偽書であろうと考えられています。

 ただ、主の兄弟ユダに関して、分かっていることは殆どありません。使徒ではありませんでしたし、重要な役割を担っていたという記録もありません。。17節の言葉から、本書の著者は「使徒」に敬意を持っている人物と考えられます。本書を権威づけるものとして、使徒たちの名ではなく、主の兄弟ユダの名を借りることにしたのは何故か、納得のいく説明を得るのは容易ではありません。

 この手紙も、偽教師たちについての警告のために記されました。偽教師たちについて、「裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)と言います。

 「ひそかに紛れ込んで来」たということから、彼らはキリスト者で、他所からやって来た巡回伝道者だったようです。彼らが、霊の働きによって獲得したと主張する「知識」(グノーシス)によって諸教会を惑わしたグノーシス主義者と確定することは出来ませんが、しかし、本書がグノーシス主義者たちとの戦いに有益な働きをしたことは事実です。

 17節以下に、読者に対する「警告と励まし」が記されます。先ず注目させたのは、著者が尊敬の意を示している主イエス・キリストの使徒たちが語った言葉です(17節)。

 それは、「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう」(18節、使徒言行録20章29,30節、第一テモテ4章1節以下、第二テモテ3章1節以下参照)というものです。

 「あざける者ども」は、「分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者」(19節)だと言われます。「この世の命のままに生き」は、「プシュキコイ(魂の人、生まれながらの肉に属する人)」という言葉です。このように非難しているということは、彼ら自身は「霊の人(プネウマティコイ)」と自称し、そうでない人々を「プシュキコイ」といって軽蔑していたのでしょう。

 彼らが霊の人でないこと、霊を持たない者であることは、彼らの生活ぶりを見れば分かる。彼らは神の霊の導きに従って生きているのではなく、自分の欲望の赴くままに動いている。だから、自らを霊の人であるというのは、教会を惑わし分裂を引き起こすための嘘言だというのです。

 そして冒頭の言葉(20節)で「最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」と語ります。「信仰」とは、聖なる者たちが伝えた信仰、使徒たちが前もって語った言葉です(3,17節)。それを、「神聖にして侵すべからざる教え」という意味で、「最も聖なる信仰」と語っているのです。その信仰に土台して、神の御心に適う真の教会が建てられるからです。

 このことについて、エフェソ書2章20~22節に「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」と語られています。

 このような信仰を土台として、神の御心に適うキリストの体なる教会を建て上げて行くのです。

 信仰生活のよりどころとして使徒たちが語ったのは、三位一体の神のことでした。著者はここに「聖霊の導きの下に祈りなさい」(20節)、「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)と記しています。

 ここで「神の愛によって自分を守る」が主文です。「守れ(テーレーサテ)」というのは、「守る、見張る(テーレオー)」のアオリスト(不定過去)時制の命令形です。アオリスト時制の命令形とは、継続的な命令ではなく、点的、一回的な命令だということです。

 つまり、守り続けなさいというのではなく、人生に一度なすべきこととして「自分を守れ」と命じられているので、これは、神の救いに与りなさいということでしょう。救われた者が神の愛から漏れることはありませんが、しかし、自ら神に背いて神の恵みを損なうことがあり得るので、自分を守れと言われるのです。

 そのために、聖霊において祈ることと、イエス・キリストの憐れみを待望することが語られます。「祈りなさい」、「待ち望みなさい」は、現在分詞が用いられています。これは、ギリシア語文法で継続的な動作を表します。現在進行形と言ったらよいでしょう。

 つまり、「聖霊において祈りながら」、「イエス・キリストの憐れみを待ち望みながら」、「神の愛によって自分を守りなさい」と命じられていることになります。祈ること、そして主を待ち望むことが、自分を守ることになるわけです。

 あらためて、「聖霊の導きの下に祈れ」と言われます。聖霊の中で、聖霊との交わりのうちに祈りが導かれ、神の恵みに与ります。そして、「主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と言われます。これは、主イエスが再臨されるとき、憐れみによって救いを完成してくださるという希望を堅く持ち続けるとき、永遠の命の恵みに導かれるのです。

 三位一体なる神に祈りをささげ、救いの完成を待ち望みつつ、神の愛の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、御子がこの地上にこられ、十字架によって神の愛を示されました。ここに、私たちの拠り所があります。いつも信仰の原点を見つめ、主の御言葉を聴きます。あなたの愛から離れることがありませんように。御言葉に背くことがありませんように。聖霊の助けと導きをお願いします。主の豊かな憐れみを待ち望みながら。 アーメン



6月19日(月) 第三ヨハネ書

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」 ヨハネの手紙三2節

 第三ヨハネ書は、「長老」ヨハネから「愛するガイオ」に宛てて書かれた私信です。しかしながら、古くからこれも公同書簡に入れられて来ました。「ガイオ」について、新約聖書には、使徒言行録19章29節の「マケドニア人ガイオ」、同20章4節の「デルベのガイオ」、第一コリント書1章14節の「(コリント人)ガイオ」の三人がいます。

 ローマ書16章23節の「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」は、コリント人ガイオと同一人物でしょう。本書の宛先となっている「ガイオ」がその三人のうちの一人なのか、それとも4番目のガイオなのか、はっきりしたことは何も分かりません。

 5節に「よそから来た人たち」という言葉があります。これは、単なる旅行者、転入者ではありません。7節に「御名のために旅に出た人たち」とあるように、彼らは各地の教会を旅しながら伝道牧会する巡回伝道者です。第二の手紙12節、第三の手紙14節の言葉から、長老ヨハネ自身も巡回伝道者の一人だったと考えられます。

 当時の教会は、現在のように屋根に十字架のついた礼拝堂が持っていたわけではありません。有力な信徒の家に集まって集会する、「家の教会」だったのです。

 第二の手紙10節に「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません」とありますが、これは、信仰のない人を家に入れるなということではありません。そんなことをすれば、近所づきあいも出来ません。

 そうではなく、キリストの真理の教えを携えて来ない偽預言者を教会の中に迎え入れてはいけないということです。それは、巡回伝道者の中に偽預言者がいて、偽預言者に惑わされる教会があったわけです。だから、第二の手紙7節以下でそのことを警告していたのです。

 9節に「ディオトレフェス」という名前があります。前後の文脈から、彼も家の教会の家主の一人だと考えられます。彼が指導者になりたがっていること、長老ヨハネを受け入れようとせず(9節)、悪意に満ちた言葉でそしるばかりでなく、兄弟たちを受け入れないと言います(10節)。

 この兄弟たちは、5節の「兄弟たち、それもよそから来た人たち」のことで、彼らはヨハネが遣わした巡回伝道者たちでしょう。彼らを受け入れ、世話をしようとしている人たちの邪魔をし、自分の意に沿わない者を追い出しているということですから(10節)、偽預言者に惑わされ、強い影響を受けているのでしょう。

 ヨハネはこの状況を放置することが出来ず、彼の指導に忠実なガイオに宛てて、この手紙を書いたわけです。ガイオはヨハネから「愛する(もの)」(ホ・アガペートス)と呼ばれ、「わたしは、あなたを真に愛しています」(1節)とその信頼ぶりが表現されています。

 冒頭の言葉(2節)は、ガイオのためにささげられた長老ヨハネの祈りです。先ず、「あなたの魂が恵まれているように」と語られます。これは、ヨハネがガイオのために祝福を祈る根拠です。

 魂が恵まれているとはどういうことでしょうか。それは、信仰によるキリストの救いを受けて、神の霊的な祝福に与っていることです。罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただきました。そこに希望があります。平安があります。

 主イエスを信じたと言いますが、それは私たちの自発的な思いや考えから始まったことではありません。生まれながら主イエスを信じている人、キリストを信じてクリスチャンになりたいと思って生まれてくる人はいません。私たちを信仰に導いたのも神の働きです。

 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。「イエスがわたしの主、わたしの神である」という信仰に導いたのは、聖霊と呼ばれる神であるということです。

 主イエスを信じ、受け入れた者には、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。だから、神を「父」と呼び、御子イエス・キリストの名で「父」なる神に祈るのです。聖霊は、私たちが神の子であることを保証してくれます。

 ローマ書8章14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神のことする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言われているとおりです。

 続いてヨハネは、魂に恵みを受けた者が「すべての面で恵まれるように」(2節)と祈ります。「すべての面」に含まれないものはありません。魂や体という私たちの内側のことだけでなく、日常生活、家庭や職場の人間関係、教育の問題、経済の問題などあらゆる面を網羅しています。

 「恵まれる(エウオドオー)」とは、「よい道」という言葉で、もともと旅が無事に終わることを意味し、「成功する、うまくいく」という意味で用いられます。ローマ書1章10節(新改訳)に「道が開かれる」と訳されて用いられています(新共同訳は訳出していないようです)。魂が神の恵みで満ちているように、すべての面で成功するように、うまくいくようにと祈っているのです。

 清貧に甘んずることを尊しとする流れがあり、それを否定するものではありませんが、しかし、聖書の中に、すべての面で成功するように、恵まれるようにという祈りがあることも憶えておくべきです。勿論それは、私たちが誇るためではなく、神の御名が崇められるためです。

 聖霊は、私たちのために、言葉に表せない切なるうめきをもって執り成し祈ってくださるお方です(ローマ書8章26節)。その執り成しの故に、父なる神が万事益となるように働いてくださる(同28節)と言われます。「益となる」のは、神のご計画の中で、神にとって良いことだからです。

 次にヨハネは、魂に恵みを受けた者が「健康であるように」(2節)と祈っています。体を健康に保つことも、信仰の重要な部分であることを知ります。魂が神の恵みで満ちているように、体が健康で満ちているようにと祈ります。ということは、体を欲に任せ、不義の道具として用いるということは、魂が恵まれていないということを表しているのです。

 世界最大規模の教会(信徒数約70万人)を牧会するチョー・ヨンギ牧師は、冒頭の言葉を「三拍子の祝福」と呼び、「三拍子の祝福は、私自身の信仰思想であり、福音宣教の哲学的土台でもあるのです」とその著書で言われています。御言葉と祈りの力です。主の御名を崇めます。

 主よ、私たちが絶えずあなたを仰ぎ、御言葉と祈りを通して、心と魂を恵みで満たしていただくことが出来ますように。そしてその恵みが生活のすべてを潤しますように。また、心と体に健康の恵みをいただくことが出来ますように。その恵みが福音宣教の前進のために用いられますように。そうして主の御名が崇められますように。 アーメン




6月18日(日) 第二ヨハネ書

「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」 ヨハネの手紙二5節

 第二ヨハネ書は、「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)という言葉で始まり、「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたたちによろしくと言っています」(13節)という結びの言葉で閉じられています。第一の手紙とは違い、初代キリスト教会の手紙の特徴を備えています。

 著者は「長老のわたし」(ホ・プレスビュテロス)と自己紹介していますが、名前を記していません。伝統的に使徒ヨハネとされてはいますが、それならばなぜ「長老」というのか、説明がつきません。使徒とされたゼベダイの子ヨハネではなく、小アジア地方に広く名が知られた「長老ヨハネ」としておきます。第一の手紙と一致する表現が多くあることから、同一著者とされます。


 「選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)と宛先が指定されていることから、厳密には「公同書簡」ではないといえそうです。しかし、「選ばれた婦人と子たち」が特定できません。また、宛先の場所が特定されません。そういうことで「公同書簡」とされているのでしょう。

 結びの言葉(13節)の中にも「選ばれた婦人」という表現が用いられています。13節では「あなたの姉妹、選ばれた婦人」というのですから、1節の「選ばれた婦人」とは別の「選ばれた婦人」(13節)がいて、その婦人をあなたの姉妹と呼んでいるわけです。

 「婦人」とは「キュリア」というギリシア語で、ここ以外には出てきません。通常は「グネー」(ヨハネ福音書2章4節など)という言葉が用いられます。宛先の「選ばれた婦人とその子たち」が母親とその子たちという、いわゆる家族を指すとするなら、冒頭の言葉(5節)でその「婦人」に対し、「互いに愛し合いなさい」という掟を守るように「あなたにお願いしたい」とは言わないでしょう。

 この「婦人とその子たち」は一家族ではなく、主にある家族、つまり教会を指すと考えられます。「教会」を意味する「エクレシア」という言葉が女性名詞なので、信徒の集まりである教会を擬人化して「婦人」とよび、教会を構成する信徒たちを「その子たち」と表現したわけです。「選ばれた(エクレクトス)」というのも、「教会(エクレシア)」を連想させる語呂合わせでしょう。

 13節を原文で読むと、そこに「婦人」(キュリア)という言葉はありません。口語訳の「選ばれたあなたの姉妹の子供たちが」というのが直訳的です。それを、宛先への挨拶と似た結びの言葉とするために、「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たち」と意訳しているのでしょう。いずれにせよ、これは姉妹教会の信徒たちが、よろしくと挨拶を送っているということになります。

 あらためて、冒頭の言葉で著者が教会に要請しているのは、「新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」。第一ヨハネ書2章にも、このような表現がありました。なぜ単刀直入に、「互いに愛し合いなさい」と言わずに、「新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟」と付け加えるのでしょうか。

 それは、この表現の仕方に著者の意図があるわけです。つまり、自分たちが守るのは、新しく受けたと主張されるようなものではない。キリストの教えに直結し、そこから離れないということです。さらにいうならば、新しく受ける必要はない、互いに愛し合えという教えで十分だということです。というのは、そこに真理があるからで(4節)、真理は不変だからです(2節)。

 真理に歩むとは、主イエスと共に歩むとも言い換えることが出来ます(ヨハネ福音書14章6節参照)。そしてそれが、4,5節で「互いに愛し合いなさい」という掟と関連付けられているというのは、主イエスが新しい掟として与えられたからです(ヨハネ福音書13章34節)。

 そして、そのように命じられただけでなく、十字架で私たちの罪を贖うことにより、主イエスは私たちに愛を示されました。ですから、主の御言葉に従い、主と共に歩む者は、互いに愛し合うのです。

 著者はヨハネ福音書で自分のことを、「イエスの愛しておられた弟子」(13章23節など)と紹介しています。確かにヨハネ文書(福音書、手紙、黙示録)ほど、主イエスの愛を、率直に表現している文書はありません。

 その長老ヨハネに導かれている群れの中から、主イエスの愛から逸脱する者が出るのは、悲しいです。誰よりも愛されたいという思いがエゴとなり、あるいは誰よりも愛されているという驕りが主と主の教会に背く結果となってしまったのでしょうか。

 「キリストの教えを超えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(9節)と忠告し、「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます」(9節)と告げるとおり、御言葉に留まり、絶えず十字架の主を拝しましょう。主を愛し、隣人を自分自身のように愛しましょう。互いに愛し合うことが出来るように、御霊の導きと助けを祈り求めましょう。

 主よ、私たちを選び、神の家族としてその交わりの内に入れてくださったことを感謝致します。絶えず目覚めて真理の内を歩むことが出来ますように。世の惑わしや苦難に遭って、御言葉から迷い出ることがありませんように。御言葉にしっかりと踏み留まらせてください。御霊の導きと助けをいつもお与えください。 アーメン




6月18日(日)主日礼拝説教

6月18日(日)主日礼拝には、教会員15名、来賓12名(子ども3名を含む)がおいでになりました。
礼拝後の昼食会には、14名参加されました。感謝です。

主日礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。
URL https://youtu.be/_wL_aSimZbU

何故か、ここに動画をはめ込めないので、リンクをクリックしてYouTubeのサイトで御覧ください。



静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと礼拝説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポート」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL https://shizuoka-baptist.jimdo.com/

御覧ください。










livedoor プロフィール
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 福音歌手 森祐理 25周年記念コンサート
  • ペシャワール会・中村哲 講演会
  • 日比恵三・平井陽子 Duo Concert
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 三上智恵監督映画「標的の島」上映 
  • 6月25日(日)主日礼拝説教
  • 6月25日(日)主日礼拝案内
  • 6月18日(日)主日礼拝案内
  • 6月11日(日)主日礼拝説教
  • 6月11日(日)主日礼拝案内
  • 6月4日(日)主日礼拝説教
  • 6月4日(日)主日礼拝案内
  • 映画「標的の島 風(かじ)かたか」先行上映
  • 映画「標的の島 風(かじ)かたか」先行上映
  • 5月28日(日)主日礼拝説教
livedoor 天気
J-CASTニュース
楽天市場
Amazonライブリンク
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ