風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

10月15日(日)主日礼拝報告

10月15日(日)主日礼拝には、教会員9名、来賓4名(子ども1名を含む)計13名がお見えになりました。
教会員で体調を崩した方々があり、牧師をはじめ他所の教会で礼拝を守っている方々がありで、出席者は少なかったのですが、皆で心を込めて主を礼拝することが出来ました。
感謝です。

説教動画を録ることは出来ませんでした。ご容赦ください。


10月15日(日)主日礼拝案内

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10月15日(日)は、教会学校小学科、少年少女科(中学生~18歳)を9時半から、成人科(18歳以上)を9時45分から行います。
「聖書教育」誌にもとづいて、旧約聖書・ヨブ記から、共に聖書の学びと交わりを行います。

主日礼拝を10時半から行います。
礼拝では、第二コリント書6章1~2節より「時のある間に」と題して奨励を頂きます。
奨励者は落合信子執事です。

キリスト教の集会は初めてという方もお気軽にご参加ください。


原田牧師は大秦野教会(牧瀬牧師・神奈川県)で特別礼拝の説教を担当されます。


礼拝後、昼食会(300円、自由参加)があります。
初めておいでになった方は無料サービスです。


午後、各会例会を行います。

 

10月14日(土) レビ記4章

「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。」 レビ記4章3節

 四番目の規定は、「贖罪の献げ物」です。2節に、「これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」と記されており、故意に犯した罪と区別されていることに注意する必要があります。

 故意に罪を犯した者については、「主を冒涜する者であり、その人は民の中から断たれる。彼は主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う」(民数記15章30,31節)と言われており、その罪を赦し贖うための規定は、旧約聖書には存在しません(サムエル記上3章13,14節も参照)。

 「過って」(シェガーガー)犯された罪とは、無自覚で、または律法によって禁じられていることを知らずに行ったり、事故やはずみで犯してしまったといった意味です。

 最初に、「油注がれた祭司」の罪が取り上げられます(3節)。「油注がれた」ということは、大祭司として聖別されたということですから(8章12節、16章32節、出エジプト記29章7節)、その権威とともに大きな責任が課せられています。

 「(自分の犯した)罪」は、ヘブライ語でハッタースと言います。これは、「的を外す、道を外れる」という意味です。民を正しく導くべき祭司が道を外れて迷い出れば、後に続く民に与える影響は甚大です。個人的な過ちであれば、個人的な償いが行われるのでしょうけれども、民全体に罪責が及ぶということは、祭司として祭儀を執行する上での過失ということでしょう。

 彼はその過失の故に「無傷の若い雄牛を主にささげ」なければなりません。注解書に「それは多くの農民にとって、一年分の収入に相当する代償であった」と記されていました。責任ある祭司の責任は、それほどに重いものであるということです。

 第一ペトロ書2章5節に「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげなさい」とあります。かつて、アロンの子孫だけが祭司として立てられていましたが、今や血筋などによらず、ただ主イエスを信じる信仰によって、すべての信徒が聖なる祭司とされるのです。

 「霊的な家」(オイコス・プネウマティコス)とは、人の手によって建てられるものではない、神の宮ということです。その土台は、「尊い、生きた石」なる主イエスです(同4,6~8節)。「生きた石」とは、聖書中、この箇所だけにしか出ないとても珍しい言葉遣いです。

 生きているとは、人格的な交わりがあるということです。霊的な交わりについて、母が子に乳を与えるというイメージから、キリストという土台の上に、私たちが組み合わされて神の家という建物を建て上げるために用いられるという建物のイメージで考えているわけです。

 これは、パウロが第一コリント書3章10節以下で、イエス・キリストという土台の上に、神の建物が建てられるということを書いているのと同じです。その直前に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(同3章6節)とあります。

 ペトロもパウロも、成長するイメージと、神の建物のイメージを並べて、信徒個人の成長と教会全体の成長、教会が建て上げられるというイメージを重ねてとらえているわけです。

 そして、私たちは霊的な家、神の宮で祭司として神と人に仕えます、そこで私たちが献げるいけにえは、屠られた動物ではありません。神がご自分の独り子を贖いの供え物とされたので、私たちがそれを献げる必要はなくなったのです(ヘブライ書10章10,12,18節)。

 ペトロの言う「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは、私たち自身のことであり(ローマ書12章1節)、また、私たちの「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」(詩編51編19節)です。主なる神は私たちを、御子キリストの命という代価によって贖い出してくださいました(第一コリント書6章20節)。

 ゆえに私たちは、主イエスを通して恵みをお与えくださる神に賛美のいけにえ、御名を讃える唇の実を献げ(ヘブライ書13章15節)、また、隣人に対する善い行いと施しを忘れず行います(同16節)。

 私たちが隣人に施すことの出来るもっとも善いものとは、主イエスを信じる信仰であり、それを証しする神の国の福音でしょう。私たちが毎日聖書を読み、祈ること、教会の諸集会を忠実に守ること、感謝と賛美の日々を送ることは、見える形でなされる証しです。人に躓きを与えるような愚かで弱い私たちの生活で、神の愛と恵みを証しすることが出来れば、どんなに幸いなことでしょうか。

 その恵みに与ることが出来るように祈りましょう。

 主よ、あなたは私たちを選び、聖なる祭司とされました。自分の知恵や力でその務めを全うすることなど出来ません。必要な知恵や力、賜物を授けて下さい。御名の栄光のために、私たちを用いてください。宣教の働きが前進し、豊かな実を結ぶことが出来ますように。 アーメン



10月13日(金) レビ記3章

「献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。」 レビ記3章1節

 献げ物の規定の3番目は、「和解の献げ物」です。「和解の献げ物」とは原文で「シェラミーム」と記されていて、これは複数形です。単数形は「シェレム」で、これは「シャローム」と関係の深い言葉です。

 その語源は、「完全、傷のないこと、調和」という意味です。つまり、和解の献げ物は、神との平和的な交わりを得、また、それを強めるためのものだということです。口語訳聖書はこれを、「酬恩祭」と訳していました。神の恩に報いるいけにえということでしょう。

 ここに「シェレム」の複数形が用いられているのは、7章11節以下の「和解の献げ物の施行細則」に規定されているように、和解の献げ物には、感謝の献げ物」として献げる場合や「満願の献げ物」、「随意の献げ物」として献げる場合などがあることを示しているのでしょう。そしてまた、神と人間との間だけでなく、人と人との間の平和と調和が保たれるようにということを示しているのでしょう。

 「シェラミーム」の前に、「ゼバハ(生贄)」という言葉があります。「ゼバハ・シェラミーム」は、和解の献げ物の生贄という表現で、日本語としては冗語と言わざるを得ないような言葉遣いです。「ゼバハ」は動物を屠ることを指しています。動物の命がささげられることで、神との関係、隣人との関係が回復する、整えられる、強められるということです。

 奉納者が生贄の頭に手を置くこと(2節)、その血を取って祭壇に注ぎかけること、その後、祭壇で献げ物を燃やしてささげること(3節以下)、その煙が宥めの香りとなる(5節)というのは、「焼き尽くす献げ物」とあまり違いはありません(1章3節以下)。

 違いは、「焼き尽くす献げ物」は文字通り、動物をすべて焼いて献げるのに対し、「和解の献げ物」で燃やされるのは、「内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉」(3~5節)です。17節に、「脂肪と血は決して食べてはならない」とあるとおり、これらは神のものなのです。

 また、生贄となった動物の胸の肉と右後ろ肢は、祭司に与えられます(7章28節以下)。そして、残りの肉は、奉納した人のものとなります。即ち、和解の献げ物の生贄が、神と祭司と奉納者の三者で分かち合われ、そこで食されるのです。

 血を祭壇に塗り、肉は食べると言えば、過越の食事のようです(出エジプト記12章)。過越の小羊は屠られて、その血が家の鴨居と柱に塗られ(同7節)、肉は焼いて食べます(同8節)。神と人、その間を執り成す祭司が一つの生贄を分け合って食することで、「同じ釜の飯を食う」というような親密な関係を築くことが出来るわけです。

 使徒パウロが「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」(第一コリント書10章18節)と言っているのも、このことです。

 ところで、預言者たちは、献げ物について痛切に批判しています。たとえばイザヤ書1章11節に、「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」と記します。

 それは、献げ物が、真実な信仰の心をもってなされていないということです。つまり、献げ物を伴う神礼拝が、形式化、形骸化してしまっていると批判しているのです。

 詩編の記者が、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51編18,19節)と詠っているとおり、何よりも先ず主の御前に謙り、恵みをお与えくださる主を心を込めてたたえ、喜び歌いましょう。

 謙り、御旨にかなうことを行おうとする心で主を礼拝するなら、主はその時、どんな献げ物も喜んで受け止めてくださることでしょう。「そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう」(同21節)というとおりです。

 そうして「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(第二コリント書5章18節)。その使命を忠実に果たして参りましょう。

 主よ、あなたは私たちを救うために独り子を犠牲とされました。そして、私たちに御子を信じる信仰を与え、神の子としてくださいました。その保証として、神の霊が授けられ、あなたに向かい、アッバ父よ、と呼ぶことが許されています。御霊の導きとその力により、委ねられた和解の務めを全うすることが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン




10月12日(木) レビ記2章

「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」 レビ記2章13節

 2章には、「穀物の献げ物」についての規定が記されています。1節に「上等の小麦粉を献げ物としなさい」とありますから、小麦や大麦を収穫してそれをそのままささげるというのではなく、粉に挽いてからささげるわけです。

 「それにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ」ます。小麦粉にオリーブ油を注いだのは、アロンとその子らに聖別の油を注いで聖別し、祭司としたように、小麦粉を聖別するためでしょう。3節の「これは、燃やして主に献げられたものの一部であるから、神聖なものである」という言葉も、それを示しています。

 そして、オリーブ油を注いだ小麦粉の上に乳香を載せるのも、神にささげるために聖別することを意味すると考えられます。乳香は決して安価なものではないため、献げ物をする者(奉納者)にとって、穀物を献げる以上に犠牲を伴うものであったと思います。

 上等の小麦粉をささげるだけでなく、それをかまどや鉄板で焼いたもの、鍋で蒸したものをささげることもあります(4,5,7節)。そのときに、「酵母を使わずに」(4,5節)焼きます。11節にも、「主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない」と記されています。

 酵母を入れないということについては、エジプト脱出の際に、急いで出立しなければならず、道中の食料を用意する暇もなかったため、酵母を入れずにパン菓子を焼いたことを記念して(出エジプト記12章39節)、過越の祭りに続く除酵祭を行う(同13章3節以下)ということを思わせ、エジプトからイスラエルの民を導き出した神の恵み、憐れみに心を向けるよう仕向けています。

 2,9節の「しるし」(アズカーラー)は、穀物の献げ物のうち、祭司が手ですくい上げて祭壇で燃やして煙として神にささげる部分のことです。語源が「覚える、思い起こす」(ザーカル)という言葉なので、その献げ物によって神が奉納者を覚えてくださるためにという意味だと思われますが、あるいは、神の救いの御業を絶えず思い起こして感謝のしるしとして献げると解することも出来ます。

 また、酵母による発酵が腐れと見なされ、そしてそれは、私たちの生活の中にいつの間にか忍び込んで来る罪の力を示しているとも、考えられていたようです。これは主イエスが、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)と言われたことにも通じています。

 11節に「蜜のたぐい」という言葉もあります。これは、蜂蜜ではなく、果汁のことではないかとする解釈もあるようです。しかし、酵母と並べて、神への献げ物に加えてはならないとされる理由は、確かではありません。

 ただ、12節には、「それらのものは、初物の献げ物として主にささげてもよい」と記されています。これは、神が罪に充ちた人間の献げ物でも、喜んで受け入れてくださる証拠と考えられます。また、燃やして主に献げるものとして煙にしてはならないということで(11,12節)、アロンとその子らのものにされたのかも知れませんね。

 冒頭の言葉(13節)で、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」と言われています。塩は味の変わらないものですから、「あなたの神との契約の塩」も、神との間の変わらない契約関係を示すものと言ってよいでしょう。民数記18章19節、歴代誌下13章5節の「塩の契約」も、そのことを示しています。

 また、塩は調味料としてだけでなく、防腐の役割も果たします。預言者エリシャが、水質の悪い水源に塩を投げ込んで、「この水を清めた」と言ったのは、塩の清める働きを言っているのです(列王記下2章19節以下)。

 主イエスが、「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)と言われたのは、私たちがその役割を果たすことを主が期待しておられるということです。けれどもそれは、私たちに塩としての清めの力があるということではありません。「あなたがたは地の塩である」と言われる主イエスご自身がその力を有しておられ、主に信頼し、御言葉に従う者を通して、その力を発揮させようとしておられるのです。
 その意味で、塩は、主なる神に対する信頼、信仰の心ということも出来ます。感謝の献げ物をするときに、主を信頼する信仰の心を添えるということです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ書11章6節)。絶えず新しい心で、感謝と喜びをもって主に従いましょう。

 主よ、冷たくも熱くもない、生温い信仰を悔い改めます。いつもあなたを私たちの心の王座に迎えます。私たちの生活の中心にお入りくださり、絶えず共に食する恵みに与らせてください。信仰をもってあなたに賜物を献げ、時間を献げ、そして奉仕を献げささげます。御業のために用いてくださり、地の塩としての使命を全うさせてください。 アーメン




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