風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

4月23日(日)主日礼拝説教

4月23日(日)の礼拝には、教会員15名、来賓8名(子ども3名を含む)がおいでになりました。感謝。

礼拝後、第64回定期総会が開催され、昨年度の活動報告、決算報告、新年度の活動方針、活動計画、予算案が全会一致で承認されました。

礼拝の説教動画をYouTubeにアップしました。

説教 「恵みの分け前に与る」
聖書 使徒言行録26章12~23節


静岡教会の公式サイトを更新しました。
①「礼拝説教」に礼拝プログラムと説教動画を掲載しました。
②「今週の報告」を更新しました。
③「お知らせ」「フォトレポ―ト」は随時更新しています。
④「今日の御言葉」は毎日更新しています。
URL  https://shizuoka-baptist.jimdo.com/


ご覧ください。

 

4月23日(日)主日礼拝案内

024月23日(日)、小学科(小学生)、少年少女科(12~18歳)は9時半から、成人科(18歳以上)は9時45分から、教会学校で聖書の学びをします。


10時半から主日礼拝を行います。
主日礼拝では、使徒言行録26章から〔恵みの分け前に与る〕と題して説教を頂きます。


礼拝後、第64回(2017年度)定期総会を行います。



 

4月22日(土) コロサイ書1章

「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」 コロサイの信徒への手紙1章27節

 今日から、コロサイの信徒への手紙を読み始めます。この手紙は、パウロがエフェソで拘束されているときに執筆されました。この手紙の用語法や文法の特徴から、パウロが語ったままではなく、語った内容を書き取ったテモテにこの手紙の執筆を委任し(1章1節)、それをティキコに届けさせたのではないかと思われます(4章7節)。

 コロサイは、小アジア中西部の小さな町で、近くにラオデキアとヒエラポリスの町があります(4章13節)。著者パウロは、コロサイ教会に行ったことがなかったようです。というのは、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」(7節)と記されているからです。

 コロサイ教会にはフィレモンがいましたし、その奴隷のオネシモもその教会員でした(4章9節)。この手紙は、コロサイ教会に忍び込んできた異端の教えに脅威を感じたエパフラスが、獄中のパウロに助けを請い、それに対して福音の真理を明らかにするため、記されたものです。

 そのような事情を考えると、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)と記されているのは、なるほどと理解できます。どのような境遇にあっても、教会のことを思い、伝道の進展を願って使徒の使命を果たし続けるパウロの姿勢を、ここに見ることが出来ます。

 ここに「福音の希望」と記されていることについて、5節に「あなたがたのために天に蓄えられている希望」という言葉があります。「天に蓄えられている」ということは、その希望の根拠や内容が、人間の側の条件に左右されないこと、また、すべてが神によって準備されたものであることを表しています。

 また、「あなたがたが聞いた福音の希望」というのですから、私たちの望み、願っていることではありません。福音を通して神が私たちに与えようと望んでおられる希望です。

  第一ペトロ書1章4節では、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とあり、それを同5節で、「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言い換えています。ということから、「天に蓄えられている希望」とは、「救いの希望」を指していると考えてよいでしょう。

 「天に蓄えられている希望」(5節)、「あなたがたが聞いた福音の希望」(23節)と「希望」(エルピス)を語るパウロは、冒頭の言葉(27節)で「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言います。ここに三つ目「栄光の希望」という言葉があります。

 「その計画」というのは、「秘められた計画」という言葉を受ける関係代名詞を訳したものです。ここで「秘められた計画」というのは、ムステーリオンというギリシャ語で、英語で「ミステリー(mystery)」、日本語では「奥義」などと訳されてきました。

 通常、「奥義」は誰にも分からないように隠してあるものですが、それが異邦人に対して明らかにされました(27節)。その奥義の中身は、キリストが私たちの内におられるということで、このキリストこそ、これまで繰り返し語られて来た「希望」、それも、「栄光の希望」なのだというわけです。

 私たちの内とは、黙示録3章20節との関連で、私たち一人一人の心の中と考えられます。主イエスを信じたとき、私たちは心の扉を開いて、主イエスを心にお迎えしました。それ以来、主イエスは私の内におられるのです。

 しかし、それだけではありません。キリストはあなたの内におられるだけでなく、「あなたがた」、つまり複数です。私の内におられるキリストは、私の隣の人の内にもおられます。そしてさらに、私と隣人との間にもおられるのです。

 ルカ福音書17章21節に、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」という御言葉があります。私と隣人との間にキリストがおられ、そこに、神の国が造られているのです。ユダヤ人の間にも、異邦人の間にも、そして、ユダヤ人と異邦人との間にもキリストがおられ、そこに神の国があるということです。

 キリストが内におられて、そこに神の国が造られるとき、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)という御言葉のとおり、そこには神の義と平和と、そして喜びが聖霊を通して支配する場所となるのです。

 それが、「神の聖なる者たち」、即ちクリスチャンに対して、明らかにされたのです。具体的には、エパフラスの宣べ伝えた福音をコロサイの人々が受け入れたことにより、神の救いの計画が異邦の民にも及んでいること、また、彼らの間で聖霊が働かれていることが、誰の目にも明らかになったわけです。

  これらの希望は、「福音という真理の言葉を通して」与えられたものです(5節)。ということは、福音という真理の言葉を離れて、希望の実現、救いの完成を見ることは出来ないということです。だからこそ、パウロやテモテ、エパフラスは、この福音を宣べ伝えるのです。そのために、労苦しているのです。

 しかしそれは、空しい労苦ではありません。福音を受け入れて、信仰と愛と希望に生きている聖なる者たちの存在により、絶えず喜びと感謝、励ましを与えられているからであり(3節以下)、彼らの内に力強く働くキリストの力によって強められているからです。

 キリストは私たち一人一人の心に住まわれて平安を与え、私たちの間におられて平和を造り出し、そこに神の国の栄光を見せてくださいます。心の平安と兄弟姉妹の間の平和をもって、キリストの福音を証ししてまいりましょう。

 主よ、私たちは御子キリストによって、贖い、即ち罪の赦しを得ました。その十字架の血で平和を打ち立て、万物を御子によって和解させられました。私たちのうちにキリストが共に住まわれ、私たちの間に神の国が作られますように。家庭が、職場が、学び舎が、神の国となりますように。聖霊によって与えられる義と平和と喜びで、絶えず私たちを支配してください。 アーメン







4月21日(金) フィリピ書4章

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節

 1節に「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」という呼びかけの言葉があります。この言葉を見るだけで、パウロがいかにフィリピの信徒たちを愛していたか、パウロとフィリピの信徒たちの間に親密な関係があったかということが分かります。

 「冠」とは、「義の栄冠」(第二テモテ書4章8節)との関連で、世の終わりに主の前に出るとき、フィリピの信徒たちの存在のゆえに胸を張ることが出来る、つまり、パウロの誇りであるということです(2章16節)。

 呼びかけに続いて、「主によってしっかりと立ちなさい」と命じます。「主によって」は「エン・キュリオー」(in the Lord)、2節の「主において」と同じ言葉です。これには、主に立たせて頂くという意味も、また、主の中で立つという意味も含まれているようです。

 「しっかりと立つ」(ステーコー)という言葉は、1章27節でも用いられていました。そこでは「一つの霊によってしっかり立ち」と、聖霊による一致を勧めています。そしてそれは、「心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことと説明されています。

 戦いのときに、内部に分裂や争いがあるようでは、勝利を望むことは出来ません。その意味で、信仰のための戦いとは、一致を脅かそうとするものに聖霊の力を受けて立ち向かうことであり、どこまでも主を信頼し、主とその御言葉に従っていくという戦いです。

 1章で用いた言葉をあらためて用いているのは、フィリピ教会の内部に問題があるからです。それが、2節の勧めの言葉に示されます。そこに「主において同じ思いを抱きなさい」とあります。そのように勧められているということは、エボディアとシンティケが、パウロと、そしてフィリピの教会の人々と、同じ思いになれない問題があったわけです。

 どのような問題なのか、具体的に記されてはいませんが、もしかすると二人が、3章2節で「あの犬ども」、「よこしまな働き手たち」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と呼んでいた、割礼を最重要視するグノーシス主義の伝道者たちを教会に招き入れるという働きをしていたのかも知れません。
 
 この二人について、「クレメンスや他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と紹介されています(3節)。二人は、フィリピ教会草創のとき、命がけでパウロを助け、働いてくれた大切な存在だったのです。

 そのことで、自分と親しい関係にある同労者に向かって「真実の協力者よ」と呼びかけ、二人の女性のことを心にかけて支えてやって欲しいと依頼しています。「真実の協力者」とは誰のことか、明示されてはいません。誰もが主を畏れ、神を神として同じ思いで働く「真実の協力者」となって欲しいという思いが、そのような呼びかけの言葉になったのではないでしょうか。

 そしてそれは、二人がもう一度「他の協力者たちと力をあわせて、福音のためにわたし(たち=フィリピ教会の人々と)と共に戦って」くれる「真実の協力者」になったくれることを願う思いもこめられているでしょう。

 そのように語る言葉に続けて、「主において常に喜びなさい」(4節)と言います。パウロは、獄中にあっていつ何時殉教することになるかも知れない状況の中で、これまでも喜びを語ってきました。どんなときにも神に愛され、神の御子キリストが最善をなしてくださると言うことを知る喜びを、パウロは身をもって示しているのです。

 主のある喜びの具体的な秘訣が5節以下に示されています。冒頭の言葉(6節)に、祈りの勧めがあります。「何事につけ」は「万事において」(エン・パンティ in everything)という言葉です。あらゆることにおいて、くよくよ考えないで、あれこれ悩まないで、感謝の心で祈り、願いなさいというのです。

 そうすると、「あらゆる人知を超える神の平和があなたがたの心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」(7節)という神の祝福が約束されています。

 だから、パウロの喜びの勧めは、空元気を出して、喜べないときにも無理して笑顔を作れというのではありません。堅実な信仰生活を土台として、真実な神との交わりに生きること、神に愛され、命に招かれた者として、あらゆる隔ての壁を取り除いてくださる神に、感謝を込めて教会、家族、私たちの交わりの信仰による一致を求め、祈るのです。

 その祈りに応えて神が私たちの心に、思いに、平和、平安を授けてくださり、そうして、主において共に同じ平和、平安の思いになり、どんなときに喪主を喜ぶことを可能にしてくださるのです。

 「主はすぐ近くにおられます」(5節)というのは、主が私たちのすぐ傍らにいてくださるということと同時に、主の再臨が近いこと、神の御国の完成のときが近いことを指しています(ヤコブ書5章8,9節)。

 主にあって喜びをもって人々に寛容を示し、思い煩わずに生きるのは、主の再臨と御国の完成が近いからです。主の恵みに生かされている者として、常に主を仰ぎ、感謝をもって主の平和を祈りつつ、日々喜びをもって歩ませて頂きましょう。

 主よ、人間関係で問題を起こすのは私たちの常です。そのため、一致を乱してしまいます。そのときに、一致を乱すものを排除するのではなく、彼らを含めて共に主を仰いで祈りをささげ、喜びなさいというパウロの勧めに、目が開かれる思いがしました。いつも主を見上げ、主の御思いに触れさせてください。福音のために、主と共に働く者とならせてください。 アーメン




4月20日(木) フィリピ書3章

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」 フィリピの信徒への手紙3章8,9節

 この手紙は「喜びの書簡」とあだ名されるほど、喜びに溢れています。1節にも「主において喜びなさい」と記されています。「主の中で、主に結ばれて」(エン・キュリオー in the Lord)、「喜びなさい」(カイレテ rejoice)と命じられているのです。

 喜びというのは、通常、命じられて出来るものではありませんけれども、パウロがここで「喜びなさい」というのは、これから喜べることが起きるから、喜ぶ理由が与えられるから、喜べということではありません。むしろ、能動的に、積極的に喜ぶのです。

 辛いことがあり、苦しみを味わっても、不幸が襲って来ても、それに対して、喜びをもって打ち勝つことができると語られているのです。そういう喜びを持っているのが、主に結ばれている、主において生きている信徒の基本的な姿勢だと、パウロは考えているわけです。

 2節に「犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」という言葉があります。これは、救いの完成のためには、割礼を受け、律法を遵守することが必要だと説く人々のことを警戒するようにということです。

 彼らを「犬ども」と呼んでいますが、ユダヤ人たちが割礼を受けていない異邦人のことを軽蔑して「犬」と呼んでいました。パウロはそれを逆手にとり、割礼を最重要視している人々こそが、神の救いからほど遠い「犬」に他ならないというのです。

 ユダヤ人でない者が割礼を受けることは、身体に切り傷をつけるだけのことで、それは「入れ墨」と同様、律法で禁止されていることでした(レビ記19章27節、申命記14章1節)。それで、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」という訳し方をしているのです。

 本来、割礼は神がイスラエルの民に与えた古い契約のしるしでした。それに対して「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」(3節)と言い、それは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)と、新しい契約のしるしをそこに示しています。

 パウロにとって、礼拝とは、全生活を通して神に仕えることと言ってもよいと思います。それを、自分の力で、自分の思いによってというのではなく、神の霊によって、神の力、神の働きを通して可能になる新しい生活、それを、たとえば割礼を受けるというようなかたちで、人間の側に何らかの保証を求めようとする考え方を拒絶しているわけです。

 そして、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉は、「肉に頼らない」という言葉に対応する表現です。であれば、神の霊によって礼拝することを、「キリスト・イエスを誇りとする」という言葉で説明していると言ってもよいでしょう。

 「誇りとする」(カウカオマイ)という言葉には、「喜びとする、信頼する」という意味もあります。キリスト・イエスを信頼し、肉を頼りとしない生活は、神の霊の助け、神の霊の働きなしには可能とならないということになります。

 9節の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」という言葉にパウロの信仰の確信が言い表されています。ここで、「律法から生じる自分の義」と、「キリストへの信仰による義」、「信仰に基づいて神から与えられる義」とが対比されています。

 この対比は、「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」という3節の言葉で、肉に頼ることと、キリスト・イエスを誇りとすることとの対比で既に示されていました。

 「肉に頼る」というのは、勿論、「肉体」のことではなく、生まれ持った性格や才能、また家柄、財産、あるいは、自分の力で獲得したもの、そのようなものに頼ることを指します。つまり、神の救いに依り頼まず、自分の力で何とかしようと考える、キリストを信じるだけでは不十分で、救いの完成のためには人間的な努力も必要だという生き方をすることです。

 それは、かつてのパウロの生き方でした。しかし、それが復活の主イエスと出会って一変しました。冒頭の言葉(8節)の「あまりの素晴らしさ」は「フペルエコウ」という言葉で、「超越する、凌駕する、権力を持つ、権威ある」という意味を持っています。そこから「あまりの素晴らしさ」、「絶大な価値」(口語訳)、「卓越したすばらしさ」(岩波訳)という訳がつけられるわけです。

 ということで、主イエスを知ることはあまりにも素晴らしいこと、絶大な価値があることだと、パウロは語っているのです。パウロがキリストを知ったとき、それまでの価値観が逆転しました。キリストを知るとは、キリストについて勉強することではなく、キリストを信じることであり、キリストとの出会いと交わりを経験することです。

 神の冒涜者を殲滅するつもりで、真の神の御子キリストを迫害していたことに気づかされたとき、彼はどんなに驚いたことでしょうか。そして、慄いたことでしょうか。

 使徒言行録9章9節に「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されています。目が見えなくなっていたことも重なり、何も出来ず、神の裁きを待っていたのでしょう。しかし、パウロを待っていたのは裁きではありません。元どおり目が見えるようになり、聖霊で満たされて、主イエスの証人とされたのです。

 迫害者サウロは、異邦人に対する伝道者パウロとなりました。イスラエル王サウルに因んで「サウロ」と名づけられているのに、手紙の中では一度も「サウロ」と名乗らないこと、また「パウロ」とは「小さい」という意味であることから、彼は確かにキリストと出会って、それまで自分が誇りとしていたものを捨てたのです。

 血筋を誇り、律法を守り行う熱心のゆえにキリストの教会を迫害することが誤りだったということは、そのような肉に頼ることが主イエスを信じる信仰を妨げるものだということになります。自分が誇りと考えていたものが、かえってマイナスだったわけです。ですから、それらを、「塵あくたと見なしています」とまで言うのです。

 信仰によって、肉の誇りを失いましたが、それとは比べものにならないものを得ました。それは冒頭の言葉の最後の言葉で、「キリストを得」と記されています。この「得る(ケルダイノウ)」というのは、7節の「有利(ケルデー)」と訳されている言葉の動詞形です。それまで有利と思っていたものを捨てて、キリストを手に入れた、獲得したというのは、言葉遊び以上の面白さです。

 この「キリストを得た」ということを、9節で「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と言います。「神から与えられる義」とは、神がお与えくださる救い、神との正しい関係を意味します。人間が自分の働きで神の義を獲得することは出来ません。それは、キリストを信じる信仰によって与えられるのです。

 パウロは、キリストと出会い、キリストを信じる信仰によって、キリストを迫害した罪が赦され、主なる神との関係が正され、救われて、キリストのための使徒、伝道者とされたのです。

 10節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と言います。キリストを得るとは、キリストと復活の力を知ることであり、そしてそれは、キリストの苦しみと死を知ることでもあります。「苦しみにあずかって」は「苦難のコイノニア」という言葉です。

 主イエスご自身、神の子としての身分、神と等しい者であることに固執されず、かえって自分を無にして、僕の身分になられました(2章6,7節)。そして、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同8節)。

 パウロはここに、神の栄光を見ることが出来たのです。命の希望を持つことが出来たのです。キリストの十字架によって救われたのです。神の義が与えられたのです。そして、使徒としての使命が与えられました。その使命を果たすことがどれほど苦難に満ちたものであっても、それをパウロは「苦難のコイノニア」と呼び、まるで楽しい交わりであるかのような表現をするのです。

 パウロが持った復活の希望、永遠の命の希望は、長くいつまでも生き続けるというものではありません。自分を救い、使徒として召してくださった主イエスと交わり、主イエスのために働き、そうして主イエスと共に過ごすという希望です。そしてその希望は、儚いものではありません。キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わりに支えられた希望です(2章1節)。

 この希望のゆえに、彼は投獄という苦難の中でも、実際に喜びに溢れることが出来たのです。その喜びがフィリピ教会開拓のとき、獄吏とその家族を救い、そして今、問題に直面しているフィリピ教会を励まし続けているのです。

 主よ、御子キリストを信じる信仰により、罪の赦しと救いに与らせてくださり、有り難うございます。御言葉と祈りを通して、甦られた主イエスと出会い、交わり、主を知る恵みの豊かさを味わわせてください。希望と喜びをもって主に仕え、御業に励ませてください。 アーメン





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